損得勘定

2005年9月。

夜、ふと目覚めた彼の目には、
向かい側のシートの茶色が見えていた。

(あぁ、寝過ごしちまった…)

どうやら、終点を向かえたところらしい。
ホームの向かい側には、
電車を待つ人がまばらに立っていた。
彼もそれにならって、列に加わった。

(上りがまだあるんだな、よかった…)

まだ意識が混濁していた。
まもなく電車が来て、彼はそれに乗った。

月曜の深夜だ。
そこそこ混んでるが空席はあり、彼は座った。
視界と彼の意識レベルが、ようやくマッチしてきた。

最新の東横線の車両には、
ドア上に電光掲示のモニターがある。
閉まったドアの上のそれを、
走り始めた電車のシートから、彼は眺めていた。

(横浜中華街行き…)

表示されていた文字列を機械的に眺めた後、
視線を落とした彼は、瞬間、再び掲示板を見た。

(横浜中華街行きぃ!?)

電光掲示板に続けて表示された次の駅名、
「妙蓮寺」の文字列を、彼は読み取った。
とっさに渋谷駅からの自分の行動履歴が蘇った。



渋谷駅で東横線の改札を入ったのは、
24:00を少しまわったところ。
2番線、次発の急行に乗ろうと思った彼は、
そのホームにはすでにかなりの列ができていて、
対面の3番線、先発の各駅停車菊名行きが、
まだ空席が目立つ状態なのを見つけて、
階段を降りてそっちに乗ることにしたのだった。
自由が丘で急行に追いつかれ、抜かされるのだが、
眠い彼には、今は座れることが何より優先する。

先発した各駅停車は、
自由が丘で急行の待ち合わせを待っていた。
急行に乗り換えれば先行するのだが、
眠くて、席を立つのがメンドウな彼は、
乗り継ぎまでこのまま各駅で行くことにした。
彼には、ここまでの記憶がある。
そこから2駅で支線に乗り継ぎだったのに、
結局、彼は寝過ごした。



寝過ごした。
これだけなら、彼にはいくらでも経験がある。
しかし、数多くある、
“終電に乗って、終点の元住吉で起こされる”
という体験が繰り返し身に染みついている彼は、
ホームの反対側にできた列に並んだとき、
そこが元住吉駅で、みんなが上り電車を待ってると、
勝手に解釈した。

記憶の源流をたどれば、
菊名行きに乗ってたのだから、
いつもと全然違うシチュエーションなのは自明の理。
なおかつ、終電で元住吉まで寝過ごしたときは、
すでに上り電車は終了していることも、
過去の経験が物語っている。

こうして、彼は寝過ごした上に、
秘奥義“無想転生”で、さらに自宅から離れる結果に。
乗る必要もない電車に乗り、ムダに揺られている。
それが、意識が戻った彼の、客観的状況だ。

(むぅぅ、何やっとんじゃ…)

走っている電車の中で、状況を把握した彼には、
たったひと駅の区間が、やけに長く感じられた。



妙蓮寺駅に着き、彼はホームに降りた。
そのままフラフラと、進行方向の改札へ向かった。
手前の階段には「正面口」とあったが、
やり過ごして彼はホームの端の方の改札へ向かった。

対面型のホーム、端から階段を降りたところにある改札、
その先にある道路と踏切…。
なんとなく、乗り過ごす度に降りる元住吉駅に似てる。
しかし、そこは妙蓮寺駅だし、そもそも彼は、
元住吉駅と勘違いしてこの駅に降りた訳ではない。

「菊名、大倉山、綱島、日吉、元住吉、か…」

彼は、タクシーで帰らなければいけないルートの駅を数え、
なんとなく料金を割り出そうとした。
以前、元住吉まで寝過ごして何度かタクったとき、
相場はだいたい2,300円くらいだった気がする。
しかしこの駅数では、6,000円は軽く超えそうだな…。

その前に…。
確か、日吉方向から綱島街道を南下すると大豆戸、
大豆戸の交差点から菊名にそのまま進むと、
菊名の辺りでプチ峠道に入ってしまった経験が、
以前に鎌倉在住の後輩を自宅まで送ったときにあった。

だから、妙蓮寺の駅がどこかなんて、彼には判らない。
あの経験からすると、駅を降りてみたところで、
タクシーに出会える通りなんか、ないんじゃないか…。



改札を出たところで彼は、予想外の音を聞いた。

 「カンカンカンカン…」
(お、おぉ?)

踏み切りが鳴り、遮断機が下りようとしている。
とっさに彼は、向こう側へ渡った。

(そうか…
  オレが乗ってたのは終電じゃないんだ…、
   上り電車がまだあるんだ!)

踏切を渡った側の、上りホームの改札に、
彼は出たばかりのパスネットで入った。
すぐに上り電車が入線してきた。
上り終電の元住吉行きだった。
乗った彼は、さっきよりさらに空いている車両で、
シートに座った。

(おぉぉ…、ツイてる…)

6,000円から2,300円へ。
彼がムダに払う金額は、一気に半分に減った。

もう、こうなると、

“そもそも寝過ごさなければ、
  タクシー代を払わずに済んだ”

という事実などすっかり忘れ、
6,000円を払う、ということがデフォルトになる。
それと比較して“得した”という錯覚が、
彼の心を支配してしまうのだ。



終点の元住吉駅に着いて、彼は改札を出た。
ここから先は、よく経験したパターンだ。

綱島街道に出たところで彼は、東京方面向きで、
ハザードをつけて止まっている車を見つけた。
ドア後ろのボディをノックするとドアが開き、
髪を刈り込んだ初老のオッサンが振り向いた。

