ミッドタウン小事件
2007年6月。
U1とU3の披露宴があった土曜夜から、彼は発熱した。
日曜にゆっくり養生したが快復せず、
月曜も会社を休んで寝た切り。
坐薬の在庫を使い、熱を下げようと頑張ってみた。
たが、坐薬というのは、
効くときは体温を35℃フラットまで無駄に下げるが、
5、6時間ほどで切れると、
結局は39℃まで一気にぶり返したりする。
下痢の症状もあり、挿した坐薬の効果を、
最大限発揮できていないのかもしれない。
月曜の夜に祈りとともに挿した坐薬が、
自宅にある在庫の最後だった。
それでも治らない。
火曜朝。
目覚めてすぐ検温。
まだ熱は37℃台後半だったが、
このままズルズル休める状態でもない。
病院へ行き薬をもらった彼は、会社に向かった。
頭痛、めまい、吐き気。
熱から来ると思われる、悪寒と節々の痛み。
それでも、やるべきことはやるしかない。
下痢は、ここ2、3週間、ずっと続いていた。
最近は下痢と連携して、
昼夜問わずどんどんガスが溜まり、
出しても出しても屁が出る。
ある瞬間、お腹のグルグル感が高まると、
耐えきれずトイレに急行。
そんなことを夜通し繰り返し、
ベッドでの腹痛、放屁と、トイレでの力みの往復で、
なかなか眠れない夜もある彼だった。
昼ごろ、ぱぴがいつものようにランチへ誘いに来た。
ランチぐらいしっかり時間を確保して、
メンバーとコミュニケーションをとっておくのも重要。
一度はそう思ってデスクを立った彼だったが、
エレベーターを降りつつあるそばから、
めまいと吐き気がひどくなった。
結局セキュリティゲートを越えることなく、
彼だけランチを辞して自分のデスクへ戻った。
ランチに出なかった分、少しは仕事もはかどった。
もうひとつメリット。
最近の彼はランチに出ると、
直後に下痢をもよおすことが多いが、
そのタイムロスも、結果的には防いだことにはなる。
今日はたぶん、やばい日だ。
まぁもともと、便意をもよおしてはガマンしがちな彼には、
今に始まった話ではないのだが。
オフィスの後輩たちが半オープンの隠語で始めた、
彼の苗字を冠した「tko」という単位がある。
「0.9tko」は“もう充分もよおしてる”、
「0.99tko」は“やばい、すべてに優先しないと漏れそう”、
「1tko」は、“やっちゃった”、ということになるそうだ。
オトナをつかまえて、失礼な後輩どもだ。
それにしても。
やっちゃったら後は変わらないので、
「1.1tko」とかの状態はないだろうが、
「2.0tko」は“2回分収納中”ってことになるんだろうか。
生まれたてのベイベーでも、めったにない話だ。
中には自分が体調不良のときに、
「0.9tko」とサインを出している後輩までいる。
キミの便意に、彼は関係ないだろうが。
まったく、失礼な後輩どもだ。
そういいつつ、いつしか自分自身も、
便利にその単位を使うようになっていた彼だった。
不浄なワードを口にしなくても、席を外すときに
「0.95tko」と表現するだけで、わかる人にはわかるし、
知る必要がない人を不愉快にすることもない。
これは便利だ。
ランチから、メンバーがパラパラと戻って来た。
オフィスは、また元の賑やかさを取り戻していた。
ちぃちゃんと、業務のメッセンジャーから、
流れで余談に触れていた彼は、
ふと、屁をもよおした。
以前は、ちぃちゃんとは背中合わせで、
放屁もままならず我慢するか、
我慢し切れずやってしまって、
「ハラスメントです!」
と明確なクレームを受けていた彼は、
そのせいなのか、今では背後にも左右にも、
誰も座らないデスク配置になっていた。
はばかることなく屁をこいた、というよりは、
もよおしたものが、もよおしたまま出た、
遮る間もなく勝手に出た、というスピード感だった。
にゅぴっ。
「えっ!」
自席で思わず声をあげた彼には、手応えがあった。
この感触…、ララァ・スン?。
いや、スン止めできなかった感触。
なんだ、この温かさは…?
