痛ぇレーティブ

2005年8月21日。

日曜の昼下がり。
多摩川の土手に寝ころんで、
彼は晴れ渡った空を静かに眺めていた。
眺めながら、今、この瞬間、
なぜ自分がここで寝ころんで、
空を仰いでいることになったかを、
ゆっくり、思い浮かべていた。



2005年8月20日。

金曜の夜にニコタマ花火の場所取りに行って、
うっかり河川敷サッカー場の芝の上で、
満月を眺めながら大の字に眠ってしまった彼は、
じっとりした汗と強い日差しの中で目覚めた。

「あちぃ…」

時計を見たら9:30。
太陽は、第三京浜もとっくに越えて、
かなりの高さに昇っている。
フラフラと立ち上がった彼は、
土手の上で振り返り、ロケーションを確認した。

10人くらい座れるシートを持ってくるつもりで、
大きめにヒモを渡し、その真ん中に、
「●●一家」の紙を貼ってある。
例年こうしておくと、
ヒモの周りに無謀な割り込みをしてくるヤツはいない。

しかし、せっかく夜中に場所とりに来たのに、
結局朝になっても彼のとった場所のまわりはガラガラ。
おかげで、打ち上げエリアのすぐ近くに場所を取れたし、
かなりダイナミックに拝めることは間違いないのだが、
ここまで張り切る必要があったのだろうか…。

彼は、北見方交差点のわき、
第三京浜の下に路駐しっぱなしの車に戻り、帰路についた。



家に戻っても、ゆっくりしているヒマはない。
踏み切りを渡ったところ、
駅前のスーパーに買い出しに出かけ、
さっそく料理に取り掛かった。
鶏肉を入れた鍋を火にかけようとしたが。

「?」

ガスがつかない。
久々に自宅で料理するもんで、調子悪いのかな…。

「あ…」

彼は、ガス会社から、
ずいぶん前に言われていたことを思い出した。

 「ガスを2ヶ月ほど、使ってませんよね?
   お出かけだったんですか?」
「あ、はい…最近料理してないし、
  お風呂の給湯は深夜電力なんで…」
 「なるほど。
   しばらく使う予定、ないですか?」
「そうですね…はい」
 「それでしたら、安全の都合上、
   供給を止めておきたいのですが、
    よろしいでしょうか?
   お使いになるときは、ご連絡いただければ、
    翌日に開栓にうかがいますので」

しまった、うかつだった。
彼は、さっそくガス会社に電話した。

「すみません、〜な事情で、
  ガスの開栓をお願いしたいのですが」
 「わかりました、明日うかがうよう手配しますので」
「あの、なんとか今日来てもらえませんか?」
 「今日ですか、今日の今日はムリですねぇ、
   明日にならないと、係の手配がムリです」
「あぁ、そうですか…。
  じゃぁ、やっぱりいいです」
 「は?」

明日では、開けても意味がないのだ。

彼はカセットコンロとガスボンベを持ち出してきた。
キッチンのコンロの鍋をカセットコンロに移し、
コンロの火をつけた。
想像通りだが、火力が弱い。

いつもなら10分ですでに沸き立つところだが、
ぜんぜん沸騰しない。
どんどん時間が過ぎていく。

ようやく鶏のダシがスープに出切ったところで、
彼はすでに相当あせっていた。
目論見では、通行止めになる前に車で荷物を運び、
戻って来てからシャワーを浴び、浴衣に着替え、
ゲタを鳴らして出かけるつもりだった。

この後、鶏肉は鶏肉であら熱をとって素手で割くし、
スープはキンキンに冷やさなければならないのだ。
それも、沸いた後すぐに、
冷蔵庫に入れるわけにはいかない。

スープを移しておいたボウルを触ってみた。
ぜんぜん熱いままだ。
まだまだ時間はかかりそうだ。

「むぅ…」

そして、時計は15:00を回った。

(もう、車で乗り入れるのはムリだな…)

