切った半球 みな見半球

2008年12月8日。

早めに目がさめ、
月曜朝から洗濯機を回した彼は、
その後、コンビニへ向かった。

8:00過ぎの商店街のメインストリートは、
駅へ向かう通勤の波と、
駅から出てきた通学の波で、
ごった返し始めていた。

(…ん?)

なんだか人々の視線が、
集中してる気がする。
彼の方に…。

なんだ?

彼は、感じた視線の、
延長線の方角を振り返ってみた。
シャッターの降りた、開店前の肉屋。
これは関係ないな。

彼はさりげなく、自分の胸元を見てみた。
何かがついてるわけでもないな…。

どちらかというと、
彼を抜かして行く女子高生のペアとかが、
お互いに顔を合わせて、
クスッと微笑んでるような感じ。

ん、後ろか?

彼はお尻から下を振り返って目視、
それから背中に手をはわせてもみた。
特に、何もついてないよな…。

ま、いっか。
自意識過剰の部類だよな。
まだ寝起きで、ボーッとしている。

コンビニで飲み物を買い、出てきた。
今度は波の向きが逆で、高校生が前からわんさか。
始業が近いのか、さっきよりみんな急ぎ足だ。
この向きになると、あまり人の視線を感じなくなった。

なんだったんだろ。
やっぱ、彼のことじゃなかったっぽいな。

家に戻った彼は、
裏の部屋に洗濯ものを手早く干し、
シャワーを浴びる準備に入った。

お湯を出して、湯温が一定するのを待ちながら、
裸の彼は歯ブラシをくわえて鏡の前に立った。

(……いつもの時間と、
  たいして変わらなくなっちゃったな…)

しばらくの間は、
相変わらず回転数の上がらない脳で、
彼はボーッと歯を磨いていた。

(ん……、んんっ!?)

鏡の一点を見ていた彼の目は見開かれ、
脳の動きは一気に活発になった。

(これかーーっ!!)

彼の脳裏に、昨晩のできごとが、
鮮明に蘇ってきていた。



2008年12月7日。

おだやかに暮れた、日曜の夜。
大河ドラマを観終わって、
ふと彼は思った。

(髪、切ろ…)

切るといっても、ハサミではない。
バリカンで一気に、丸刈りータになるだけだ。

昨年の部活の夏合宿で、
シーズーとの髪切りデスマッチ用に買ったバリカン。
以来、髪を切りに出かけるのが面倒な彼は、
自宅の風呂場でバリバリッと片づけるようになった。

彼は風呂場へ行き、
日々あごひげの手入れに使ってるバリカンを手にした。

ヴィィィ……。

だいたいいつも、右のもみあげからいく。
ときどき、アタッチメントをつけ忘れ、
開始3秒でツルッツル仕上げを運命づけてしまった
自分の過ちを呪うこともあるが、
今ではそれすら許容範囲になっている。

今日は、3mmのアタッチメントが付いていて、
そのまま3mmで刈り始めた彼だった。

(ん?)

電池が切れそうな気配があった。
フル充電のときは、音階でいえばAのキーで刃は動く。
今日はスイッチを入れた時点で、すでにF#だった。

彼は急いで刈り切ることを目指したが、
電圧の低下とともにみるみるD#まで下がり、
ついには止まった。

刈りかけ…。
右前がもっとも刈られていて、
左から後頭部はまったく刈られていない。

さて、参ったな…。
まともな稼動時間になるよう充電するには、
数時間はかかるのが、経験上わかっている。

バリカンをコンセントに繋いで充電を始めた後、
彼はベッドに入って枕元に腰掛け、
BSの「太王四神記」を途中から観ていた。

しかし、以前、動画で字幕版を、
最終回まで全部観てしまっているので、
イ・ジアのシーン以外は身が入らない。

そのうち手元にPCを置いて、
彼は適当にYouTubeを観始めた。
朋ちゃんの心配なダンスにたどり着いたころは、
まだ元気で、笑いころげていた。

しかし、ふいに襲ってきた睡魔に負けて、
いつの間にか、眠っていた…。



ふたたび、2008年12月8日。

浴室の鏡の中にいる彼の分身は、
とんでもない髪型をしていた。

刈り上げてあるのは、左のもみあげから、
右の耳の後ろくらいまでの前の半球。
左寄りの後頭部には、まったく切ってない部位も、
中途半端に刃が入ってる場所もある。
まるで…、流氷?

なんなんだ、この傾き、この偏りは。
ボビーブラウンだって、アジャコングだって、
ここまではやらんだろ。

うむぅ……。
恥ずかしい。
さっきの高校生の視線を思い出すと、ひっじょーに、恥ずかしい。

いや、それどころではない。
会社へ向かうためにシャワーを浴びようとしているのだ。
この髪型のままでは、出社できない。

彼は歯ブラシをくわえたまま、
リビングから、充電していたバリカンを持ってきた。
さすがフル充電直後。
Aどころか、A#の音だわ。

いやいや、それどころではない。
ふだん通りに出かけるつもりで、
いつもくらいの時刻から浴び始めたので、
時間的猶予も、ほとんどない。
まずい、早く、そこそこに仕上げなければ。

歯を磨きながら左手でバリカンを動かしてみた。
鏡でチェックすると、慣れない利き腕ではないので、
刈り残しが目立つ。

くっ。
かと言って、左手で歯を磨いたこともなければ、
体を洗うのも右手を使う方が多いわけだ。
まずい、まずいぞこれは…。
急がば回れ、ここはシングルタスクで的確に素早く、だ。



10:00前。

なんとか定時前に、彼はオフィスに着いた。
ふーぅ。

額に光る汗は、急いだからではない。
実際、いつもの電車には乗れたので、
特に走ったりもしていない。

よく見えないままやっつけた後頭部。
自分からは見えない半球に、刈り残しの黒い、
EXILEもびっくりの“逆ライン”がのこってたらどうしよう、
視線の集中放火を浴びてたらどうしよう、と、
勝手にプレッシャーに苛まれているうちに、
にじんできた汗だった…。