湾岸ミットモナイト
2008年8月2日。
手賀沼花火大会からの帰り道、
彼は常磐道から葛西JCTを目指し、
湾岸道へ抜けようとしていた。
ぱぴ家のベランダから、
上がる花火がまっ正面に見える。
しかも近い、ということで、
メンツは流動しつつも恒例行事となり、
彼は出張シェフとして、毎年参加していた。
行きは、ホターシ家の車と合流し、
首がすわらない生後半年の赤子のために、
つるんでスローペースで北上した。
早めにぱぴ家に乗り込んで、買い出しから調理。
徐々にメンツが揃い、花火前に乾杯。
彼はたいがい、のんびり花火を観ている場合ではない。
みんながベランダへ出払う頃にはまだ、
後半の料理を仕込み、酢飯を握っている段階だ。
ホターシ家は赤子サイクルで、
花火が終わるタイミングで先に帰った。
彼は茶でクールダウンしつつ、
ぱぴと秋口の合宿について話したり。
そうしてるうちに、ひとり、ふたりと、
集まったメンツが、徐々に帰っていった。
いちばん最後、彼がぱぴ家を辞したのは、
23:00になろうかというころだった。
この出発なら、日付が変わるころには、
自宅に着いていることだろう。
エンプティランプがそろそろ点くか、
というガソリン残量だったので、
柏ICの手前にあるGSへ入ろうかと一瞬考えたが、
“なんとなく”、素通りして常磐道に乗った。
最初のうちはスムーズだったが、徐々に混雑。
やがて、常磐道の料金所手前で渋滞になった。
首都高になってからもトロトロ徐行。
彼は渋滞がキライだ。
首都高が分岐し、
道なりは箱崎へ、左は葛西JCTへ、というところで、
彼は葛西JCTへ針路をとった。
こっちはこっちで、断続的に混雑しているが、
さっきよりは進む。
少し遠回りにはなるのだが、
まぁ、帰宅するだけで急ぐことはないし、
このルートは夜景もキレイだし。
渋滞にハマってるよりは気分もマシだ。
葛西JCTから、湾岸道へ出た。
3車線になり、急に流れがはやくなった。
ひとりなのもあり、彼は音楽を大音量でかけ、
エンジン音に邪魔されるのを嫌って、
真ん中のレーンでのんびり走っていた。
ふと、彼の車の前が何台か、
続けて右の追越レーンや左のレーンへさばけた。
(ん?)
空いた中央レーンの前方から、
1台の車が接近してきた。
いや正確には、
あまりに遅いやつが中央レーンを走っていて、
彼の車もあっという間に追いついてしまった。
(むぅ…。)
こいつ、80km/h弱くらいじゃないか?
迷惑なやつだ、左を走れよ。
彼は右の追越しレーンへ出ることにした。
前のやつに詰まってしまい、
のっていないスピードを挽回するために、
彼はアクセルを踏み込みながら、
ウィンカーを右へ出し、ハンドルを切った。
(ん?)
なんか、スピードがのらないな…。
90km/hを超えたくらいで、スピードが伸びない。
右レーンへ出た彼は、さらにアクセルを踏み込んだ。
ふと違和感を感じ、彼は音楽のボリュームを落とした。
カッカッカッカッ…。
(むっ!?)
エンジンルームから異音。
そして、エンジンオイルのランプが点いているのを、
彼は見つけた。
(これは…)
彼はようやく異常に気づいた。
常磐道に乗る前には点いてなかった。
そんな急激に抜けたりはしないだろう?
とにかく止まろうか。
左前方に上り坂。
辰巳JCTに差し掛かっていた。
あそこを上れば、パーキングがあったよな。
左へ…、間に合うか?
瞬間。
コクンッ。
(ふぬぉ!?)
なんだ、この静寂感は?
高速道を走行中の車内が、こんなに静かでいいのか?
