フンじゃった
2005年9月1日。
深夜残業を終えた彼が、
脱いでいたプラダのローファーを履きなおし、
オフィスを出ようとデスクを立った頃には、
東の空から真っ赤なものが昇っていた。
雨が降ると思い、長袖を着てきたのに降らず、
失敗したと思っていたのだが、
朝の帰宅の肌寒さ対策だったのかと納得。
ずっと少しずつしか進捗しなかった案件に、
夜通し向かい合ったおかげで、一気に仕上がった。
1人になってからの時間帯でないと、
プレイヤーとしての領域のタスクが捗らない。
そんな現状はわかっているし、受け入れてもいる。
ひとつ、マイルストーンを越えた達成感で、
眠気を感じることもなく六本木駅へ向かったが、
東横線に乗り換える頃には、
ケンシロウの秘奥義“無想転生”なみに、
自分の意思では行動していなかった。
そして案の定、彼はひと駅寝過ごした。
寝過ごす前に2回乗り継げていたわけだし、
それだけで済んでよかった、ともいえる。
行き過ぎた駅は、
いつも彼が出勤のために最寄駅のホームにいると、
隣の駅を電車が出発したのが見えるほどの近さ。
すでに7:00はまわっていて、
電車が来る間隔も短くなってきているが、
反対側のホームの改札に回るほどのことでもないな。
歩いて帰ろう。
まぁ、とにかく眠い。
眠いが、そこそこ晴れた朝だし、気分がいい。
彼は空を見上げながら歩いていた。
帰ってシャワー浴びて出かける、
と考えると、ちょっとブルーだが、
完成した資料を持っていくアポは午後。
深夜残業の翌日は、
半休を取ってよい、というルールもある。
なんにせよ、長短はあれ10日連続勤務中だし、
1時間だろうが2時間だろうが寝るだけ寝て、
起きられれば普通に出社すりゃいいし、
キッツいなら午前半休を取ろう。
そんなことを考えつつ、
彼は線路沿いの道に出て、
のんびりと朝の街を歩いていた。
朝から会社へ行く気は、そこそこあった。
それゆえ彼は、自宅へまっすぐ帰る前に、
セブンイレブンに寄って、
パンと飲み物を買うことにした。
最寄駅の改札脇を過ぎて商店街に入ってきた。
反対側の、自宅に近い方の踏切、
開店前のドラッグストアの角を、
線路から離れるように左折すると、
100mほどでセブンイレブン。
彼は、その角にさしかかった。
「?」
ドラッグストアの角、
シャッターギリギリのところを、
アウトインアウトの要領で通過したところで、
彼は何かを踏んで、右足が滑ったように感じた。
瞬間、特にペースを緩めることもなく、
彼は後ろを振り返った。
「あっ!?」
明るい黄土色の、
チューブからひねり出したような、
柔らかめに思われる固形物が3本、
折り重なるように置かれていた。
いや正確に言えば、放置されていた。
いや、もっと厳密に言えば、
3本折り重なるようになってたはずの形状が、
誰かに踏まれて、えぐれていた。
これは、けっこうな体格の、犬のフン…?