屁じゃねぇものが、出たような。
これが「1tko」というやつなのか…。
ニオイは、まだ来ない。
信じたくない。
こんな場所で、こんな時間帯に、こんな歳のやつが…。
ありえない。
いくら、コントロール利かないほど体調が悪いとはいえ…。
だがこの際、
最悪のケースを想定して対処しなければ。
今日の装備は、ボクサーパンツとジーンズ。
パンツは直撃で逝ったかな…。
まだわからない、何もなかったかもしれないし。
ジーンズは、ここでは確かめられない。
いや、呑気に確かめている暇があったら、
ニオイの元であるかもしれない彼自身を、
一刻も早く、このフロアから排除すべきだ。
メッセのやりとりも放り出し、
穏やかながら最低限の所作で彼は席を立った。
彼が廊下へ出るには、
彼の部下が左右に展開するシマの通路を、
突っ切らなくてはならない。
気づかれないように出て行くのは、
彼自身のためでもあるし、
部下たちのためでもあった。
覚悟を決めて、彼は歩を踏み出した。
その1歩めの足の運びで、お尻のワレメの間に、
うまくボクサーパンツを挟み上げ、
ジーンズとの間に確実なスペースを生み出した。
まずはこの空間こそが、
ジーンズにとっては防護壁なのだ。
彼は活やく筋に力を込め、
パンツの底部をお尻の隙間に閉じ込め、圧迫した。
空間は、ジーンズにとってはありがたい壁だが、
パンツにとってはむしろ、脅威でしかない。
接していては、ニオイが漏れてしまう。
ぎこちない歩みで、彼は部下のシマを抜け、
フロアの廊下から、フロア外の通路に出た。
振り返る余裕も勇気もなかった。
怪訝そうな表情のメンバーは…、いなかったはずだ。
通路から、すぐ向かいにあるトイレに入った。
クランクを抜けて、個室が並ぶエリアに入ると、
個室のドアはすべて、閉まっていた。
(むぅ…、下のフロアか…)
彼の前を、ツカサがすれ違って出て行った。
彼はいったん個室の前を通過し、
いずれかのドアが開いて、
誰か出てきてくれる気配を探ったが、ダメだったので、
反対側の出口から、反対側の通路へ出た。
あえて反対側に出たのは、
すぐ引き返したら、ツカサと針路がかぶるから。
かぶったらニオイを察知されかねないから。
そんな彼にも、まだニオイは感知できていないのだが。
お尻の中央に、ぬるい、ぬめる、
何かの存在は確かに感じていた。
非常階段のブロックへ入った彼は、
いよいよ誰もいないエリアになったので、
余裕でケツ締めに集中し、ぶざまな歩き方になった。
瞬間。
非常階段ブロックの、反対側の通路からのドアが開いた。
ツカサだった。
「あ…」
「ですよねぇ」
ツカサは笑いながら接近してきた。
ふたりの間に、非常階段があるからだが、
微笑み返した彼の笑顔の思惑は、
ツカサとはぜんぜん別のところにあった。
気づかれてない、気づかれる心配もない。
ふたりともトイレにあぶれて、
他フロアのトイレに行こうとしている気恥ずかしさに、
はにかみながら意識をとられているツカサの状況を、
彼は、素直に歓迎した。
非常階段でツカサに先を譲り、
彼は自身が発している(かもしれない)ニオイを、
ツカサに気取られないようにした。
ひとつ下のフロアのトイレも混んでいたが、
ちょうど2つ、個室のドアが開いていた。
ツカサがいちばん奥の個室に入り、
彼はすぐ隣の個室に続いた。
(ふぅ……)
個室に収まってようやく、彼の緊張が解けた。
緊張しているのはケツ筋だけ。
脱いで座るまでは、油断できない。
彼はベルトを解き、ジーンズのジッパーを下げた。
両腰の隙間に親指を差し込み、
ケツ筋は力んでパンツを噛んだまま、
ジーンズを膝まで下げてみた。
…わからん。
何もわからん。
続けて、彼はパンツを下ろしてみた。
ヌルッと肌から滑り落ちていく感触があった。
ある種の確信と、失望感とともに、
彼は視線を下へ向けた。
(うわぁ…)
見事に。
グレーのボクサーパンツの中央に、シミができていた。
キツく締めていたがゆえに、
左右対称でバタフライっぽくプリントされていた。
その面積の分だけ、彼のケツもやられてるって訳ね。
もはや疑念はグレーから“クロ”に変わった。
動かぬ事実は、どうしようもない。
ミッドタウンでやっちゃった奴って、初なんだろうな…。
パンツがどこにも触れないよう注意しながら、
彼は、とにかく便座に腰を下ろし、
ガマンしていた続きを処理し始めた。
お腹はグルグルと鳴り、痛い。
ジーンズは、どうやら無事なようだ。
見かけ上、シミの類は見当たらなかった。
ニオイを確認するのは…、やめておいた。
何はともあれ、彼はパンツのおかげで、
大勢のスタッフの前で脱糞に気づかれるという失態を、
犯さずに済んだのだ。
もしやっちゃってたら、発狂してたんじゃないだろうか。
パンツを手に振り回して、誰かにタックルされるまで、
笑いながらフロアを1周くらいはしたんじゃないだろうか。
少し落ち着いてから、彼は靴を脱ぎ、ジーンズを脱ぎ、
汚れたパンツを足から抜き取り、
個室の隅の方にポトリと落とした。
(さて、どうするかな…)
用を足したら、ノーパンにジーンズでデスクへ戻るのか。
さすがに今日のコンディションでは、それはできない。
もはや油断はできない。
今の体調では、
いつ、その“余震”が起こっても、おかしくはない。
ノーパンで同じことをやってしまったら、
直撃ジーンズで、どうにもごまかしようがない。
このまま帰っちまうか…。
まず、彼はちぃちゃんへメールを打っておくことにした。
仕事の話そのものが、途中だった。
「雑談を振っておいて、消えてごめん。
体調急変で、帰るかも」
そして…。
改めて彼は、今日自分がこのまま帰ることを想像した。
さっき、屁をしようと思ってしたのではなく、
突然こみ下げて来て、突然出ていったのだ。
出てみたら、屁じゃなかったのだ。
帰りの電車で、同じことが起こったら?
