暴走半島
1993年8月2日。
前日、八王子から房総半島の実家へMTBで帰ってきた彼は、
移動手段として、母親の車を借りる約束をしていた。
数日後には、サークルの友人たちが20人ほど、
彼の実家へ泊まりがけで遊びにも来る約束で、車が必要だった。
借りるかわりに、朝と夕方、母親の通勤送迎をしなければならない。
親父は定年後の第二就職が車まわりの営業職ゆえ、
そっちを借りるわけにはいかない。
長旅の眠い目をこすりながら、彼は助手席に母親を乗せ、
隣町のはずれに移転した母親の勤務先へ出発した。
「あんた、ずいぶん安全運転なのねぇ、
もっとスピード出しても平気なのよ」
「わかってるよそんなの」
わかっちゃいるが、アクセルを踏み込んでるわりには、
黄色いホンダ・トゥデイは50km/hくらいしか出ない。
車の方が、いい加減ポンコツなんじゃねぇか?
それに、たいした腕前でもないオフクロに、
車の運転のことでとやかく言われるとは心外だ。
1987年11月。
中学3年だった彼は、学校が終わって帰宅していた。
勤務先から車で帰宅した母親は、戻るなり、
書道の習い事で出かけている祖母を迎えに、
再び車で出かけていった。
彼は学ラン姿のままニュースを観ながら、
ひとりで晩飯を食べていた。
しばらくして、玄関から母親の悲鳴が聞こえてきた。
「ちょっと、ちょっと来て〜っ!」
「どうしたん?」
「車が、車がおっこっちゃった」
「は?」
彼は手招きされるままに靴を履いて外に出た。
小走りに駐車場を出て小道を曲がったところで、
彼の目に信じられない光景が飛び込んできた。
とっくに陽の落ちた闇の向こうに、
車のテールランプが赤く光っていた。
いや、ふつうならこっちを向いて光っているべきだが、
ランプは、上空を指して光っていた。
小道は田んぼ脇の路地にまっすぐぶつかってT字路になっている。
すなわち、車は正面から、田んぼに“おっこちて”いたのだ。
「まじで? ここで落ちるなんて、ありえねーべ」
「違うのよ、ここ垣根があって、右に曲がるの難しいんだから…」
「いやいや、止まってから曲がるんだよ。
ここ、まっすぐなんだもの、ブレーキ踏むだけじゃん…」
こうしたとき、まず言い訳から入って、
自分の非を認めない母親の口ぶりには慣れている。
さて、とにかく、こいつをどうしたものか…。
彼は靴と靴下を脱ぎ、学ランのズボンの裾をまくった。
さいわい季節柄、稲は刈り取られていたので、
農家に対して被害を与えたわけでないのは幸い。
しかし、田んぼは、充分過ぎるほどぬかるんでいた。
彼は田んぼに降りて、足場に気をつけながら、
前輪付近の具合を確認してみた。
ちょっと浮いてしまっているが、押さえながら押し上げれば、
タイヤは土手の地面をかんでくれそうに見えた。
と簡単に言うが、押し上げることができるんだろうか?
クソ力を持つ親父がいれば、2人がかりでわけもないだろうが、
親父は単身赴任中で、ここにはいない。
「じゃ、前から押すからさ、
バックでアクセル踏んでくれる?」
「わかった」
母親は車に乗り込もうとした。
「ちょ、ちょっと待った!」
「何よ」
彼は、慌てて田んぼから上がり、運転席を覗き込んだ。
「バックにちゃんと入れるか、確認してやる」
「何よ、そんなのちゃんと操作できるわよ」
「よく言うよ…」
ちゃんと操作できなかったから、
この車は今、ありえない姿になってんじゃねーか…。
だいたい、パニック状態の母親の車に生徒会長が轢かれて即死なんて、
こんな狭い田舎町では、死ぬ方も生き残る方も、シャレにならん。
念には念をってわけだ。
彼は自分の手でバックギアに入れてから、車の正面に戻った。
「じゃ、押すから、アクセル踏んでみて」
キュルルルッ!
タイヤは泥をはねて空転していた。
彼は、自分の体重をボンネットにかけて押し込んだ。
ギュッ!