彼はさすがに立ち止まり、右の足元を見た。
「……」
プラダの黒いローファーのかかとの部分から、
黄土色の柔らかいものが見え隠れしている。
「ぉおあぁーっ!」
彼は天を仰いだ。
気分のよさで上を向き気味で歩いてきたのだが、
違う意味で空を見上げ、
朝の商店街に迷惑も顧みず叫んだ。
とにかくこいつを、成分のビタ一文も残さず、
リリースしてしまいたい。
彼は、レンガの敷き詰められた道の隅で、
ドラッグストアと隣の店の間に行き、
路面に右足をズリズリした。
しかし、それなりにしか取れないし、
側面にハミ出したものは付いたままだ。
「もぉー、カンベンしてよ…」
しょうがねぇ。
セブンイレブンで、食糧ついでに、
ウェットティッシュを買おう。
つまり、黄土色つきのまま、
彼は店内に踏み込むつもりだ。
セブンイレブンの入り口右手には、
朝から数人が並び、立ち読みしていた。
彼は、なるべく人と接近しないルートを通り、
まず、ウェットティッシュを手に取った。
店内にいる客の導線を意識しながら、
外周をぐるっとまわりつつ、
牛乳とメープルパンを抱えた彼は、
会計を済ませて外に出た。
通りに出てすぐのゴミ箱群の前で、
彼は袋からウェットティッシュを取り出した。
まず1枚。
左手にウェットティッシュを持ち、
右手はゴミ箱に乗せて体を支え、
上げた右足の裏を、靴を履いたまま、
まずは塊がぶちぶちはみ出ている輪郭を、
上から下へ、被害が伸びないように拭いた。
次の1枚。
ソール面に集まったフンを、
まとめて大きくつつみ、つまみ取った。
さらに1枚。
積み残しをつまみ、拭い取った。
「……」
まだ、かなりたっぷり残ってる。
ソール面の基調である細かい網目状の溝には、
ぬぐった分だけ明確に、
黄土色の網目が表現されちゃってるし、
かかとへ伸びる赤いエンブレムラベルの両側、
黒いソール面との隙間には、
完全にフンが食い込み、
2本の太く茶色いラインを形成していた。
こいつがクセ者だ。
っていうか、クセぇ…。
「んもぉー」
網目は仕上げでゴシゴシやるとして、
まず、この太いラインをほじくらなければ。
1枚。
彼は、何回か折りたたみ、
それをかかとに充てたところで、
ラインに当たるところに親指のツメを立て、
そいつを力を込めつつ、一方通行で引き寄せた。
「うぉ…」
裏面なんてマジマジ見たことなかったが、
溝は思いのほか深かった。
その容積分のフンが、
ツメに押されてにょろりと出てきた。
「きったぁねっ…」
もうここまでくれば、
通り過ぎる人の目などお構いなし、
そんな感覚になってきた。
次の1枚、今やったラインの方を、
もう一度なぞってそこそこ仕上げ。
もう1本のラインの方に着手すべく、
彼は新しい1枚をたたんでかかとに充てた。
そいつにツメを立て、さっきと同じ要領で、
ラインを2回、3回と、思いっきりなぞった。
「…?」
なんかさっきと感触が違う、かな…?
でも何が違うか、よくわからない。
彼は、なぞったウェットティッシュの、
まさに汚い側を見てみた。
「ッ、ギャーッ!!」
ユビがウェットティッシュを貫通していた。
ツメに、ツメの隙間に、もろ、
“黄土色”が付着している。
「っんだーよーもーっ…」
いったん足を下ろした彼は、
新しいウェットティッシュを1枚また1枚と使い、
とにかくツメを掃除し始めた。
すでにナミダ目。
何の因果で、徹夜明けの帰宅途中に、
彼はこんなことをしないといかんのか…。
もう怖いものはない。
彼は無心にウェットティッシュをつまみ出し、
靴裏の溝の残りをほじくり出し、
仕上げに何度も、網目をゴシゴシした。
見た目に茶色が皆無になっていても、
それでも彼は、繰り返しゴシゴシ拭いた。
「どうだ、もういいべ…」
彼は足を下ろした。
新しいウェットティッシュを何枚か重ねて、