その前、六本木の街で、ビルのロビーで、
エレベーターで、廊下で、起こったら?
結局、緩衝材たるパンツがない限り、
彼がこの部屋から出るのは、
リスキーな状態じゃないのか?
ジーンズという薄皮1枚の向こうは、
いきなり危険な宇宙空間。
漏れたら、漏れそうなものを再度漏らしたら、即死。
そんなイメージが、彼の脳内を占拠し始めた。
(でっきーん!
この個室から、このままでは出られん!
むぅ……)
同時にわかってきたことで、
彼は絶望的な気持ちになってきた。
誰かにパンツを買ってきてもらうしかない。
すなわち、この状態を、彼が自ら、
誰かに告げなければならないのだ。
何も起きていないのに、
パンツを買ってトイレに届けて欲しい、
なんてことには通常、ならない。
「用を足そうとしたら、
パンツが便器に落ちちゃってさぁ、ははは」
ありえない。
言い訳の余地がない。
暴発覚悟でノーパンのまま出て行くか、
恥を忍んで誰かに頼むか。
この二択。
どちらも、彼にしてみれば若干、
今後の社員生命に影響を与える。
大丈夫かもしれないけど、うっかり、万が一、
漏れたジーンズの現場を押さえられるくらいなら、
確実にパンツ購入のウワサはされたとしても、
実際を見られない後者を選ぶ方が、
彼にとってはマシだ。
後は、誰に頼むか…。
さっきの、ちぃちゃん宛メールでは、
この現状には触れなかったし、
整理されつつあるお願い事項も追記しなかった。
当たり前だ。
彼だって、その辺のエチケットはわきまえてるバッチコーイ。
ぱぴが、いちばんうまく、さり気なく、
やってのけてくれそうなんだがな…。
こんなくだらないこと、他のチームのやつには、
お願いするのもはばかられる。
ラッシー、シミッチ、ごっつ、あたりですか。
ふぅむ…。
決心した彼は、ケータイでメールを打ち始めた。
★
『業務外のお願い』
ラッシーへ。
ラッシーが今、会議中なら、それを教えてください。
他をあたります。
ラッシー、ごっつ、シミッチ、
いずれか1名に、お願いです。
ぜんぜん業務と関係ありません。
●●の体調不良が高じて、
ちょっとしたアクシデントが発生しました。
3人の中で、至急対応可能な人は、
申し訳ないが立候補してください。
業務外、かつ恥ずかしいと思うので、
ランチ1回ごちそうします。
今、ひとつ下「17F」トイレの、
Sバンク側から数えて2番めの個室にいます。
訳あって、出られません。
訳あって、コンビニで、
パンツを買ってきて欲しいです。
サイズがあるならMサイズ、
形を選べるならボクサーパンツ。
色、柄は問いません。
買ってきたら、
オレらのひとつ下の階「17F」の、
オレらのフロアからは遠い端から「2番め」の個室に来て、
ドアを1回、軽くノックしてください。
返事で3回叩きます。
それが●●です。
確認できたら、
下の隙間からパンツを差し入れてもらうと、
非常に助かります。
できたら、
誰も小便器にいないタイミングをはかってくれると、
なお、ありがたいです。
以上、尊厳を超えてお願いします。
★
他の条件にドロップしない、
誰が担ったとしても質問も起きない、
個室の隣人にも気づかれなそうな、
的確な業務フローを組めた。
案外、冷静じゃねーか。
送信してから、個室の静寂の中、
ブリブリという音と過ごす時間が、
しばらく続いた。
隣のツカサは、とっくに気配が消えていた。
掃除のおばちゃんが、空室を掃除して回っている気配がする。
ケータイがブルった。
ラッシーのメールだった。
「行きます。
とりあえず、オレが買ってきます」
ふむ…。
この様子だと、ジャンケンとかをすることもなく、
ラッシーは誰ともメール内容を共有せずに、
席を立ったようだな。
しかし、無言ではなく、読んだ瞬間に
「えぇ!?」
ぐらいの反応は漏らして周囲に気づかれたのでは?
というラッシーらしい心境と反応が、文面から読める。
まぁ、彼が漏らしたものに比べたら、
ぜんぜん問題ないけどね。
ほどなく、トイレの通路に、
コンビニ袋の音が響いて来た。
意外と速いものだな…。
ドア下の隙間から見える石調の床に、
コンビニ袋の人影が映ってきた。
存在を示して反応を見るために、
わざとコンビニ袋の音を立てているようだ。
間違えないようにと、
ラッシーは奥から2番めのトイレ、17F、
といったことを反芻しているように思われる。
彼はドアに手を伸ばし、用意した。
コン。
遠慮がちに、ラッシーがノックしたのは、
間違いなく、彼の個室だった。
コンコン。
しまった、3発返事すると書いたのに、
自分が間違えてるじゃねーか。
2発では、
「入ってますかー」
「えぇ、入ってますよー」
で他人との間に会話が成り立ってしまい、
そこにパンツを差し入れたら事故なので、
あえて3発に設定したのだった。
やはり、ラッシーは悩んだのか、
躊躇して固まっていた。
コン、コンコン…。
慌ててもう1発、しかし通じなそうなので、
2発追加して今回だけで3発。
想定外のノック数に、
ラッシーがさらに動揺する気配を彼は感じていたが、
(えーい、たぶんここだろう!
