http://bizgate.nikkei.co.jp/article/87613018_3.html
大いなる成功が招いたIBMの「敗北」
2015/06/11
リチャード・S・テドロー
1964年4月7日、20世紀の産業史に残る新製品が発表された。米IBMのメイン・フレーム「システム360」だ。会長権CEO(最高経営責任者)のトーマス・J・ワトソン・ジュニアは「史上最も成功した資本主義者」と評された。だが十数年後、IBMはパソコン市場で決定的な敗北を喫す。自らの歴史が示す教訓を否認したのだ。
上手なスライドこそ幹部への道
限りなき前進を目指す使命感は、厳然たる会社の原動力だった。「IBMは問題を克服することによって成長してきた」とビンセント・リアソンは語る。まさにそのとおり。食肉用スライサーと業務用秤の製造会社から出発した同社は、電気機械装置と企業の必需品になったパンチカードのメーカーに変化を遂げた。その後さらに電子デバイスの会社に変貌を遂げ、それがシステム360に結実した。次は何だろう?
システム360プロジェクトはその後のIBMに悪影響を及ぼす、想定外の副産物を数多く生み出した。まず、この大成功に終わった偉大な賭けは、IBMから大胆さを奪ってしまったようだった。システム360によってワトソンだけでなく、会社自体も疲弊してしまった。一つ問題だったのは、かつてのワトソン親子のように会社を奮い立たせ、引っ張っていくような人物がいなかったことだ。
IBMは企業文化や歴史から考えて、自らが男の中の男≠リーダーに頂く必要性があることを否認した。ワトソンと1990年代に企業改革を断行したルイス・V・ガースナーの間のCEOの名を、1人でも挙げることができるだろうか? おそらく無理だろう。この間のCEOはみな、官僚主義という名の病がますます深刻化した会社に君臨する、没個性の官僚のようだ。
病の兆候はいたるところに表れていた。儀式的な行動が本質的な行動に置き換わっていた。企業文化の緩やかな劣化を描写するのは容易な作業ではないが、ジャーナリストのポール・キャロルはこう書いている。
もはやライバルが消え失せたような状況の中、IBM社員にとって唯一の成功の指標は、組織内でどれだけ出世できるかになった。まるで公務員のように、互いの価値を給与水準で測るようになった。「俺は5万7000ドルだが、あいつは最近6万1000ドルになった」という具合に。ライバルに先んじるために、格別優れた企画を出す必要はないという意識も広がった。それでは時間がかかりすぎる。他人より優れたプレゼンさえできれば、出世はできる。
有望株については「アイツはスライドを作るのがうまい」という形容がされるようになった。当時IBMの社内会議でよく使われるようになった、オーバーヘッド・プロジェクター(OHP)用のスライドである。だれもが日常的な会議のためのスライドづくりに何日も、もしくは何週間も費やすようになった。実際に使う予定があるスライドだけでなく、万一だれかに質問を受けた場合に備えて予備のスライドも大量に用意していた。プレゼン能力が過度に重視されるようになったため、もはや質問を受けて答えに窮したり、「のちほどご回答します」などと答えたりするようなことは許されなかった。
IBMでスライドが使われるようになったきっかけは単純で、トム・ワトソン・シニアが思いついたアイデアを書きとめるために肉の包装紙を1巻、デスクに備えておいたことに由来する。だが今やそれは企業文化の一部となり、上級幹部は紫檀材でできた高級デスクにプロジェクターを備えるようになった。
この簡潔な描写に、IBMで起きた否認の核心が凝縮されている。IBMは形式と本質は別物である、ということを否認したのだ。現実世界の中のバーチャル世界ともいうべき環境で生きることに甘んじるのはどのような人間か、考えてみてほしい。駆け引きに長けた策士は魅力を感じるかもしれないが、起業家精神を持ち合わせた人物は入社しないだろうし、間違っても長くはとどまらないだろう。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが、こんな会社に職業人生を費やすことなど、想像できるだろうか?
