誤便なさい

2008年7月。

3週間ほど前に突発した“お祭り”で、
彼は連日の深夜残業に追い込まれていた。
ちょうど期の変わり目で、
期末期初の事務作業も重なっていた。

そんなこともあと少し、
7月11日になれば、終息する。
気力は毎度のこと、みなぎってる。
しかし、体力は限界、昔のようにはいかない。

睡眠不足のせいで、MTG中は睡魔と闘いながら、
それでも彼は話さないとならない立場ゆえ、
眠ってしまうことはない。
MTGが終わるころには、かなり朦朧としている。
しかしまたすぐ、次のMTG。
元から入ってる定例MTGの隙間を、
臨時のMTGがいちいち埋めていく、
そんな毎日が続いていた。



とある日の夕方。

16:00までのMTGが終わった。
今日は次のMTGまでの隙間が30分、ぽかんと空いている。
ちょうど便意をもよおしていた彼は、
席を外してトイレへ向かった。

翌週の役員向けプレゼンの話があったので、
朦朧とした中で残り少ない彼の脳内リソースは、
一方で、混乱もしている状態だった。
どうやって、そのイベントをうまく消化するか。
考えごとをしながら、彼は廊下へ出て、
自分のフロアのトイレへ向かった。



(うむぅ……)

満室。
夕方だぜ?
なんで、こんなに埋まってんだよ。
自分のことはさておき、
彼は姿の見えない同僚たちをのろった。

ヤバい。
かなり限界。
空室がないことが、彼のその感覚を助長していた。

しょうがないな、上の階へ行くか。
非常階段をのぼり、
彼は自分のフロアのひとつ上の階へ向かった。



通路へ出て、階段室から近い方が男子トイレ…。
もよおしてるので、自然と前傾姿勢、視線も下がり気味。

ふと一瞥をくれた視線の先に、
執務エリアから通路へ女性が出てきたのが見えた。
様子と導線を考えると、彼女もトイレっぽい。

会社の規模も大きくなったので、
社歴が長いといえる側になった彼とて、
ひとつ上のフロアは面識がない人だらけ。
彼女もそんな“知らない人”のひとりだが、
女子トイレと男子トイレは入り口が隣合わせ、
タイミングがドンピシャだとバツが悪い。

彼はうつむき加減のまま少し速足になって、
彼女より早めにトイレに到達し、曲がった。

彼女の足どりが一瞬、鈍ったように、彼は感じた。
ま、タイミングが合わないように、
彼女は彼女で考えたのだろう。



通路からトイレへ入ると、いきなりクランクがある。
そのクランクの様子というか距離感が、
彼のフロアとは違う気がする。
フロアが違うから、たてつけが若干違うんだろうな。
そんな風に結論づけて彼はクランクを曲がり、奥へ進んだ。

5つほどある個室のふたつが空いていた。
よかった…。
なんとなく、いちばん手前の空室は通過し、
彼は真ん中の個室に入り、振り返って、ドアに手をかけた。

(あれっ……?)

ドアが閉まりきる寸前の、隙間から見える光景に、
彼は圧倒的な違和感を感じていた。

本来なら個室の列の前に並んでいるはずの小便器が、
このフロアには、ない…。

彼が入ってきた入り口とは反対側にも、
別の入り口とクランクがある。
このビルはH型の構造になっていて、
北側と南側の両側の執務エリアが、
中央にある共通のトイレを、両側から使うのだ。

反対側のクランクの先に、小便器のフロアがあるのかな…。
そんなわけ、ないな。



彼はドアを閉めたが、
ロックはかけずにドアを押さえ、気配を消して、
自分の状況と外の様子を推し量っていた。

(こ、これは……)

直後、彼が入ってきた方の入り口から、
ヒールの音がコツコツと入ってきた。
ヒールの音は、通常彼が聞くよりゆっくりめで、
通常彼が聞くより抑えめだった。
何かを警戒してるのが、ありありだった。

(これは、さっき、通路の向こうから来た…)

ヒールの音は、一瞬立ち止まった後、
いちばん手前の個室に入っていった。
ロックをかける音も、ゆっくり、
なるべく音が立たないようにしているようだった。

(やっぱり、ここは女子トイレ…、なのか?)

まだ誰も、女性の姿を見てはいないので、
ここが女子トイレなのだという確信には至っていない。
状況証拠は、限りなくクロに近いグレーなのだが…。

もし、ここが女子トイレで、
ヒールの音がさっきの彼女だったら、
そりゃ、目の前で男が女子トイレへ入って行くのを見たんだから、
警戒もするよなぁ…。



なぜ、こんなことが?
彼のフロアだったら、
この座標は間違いなく男子トイレなのだ。
設計者に問いたい。
1フロア違うだけで、わざわざ入れ替える必要があるのか?

(まずいぞ、この状況は…)

とにかく、どうやって、ここから出て行くか。
誰にも出会ってはならない。
出くわしたら、説明がめんどうになる。
いや、説明だけでは済まないかもしれない。
彼はじっと、機会をうかがった。



しばらくして、隣のドアが開き、
誰かが出て行くのが聞こえた。
足音は、彼が入ってきた入り口の方の手洗い場へ行き、
手を洗う音が聞こえ、去っていった。
静かになった。

(よし!)

彼は勢いよくドアを開け、
一目散に、反対側の入り口へ走った。
クランクを抜け、通路へ到達。

確認しておくべきものがある。
通路からトイレへ曲がる角のしるしを確認。

ピンク。
確定。

(ぬぉぉぉ…、女子トイレだ…)

さっき、トイレへ入っていくときは、
急いでたし、前傾姿勢だったし、朦朧としてたし、
このしるしを確認することがなかった。
いや、確認するまでもなく、
彼が日頃経験している構造理解を疑う余地がなかったのだ。

通路には、誰も歩いていなかった。
ラッキー。
彼は非常階段への扉を開け、1つ下のフロアへ戻っていった。



自分の席へ戻って座った彼は、ひと息ついた。
どうにか、誰にも現場を押さえられずに済んだ。
あぶねぇ…。

(ん!?)

カンジンな、自分がやりたかったことを、
すっかり忘れてしまっているではないか。
MTG前に、改めて“男子”トイレへ行かなくては。
彼は時計を見た。

(……)

16:30。
もう、次のMTGが始まる時刻だ…。