「お」
要領がわかった彼は、体重をかけて押し込みながら、
なんとか固い土手にタイヤが触れるよう、
モモで、自分の体重ごと、車を押してみた。
ギュルッ。
「おし、そのまま踏んで」
地面を車が捉えた感触があった。
がっこん。
車は、下をしこたまこすりながらも、
地上階に戻っていった。
「ふぅ…」
「ありがとう、助かったわぁ」
「洗うのは後で、とりあえず迎えに行ってきな」
母親が慎重に右折するのを見届けた彼は、
裸足のまま小道を歩き、泥だらけのまま自宅へ帰っていった。
相変わらずスピードの出ないトゥデイを操りながら、
彼は海岸通りに出た。
ここをひたすら北上し、また船形という地区での市街地に少し入ってから、
隣町もまっすぐ北へ突き抜けてその先、もうひとつ先の町との境ぐらいに、
母親が長年勤める会社のオフィスはある。
余裕を持って出発したのに、全然スピードが出ないので、
遅刻しそうだと母親は焦っていた。
「いや、この車、おかしくね?
ベタ踏みなのに、50km/hしか出ないんだぜ?」
「どうしたんかねぇ」
このとき、海岸通りをひたすらまっすぐのルートで、
角を曲がらずブレーキも必要のない快適な直進走行だったおかげで、
彼は何の異変なのかまったくわからずに行くことができた。
沿道にちょっと止めて確認しようにも、
素人にはエンジンの調子なんか、わかりっこないし。
「そしたらあんた、帰りに、
車買ったところに寄って点検してもらってくれない?」
「わかった、場所教えて」
「これから通るから、ここって、教えるわ」
平群川という大きな川の河口にかかる橋も過ぎた辺りで、
彼はブレーキの効きがイマイチ遅いことに気づいた。
気づきつつも、先を急ぐのでそのまま進んだ。
船形の市街地に入って、曲がるべき角やカーブが増えてきたところで、
その症状はさらにひどくなっていることに彼は不安を覚えた。
「あれ、なんかブレーキの効き、おかしくね?」
「そうかぇ?」
という会話をふたりで交わしたとき、
進路の先には、右に90度曲がるべき、交差点が近づいていた。
いちおう十字の交差点だが、
太い街道は彼らが来た道と、これから右折していく彼らの進路だけで、
直進方向と左折はいわゆる「私道」ともいうべき細い道だ。
正面の私道は少し左に寄っていて、彼らから見て交差点の真正面には、
昔からそこにある、名も知らない精肉店が、開店準備をしていた…。
交差点の信号が青だったので、
彼は相変わらずの最高速度、50km/hで進入しようとしていた。
しかし手前で、歩道の信号が点滅から赤に変わるのが見えて、
彼はそこからの間隔を読んで止まるべきだと判断し、
効きの甘くなったブレーキを早めに踏んだ。
その瞬間。
スコーン!
「わ! 思いっきり抜けおった!」
「なにがぃね!?」
「ブレーキが!」
「え、あ、どうすんのっ!?」
彼は瞬時に考えた。
前に車はいない。
このままハンドル握ってブレーキ踏んでたって、どうしようもない。
何かしないと、正面の精肉店に突っ込むだけだ。
側壁にこすってむりやり止まる?
いや、減速するほどの距離は残されていない。
黄色に変わる信号の下、彼は右の歩道を見た。
歩行者はいない。
ええいままよ。
「うぉぉぉりゃぁ!」
「いやーっ!」
彼は減速しない状態のまま、彼はハンドルを右に傾けつつ、
信号が赤に変わったばかりの交差点に突入した。
歩行者が完全にいないことを瞬時に見てとった彼は、
あとは母親の悲鳴の中、
車の左側面が精肉店に突っ込まないことだけを意識して、
ハンドルを思いっきり右に切り回しつつ、左側を見ていた。
キュルルルルッ!
タイヤはものすごい音を立てていた。
彼と母親の身体は、左側にぐぅぃーんと引っ張られた。
カウンター棚の奥で、精肉店のおっかさんの目が、
驚愕、恐怖、そんな感情をさらけ出して見開かれていた。
おっかさんから見ても、彼の形相もまた凄まじかったに違いない。
進路を確保したところで、彼は一発アクセルを踏んだ。
車は交差点を後にして、緩やかな坂を登り始めた。
後は惰性のまま、彼はしばらく、ハンドルを握っているだけだった。
何も起きなかった。
誰も殺さなかった。
自分たちも、死ななかった。
「……」
「……」
「…、ふぉぉぉ…」
彼は大きく息をはいた。
「あんた、大丈夫かいね?」
「いやぁ、死ぬってより、あの肉屋、殺したかと思ったよ…」
「よく曲がれたわね…」
「で、どうするよこれ?