大丈夫だ、ということにしておこう)
ぐらいの、
ラッシーらしい思い切りのよさとといい加減さで、
コンビニ袋を下から差し込んできた。
彼はすみやかにそれを拾い上げ、
中の人が間違いなくラッシーの上司であることを、
ラッシーに指し示した。
(お、合ってた)
ぐらいの軽さで、ラッシーは去っていった。
ふぅ…。
とにかく、彼はNewパンツを手に入れた。
さっそく開けて、まずはNewパンツを小棚に置いた。
この空き袋が、ゴミパンツを捨てる袋になるわけだ。
彼はパンツが入っていた袋にゴミパンツを入れ、
袋の口のシールを貼りなおすと、
さらにコンビニ袋に入れて、しばった。
後はこいつを捨てて、何もなかった顔をするだけだ。
腹調も復調してきたので、彼はオシリを念入りに洗い、
念入りに拭いて、Newパンツを履いた。
これで、とりあえずデスクには戻れる…。
今日は早退しよ。
入り口の方から、がさがさと袋がすれる音がしてきた。
ラッシー…、ではなさそうだ。
掃除のおばちゃんか。
む。
おばちゃんが止まった。
彼の部屋を確認しているらしい。
そうか、さっき一通り掃除が終わって、
後は彼の個室だけなのか?
おばちゃんは、ちょっと間をあけてはいるが、
彼の個室からすぐの場所に立ち止まっている。
お願いだ、1回、はずしてくれないかな?
でないと、この袋を手に、出て行きにくいじゃないか…。
おばちゃんの気配が、離れていくのがわかった。
今だ。
彼はセンサーに手をかざして水を流し、
袋を手にとってドアを開けた。
廊下へ出ようとしたら、手洗い場におばちゃんがいて、
彼の出たのに気づいて振り返った。
おばちゃん、まじで彼が出てくるのを待ってた感じ。
彼はとっさに、反対の通路へ出ようと身を翻した。
おばちゃんの視線は、彼が荷物を持って出てきたという、
その手許に注がれていた。
むぅ…。
まぁ中身が何なのかは、あまり想像できないだろうけど、
袋も、彼の所作も、あまりに不自然すぎるわけで。
そんな袋を彼が捨てたら、片付けるのは、このおばちゃんだ。
おばちゃん、ごめん、そしてよろしく。
反対側の手洗い場に来て、彼は気づいた。
トイレに、ゴミ箱が、ない…。
これ、執務エリアへ持って帰らないといけないのか?
いやだな…。
廊下に出たところで、
彼はトイレの向かいに給湯室があるのを見て思い出し、
入っていった。
ここには、ゴミ箱があるよね。
ゴミパンツを捨てることを想定して設置されてるものではないが。
“もやすゴミ”と書かれた箱へ、彼は袋を放り投げ、
足早に、自分のフロアへ帰っていった。
フロアへ戻ったら、ちぃちゃんがデスクから顔を上げた。
「あれ、いた」
「ん?」
「メール来たから、帰ったのかなと」
「あぁ…ちょっとね。でも、早く帰らせてもらうわ」
残務を手早く片付けたところで、結局定時ごろになった。
帰り支度をして、廊下に出たところで、
ラッシーに出くわした。
「……」
「………」
今にも、うす笑いが飛び出しそうなのをこらえているラッシー。
「そうやって、心の中でバカにするがいいですよ」
「いやいやいや…」
「……」
「ちょっとだけです」
「む」
「いえいえ、うそです」
「で、メールが届いたとき、ごっつたちに話したんか」
「いえ」
「ふーん」
「でも内容を見て、声出しちゃって、みんなこっち見ました」
「な」
「そりゃー、ねぇ…」
「パンツ代、明日でいい? 万券しかないんだ今」
「はぁそりゃぁ…いくらか忘れました」
「覚えてる。650円」
彼は、今日起こったことをすべて忘れたく、家路に着いた。
忘れたかったその日の1.0tko事件も、
同じ週の金曜朝の通勤の東横線において、
彼はラッシュの中で“2.0tko”めを犯し、
家に引き返してスーツを着替える体たらくだった…。
それから、6月が半ばに差し掛かってもずっと、
彼のお腹は変調が続いていた。
食っても食ってもすぐ出る。
おかげで食欲は失せ、かなり痩せた。
もう出すものはほとんどないはずなのに、
ランチの後にはすぐお腹を壊す。
そして、毎度、やばい。