と感じたのは、ほんのコンマ1秒ほどの間だろう。
急に抵抗感を受けて鈍った車の速度と反比例して、
彼の身体は前へつんのめっていた。
踏ん張りつつ、彼はアクセルを踏んだり戻したりしたが、
何も刺激は起きない。
ダッシュボードには、エンジンのランプが点いた。
こんなの、走行中に見たことない。
エマージェンシーだ…。
左を、あの遅い車が、余裕で抜かしていく。
ヤバい、あいつよりスピード出てないのか…。
パニックだ。
ピカピカッ。
パッシングに気づき、彼はバックミラーをちら見した。
背後の車が、急ブレーキで踏ん張りながら、
車体を揺らしてよれている。
「ぬぉーっ!!」
風雲急。
追突される。
彼はハザードを焚いて言い訳しながら、
バックミラーで背後の車たちの動きを見極めた。
背後の車は速度をなじませながら彼の左、
中央レーンへ出ようとしていた。
そのさらに後ろから、まだ事態に気づいてない車が、
右レーンをまっすぐ突っ込んでくる気配。
どっちにも逃げ場がない。
(ふぅん!)
彼は中央レーンへ車体を割り出し、
右レーンと中央レーンの境界線上で、
事実上の4レーンめを勝手にこしらえ、
座標を固定した。
彼の右から猛スピードの後続車たちがすり抜け、
彼の左からは、直前の彼の迷惑を一身に受け、
それでも回避してくれた背後の車のドライバーが、
こちらを見ながら並び、抜かそうとしていた。
目が合った。
(申し訳ない…)
(だいじょぶ?)
そんな表情で、ドライバーはユビをクルクルさせて、
エンジンの不調を理解してくれたようなジェスチャーで、
彼を抜かしていった。
ありがとう…。
彼が逆の立場だったら、きっと逆上してたよな…。
それはさておき、
この状況、どうするよ?
彼は惰性だけで、前へ進んでいる。
ブレーキを踏むわけにはいかない。
後ろから追突されるリスクはまだあるからだ。
前に進み続けた方が、そのリスクは減る。
何より、こんなところで立ち往生してはいけない。
このまま、惰性で前へ進めるうちは進んで、
徐々に左の路肩へ寄せる。
彼はそう判断した。
辰巳JCTは、とっくに通過した。
このままいくと、東京湾トンネル、
もしくはレインボーブリッジ…。
いかん、どっちも封鎖してはいかん。
幸い、後続の車が途絶える瞬間がきた。
直線、見晴らしもよい。
彼は、重くなったハンドルをさっきより深く曲げ、
左のレーン、さらには路肩へ、車体を出した。
よし、もう止まってもいいべ…。
彼はようやくブレーキを踏んだ。
停車。
ハザードは出したまま。
彼はキーを回してエンジンを切った。
反応なし、もう切れてるから。
試しに、またキーを回してみた。
セルすら起動しない。
何が起きてんだ?
暑い…。
クーラーも止まってんのか、そりゃそうだよな。
彼は助手席のドアを少し開けて、外気を吸った。
(ふぅ…)
よく、今ここに、こうしていられるものだ。
神よ、毎度、何かと試練をくれる神よ。
生かしてくれて、それはそれでありがとう。
ほんとに、今回ばかりは死ぬかと思った…。
ドアノブの高さの壁の向こうには、水路の波が見えた。
頭上には、JCTのランプ。
有明JCTの真下か。
(さて…)
彼はケータイに登録してある保険会社に電話しようとした。
すると、彼の後方から黄色いサイレンが、
路肩に半身を入れて接近してくるのが見えた。
見覚えがある。
以前、やはり湾岸道でやらかしたときに、
スノボーを回収してきた車のサイレンの色だ。
もう、誰かが通報したのか?