もう、惰性で進んでるだけで、ブレーキ効かないし、
止まれるとこで止まったほうがいい状態なんだけど」
「そのカーブの先に、三浦さんがあるのよ」
「じゃ、そこぐらいで止まるように行くべ」
緩やかな登り坂なのも、ついていた。
後は惰性のまま三浦自動車の位置を見て、
速度が死んでいたら、サイドブレーキ引くなり、
ギアを「P」にむりやり入れるなり、を考えていた。
…前者かな。
左カーブを緩やかに曲がってから、
道の反対側に自動車屋が見えてきた。
坂の傾斜のおかげで、速度はどんどん落ちている。
ハザードをたいて後続を行かせながら、
彼は三浦自動車との距離感を測り、
サイドブレーキに手をやった。
「あっ!」
「どうしたの!?」
「サイドブレーキ、引きっぱなしで走ってたんだわ…」
「あんた、いい加減にしてよぉ、
ほんと死ぬかと思ったんだから…」
「…わりぃ、どうりでずっと50km/hしか出ないワケだ…」
三浦自動車の向かいあたりで、
彼らの車の速度は限りなくゼロになった。
彼はおもむろにギアをパーキングに入れ、すぐにエンジンを切った。
母親は道を渡って、係を呼びに行った。
店の人に事情を説明した結果、
母親は会社まで送ってもらえることになった。
修理も、夕方には仕上がりそうだという見積もり。
「おぉぉ、助かった」
「なにがよ」
「いや、あさってから、友だちが来るからさ、
この車使えないと困るんだ」
「あんたぁ、違う心配しなさいって…。
そんなんだったら、直ったって運転させないわよ」
「はは…大丈夫だって、もう」
母親が店員に送ってもらうのを見届けてから、
彼は実家へ戻るべく、バス停へ歩いていった。
この朝、とにかく彼は命を拾った。
いくつもの命を拾った。
逆に言えば、運転の限界点も知ってしまった。
限界は思ったより遠い、というこをだ。
冷静さを失わなければ、極限でも車は計算した通りに曲がる。
だから、自分ではまだまだ大丈夫と判断したシーンで、
同乗者たちをビビらせる、ということは確実に増えてしまった。
前日、八王子から房総半島の実家へMTBで帰ってきた彼は、
移動手段として、母親の車を借りる約束をしていた。
数日後には、サークルの友人たちが20人ほど、
彼の実家へ泊まりがけで遊びにも来る約束で、車が必要だった。
借りるかわりに、朝と夕方、母親の通勤送迎をしなければならない。
親父は定年後の第二就職が車まわりの営業職ゆえ、
そっちを借りるわけにはいかない。
長旅の眠い目をこすりながら、彼は助手席に母親を乗せ、
隣町のはずれに移転した母親の勤務先へ出発した。
「あんた、ずいぶん安全運転なのねぇ、
もっとスピード出しても平気なのよ」
「わかってるよそんなの」
わかっちゃいるが、アクセルを踏み込んでるわりには、
黄色いホンダ・トゥデイは50km/hくらいしか出ない。
車の方が、いい加減ポンコツなんじゃねぇか?
それに、たいした腕前でもないオフクロに、
車の運転のことでとやかく言われるとは心外だ。
1987年11月。
中学3年だった彼は、学校が終わって帰宅していた。
勤務先から車で帰宅した母親は、戻るなり、
書道の習い事で出かけている祖母を迎えに、
再び車で出かけていった。
彼は学ラン姿のままニュースを観ながら、
ひとりで晩飯を食べていた。
しばらくして、玄関から母親の悲鳴が聞こえてきた。
「ちょっと、ちょっと来て〜っ!」
「どうしたん?」
「車が、車がおっこっちゃった」
「は?」
彼は手招きされるままに靴を履いて外に出た。
小走りに駐車場を出て小道を曲がったところで、
彼の目に信じられない光景が飛び込んできた。
とっくに陽の落ちた闇の向こうに、
車のテールランプが赤く光っていた。
いや、ふつうならこっちを向いて光っているべきだが、
ランプは、上空を指して光っていた。
小道は田んぼ脇の路地にまっすぐぶつかってT字路になっている。
すなわち、車は正面から、田んぼに“おっこちて”いたのだ。
「まじで? ここで落ちるなんて、ありえねーべ」
「違うのよ、ここ垣根があって、右に曲がるの難しいんだから…」
「いやいや、止まってから曲がるんだよ。
ここ、まっすぐなんだもの、ブレーキ踏むだけじゃん…」
こうしたとき、まず言い訳から入って、
自分の非を認めない母親の口ぶりには慣れている。
さて、とにかく、こいつをどうしたものか…。
彼は靴と靴下を脱ぎ、学ランのズボンの裾をまくった。
さいわい季節柄、稲は刈り取られていたので、
農家に対して被害を与えたわけでないのは幸い。
しかし、田んぼは、充分過ぎるほどぬかるんでいた。
彼は田んぼに降りて、足場に気をつけながら、
前輪付近の具合を確認してみた。
ちょっと浮いてしまっているが、押さえながら押し上げれば、
タイヤは土手の地面をかんでくれそうに見えた。
と簡単に言うが、押し上げることができるんだろうか?
