着せる
2005年5月13日。
『名なし』の跡地にできた、
マミさんのお店『塩梅』に、彼はやって来た。
動機として、前日、後輩ホターシに誘われ、
仕事のキリが悪く断ったのもあった。
が、ここしばらく、人サマと呑むのが続いたので、
久しぶりに、ひとりで晩酌をかましたくなったのだ。
こうして、24時間ほど前に、
ホターシと徐さんが呑んでいたらしいカウンター席で、
彼はかつての『名なし』のように、
自分のペースでゆっくり酒を呑み、
料理をつまみ、タバコを吸い、
時おり現れるマミさんと冗談もマジメ話もしながら、
多くの時間は、もの思いにふけって過ごした。
これが彼のリズムだ。
オフィスを出る前に、
Acousphereというギターデュオのライブを観て、
超絶テクニックに熱くなったのもあって、
カウンター席でボーッとしてる間の、
彼の脳内リソースのほとんどは、
曲づくりに割り当てられていた。
そして、あっという間にまるごと1曲浮かび、
後は、何度もフレーズを繰り返しながら、
アレンジがどんどん煮詰められていくのだった。
これも彼のリズムだ。
(よし、週末だし、帰ってから、この曲を作ろう)
彼はマミさんを呼んで、チェックを済ませた。
「体調、どうなの?」
「へ?」
「しばらく、悪かったじゃない」
マミさんは、GW中、6日間にも及んだ、
彼の39℃の高熱は、知らないはずだ…。
「えーと、なんだ?」
前にここに来たのは、4月の真ん中…。
あ。
「歩き過ぎで、かかとが痛いってやつですか?」
「そうそう」
「あぁ、もう大丈夫っすよ」
「気ぃつけないと、お互い若くないんだから〜」
「ふっ、キモチはハタチのままですけどね」
「あら」
「気づいたらハタチから干支ひと周りしてるという…」
「ぷっ」
マミさんの隣にいた、
今日が誕生日らしいフロアのねーちゃんが噴き出した。
「あ…おっさん扱い」
「いえいえ、CDありがとうございました〜」
「いぃえ」
誕生日だから何かくださいと言われ、
ま、突然言われたって何もないし、
たまたまバッグの中に入っていた、
手持ちの古いCDをあげたのだった。
店を出て、渋谷駅へ歩き、
東横線で座れそうな2本目に座った彼の頭の中では、
作ったばかりの曲のクライマックスのフレーズが、
繰り返されてどんどん深くなっていた。
多摩川駅で乗り継ぎ、2駅。
彼の最寄駅に到着した。
ここまで来るとホッとする。
駅から徒歩30秒、よく乗り過ごす彼も、
このホームに降り立てば、もう家に着いたも同然だ。
この時間帯、この駅ではけっこうな人数が降りる。
彼は改札への流れにもまれていた。
ポケットに右手を突っ込み、定期を出した瞬間。
「ッ!」
彼のすぐ前を歩いていた若造が、
ホームでタバコを吸い始めた。
「ブッハーッ」
(オイオイオイ、なんだコイツ…)
…まぁいい。
もう、家に着いたも同然なのだ。
家に着いたら曲を作るのだ。
こんなアホに付き合うことはない。
ホームから数段の階段を下りて、改札が近づいた。
渋谷からパスネットで乗ったので、
定期とパスネット、2枚まとめて改札できる、
左側の改札機に、彼は寄っていった。
(……)
前を歩く若造も左に寄っていた。
相変わらず豪快に煙を吐いている。
若造が改札にさしかかった瞬間。
「ッ!」
若造が切符を持たない両手を、
自動改札機の両側についた。
彼は、この若造が何をするのかわかった。
自動改札の扉を飛び越えてトンズラする気だ。
なんともいえない気分になった。
コイツ、やりたい放題だな。
とっ捕まえてやろう。
彼は定期を持った手をとっさにヤツの襟元に伸ばし、
シャツの中に突っ込んで引き落としてやろうと、
一気に振り下ろした。
その瞬間。
勢いを付けて前に両足を振り上げた若造は、
彼の予想座標からひょいと前に飛び跳ねていた。
振り下ろした彼の手はわずかの差で空を切り、
勢い余った彼は、改札の中につんのめった。
「ピンローン、ピンローン」
「なっ」
彼の侵入を知らせるアラートが鳴った。
若造はまったく気にせずに路地を歩いていった。
彼は後ろを振り返った。
あっという間に、彼の列だけ渋滞していた。
人々の迷惑そうな視線が、彼に注がれていた。
(え、えーっ!?)