背後につけたパトロール車の助手席からひとり降りて、
彼の車へ走ってきた。
「どうされました?」
「走行中に急にエンジンが切れて、走行不能になりまして」
「あぁ、そうですか、どこか、連絡されてますか?」
「はい、今、保険会社に…」
「わかりました、そうしたら、ここ危ないんでね、
このまま後ろにつけてますから、
連絡がついたら、教えてください」
「はい、すみません」
彼は保険会社に連絡して、状況を説明した。
ラッキー、30kmまでのレッカーは、
保険の範囲で無料らしい。
さらに、終電で帰れなくなりそうな時間帯だが、
タクシー代も無料で出してくれるらしい。
すばらしいわ、保険って。
レッカー車は、30分ほどで現れるらしい。
彼は助手席のドアを開けて、
後ろのパトロール車へ合図した。
さっきの男性が出てきた。
彼は男性に、保険会社とのやりとりを話した。
「了解しました。
我々、これから、
別の現場へ行かなければならないので離れますが、
後ろにパイロンを1本立てて置きますから」
「レッカーが来て処理されたら、
パイロンはどうしたらいいですか?」
「置いてっちゃってください、
後で回収に来ますから。
あと、三角の反射板ありますよね、
あれを出して、立てておいてくれますか」
「わかりました」
パトロール車は去って行った。
彼はひとりになった。
…暑い。
というか…。
トイレ行きたい。
過度の緊張から解放され、
また空調の切れた車内の熱気もあってか、
彼は尿意を催した。
彼は助手席側から車外に出た。
運河の上ということもあってか、真夏なのに涼しい。
それが、いちど催した彼の尿意を、さらに助長した。
うぅむ、早く来ないかな、レッカー車…。
(ダメだ、ムリ)
どうがんばっても、レッカーが来て、処理が終わり、
どこかトイレがあるところまで連れてってもらえたとして、
それまではガマンできそうにない。
彼はガードの上にのぼり、立ち上がった。
運河への放物線。
その向こうには一般道が並んでいたりで、
辺りは意外に明るい。
いやこの際、誰が見ていようが、構わない。
生きてるんだから。
死ななかったんだから。
やがて、レッカー車が到着した。
特に指定したい修理工場もない。
彼は、家の近くにある三菱自動車の田園調布店へ、
運んでもらうのを希望した。
あそこなら、整備工場も併設されてるし、親切だし。
当然、深夜で営業しているわけがないので、
今晩はこのままレッカー車の所属してる会社へ運ばれ、
あした改めて運ばれることになった。
ウィンチで巻き上げられ、彼の愛機が荷台に載った。
見た目は勇ましいが、切ない。
彼も乗り込んだレッカー車が、動き出した。
東京湾トンネルの手前で、トンネルに潜らず、
反対側の車線へ出る秘密のルートの扉が開かれた。
転回して首都高へ戻ると、そこはすぐに臨海副都心出口。
あぁ、彼が停止した座標は、
あらゆる意味で、都合がよかったんだな。
ここならタクシーをつかまえやすいから、
と運転手が彼を降ろしてくれたのは、
フジテレビの脇だった。
その時点で、25:00ごろ。
タクシー乗り場へ向かいながら、
彼は改めて、自分の鼓動が続いてるこの瞬間を、
ありがたく思った。
数日経って、修理の見積もりの連絡がきた。
エンジンは乗せ替え必須、70万円。
ミッションもイカれてるとすると、プラスアルファ。
症状が発生してすぐに止まってるなら、
ミッションは大丈夫でしょうと言われたが、
彼は実際、2km弱は、惰性で前進していた。
たぶん、イカれてる…。
ま、あの状況では、止まるに止まれなかった。
しょうがない、命がいちばん大事だ。
いやぁ、100万超えか…。
もう少しだせば、新車が買える金額じゃないか…。
修理に、そんな金は出せん。
じゃ、アウトランダーでも買うのか?