根拠なきルールがはびこる
IBMが物事の本質以上に形式を重視していたことを示す例を、もう1つご紹介したい。IBMの幹部、そして特に営業部門の社員に制服≠ェあるのは有名な話だった。ダークスーツに白いワイシャツである。しかも、それだけではなかった。元IBM幹部のサム・アルバートは1996年、入社初日の経験をこう語っている。
「社屋に入ろうとしていたとき、近くにいた紳士に『あなたはIBM社員ですか?』と尋ねられた。『そうです』と答えると、『失礼ですが、ズボンの裾を少し持ちあげてもらえますか』と言う。私は『は?』と聞き返した。すると紳士は即座に私のズボンの裾を持ちあげ、『靴下止めを着けていませんね』と言う。再び『は?』と聞くと、『靴下ですよ。しっかり上までひっぱりあげていないでしょう? 靴下止めが要るんですよ』。もちろん、私は靴下止めを買いに行かなければならなかった」
こんな風習はどこから生まれたのか? これもトム・ワトソン・シニアの遺産である。若いころにセールスマンとして営業先を回っていた経験から、営業という自信を失う場面の多い仕事では、自尊心を蝕まれるケースが非常に多いことを知っていたのだ。このため、むやみに派手な服装をしたり、逆にだらしない格好をしたり、しゃべりすぎたり、飲みすぎたりするセールスマンが多かった。
IBMのセールスマンは自分自身ではなく製品に顧客の関心を惹きつけなければならない、とワトソンは考えた。そこで顧客と同じような服装をするよう求めたのだ。
こうした背景や当時の世相を考えれば、ワトソンのルールは理にかなっていた。だが、1980年代にIBMが抱えていた問題は、この保守的な服装というルールが、だれもその根拠すら分かっていないにもかかわらず、まだ厳然と残っていたことだ。カリフォルニア州を中心に顧客の多くはラフな服装で仕事をするようになっていたが、IBMのセールスマンは依然としてスーツに身を固めていた。
顧客を訪問する際にスーツを着用するというルールの効果は、当初の目的とはまったく逆のものになった。セールスマンと顧客の一体感を演出するどころか、一方もしくは両方が自分の服装を気にしはじめたり、バツの悪さ、もしくは滑稽さを感じるようになるなど、両者を隔てる要因となったのだ。IBMの服装規定はあまりにも有名であったため、1995年にルー・ガースナーがそれを廃止した際には、《ニューヨーク・タイムズ》紙がニュースに取り上げたほどだ。
こうした企業文化の保守性と狭量さの弊害が表れたのは、服装の問題にとどまらない。これはIBMがパーソナルコンピュータ(PC)革命に乗り遅れた理由の1つでもあった。IBMはコンピュータ産業を支配しているのは自分だと考えていた。このためコンピュータがエアコンの効いた巨大なコンピュータ室から、普通のオフィスワーカーが仕事をする粗末なデスクの上に移行できるなどとは、思いもよらなかった。
消費の民主化はアメリカの歴史において常に重要なテーマであったが、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックという2人のスティーブ≠ェ、それをコンピュータの世界で実現しようとしているとは、IBMには想像もできなかった
数々の大いなる賭けに挑んだ歴史を持ち、歯車から集積回路への技術的キャズムをうまく乗り越えて世界をエレクトロニクス時代に導き、コンピュータ産業を一変させるシステム360を生み出したIBMは、新製品を世に送り出さない会社となった。そう、逃避したのである。
やっつけ仕事でPCを開発
IBMにおける否認の原因やその代償を論じる難しさの1つは、個別の人物や意思決定、もしくは事件を原因として特定できないことである。これはヘンリー・フォードとモデルTとはまったく違うストーリーであり、企業文化そのものが、目に見えない深い信頼の絆で結ばれていた状態から、悪夢のような官僚主義の迷宮へと徐々に劣化していく話だ。その一因は必要な刺激、すなわち競合のプレッシャーが存在しないと思われていたことだ。
企業文化の劣化を最も如実に示す例が、〈IBM PC〉の開発をめぐる同社の姿勢である。何年もの間、IBMはパソコンを開発しようとしてきたが、何も成果がなかった。それでも高まる一方のアップルの名声に刺激され、1980年代にはまだコンピュータ業界のニッチと見なされていたパソコン市場で、自分たちも存在感を示す必要があるということをとうとう否認できなくなった。そこでパソコンの開発を決めた。