そろそろ、イヤーウィスパーでも、
オシリの穴に挿しておくかと、真剣に考えている彼だった。
U1とU3の披露宴があった土曜夜から、彼は発熱した。
日曜にゆっくり養生したが快復せず、
月曜も会社を休んで寝た切り。
坐薬の在庫を使い、熱を下げようと頑張ってみた。
たが、坐薬というのは、
効くときは体温を35℃フラットまで無駄に下げるが、
5、6時間ほどで切れると、
結局は39℃まで一気にぶり返したりする。
下痢の症状もあり、挿した坐薬の効果を、
最大限発揮できていないのかもしれない。
月曜の夜に祈りとともに挿した坐薬が、
自宅にある在庫の最後だった。
それでも治らない。
火曜朝。
目覚めてすぐ検温。
まだ熱は37℃台後半だったが、
このままズルズル休める状態でもない。
病院へ行き薬をもらった彼は、会社に向かった。
頭痛、めまい、吐き気。
熱から来ると思われる、悪寒と節々の痛み。
それでも、やるべきことはやるしかない。
下痢は、ここ2、3週間、ずっと続いていた。
最近は下痢と連携して、
昼夜問わずどんどんガスが溜まり、
出しても出しても屁が出る。
ある瞬間、お腹のグルグル感が高まると、
耐えきれずトイレに急行。
そんなことを夜通し繰り返し、
ベッドでの腹痛、放屁と、トイレでの力みの往復で、
なかなか眠れない夜もある彼だった。
昼ごろ、ぱぴがいつものようにランチへ誘いに来た。
ランチぐらいしっかり時間を確保して、
メンバーとコミュニケーションをとっておくのも重要。
一度はそう思ってデスクを立った彼だったが、
エレベーターを降りつつあるそばから、
めまいと吐き気がひどくなった。
結局セキュリティゲートを越えることなく、
彼だけランチを辞して自分のデスクへ戻った。
ランチに出なかった分、少しは仕事もはかどった。
もうひとつメリット。
最近の彼はランチに出ると、
直後に下痢をもよおすことが多いが、
そのタイムロスも、結果的には防いだことにはなる。
今日はたぶん、やばい日だ。
まぁもともと、便意をもよおしてはガマンしがちな彼には、
今に始まった話ではないのだが。
オフィスの後輩たちが半オープンの隠語で始めた、
彼の苗字を冠した「tko」という単位がある。
「0.9tko」は“もう充分もよおしてる”、
「0.99tko」は“やばい、すべてに優先しないと漏れそう”、
「1tko」は、“やっちゃった”、ということになるそうだ。
オトナをつかまえて、失礼な後輩どもだ。
それにしても。
やっちゃったら後は変わらないので、
「1.1tko」とかの状態はないだろうが、
「2.0tko」は“2回分収納中”ってことになるんだろうか。
生まれたてのベイベーでも、めったにない話だ。
中には自分が体調不良のときに、
「0.9tko」とサインを出している後輩までいる。
キミの便意に、彼は関係ないだろうが。
まったく、失礼な後輩どもだ。
そういいつつ、いつしか自分自身も、
便利にその単位を使うようになっていた彼だった。
不浄なワードを口にしなくても、席を外すときに
「0.95tko」と表現するだけで、わかる人にはわかるし、
知る必要がない人を不愉快にすることもない。
これは便利だ。
ランチから、メンバーがパラパラと戻って来た。
オフィスは、また元の賑やかさを取り戻していた。
ちぃちゃんと、業務のメッセンジャーから、
流れで余談に触れていた彼は、
ふと、屁をもよおした。
以前は、ちぃちゃんとは背中合わせで、
放屁もままならず我慢するか、
我慢し切れずやってしまって、
「ハラスメントです!」
と明確なクレームを受けていた彼は、
そのせいなのか、今では背後にも左右にも、
誰も座らないデスク配置になっていた。
はばかることなく屁をこいた、というよりは、
もよおしたものが、もよおしたまま出た、
遮る間もなく勝手に出た、というスピード感だった。
にゅぴっ。
「えっ!」
自席で思わず声をあげた彼には、手応えがあった。
この感触…、ララァ・スン?。
いや、スン止めできなかった感触。
なんだ、この温かさは…?