えーい、もう後は氷にがんばってもらおう。
彼は、ペットボトルにスープを移し換え、
そうめんを茹でて洗い、
でっかいタッパに入れて、その隙間に、
ラップした鶏肉やみょうがを並べた。

そいつらをクーラーボックスに入れて、
酒を入れてない状態で、一度持ってみた。
けっこうな重さ。

(これだから、車で行こうと思ったのに…)



シャワーを浴びて出てきたら、
yokoから電話がかかってきた。
待ち合わせ組が揃うはずの時刻になっていた。
彼がすでに現地入りしていると思っている。

「もしもし」
 「どないしてはります?」
「それが、まだ家なのよ」
 「えー、そうなんですか」
「これから出るところ」
 「こっちは、新城で揃ったところですー」
「そしたら、場所は教えた通りだから、
  先に行っててくれる?」
 「わかりましたー」

電話を切ったら、履歴の中に、
むっちからも着信があった。
シャワーを浴びてたときだな。
車で行けないとなると、
むっちと約束してた浴衣で行くのはムリだ。
残念だが、しょうがない。

彼は電車に乗る前に、スーパーでビールを買った。
そいつらを、想定済みのクーラーボックスの、
隙間に積んでいったが、とてつもない重さになった。

「ぐぅぉ…」

ハンパない。
持ったそばから、汗が噴き出してくる。
いきなり火事場のクソ力出動。
なんとか電車に乗り込んだ。

多摩川駅で降り、中原街道に出て、
タクシーを捕まえようとした。
しかし、全然来てくれない。
今さらどうしようもないので、辛抱強く待った。
しかし、30分近く待っても、通らない。



待ちながら、彼は次善の策を考えていた。
覚悟を決めた彼は、再び電車に乗り、
自分の家の最寄駅まで戻った。
現地のyokoから電話がかかってきた。

 「どうですか?」
「タクシー来ないからさ、電車で戻って来た」
 「こっち、車はすごい混んでますよ。
   自転車、どうですか?」
「あぁ、自転車ね…。
  でも、すっごい重いのよ」

とは言うものの、車は相当リスキーだ。
一度、チャリを試してみよう。
彼は駐車場まで、クーラーボックスを運んだ。
車のトランクに積んである折りたたみのMTBを出し、
組み立ててから、荷台にクーラーを載せてみた。
後輪のタイヤがすごいことになったが、
ま、太いからなんとかなるかな…。

サドルにまたがり、腰掛けてみた。
ボムッ。
さらにタイヤがへこんだ。
左手でクーラーボックスを押さえた状態で、
ペダルに足をかけ、漕ぎ始めた瞬間。
ヨレッ。
タイヤがよれて、彼はバランスを崩した。

「ぬおっ」

右に傾く車体をなんとかもたせようとしたが、
クーラーボックスはすでに真横を向いている。
そいつをつかんでいる左手の向きが、
カラダの後ろでおかしいことになっている。
ムリだ。

彼はハンドルから右手を離し、
カラダも車体もクーラーボックスの中身も、
何も損失しないように最後の努力をした。

ドサッ。

(…ふぅ)

なんとかケガもせず、クーラーボックスの中身も、
最悪の状態にはならずに、
少し散乱しただけで済んだ。

直してから、
彼はチャリを近くの信用金庫の前に駐め、
鍵をかけた。
とりあえず、ここに置いておけ。
この経緯が後に、命取りになるとは…。
それを、彼はまだ知らない。



駐車場に戻った彼は、結局、
クーラーボックスをトランクに積み、
エンジンに火を入れた。
動き出しながら、彼はむっちに電話。

「もしもし」
 「チャリ、どうだった?」
「むり。あまりの重さに、こけました」
 「あー」
「もう、車で行くことにしたから、
  近くに行ったらまた電話します。
 で、本当に重いので、何人か、
  浴衣じゃない人、車から河原に運ぶの、
   手伝って欲しいんすよ」
 「あー、あたし以外浴衣じゃないから」
「じゃぁ、yokoあたりと、もうひとり」
 「わかった、お願いしとくね」
「うす」