IBMがどれほど組織として硬直化していたかを示すのは、パソコン開発を自社の主要拠点ではなく、フロリダ州ボカラトンという僻地の秘密拠点で行うことにしたことだ。望んでこんな体制をとったわけではないが(できることならそうしなかっただろう)、とにかくやっつけ仕事でパソコンをつくってしまおうと考えたわけだ。
さっさとアップルから名声を奪い、IBMに批判的な連中を黙らせるため、パソコンに必要な部品は外部のベンダーから買い入れ、社内では単にそれを組み立てることにした。システム360プロジェクトとは、まさに正反対のやり方だ。だがその判断に疑問を持つ者は1人もいなかったようだ。
1981年に発売されたIBM PCは、大方の予想に反して熱狂的に受け入れられた。結果はまさに想像を超えていた。1984年にはIBM PCだけで40億ドル以上の売上をあげた。単体の会社なら、フォーチュン500の74位にランクインすることになる。IBM全体の売上高は1981年の290億ドルから、84年には460億ドルに急成長した。この間、利益は33億ドルから66億ドルに伸びた。過去にこれほどの利益をあげた会社は、世界中どこを見渡しても存在しなかった。時価総額は720億ドルと世界最大になり、87年8月20日にはさらに50%近く増えて1060億ドルに達した。
内情に通じる人々は、1987年の段階ですでにIBMが深刻な問題を抱えていることを分かっていたが、ウォール街は株価を過大評価しつづけ、いつもどおり遅行指標となっていた。6年後の93年8月16日には、IBMの時価総額は230億ドルまで落ち込み、インフレ調整前の数字で830億ドル近くが、まさしく泡と消えた。
いったい何が起きたのか? 1980年代の金融市場の状況を考慮せずにIBMの株価下落を批判するのは、たしかに乱暴と思われるかもしれない。だが、実際にはそうではない。IBMの犯した否認について考えれば。
本章の前段で、IBMが否認した最も重要なものは、自らの歴史だと書いた。それを具体的に説明しよう。ビジネススクールで最初に学ぶことは、今日の行いは、明日の成功につながるか? と自問することだ。何十年というもの─特に要求が厳しく、情け容赦ないトーマス・J・ワトソン・シニアの下では─IBMはこの質問に常にイエスと答えることができた。ワトソン・シニアは社員に対し、「IBMは単なる普通の会社ではない。社会的機関であり、不滅である」と繰り返し言いつづけてきた。そしてこのビジョンが、彼の意思決定を支配していた。
今日の成功を明日の失敗と引き換える
だが1970年代と80年代を通じて、IBMはこのビジョンを否認した。IBM PCはその最たる例だ。IBMがとった行動は、今日の成功を、明日の失敗と引き換えるものだった。パソコン用の部品を外部のベンダーから調達するという判断は、マイクロプロセッサの供給契約を勝ち取ったインテルに莫大な富をもたらし、オペレーティング・システム(OS)のプログラム開発を任せられたマイクロソフトを実質的に世に送り出した。
そのうえインテルとマイクロソフトにそれぞれの製品を他のパソコンメーカーに販売することを認めたことで、ライバルの登場を確実にした。この結果生まれた新たな競合企業は、IBMのように過剰な社員も間接費の負担も抱えていなかった。
IBMは否認することで短期的な成功と、長期的な失敗を交換してしまった。最終的に、IBMはパソコン事業からの撤退を余儀なくされた。
IBMの復活は1993年、ルー・ガースナーのCEO就任まで待たねばならなかった。外部から招かれたガースナーの功績は、単に服装規定を撤廃したことだけではない。IBMでの積年のしがらみとは一切無縁の彼は、ワトソン時代の末期に石灰のように凝り固まってしまった企業文化の新たな姿を構想し、再構築することができた。社会学者のゲオルク・ジンメルは1908年に、こう書いている。「組織に入ってきた新参者は、思想的にも、実際的にも、より自由である。偏見を持たずに状況を精査する。また習慣や忠誠心、先例などに縛られずに行動できる」
今日、IBMは再び強大で存在感のある企業となったが、かつてのような特別な地位を占めることはもうないだろう。だが同社が、大方の人々が考えていた以上に深刻な破綻の危機をくぐりぬけたことはまちがいない。そしてそれが可能だった大きな要因は、目の前の悲惨な現実を、外部から来たCEOが否認しなかったことだ。