屁じゃねぇものが、出たような。
これが「1tko」というやつなのか…。
ニオイは、まだ来ない。
信じたくない。
こんな場所で、こんな時間帯に、こんな歳のやつが…。
ありえない。
いくら、コントロール利かないほど体調が悪いとはいえ…。
だがこの際、
最悪のケースを想定して対処しなければ。
今日の装備は、ボクサーパンツとジーンズ。
パンツは直撃で逝ったかな…。
まだわからない、何もなかったかもしれないし。
ジーンズは、ここでは確かめられない。
いや、呑気に確かめている暇があったら、
ニオイの元であるかもしれない彼自身を、
一刻も早く、このフロアから排除すべきだ。
メッセのやりとりも放り出し、
穏やかながら最低限の所作で彼は席を立った。
彼が廊下へ出るには、
彼の部下が左右に展開するシマの通路を、
突っ切らなくてはならない。
気づかれないように出て行くのは、
彼自身のためでもあるし、
部下たちのためでもあった。
覚悟を決めて、彼は歩を踏み出した。
その1歩めの足の運びで、お尻のワレメの間に、
うまくボクサーパンツを挟み上げ、
ジーンズとの間に確実なスペースを生み出した。
まずはこの空間こそが、
ジーンズにとっては防護壁なのだ。
彼は活やく筋に力を込め、
パンツの底部をお尻の隙間に閉じ込め、圧迫した。
空間は、ジーンズにとってはありがたい壁だが、
パンツにとってはむしろ、脅威でしかない。
接していては、ニオイが漏れてしまう。
ぎこちない歩みで、彼は部下のシマを抜け、
フロアの廊下から、フロア外の通路に出た。
振り返る余裕も勇気もなかった。
怪訝そうな表情のメンバーは…、いなかったはずだ。
通路から、すぐ向かいにあるトイレに入った。
クランクを抜けて、個室が並ぶエリアに入ると、
個室のドアはすべて、閉まっていた。
(むぅ…、下のフロアか…)
彼の前を、ツカサがすれ違って出て行った。
彼はいったん個室の前を通過し、
いずれかのドアが開いて、
誰か出てきてくれる気配を探ったが、ダメだったので、
反対側の出口から、反対側の通路へ出た。
あえて反対側に出たのは、
すぐ引き返したら、ツカサと針路がかぶるから。
かぶったらニオイを察知されかねないから。
そんな彼にも、まだニオイは感知できていないのだが。
お尻の中央に、ぬるい、ぬめる、
何かの存在は確かに感じていた。
非常階段のブロックへ入った彼は、
いよいよ誰もいないエリアになったので、
余裕でケツ締めに集中し、ぶざまな歩き方になった。
瞬間。
非常階段ブロックの、反対側の通路からのドアが開いた。
ツカサだった。
「あ…」
「ですよねぇ」
ツカサは笑いながら接近してきた。
ふたりの間に、非常階段があるからだが、
微笑み返した彼の笑顔の思惑は、
ツカサとはぜんぜん別のところにあった。
気づかれてない、気づかれる心配もない。
ふたりともトイレにあぶれて、
他フロアのトイレに行こうとしている気恥ずかしさに、
はにかみながら意識をとられているツカサの状況を、
彼は、素直に歓迎した。
非常階段でツカサに先を譲り、
彼は自身が発している(かもしれない)ニオイを、
ツカサに気取られないようにした。
ひとつ下のフロアのトイレも混んでいたが、
ちょうど2つ、個室のドアが開いていた。
ツカサがいちばん奥の個室に入り、
彼はすぐ隣の個室に続いた。
(ふぅ……)
個室に収まってようやく、彼の緊張が解けた。
緊張しているのはケツ筋だけ。
脱いで座るまでは、油断できない。
彼はベルトを解き、ジーンズのジッパーを下げた。
両腰の隙間に親指を差し込み、
ケツ筋は力んでパンツを噛んだまま、
ジーンズを膝まで下げてみた。
…わからん。
何もわからん。
続けて、彼はパンツを下ろしてみた。
ヌルッと肌から滑り落ちていく感触があった。
ある種の確信と、失望感とともに、
彼は視線を下へ向けた。
(うわぁ…)
見事に。
グレーのボクサーパンツの中央に、シミができていた。
キツく締めていたがゆえに、
左右対称でバタフライっぽくプリントされていた。
その面積の分だけ、彼のケツもやられてるって訳ね。
もはや疑念はグレーから“クロ”に変わった。
動かぬ事実は、どうしようもない。
ミッドタウンでやっちゃった奴って、初なんだろうな…。
パンツがどこにも触れないよう注意しながら、
彼は、とにかく便座に腰を下ろし、
ガマンしていた続きを処理し始めた。
お腹はグルグルと鳴り、痛い。
ジーンズは、どうやら無事なようだ。
見かけ上、シミの類は見当たらなかった。
ニオイを確認するのは…、やめておいた。
何はともあれ、彼はパンツのおかげで、
大勢のスタッフの前で脱糞に気づかれるという失態を、
犯さずに済んだのだ。
もしやっちゃってたら、発狂してたんじゃないだろうか。
パンツを手に振り回して、誰かにタックルされるまで、
笑いながらフロアを1周くらいはしたんじゃないだろうか。
少し落ち着いてから、彼は靴を脱ぎ、ジーンズを脱ぎ、
汚れたパンツを足から抜き取り、
個室の隅の方にポトリと落とした。
(さて、どうするかな…)
用を足したら、ノーパンにジーンズでデスクへ戻るのか。
さすがに今日のコンディションでは、それはできない。
もはや油断はできない。
今の体調では、
いつ、その“余震”が起こっても、おかしくはない。
ノーパンで同じことをやってしまったら、
直撃ジーンズで、どうにもごまかしようがない。
このまま帰っちまうか…。
まず、彼はちぃちゃんへメールを打っておくことにした。
仕事の話そのものが、途中だった。
「雑談を振っておいて、消えてごめん。
体調急変で、帰るかも」
そして…。
改めて彼は、今日自分がこのまま帰ることを想像した。
さっき、屁をしようと思ってしたのではなく、
突然こみ下げて来て、突然出ていったのだ。
出てみたら、屁じゃなかったのだ。
帰りの電車で、同じことが起こったら?