丸子橋を渡りながら多摩沿線道路を眺めると、
車は流れているように見えた。
そうだろうな。
北見方より西側が通行止めになるだけで、
そこまでは行けるのだ。
yokoが仲間と待ち合わせた武蔵新城の方角から、
河川敷に向かうルートが、電車で来る観客の波で、
車も通れないことになってるってことだろう。
これなら、そこそこ近いところまでは、
車で行けるはずだ。
後のことはそこで考えよう。

結局彼は、北見方から2つめの信号までは行けた。
その先にテールランプの列を見た彼は左折し、
キヤノンの工場の先に路駐した。
yokoから電話。

 「どの辺ですか?」
「北見方から、2つ手前の信号」
 「じゃ、そっちに行きます〜」
「よろしく、すんません」

彼は、少しでも近づこうと、
土手に上がってクーラーボックスを運んだ。
しかし、手がぷるぷる、限界も近い。
休み休み進むうちに、yokoや仲間とぶつかったのは、
まだ信号をひとつも進んでいないポイントだった。
ま、こうなればひと安心。
前日から場所取りしてたのに、
カンジンの花火に間に合わないという、
最悪の事態は回避できた。
始まる前、明るいうちに、料理も出せそうだ。



花火は最高のコンディションだった。
ほどよい風で、爆煙も流れていく。
そして、煙の流れを読んで、
風上と思われる方角に場所を取っておいた。
これもよかった。
メンバー一同、大喜び。
1時間で終わってしまうという短さが玉に瑕。
しかし、おりしも満月。
彼ら6人は、花火大会が終わっても酒盛を続けた。
それは、まわりの人々も同様だった。



翌日。

午前中遅めに目覚めた彼は、
たまっている仕事を消化しようと思っていた。
その前にやっておきたいこともある。
夕方にはオフィスに向かうつもりだった。

外にぶらっと出た彼は、
信用金庫に駐めっぱなしのチャリのところへ。
サドルにまたがってみると、タイヤがペコペコ。
乗れないことはないが、だいぶエアが抜けている。

彼は、昨年まで住んでいた隣駅の家の向かい側に、
チャリ屋があったのを思い出し、
丁寧な立ちこぎで速度を押さえながら、向かった。

エアを入れさせてもらったところで彼は、
天気もいいし、
チャリで土手道をサイクリングしたい、
そんな気持ちになってきた。

最初は、六郷方面へ向かって漕いでいた。
が、ふと、ニコタマへ買い物しに行きたくなり、
途中で逆向きに方向転換した。
昨日、花火にチャリで行けなかったことと、
その前の晩の場所取りも、
最初はチャリで行こうと思ってたのに、
満月だったので望遠鏡を持って行こうと、
車に切り替えていたのだった。
結局、望遠鏡を使う前に芝生の上で寝てしまい…。

何もかも中途半端が続いた。
ひとつぐらい、この週末にやろうと思ったことを、
やっておきたくなった。
しかし、これが命取りになるとは…。



彼は自転車に乗ると、かなり飛ばす。
50km/hくらいは平気で出す。
この日もそうだった。

新幹線の高架橋が近づいてきた。
高架のところでは、土手の道はいったん下り、
新幹線をくぐって土手の上に戻ることになる。
彼はふと、来るべきブレーキングに備え、
漕ぎながらギアを変えた。
その瞬間。

ガッ!