 「どこまで?」

そのセリフに、
なんとなく彼はネガティブな意思を感じた。

「都内に入って、鵜の木まで行きたいんですが…
  大丈夫ですか?」
 「あぁ、どうぞぉ」
「あぃぁーっす」

彼が乗るなり、
運転手は馴れ馴れしい話し方で、
言葉をつないだ。

 「もう、この時間だから最後でしょう、
   遠くまで行きたいんだよね〜
    距離稼げるからさ」
「なるほど」

タクシー業界もまだ苦しいってことだな。
理解できる話ではある。
もっとも、彼が運転手にとって、
満足いく距離をたたき出す客だったかは、
微妙なところではあるが…。
ま、乗せてくれたんだから、よしとしよう。

タクシーに乗るとよく、
運ちゃんとは会話を交わす彼なのだが、
眠いのも手伝って、
オッサンが続けそうな会話も切り、
後ろのシートで目をつぶり、静かにしていた。



いきなり車が右折したので、彼は顔を上げた。

「?」

メーターはまだ、初乗りの660円。
後輩ホターシを送るときに通るモービルのGSが、
彼の視界から離れていこうとしていた。
ここは「市の辻」、武蔵小杉の少し南だ。

「え、これは、どこに向かうんですか?」
 「あぁ起きてますか、これぇ、…ガス橋ね」
「えー、こりゃ丸子橋行った方が近いっしょ?」
 「え、そうかな?
   ガス橋渡るとすぐ鵜の木だから、丸子橋より、
    鵜の木に近くなるって思うんだけどなぁ」
「ガス橋って、丸子橋から見たら鵜の木の向こうよ!?」
 「そう、ね…」
「確実に近いんですか?
  ここからガス橋までって、そんなに近いですか」
 「そんな近いってワケじゃ、ないね…
   近いかなって、思っただけ」
「ちょっと!、戻ってくださいよ、
  ガス橋より丸子橋の方が、
   自分ちに近いのはわかってんだから」
 「わかりました、すぐ戻りますぅ」

市の辻から曲がってガス橋を渡った経験はないので、
実測でどれくらいか、彼が想定してたルートと比較して、
近いのか遠いのかは、彼にはわからなかった。
確実に近い、という確信がオッサンにあるなら、
ここで彼を説得にかかることもあるだろう。

しかし、オッサンはあっさり引き下がり、
信号がある交差点の余白を使ってUターンした。
根拠がなかったとしか言いようがない。

どっちから行っても、
実際にはそんなに変わらないのかもしれんが、
彼の運転と生活の経験を総合すると、
いつもどおりにまっすぐ行った方が近いんじゃないか?
(後に地図で測ったら、実際には1.5km以上も近かった)

まぁ、ここでの200円や300円、
彼にとっては本当はどうでもよい。
それを損するかどうか、ではなく、
オッサンが姑息に小銭稼ぎを謀った性根に、
彼は腹立たしさを覚えたのだった。



彼は声を、怒りを抑えて、オッサンに話した。

「タクシーがまだ厳しいのは理解してますけどね…、
  こんなね、綱島街道まっすぐ行きゃ着くようなとこを、
   わざわざ逸れて、近いって確信もない道を通るなら、
    曲がる前に確認してくれりゃいいじゃないっすか」
 「そうね…、ひとこと、聞けばよかったね…」

…何を、しらじらしい。

オッサンが口走った、

 「遠くまで行きたいんだよね〜、距離稼げるからさ」
 「あぁ起きてますか、…」

というコメントが蘇ってきた。
コイツ…確信犯だな。



市の辻の交差点に戻ってきたところで、
メーターはすでに900円を回っていた。
彼は久々に狂犬病を発症した。

「おぅら、もう900円に上がってんじゃないっすか!」
 「すみません、200円引きますので…」
「いぃやいや、なぁに言ってっすか。
  さっきここ曲がるとき、
   まだ初乗り料金だったって!」
 「すみませんすみません、
   じゃぁ、300円引きますから」
「おぅす」

納得はしたが、こういう、
見なくてもいい“汚いもの”を見せられて、
気分がおさまるというものではない。

丸子橋を渡ったところで、彼は自分が知っている、
中原街道の下のトンネルをくぐる近道を通るよう、
オッサンに曲がるポイントを指示した。

「そこ、踏切渡ったら、すぐ右入ってください」
 「かしこまりました」

彼は、ぶっきらぼうになりそうなところを、
なんとか普通の言葉遣いになるよう努めた。
オッサンは、最初の馴れ馴れしい口調は消え、
むしろさっきとは全然違う、丁寧な応対になり。
知ってたかどうかはわからないが、
彼の指示通りに、近道をトレースした。



中原街道をくぐったところで、
突然オッサンが徐行し、メーターを切った。

「ぁ?」
 「いえ、もうここでメーター止めますから、
   お代は今の1,860円でけっこうですぅ」
「あぁ…、はい」

ふむ…。
オッサンはこの晩、彼の財布から少し余計に、
小銭をせしめようとして、結局は損した。
いいのかオッサン、まだ2kmは走るぞ…。

(あ! そういうことか!? ニャロー…)

“損した”ワケではない。
更に姑息に、会社への報告ベースでは
自腹を切らずに済むよう、メーターを切ったのだ。
オッサンが損するのではない、
タクシー会社がオッサンのケツを拭き、損するのだ。
コイツ、どこまでも姑息なヤツだ…。

まぁいいや、この部分については、
オッサンがせこいテクを使おうが、
彼が損するワケではない。
それより、いつもなら2,300円はかかる道のり、
まさか、こんなカタチで得するとは…。



…しかし、これが錯覚というものだ。

自宅近くの信号で降ろしてもらった彼は、
この晩、別に“得した”ワケではないのだ。