クソ力を持つ親父がいれば、2人がかりでわけもないだろうが、
親父は単身赴任中で、ここにはいない。
「じゃ、前から押すからさ、
バックでアクセル踏んでくれる?」
「わかった」
母親は車に乗り込もうとした。
「ちょ、ちょっと待った!」
「何よ」
彼は、慌てて田んぼから上がり、運転席を覗き込んだ。
「バックにちゃんと入れるか、確認してやる」
「何よ、そんなのちゃんと操作できるわよ」
「よく言うよ…」
ちゃんと操作できなかったから、
この車は今、ありえない姿になってんじゃねーか…。
だいたい、パニック状態の母親の車に生徒会長が轢かれて即死なんて、
こんな狭い田舎町では、死ぬ方も生き残る方も、シャレにならん。
念には念をってわけだ。
彼は自分の手でバックギアに入れてから、車の正面に戻った。
「じゃ、押すから、アクセル踏んでみて」
キュルルルッ!
タイヤは泥をはねて空転していた。
彼は、自分の体重をボンネットにかけて押し込んだ。
ギュッ!
「お」
要領がわかった彼は、体重をかけて押し込みながら、
なんとか固い土手にタイヤが触れるよう、
モモで、自分の体重ごと、車を押してみた。
ギュルッ。
「おし、そのまま踏んで」
地面を車が捉えた感触があった。
がっこん。
車は、下をしこたまこすりながらも、
地上階に戻っていった。
「ふぅ…」
「ありがとう、助かったわぁ」
「洗うのは後で、とりあえず迎えに行ってきな」
母親が慎重に右折するのを見届けた彼は、
裸足のまま小道を歩き、泥だらけのまま自宅へ帰っていった。
相変わらずスピードの出ないトゥデイを操りながら、
彼は海岸通りに出た。
ここをひたすら北上し、また船形という地区での市街地に少し入ってから、
隣町もまっすぐ北へ突き抜けてその先、もうひとつ先の町との境ぐらいに、
母親が長年勤める会社のオフィスはある。
余裕を持って出発したのに、全然スピードが出ないので、
遅刻しそうだと母親は焦っていた。
「いや、この車、おかしくね?
ベタ踏みなのに、50km/hしか出ないんだぜ?」
「どうしたんかねぇ」
このとき、海岸通りをひたすらまっすぐのルートで、
角を曲がらずブレーキも必要のない快適な直進走行だったおかげで、
彼は何の異変なのかまったくわからずに行くことができた。
沿道にちょっと止めて確認しようにも、
素人にはエンジンの調子なんか、わかりっこないし。
「そしたらあんた、帰りに、
車買ったところに寄って点検してもらってくれない?」
「わかった、場所教えて」
「これから通るから、ここって、教えるわ」
平群川という大きな川の河口にかかる橋も過ぎた辺りで、
彼はブレーキの効きがイマイチ遅いことに気づいた。
気づきつつも、先を急ぐのでそのまま進んだ。
船形の市街地に入って、曲がるべき角やカーブが増えてきたところで、
その症状はさらにひどくなっていることに彼は不安を覚えた。
「あれ、なんかブレーキの効き、おかしくね?」
「そうかぇ?」
という会話をふたりで交わしたとき、
進路の先には、右に90度曲がるべき、交差点が近づいていた。
いちおう十字の交差点だが、
太い街道は彼らが来た道と、これから右折していく彼らの進路だけで、
直進方向と左折はいわゆる「私道」ともいうべき細い道だ。
正面の私道は少し左に寄っていて、彼らから見て交差点の真正面には、
昔からそこにある、名も知らない精肉店が、開店準備をしていた…。
交差点の信号が青だったので、
彼は相変わらずの最高速度、50km/hで進入しようとしていた。
しかし手前で、歩道の信号が点滅から赤に変わるのが見えて、
彼はそこからの間隔を読んで止まるべきだと判断し、
効きの甘くなったブレーキを早めに踏んだ。
その瞬間。
スコーン!