そいつで彼が路上に落としたウェットティッシュ群を包み、
まとめてゴミ箱に捨てた。
とにかく左手は、今はまだ“不浄”扱い。
何にも触れないで済むように意識し、
タバコを出し、火をつけ、
そいつらを右手でポケットに戻してから、
コンビニ袋も右手で持って歩き始めた。
再び、ドラッグストアの前にやってきた。
「……やっろぅ…」
さっきのが、さっきのままでいる。
こいつに出会わなければ、
今ごろ彼はベッドの中で眠っていたかもしれないのに、
おかげでかなり時間を浪費した。
こいつを、他の通行者や、ドラッグストアのために、
親切心で片付けてあげるような気力も体力も、
残念ながら、このときの彼にはもはや、なかった。
彼は、この不届きな不始末の主ではない。
どちらかといえば、被災者の方なのだ。
9月1日といえば“防災の日”。
よりによってこんな日に、彼は朝イチから罹災した…。
深夜残業を終えた彼が、
脱いでいたプラダのローファーを履きなおし、
オフィスを出ようとデスクを立った頃には、
東の空から真っ赤なものが昇っていた。
雨が降ると思い、長袖を着てきたのに降らず、
失敗したと思っていたのだが、
朝の帰宅の肌寒さ対策だったのかと納得。
ずっと少しずつしか進捗しなかった案件に、
夜通し向かい合ったおかげで、一気に仕上がった。
1人になってからの時間帯でないと、
プレイヤーとしての領域のタスクが捗らない。
そんな現状はわかっているし、受け入れてもいる。
ひとつ、マイルストーンを越えた達成感で、
眠気を感じることもなく六本木駅へ向かったが、
東横線に乗り換える頃には、
ケンシロウの秘奥義“無想転生”なみに、
自分の意思では行動していなかった。
そして案の定、彼はひと駅寝過ごした。
寝過ごす前に2回乗り継げていたわけだし、
それだけで済んでよかった、ともいえる。
行き過ぎた駅は、
いつも彼が出勤のために最寄駅のホームにいると、
隣の駅を電車が出発したのが見えるほどの近さ。
すでに7:00はまわっていて、
電車が来る間隔も短くなってきているが、
反対側のホームの改札に回るほどのことでもないな。
歩いて帰ろう。
まぁ、とにかく眠い。
眠いが、そこそこ晴れた朝だし、気分がいい。
彼は空を見上げながら歩いていた。
帰ってシャワー浴びて出かける、
と考えると、ちょっとブルーだが、
完成した資料を持っていくアポは午後。
深夜残業の翌日は、
半休を取ってよい、というルールもある。
なんにせよ、長短はあれ10日連続勤務中だし、
1時間だろうが2時間だろうが寝るだけ寝て、
起きられれば普通に出社すりゃいいし、
キッツいなら午前半休を取ろう。
そんなことを考えつつ、
彼は線路沿いの道に出て、
のんびりと朝の街を歩いていた。
朝から会社へ行く気は、そこそこあった。
それゆえ彼は、自宅へまっすぐ帰る前に、
セブンイレブンに寄って、
パンと飲み物を買うことにした。
最寄駅の改札脇を過ぎて商店街に入ってきた。
反対側の、自宅に近い方の踏切、
開店前のドラッグストアの角を、
線路から離れるように左折すると、
100mほどでセブンイレブン。
彼は、その角にさしかかった。
「?」
ドラッグストアの角、
シャッターギリギリのところを、
アウトインアウトの要領で通過したところで、
彼は何かを踏んで、右足が滑ったように感じた。
瞬間、特にペースを緩めることもなく、
彼は後ろを振り返った。
「あっ!?」
明るい黄土色の、
チューブからひねり出したような、
柔らかめに思われる固形物が3本、
折り重なるように置かれていた。
いや正確に言えば、放置されていた。
いや、もっと厳密に言えば、
3本折り重なるようになってたはずの形状が、
誰かに踏まれて、えぐれていた。
これは、けっこうな体格の、犬のフン…?