ペダルがロックした。
後輪が流れ、前輪は左の方にはじかれた。

「なっ!?」

土手のアスファルトを踏み外した前輪が、
左の斜面に出てしまった。
トップスピードだ。
彼も、とんでもない勢いで放り出された。

「ぬぉーっ!!」

頭から土手に突っ込んだことは覚えている。
両手を突いたが勢い余って回転した。
回転してきたがそこはまだ土手、
地面が水平じゃないので、
踏ん張ろうと思った足は宙を泳ぎ、
また前転することになった。
そこまでは覚えている。

その後、何回転したのか、どう回転したのか、
よく覚えていない。
気づいたら、仰向けで止まり、空を見上げていた。
背中を打ったらしく、息が詰まっている。

「く…っ」

両手がしびれて、ピグモンのように、
ひじから上を、宙ぶらりんに浮かせている。
なんか、この状態、10年くらい前にもあったような…。



しばらくして、人が接近してきた。

 「大丈夫ですか?」
「……」
 「動けますか?」
「すんません、ちょっと放っといてください…」

失礼な意味ではなく、彼は手を振って見せて、
そいつがしびれていることと、
すぐに立ち上がれる状態ではないことを暗に伝えた。
相手の若者は、それを察して、離れていった。

首を上げて若者が降りていった方を見ると、
彼のチャリが、若者の仲間に起こされていた。
若者たちは、多摩川の東京側の河畔の土手すそで、
掟やぶりのバーベキューをやっていた。
どうもそのすぐ脇を、チャリが掠めて止まったようだ。
誰もケガはしていない模様。
危なかった、まだ運がよかった…。

落ち着いてから、彼は上体を起こした。
頭も打ってないみたいだし、
見回したところ、血も出ていない。
打ち身っぽいところも、骨折も、していない。

「おぉ…」

彼は立ち上がり、
チャリに群れる若者のところへ降りて行った。

「どうも、すみません…」
 「いやぁ、大丈夫ですか?」
「はい…、っていうか、
  チャリの方、見えてなかったんですが、
   大丈夫でしたか?」
 「大丈夫、大丈夫。
   なんか、チェーン外れてるみたいですよ」
「はぁ…」

ペダル側のギアから、チェーンが落ちていた。
それが内側の、ギアとフレームの間に挟まり、
完全に噛んでいた。
どっちにも動かないし、手でつまんでも出てこない。
そもそも、チェーンが落ち込める隙間ではない。
そうとう激しい圧力が加わったらしい。
しかし、それ以外、タイヤやフレームが
曲がったりしたわけではないし、パンクもしてない。
傷もほとんどついていない。
こちらもこちらで、被害は最小限、ついている。

それはそれとして…。

彼は若者たちから離れ、しばらく歩いたところで、
再びチャリを駐め、土手に寝転んだ。
興奮しきったカラダと脳みそを落ち着かせようと、
しばらくそこでじっとしていた。



9年前のとある夜、光が丘公園の外周道路で、
カサが前輪に噛んで、チャリごと1回転、
道路にたたきつけられたことがあった。
あのときと同じことを、いや、
もっとひどいコケ方を、やってしまった…。

見上げた空は、すっごい晴れている。
こんなに天気がいいから、
サイクリングしようと思っただけなのに。
人生で2度も、こんなことをやっちまう人って、
世の中そんなにいるものなんだろうか…。

もっと前、中学生の頃にも、
実家近くの田んぼ脇のU字溝に落ちた。
さらに前、小学生低学年の頃には、
実家から反対側の田んぼ上の土手から、
チャリごと稲が青々とした水田にダイブし、
コドモ1人では脱出できないほど、
前輪が水田にのめり込んだ。

8年から9年に1回周期くらいで、
彼はチャリでどこかに落ちたり、
ひっくり返ったりしている。
これからも、イテレーティブに、
こんなありがたくないイベントが続くのだろうか…。

今、この瞬間、なぜ自分がここで寝ころんで、
空を仰いでいることになったのか、
昨日の出来事、その前の晩からのひとつひとつ、
もっと昔のいろんなことも、
彼はゆっくり、思い浮かべていた。