「わ! 思いっきり抜けおった!」
「なにがぃね!?」
「ブレーキが!」
「え、あ、どうすんのっ!?」
彼は瞬時に考えた。
前に車はいない。
このままハンドル握ってブレーキ踏んでたって、どうしようもない。
何かしないと、正面の精肉店に突っ込むだけだ。
側壁にこすってむりやり止まる?
いや、減速するほどの距離は残されていない。
黄色に変わる信号の下、彼は右の歩道を見た。
歩行者はいない。
ええいままよ。
「うぉぉぉりゃぁ!」
「いやーっ!」
彼は減速しない状態のまま、彼はハンドルを右に傾けつつ、
信号が赤に変わったばかりの交差点に突入した。
歩行者が完全にいないことを瞬時に見てとった彼は、
あとは母親の悲鳴の中、
車の左側面が精肉店に突っ込まないことだけを意識して、
ハンドルを思いっきり右に切り回しつつ、左側を見ていた。
キュルルルルッ!
タイヤはものすごい音を立てていた。
彼と母親の身体は、左側にぐぅぃーんと引っ張られた。
カウンター棚の奥で、精肉店のおっかさんの目が、
驚愕、恐怖、そんな感情をさらけ出して見開かれていた。
おっかさんから見ても、彼の形相もまた凄まじかったに違いない。
進路を確保したところで、彼は一発アクセルを踏んだ。
車は交差点を後にして、緩やかな坂を登り始めた。
後は惰性のまま、彼はしばらく、ハンドルを握っているだけだった。
何も起きなかった。
誰も殺さなかった。
自分たちも、死ななかった。
「……」
「……」
「…、ふぉぉぉ…」
彼は大きく息をはいた。
「あんた、大丈夫かいね?」
「いやぁ、死ぬってより、あの肉屋、殺したかと思ったよ…」
「よく曲がれたわね…」
「で、どうするよこれ?
もう、惰性で進んでるだけで、ブレーキ効かないし、
止まれるとこで止まったほうがいい状態なんだけど」
「そのカーブの先に、三浦さんがあるのよ」
「じゃ、そこぐらいで止まるように行くべ」
緩やかな登り坂なのも、ついていた。
後は惰性のまま三浦自動車の位置を見て、
速度が死んでいたら、サイドブレーキ引くなり、
ギアを「P」にむりやり入れるなり、を考えていた。
…前者かな。
左カーブを緩やかに曲がってから、
道の反対側に自動車屋が見えてきた。
坂の傾斜のおかげで、速度はどんどん落ちている。
ハザードをたいて後続を行かせながら、
彼は三浦自動車との距離感を測り、
サイドブレーキに手をやった。
「あっ!」
「どうしたの!?」
「サイドブレーキ、引きっぱなしで走ってたんだわ…」
「あんた、いい加減にしてよぉ、
ほんと死ぬかと思ったんだから…」
「…わりぃ、どうりでずっと50km/hしか出ないワケだ…」
三浦自動車の向かいあたりで、
彼らの車の速度は限りなくゼロになった。
彼はおもむろにギアをパーキングに入れ、すぐにエンジンを切った。
母親は道を渡って、係を呼びに行った。
店の人に事情を説明した結果、
母親は会社まで送ってもらえることになった。
修理も、夕方には仕上がりそうだという見積もり。
「おぉぉ、助かった」
「なにがよ」
「いや、あさってから、友だちが来るからさ、
この車使えないと困るんだ」
「あんたぁ、違う心配しなさいって…。
そんなんだったら、直ったって運転させないわよ」
「はは…大丈夫だって、もう」
母親が店員に送ってもらうのを見届けてから、
彼は実家へ戻るべく、バス停へ歩いていった。
この朝、とにかく彼は命を拾った。
いくつもの命を拾った。
逆に言えば、運転の限界点も知ってしまった。
限界は思ったより遠い、というこをだ。
冷静さを失わなければ、極限でも車は計算した通りに曲がる。
だから、自分ではまだまだ大丈夫と判断したシーンで、
同乗者たちをビビらせる、ということは確実に増えてしまった。