その前、六本木の街で、ビルのロビーで、
エレベーターで、廊下で、起こったら?
結局、緩衝材たるパンツがない限り、
彼がこの部屋から出るのは、
リスキーな状態じゃないのか?
ジーンズという薄皮1枚の向こうは、
いきなり危険な宇宙空間。
漏れたら、漏れそうなものを再度漏らしたら、即死。
そんなイメージが、彼の脳内を占拠し始めた。
(でっきーん!
この個室から、このままでは出られん!
むぅ……)
同時にわかってきたことで、
彼は絶望的な気持ちになってきた。
誰かにパンツを買ってきてもらうしかない。
すなわち、この状態を、彼が自ら、
誰かに告げなければならないのだ。
何も起きていないのに、
パンツを買ってトイレに届けて欲しい、
なんてことには通常、ならない。
「用を足そうとしたら、
パンツが便器に落ちちゃってさぁ、ははは」
ありえない。
言い訳の余地がない。
暴発覚悟でノーパンのまま出て行くか、
恥を忍んで誰かに頼むか。
この二択。
どちらも、彼にしてみれば若干、
今後の社員生命に影響を与える。
大丈夫かもしれないけど、うっかり、万が一、
漏れたジーンズの現場を押さえられるくらいなら、
確実にパンツ購入のウワサはされたとしても、
実際を見られない後者を選ぶ方が、
彼にとってはマシだ。
後は、誰に頼むか…。
さっきの、ちぃちゃん宛メールでは、
この現状には触れなかったし、
整理されつつあるお願い事項も追記しなかった。
当たり前だ。
彼だって、その辺のエチケットはわきまえてるバッチコーイ。
ぱぴが、いちばんうまく、さり気なく、
やってのけてくれそうなんだがな…。
こんなくだらないこと、他のチームのやつには、
お願いするのもはばかられる。
ラッシー、シミッチ、ごっつ、あたりですか。
ふぅむ…。
決心した彼は、ケータイでメールを打ち始めた。
★
『業務外のお願い』
ラッシーへ。
ラッシーが今、会議中なら、それを教えてください。
他をあたります。
ラッシー、ごっつ、シミッチ、
いずれか1名に、お願いです。
ぜんぜん業務と関係ありません。
●●の体調不良が高じて、
ちょっとしたアクシデントが発生しました。
3人の中で、至急対応可能な人は、
申し訳ないが立候補してください。
業務外、かつ恥ずかしいと思うので、
ランチ1回ごちそうします。
今、ひとつ下「17F」トイレの、
Sバンク側から数えて2番めの個室にいます。
訳あって、出られません。
訳あって、コンビニで、
パンツを買ってきて欲しいです。
サイズがあるならMサイズ、
形を選べるならボクサーパンツ。
色、柄は問いません。
買ってきたら、
オレらのひとつ下の階「17F」の、
オレらのフロアからは遠い端から「2番め」の個室に来て、
ドアを1回、軽くノックしてください。
返事で3回叩きます。
それが●●です。
確認できたら、
下の隙間からパンツを差し入れてもらうと、
非常に助かります。
できたら、
誰も小便器にいないタイミングをはかってくれると、
なお、ありがたいです。
以上、尊厳を超えてお願いします。
★
他の条件にドロップしない、
誰が担ったとしても質問も起きない、
個室の隣人にも気づかれなそうな、
的確な業務フローを組めた。
案外、冷静じゃねーか。
送信してから、個室の静寂の中、
ブリブリという音と過ごす時間が、
しばらく続いた。
隣のツカサは、とっくに気配が消えていた。
掃除のおばちゃんが、空室を掃除して回っている気配がする。
ケータイがブルった。
ラッシーのメールだった。
「行きます。
とりあえず、オレが買ってきます」
ふむ…。
この様子だと、ジャンケンとかをすることもなく、
ラッシーは誰ともメール内容を共有せずに、
席を立ったようだな。
しかし、無言ではなく、読んだ瞬間に
「えぇ!?」
ぐらいの反応は漏らして周囲に気づかれたのでは?
というラッシーらしい心境と反応が、文面から読める。
まぁ、彼が漏らしたものに比べたら、
ぜんぜん問題ないけどね。
ほどなく、トイレの通路に、
コンビニ袋の音が響いて来た。
意外と速いものだな…。
ドア下の隙間から見える石調の床に、
コンビニ袋の人影が映ってきた。
存在を示して反応を見るために、
わざとコンビニ袋の音を立てているようだ。
間違えないようにと、
ラッシーは奥から2番めのトイレ、17F、
といったことを反芻しているように思われる。
彼はドアに手を伸ばし、用意した。
コン。
遠慮がちに、ラッシーがノックしたのは、
間違いなく、彼の個室だった。
コンコン。
しまった、3発返事すると書いたのに、
自分が間違えてるじゃねーか。
2発では、
「入ってますかー」
「えぇ、入ってますよー」
で他人との間に会話が成り立ってしまい、
そこにパンツを差し入れたら事故なので、
あえて3発に設定したのだった。
やはり、ラッシーは悩んだのか、
躊躇して固まっていた。
コン、コンコン…。
慌ててもう1発、しかし通じなそうなので、
2発追加して今回だけで3発。
想定外のノック数に、
ラッシーがさらに動揺する気配を彼は感じていたが、
(えーい、たぶんここだろう!