彼は後ろに下がった。
アラートは止んだ。
バツの悪い彼は、なぜか隣の列から改札を出た。
復活した列の乗客の視線を、なおも感じる。
舌打ちしたサラリーマンもいる。
(クッ…)
なんだ、この不条理は…。
彼が悪いというのか。
あの若造が“キセル”したのだ。
彼は“着せられた”だけだ…。
しかし。
タイミングを読み違えて、
襟首に手を突っ込めなかったのは、
酔いのせいだろうか、
それとも、トシのせいなんだろうか。
家に入ってしばらくしてから、
マミさんからのメールが携帯に届いた。
「今日はありがとね。
キモチはハタチでも、カラダがね〜」
「むぅ」
痛い。
やはり、トシだというのか…。
『名なし』の跡地にできた、
マミさんのお店『塩梅』に、彼はやって来た。
動機として、前日、後輩ホターシに誘われ、
仕事のキリが悪く断ったのもあった。
が、ここしばらく、人サマと呑むのが続いたので、
久しぶりに、ひとりで晩酌をかましたくなったのだ。
こうして、24時間ほど前に、
ホターシと徐さんが呑んでいたらしいカウンター席で、
彼はかつての『名なし』のように、
自分のペースでゆっくり酒を呑み、
料理をつまみ、タバコを吸い、
時おり現れるマミさんと冗談もマジメ話もしながら、
多くの時間は、もの思いにふけって過ごした。
これが彼のリズムだ。
オフィスを出る前に、
Acousphereというギターデュオのライブを観て、
超絶テクニックに熱くなったのもあって、
カウンター席でボーッとしてる間の、
彼の脳内リソースのほとんどは、
曲づくりに割り当てられていた。
そして、あっという間にまるごと1曲浮かび、
後は、何度もフレーズを繰り返しながら、
アレンジがどんどん煮詰められていくのだった。
これも彼のリズムだ。
(よし、週末だし、帰ってから、この曲を作ろう)
彼はマミさんを呼んで、チェックを済ませた。
「体調、どうなの?」
「へ?」
「しばらく、悪かったじゃない」
マミさんは、GW中、6日間にも及んだ、
彼の39℃の高熱は、知らないはずだ…。
「えーと、なんだ?」
前にここに来たのは、4月の真ん中…。
あ。
「歩き過ぎで、かかとが痛いってやつですか?」
「そうそう」
「あぁ、もう大丈夫っすよ」
「気ぃつけないと、お互い若くないんだから〜」
「ふっ、キモチはハタチのままですけどね」
「あら」
「気づいたらハタチから干支ひと周りしてるという…」
「ぷっ」
マミさんの隣にいた、
今日が誕生日らしいフロアのねーちゃんが噴き出した。
「あ…おっさん扱い」
「いえいえ、CDありがとうございました〜」
「いぃえ」
誕生日だから何かくださいと言われ、
ま、突然言われたって何もないし、
たまたまバッグの中に入っていた、
手持ちの古いCDをあげたのだった。
店を出て、渋谷駅へ歩き、
東横線で座れそうな2本目に座った彼の頭の中では、
作ったばかりの曲のクライマックスのフレーズが、
繰り返されてどんどん深くなっていた。
多摩川駅で乗り継ぎ、2駅。
彼の最寄駅に到着した。
ここまで来るとホッとする。
駅から徒歩30秒、よく乗り過ごす彼も、
このホームに降り立てば、もう家に着いたも同然だ。
この時間帯、この駅ではけっこうな人数が降りる。
彼は改札への流れにもまれていた。
ポケットに右手を突っ込み、定期を出した瞬間。
「ッ!」
彼のすぐ前を歩いていた若造が、
ホームでタバコを吸い始めた。
「ブッハーッ」
(オイオイオイ、なんだコイツ…)
…まぁいい。
もう、家に着いたも同然なのだ。
家に着いたら曲を作るのだ。
こんなアホに付き合うことはない。
ホームから数段の階段を下りて、改札が近づいた。
渋谷からパスネットで乗ったので、
定期とパスネット、2枚まとめて改札できる、
左側の改札機に、彼は寄っていった。
(……)
前を歩く若造も左に寄っていた。
相変わらず豪快に煙を吐いている。
若造が改札にさしかかった瞬間。
「ッ!」
若造が切符を持たない両手を、
自動改札機の両側についた。
彼は、この若造が何をするのかわかった。
自動改札の扉を飛び越えてトンズラする気だ。
なんともいえない気分になった。
コイツ、やりたい放題だな。
とっ捕まえてやろう。
彼は定期を持った手をとっさにヤツの襟元に伸ばし、
シャツの中に突っ込んで引き落としてやろうと、
一気に振り下ろした。
その瞬間。
勢いを付けて前に両足を振り上げた若造は、
彼の予想座標からひょいと前に飛び跳ねていた。
振り下ろした彼の手はわずかの差で空を切り、
勢い余った彼は、改札の中につんのめった。
「ピンローン、ピンローン」
「なっ」
彼の侵入を知らせるアラートが鳴った。
若造はまったく気にせずに路地を歩いていった。
彼は後ろを振り返った。
あっという間に、彼の列だけ渋滞していた。
人々の迷惑そうな視線が、彼に注がれていた。
(え、えーっ!?)
彼は後ろに下がった。
アラートは止んだ。
バツの悪い彼は、なぜか隣の列から改札を出た。
復活した列の乗客の視線を、なおも感じる。
舌打ちしたサラリーマンもいる。
(クッ…)
なんだ、この不条理は…。
彼が悪いというのか。
あの若造が“キセル”したのだ。
彼は“着せられた”だけだ…。
しかし。
タイミングを読み違えて、
襟首に手を突っ込めなかったのは、
酔いのせいだろうか、
それとも、トシのせいなんだろうか。
家に入ってしばらくしてから、
マミさんからのメールが携帯に届いた。
「今日はありがとね。
キモチはハタチでも、カラダがね〜」
「むぅ」
痛い。
やはり、トシだというのか…。