彼はさすがに立ち止まり、右の足元を見た。
「……」
プラダの黒いローファーのかかとの部分から、
黄土色の柔らかいものが見え隠れしている。
「ぉおあぁーっ!」
彼は天を仰いだ。
気分のよさで上を向き気味で歩いてきたのだが、
違う意味で空を見上げ、
朝の商店街に迷惑も顧みず叫んだ。
とにかくこいつを、成分のビタ一文も残さず、
リリースしてしまいたい。
彼は、レンガの敷き詰められた道の隅で、
ドラッグストアと隣の店の間に行き、
路面に右足をズリズリした。
しかし、それなりにしか取れないし、
側面にハミ出したものは付いたままだ。
「もぉー、カンベンしてよ…」
しょうがねぇ。
セブンイレブンで、食糧ついでに、
ウェットティッシュを買おう。
つまり、黄土色つきのまま、
彼は店内に踏み込むつもりだ。
セブンイレブンの入り口右手には、
朝から数人が並び、立ち読みしていた。
彼は、なるべく人と接近しないルートを通り、
まず、ウェットティッシュを手に取った。
店内にいる客の導線を意識しながら、
外周をぐるっとまわりつつ、
牛乳とメープルパンを抱えた彼は、
会計を済ませて外に出た。
通りに出てすぐのゴミ箱群の前で、
彼は袋からウェットティッシュを取り出した。
まず1枚。
左手にウェットティッシュを持ち、
右手はゴミ箱に乗せて体を支え、
上げた右足の裏を、靴を履いたまま、
まずは塊がぶちぶちはみ出ている輪郭を、
上から下へ、被害が伸びないように拭いた。
次の1枚。
ソール面に集まったフンを、
まとめて大きくつつみ、つまみ取った。
さらに1枚。
積み残しをつまみ、拭い取った。
「……」
まだ、かなりたっぷり残ってる。
ソール面の基調である細かい網目状の溝には、
ぬぐった分だけ明確に、
黄土色の網目が表現されちゃってるし、
かかとへ伸びる赤いエンブレムラベルの両側、
黒いソール面との隙間には、
完全にフンが食い込み、
2本の太く茶色いラインを形成していた。
こいつがクセ者だ。
っていうか、クセぇ…。
「んもぉー」
網目は仕上げでゴシゴシやるとして、
まず、この太いラインをほじくらなければ。
1枚。
彼は、何回か折りたたみ、
それをかかとに充てたところで、
ラインに当たるところに親指のツメを立て、
そいつを力を込めつつ、一方通行で引き寄せた。
「うぉ…」
裏面なんてマジマジ見たことなかったが、
溝は思いのほか深かった。
その容積分のフンが、
ツメに押されてにょろりと出てきた。
「きったぁねっ…」
もうここまでくれば、
通り過ぎる人の目などお構いなし、
そんな感覚になってきた。
次の1枚、今やったラインの方を、
もう一度なぞってそこそこ仕上げ。
もう1本のラインの方に着手すべく、
彼は新しい1枚をたたんでかかとに充てた。
そいつにツメを立て、さっきと同じ要領で、
ラインを2回、3回と、思いっきりなぞった。
「…?」
なんかさっきと感触が違う、かな…?
でも何が違うか、よくわからない。
彼は、なぞったウェットティッシュの、
まさに汚い側を見てみた。
「ッ、ギャーッ!!」
ユビがウェットティッシュを貫通していた。
ツメに、ツメの隙間に、もろ、
“黄土色”が付着している。
「っんだーよーもーっ…」
いったん足を下ろした彼は、
新しいウェットティッシュを1枚また1枚と使い、
とにかくツメを掃除し始めた。
すでにナミダ目。
何の因果で、徹夜明けの帰宅途中に、
彼はこんなことをしないといかんのか…。
もう怖いものはない。
彼は無心にウェットティッシュをつまみ出し、
靴裏の溝の残りをほじくり出し、
仕上げに何度も、網目をゴシゴシした。
見た目に茶色が皆無になっていても、
それでも彼は、繰り返しゴシゴシ拭いた。
「どうだ、もういいべ…」
彼は足を下ろした。
新しいウェットティッシュを何枚か重ねて、
そいつで彼が路上に落としたウェットティッシュ群を包み、
まとめてゴミ箱に捨てた。
とにかく左手は、今はまだ“不浄”扱い。
何にも触れないで済むように意識し、
タバコを出し、火をつけ、
そいつらを右手でポケットに戻してから、
コンビニ袋も右手で持って歩き始めた。
再び、ドラッグストアの前にやってきた。
「……やっろぅ…」
さっきのが、さっきのままでいる。
こいつに出会わなければ、
今ごろ彼はベッドの中で眠っていたかもしれないのに、
おかげでかなり時間を浪費した。
こいつを、他の通行者や、ドラッグストアのために、
親切心で片付けてあげるような気力も体力も、
残念ながら、このときの彼にはもはや、なかった。
彼は、この不届きな不始末の主ではない。
どちらかといえば、被災者の方なのだ。
9月1日といえば“防災の日”。
よりによってこんな日に、彼は朝イチから罹災した…。