ふと彼は、今の自分の生活に、
車がどれだけ必要なのか、考えてみた。
今年も去年もその前も、
保険更新のときに調べた年間走行距離は、
4,000kmくらいしかなかった。
そこにあるから乗ってるが、
いらないっちゃー、いらないな…。
ライフスタイルが変わってまた必要になるまで、
わざわざ買う必要、ないんじゃないか。
決定。
今回は廃車。
アウトランダーの次の世代が出たら、そいつを買うか。
あるいは夢のFX50をめざして、仕事をがんばるか。
命あってこその物種だな。
手賀沼花火大会からの帰り道、
彼は常磐道から葛西JCTを目指し、
湾岸道へ抜けようとしていた。
ぱぴ家のベランダから、
上がる花火がまっ正面に見える。
しかも近い、ということで、
メンツは流動しつつも恒例行事となり、
彼は出張シェフとして、毎年参加していた。
行きは、ホターシ家の車と合流し、
首がすわらない生後半年の赤子のために、
つるんでスローペースで北上した。
早めにぱぴ家に乗り込んで、買い出しから調理。
徐々にメンツが揃い、花火前に乾杯。
彼はたいがい、のんびり花火を観ている場合ではない。
みんながベランダへ出払う頃にはまだ、
後半の料理を仕込み、酢飯を握っている段階だ。
ホターシ家は赤子サイクルで、
花火が終わるタイミングで先に帰った。
彼は茶でクールダウンしつつ、
ぱぴと秋口の合宿について話したり。
そうしてるうちに、ひとり、ふたりと、
集まったメンツが、徐々に帰っていった。
いちばん最後、彼がぱぴ家を辞したのは、
23:00になろうかというころだった。
この出発なら、日付が変わるころには、
自宅に着いていることだろう。
エンプティランプがそろそろ点くか、
というガソリン残量だったので、
柏ICの手前にあるGSへ入ろうかと一瞬考えたが、
“なんとなく”、素通りして常磐道に乗った。
最初のうちはスムーズだったが、徐々に混雑。
やがて、常磐道の料金所手前で渋滞になった。
首都高になってからもトロトロ徐行。
彼は渋滞がキライだ。
首都高が分岐し、
道なりは箱崎へ、左は葛西JCTへ、というところで、
彼は葛西JCTへ針路をとった。
こっちはこっちで、断続的に混雑しているが、
さっきよりは進む。
少し遠回りにはなるのだが、
まぁ、帰宅するだけで急ぐことはないし、
このルートは夜景もキレイだし。
渋滞にハマってるよりは気分もマシだ。
葛西JCTから、湾岸道へ出た。
3車線になり、急に流れがはやくなった。
ひとりなのもあり、彼は音楽を大音量でかけ、
エンジン音に邪魔されるのを嫌って、
真ん中のレーンでのんびり走っていた。
ふと、彼の車の前が何台か、
続けて右の追越レーンや左のレーンへさばけた。
(ん?)
空いた中央レーンの前方から、
1台の車が接近してきた。
いや正確には、
あまりに遅いやつが中央レーンを走っていて、
彼の車もあっという間に追いついてしまった。
(むぅ…。)
こいつ、80km/h弱くらいじゃないか?
迷惑なやつだ、左を走れよ。
彼は右の追越しレーンへ出ることにした。
前のやつに詰まってしまい、
のっていないスピードを挽回するために、
彼はアクセルを踏み込みながら、
ウィンカーを右へ出し、ハンドルを切った。
(ん?)
なんか、スピードがのらないな…。
90km/hを超えたくらいで、スピードが伸びない。
右レーンへ出た彼は、さらにアクセルを踏み込んだ。
ふと違和感を感じ、彼は音楽のボリュームを落とした。
カッカッカッカッ…。
(むっ!?)
エンジンルームから異音。
そして、エンジンオイルのランプが点いているのを、
彼は見つけた。
(これは…)
彼はようやく異常に気づいた。
常磐道に乗る前には点いてなかった。
そんな急激に抜けたりはしないだろう?
とにかく止まろうか。
左前方に上り坂。
辰巳JCTに差し掛かっていた。
あそこを上れば、パーキングがあったよな。
左へ…、間に合うか?
瞬間。
コクンッ。
(ふぬぉ!?)
なんだ、この静寂感は?
高速道を走行中の車内が、こんなに静かでいいのか?