大丈夫だ、ということにしておこう)
ぐらいの、
ラッシーらしい思い切りのよさとといい加減さで、
コンビニ袋を下から差し込んできた。
彼はすみやかにそれを拾い上げ、
中の人が間違いなくラッシーの上司であることを、
ラッシーに指し示した。
(お、合ってた)
ぐらいの軽さで、ラッシーは去っていった。
ふぅ…。
とにかく、彼はNewパンツを手に入れた。
さっそく開けて、まずはNewパンツを小棚に置いた。
この空き袋が、ゴミパンツを捨てる袋になるわけだ。
彼はパンツが入っていた袋にゴミパンツを入れ、
袋の口のシールを貼りなおすと、
さらにコンビニ袋に入れて、しばった。
後はこいつを捨てて、何もなかった顔をするだけだ。
腹調も復調してきたので、彼はオシリを念入りに洗い、
念入りに拭いて、Newパンツを履いた。
これで、とりあえずデスクには戻れる…。
今日は早退しよ。
入り口の方から、がさがさと袋がすれる音がしてきた。
ラッシー…、ではなさそうだ。
掃除のおばちゃんか。
む。
おばちゃんが止まった。
彼の部屋を確認しているらしい。
そうか、さっき一通り掃除が終わって、
後は彼の個室だけなのか?
おばちゃんは、ちょっと間をあけてはいるが、
彼の個室からすぐの場所に立ち止まっている。
お願いだ、1回、はずしてくれないかな?
でないと、この袋を手に、出て行きにくいじゃないか…。
おばちゃんの気配が、離れていくのがわかった。
今だ。
彼はセンサーに手をかざして水を流し、
袋を手にとってドアを開けた。
廊下へ出ようとしたら、手洗い場におばちゃんがいて、
彼の出たのに気づいて振り返った。
おばちゃん、まじで彼が出てくるのを待ってた感じ。
彼はとっさに、反対の通路へ出ようと身を翻した。
おばちゃんの視線は、彼が荷物を持って出てきたという、
その手許に注がれていた。
むぅ…。
まぁ中身が何なのかは、あまり想像できないだろうけど、
袋も、彼の所作も、あまりに不自然すぎるわけで。
そんな袋を彼が捨てたら、片付けるのは、このおばちゃんだ。
おばちゃん、ごめん、そしてよろしく。
反対側の手洗い場に来て、彼は気づいた。
トイレに、ゴミ箱が、ない…。
これ、執務エリアへ持って帰らないといけないのか?
いやだな…。
廊下に出たところで、
彼はトイレの向かいに給湯室があるのを見て思い出し、
入っていった。
ここには、ゴミ箱があるよね。
ゴミパンツを捨てることを想定して設置されてるものではないが。
“もやすゴミ”と書かれた箱へ、彼は袋を放り投げ、
足早に、自分のフロアへ帰っていった。
フロアへ戻ったら、ちぃちゃんがデスクから顔を上げた。
「あれ、いた」
「ん?」
「メール来たから、帰ったのかなと」
「あぁ…ちょっとね。でも、早く帰らせてもらうわ」
残務を手早く片付けたところで、結局定時ごろになった。
帰り支度をして、廊下に出たところで、
ラッシーに出くわした。
「……」
「………」
今にも、うす笑いが飛び出しそうなのをこらえているラッシー。
「そうやって、心の中でバカにするがいいですよ」
「いやいやいや…」
「……」
「ちょっとだけです」
「む」
「いえいえ、うそです」
「で、メールが届いたとき、ごっつたちに話したんか」
「いえ」
「ふーん」
「でも内容を見て、声出しちゃって、みんなこっち見ました」
「な」
「そりゃー、ねぇ…」
「パンツ代、明日でいい? 万券しかないんだ今」
「はぁそりゃぁ…いくらか忘れました」
「覚えてる。650円」
彼は、今日起こったことをすべて忘れたく、家路に着いた。
忘れたかったその日の1.0tko事件も、
同じ週の金曜朝の通勤の東横線において、
彼はラッシュの中で“2.0tko”めを犯し、
家に引き返してスーツを着替える体たらくだった…。
それから、6月が半ばに差し掛かってもずっと、
彼のお腹は変調が続いていた。
食っても食ってもすぐ出る。
おかげで食欲は失せ、かなり痩せた。
もう出すものはほとんどないはずなのに、
ランチの後にはすぐお腹を壊す。
そして、毎度、やばい。
そろそろ、イヤーウィスパーでも、
オシリの穴に挿しておくかと、真剣に考えている彼だった。