と感じたのは、ほんのコンマ1秒ほどの間だろう。
急に抵抗感を受けて鈍った車の速度と反比例して、
彼の身体は前へつんのめっていた。
踏ん張りつつ、彼はアクセルを踏んだり戻したりしたが、
何も刺激は起きない。
ダッシュボードには、エンジンのランプが点いた。
こんなの、走行中に見たことない。
エマージェンシーだ…。
左を、あの遅い車が、余裕で抜かしていく。
ヤバい、あいつよりスピード出てないのか…。
パニックだ。
ピカピカッ。
パッシングに気づき、彼はバックミラーをちら見した。
背後の車が、急ブレーキで踏ん張りながら、
車体を揺らしてよれている。
「ぬぉーっ!!」
風雲急。
追突される。
彼はハザードを焚いて言い訳しながら、
バックミラーで背後の車たちの動きを見極めた。
背後の車は速度をなじませながら彼の左、
中央レーンへ出ようとしていた。
そのさらに後ろから、まだ事態に気づいてない車が、
右レーンをまっすぐ突っ込んでくる気配。
どっちにも逃げ場がない。
(ふぅん!)
彼は中央レーンへ車体を割り出し、
右レーンと中央レーンの境界線上で、
事実上の4レーンめを勝手にこしらえ、
座標を固定した。
彼の右から猛スピードの後続車たちがすり抜け、
彼の左からは、直前の彼の迷惑を一身に受け、
それでも回避してくれた背後の車のドライバーが、
こちらを見ながら並び、抜かそうとしていた。
目が合った。
(申し訳ない…)
(だいじょぶ?)
そんな表情で、ドライバーはユビをクルクルさせて、
エンジンの不調を理解してくれたようなジェスチャーで、
彼を抜かしていった。
ありがとう…。
彼が逆の立場だったら、きっと逆上してたよな…。
それはさておき、
この状況、どうするよ?
彼は惰性だけで、前へ進んでいる。
ブレーキを踏むわけにはいかない。
後ろから追突されるリスクはまだあるからだ。
前に進み続けた方が、そのリスクは減る。
何より、こんなところで立ち往生してはいけない。
このまま、惰性で前へ進めるうちは進んで、
徐々に左の路肩へ寄せる。
彼はそう判断した。
辰巳JCTは、とっくに通過した。
このままいくと、東京湾トンネル、
もしくはレインボーブリッジ…。
いかん、どっちも封鎖してはいかん。
幸い、後続の車が途絶える瞬間がきた。
直線、見晴らしもよい。
彼は、重くなったハンドルをさっきより深く曲げ、
左のレーン、さらには路肩へ、車体を出した。
よし、もう止まってもいいべ…。
彼はようやくブレーキを踏んだ。
停車。
ハザードは出したまま。
彼はキーを回してエンジンを切った。
反応なし、もう切れてるから。
試しに、またキーを回してみた。
セルすら起動しない。
何が起きてんだ?
暑い…。
クーラーも止まってんのか、そりゃそうだよな。
彼は助手席のドアを少し開けて、外気を吸った。
(ふぅ…)
よく、今ここに、こうしていられるものだ。
神よ、毎度、何かと試練をくれる神よ。
生かしてくれて、それはそれでありがとう。
ほんとに、今回ばかりは死ぬかと思った…。
ドアノブの高さの壁の向こうには、水路の波が見えた。
頭上には、JCTのランプ。
有明JCTの真下か。
(さて…)
彼はケータイに登録してある保険会社に電話しようとした。
すると、彼の後方から黄色いサイレンが、
路肩に半身を入れて接近してくるのが見えた。
見覚えがある。
以前、やはり湾岸道でやらかしたときに、
スノボーを回収してきた車のサイレンの色だ。
もう、誰かが通報したのか?
背後につけたパトロール車の助手席からひとり降りて、
彼の車へ走ってきた。
「どうされました?」
「走行中に急にエンジンが切れて、走行不能になりまして」
「あぁ、そうですか、どこか、連絡されてますか?」
「はい、今、保険会社に…」
「わかりました、そうしたら、ここ危ないんでね、
このまま後ろにつけてますから、
連絡がついたら、教えてください」
「はい、すみません」
彼は保険会社に連絡して、状況を説明した。
ラッキー、30kmまでのレッカーは、
保険の範囲で無料らしい。
さらに、終電で帰れなくなりそうな時間帯だが、
タクシー代も無料で出してくれるらしい。
すばらしいわ、保険って。
レッカー車は、30分ほどで現れるらしい。
彼は助手席のドアを開けて、
後ろのパトロール車へ合図した。
さっきの男性が出てきた。
彼は男性に、保険会社とのやりとりを話した。
「了解しました。
我々、これから、
別の現場へ行かなければならないので離れますが、
後ろにパイロンを1本立てて置きますから」
「レッカーが来て処理されたら、
パイロンはどうしたらいいですか?」
「置いてっちゃってください、
後で回収に来ますから。
あと、三角の反射板ありますよね、
あれを出して、立てておいてくれますか」
「わかりました」
パトロール車は去って行った。
彼はひとりになった。
…暑い。
というか…。
トイレ行きたい。
過度の緊張から解放され、
また空調の切れた車内の熱気もあってか、
彼は尿意を催した。
彼は助手席側から車外に出た。
運河の上ということもあってか、真夏なのに涼しい。
それが、いちど催した彼の尿意を、さらに助長した。
うぅむ、早く来ないかな、レッカー車…。
(ダメだ、ムリ)
どうがんばっても、レッカーが来て、処理が終わり、
どこかトイレがあるところまで連れてってもらえたとして、
それまではガマンできそうにない。
彼はガードの上にのぼり、立ち上がった。
運河への放物線。
その向こうには一般道が並んでいたりで、
辺りは意外に明るい。
いやこの際、誰が見ていようが、構わない。
生きてるんだから。
死ななかったんだから。
やがて、レッカー車が到着した。
特に指定したい修理工場もない。
彼は、家の近くにある三菱自動車の田園調布店へ、
運んでもらうのを希望した。
あそこなら、整備工場も併設されてるし、親切だし。
当然、深夜で営業しているわけがないので、
今晩はこのままレッカー車の所属してる会社へ運ばれ、
あした改めて運ばれることになった。
ウィンチで巻き上げられ、彼の愛機が荷台に載った。
見た目は勇ましいが、切ない。
彼も乗り込んだレッカー車が、動き出した。
東京湾トンネルの手前で、トンネルに潜らず、
反対側の車線へ出る秘密のルートの扉が開かれた。
転回して首都高へ戻ると、そこはすぐに臨海副都心出口。
あぁ、彼が停止した座標は、
あらゆる意味で、都合がよかったんだな。
ここならタクシーをつかまえやすいから、
と運転手が彼を降ろしてくれたのは、
フジテレビの脇だった。
その時点で、25:00ごろ。
タクシー乗り場へ向かいながら、
彼は改めて、自分の鼓動が続いてるこの瞬間を、
ありがたく思った。
数日経って、修理の見積もりの連絡がきた。
エンジンは乗せ替え必須、70万円。
ミッションもイカれてるとすると、プラスアルファ。
症状が発生してすぐに止まってるなら、
ミッションは大丈夫でしょうと言われたが、
彼は実際、2km弱は、惰性で前進していた。
たぶん、イカれてる…。
ま、あの状況では、止まるに止まれなかった。
しょうがない、命がいちばん大事だ。
いやぁ、100万超えか…。
もう少しだせば、新車が買える金額じゃないか…。
修理に、そんな金は出せん。
じゃ、アウトランダーでも買うのか?
ふと彼は、今の自分の生活に、
車がどれだけ必要なのか、考えてみた。
今年も去年もその前も、
保険更新のときに調べた年間走行距離は、
4,000kmくらいしかなかった。
そこにあるから乗ってるが、
いらないっちゃー、いらないな…。
ライフスタイルが変わってまた必要になるまで、
わざわざ買う必要、ないんじゃないか。
決定。
今回は廃車。
アウトランダーの次の世代が出たら、そいつを買うか。
あるいは夢のFX50をめざして、仕事をがんばるか。
命あってこその物種だな。
