西周の王、は、独断専横、残酷非道の暴君でした。人民は彼に反対し、世論も彼の
過ちを暴き、”上卿”である召穆公も何度も何度も彼を諌めるのですが、彼は一向に
反省する気配はありません。逆に衛国より曰くありげな祈祷師を招聘し王に代り”お
告げ”を用いて”探り”を入れ、王に反対する人物を見つけては直ちに処刑しました。
王、は、世論に対しこのような圧政を執った事から、人民からパタリと不満の声は
消えてしまいました。
このことは<周語>に記載されています。
「国人莫敢言 道路以目(人民は路上で出合っても 恐れて口には出さず眼と眼で
意を通じ、一言も発する事はなかった。)」
王、は、得意げに召穆公に言いました。
「見ろ!この天下泰平の世を、誰一人として私の悪口を言う人がいないじゃないか!」
召穆公は言いました。
「残念な事に、これは泰平ではありません。”防民之口、甚于防川”、人民の口を
ふさぐ事はこれ、大河を塞き止めると同様に危険な事ですぞ! 大河を塞ぎとめる事
など出来ませぬ。一旦堰きとめると河の水は氾濫し、大災害を引起す元になります。
治水とは必然的に浚渫管理するから水の流れが良くなるのです。人民に代り申し上
げます。自由に意見を述べさせ、自由な言論の確保が必要です。武力で言論を押さえ
る事は邪道です。」
しかし周の王は聞く耳を持ちませんでした。
そして、三年もしないうちに人民の暴動が発生しました。
この暴君は晋国の僻地に落ちて行ったということです。
”防民之口、甚于防川”、この成語はこうして生まれたのです。
”道路以目”も一つの成語です。
現在の中国独裁政府には、耳の痛い成語と言えます。
尭帝、上古時代のお話。
突如、十個の太陽が一斉に天空に出現し、土地は灼熱地獄に化し、草木は枯れ果て
大干ばつとなりました。人民の苦しみは言うまでもありません。
尭帝は天帝に救いを求めました。天帝は直ちに、尭帝を助けるためにイーを派遣し
ました。 イーは射矢の名手の神人でした。イーは天帝にお別れする時に天帝から一
張りの紅弓と、たくさんの神矢を入れた白矢袋を賜りました。イーは妻(ホンオー)
を連れて人間界に降りてきました。ホンオーは非常に美しい方でした。
尭帝は彼らに会いことのほか喜び、歓迎し、直ちに神力を使い、暴れ狂う太陽を成
敗する事を要請しました。
イーは帝の丁重な要請に呼応し、直ちに天帝から賜った弓矢を取り出し、広場に向
かいました。 そして十個の太陽の一つに狙いを定めて弓を引き、矢を放ちました。
何事もなかった静寂から間を置き、突如太陽が大爆発し火の光が刺し込むや否や、
金色の羽が舞い落ちてきました。 ぎょうぎょうしい声とともに、一塊の赤い物体が
落ちていました。人々は駈け寄ってみると、見た事もない大きな金色の三本足の烏で
でした。その烏(からす)にはイーが放った神矢が刺さったままでした。
天空を見上げると、果たせるかな一つの太陽が消滅し、人々は歓喜の坩堝の中にあ
りました。
この時、イーはさらなる闘志に燃えました。そしてふたたび第二の矢を取り出し、
さらなる太陽を打ち落としました。そして再び天地を震わす歓呼が涌きあがりました
。更に、第三の矢、第四の矢 と、一つ一つ的確に狙いを定め射矢し、一つ一つ太陽
は落下炎上、人々は絶える事なく歓呼の喜びに浸りました。
空気は直ちに冷たくなり、焼けつく旱魃災害はたちどころに消滅しました。 帝は
大変喜びました。しかし、彼は残された一つの太陽を見て、イーの射矢への情熱が尽
きない事から、急いでイーの矢袋から残っている矢を取り出しました。 このように
して、イーを諭し、ただ一つの太陽を残すことにしました。さもなくば、暗黒の世界
となり、人民が生活に支障をきたすから。この神話の故事は漢朝の准南王の劉安の<
准南子・本経訓>にも記載されています。
神話が語るように太陽には黄金の三本足の烏(鴉)がいて、古(いにしえ)人は太
陽を”金烏”又は”赤烏”と称していました。
例として、唐の韓癒の詩”金烏海底初飛来”(太陽がまさに海から出てきたよ)。
白居易の詩”白兔赤烏相趁走”(月と太陽が互いに追っかけっこ)があります。
古人はさらに”烏飛兔走”を,月日の経つことの早さの比喩に使っています。 なぜ
月を”白兔”と呼ぶのでしょうか? たとえば<龍城録>、<酉陽雑爼>には、月に
”広寒宮”又は”広寒清虚之府”と呼ばれる宮殿があり、そこにガマ、薬をつく白兎
、さらには高さが五百丈の桂の木等があると記載されています。
古人は月にたくさんの別名をつけました。 ”月宮”、”月府”、”ガマ宮”、”
桂輪”、”白兎”、”玉兔”等。
詩や文中で、寓話に使用する時、”玉兔”には”金烏”を、”白兔”には”赤烏”
を対として使うことが適切で豊かな詩藻と言えましょう。
上古の時代、シナの荒山には到るところに強暴な毒蛇獣がいて人畜に危害を負わせ
ていました。
<山海経>と<准南子>の書に”封豕”と”長蛇”の二獣の記載があります。
”封豕”または”封稀”とは、巨大猪獣であり、桑林地方に潜み、長い牙、鋭い爪
、牛よりも更に大きく非常に荒荒しく危険な野生獣のことです。
”長蛇”は”修蛇”とも呼ばれ、当時かなりの場所に住み着いていました。伝説に
よる長蛇は長さは百丈、その背中には鋭い毛があり、象が踏むバーンという音をたて
ます。頭は赤く身は白くそして牛の如く「モウ」と吼えることもできるのです。
同庭湖には、強大な大蛇獣がいて人々はそれを”巴蛇”と呼び、黒い身体で青頭、
象一頭を飲み込んだと伝えられています。
其の当時、弓矢に腕の立つ一人の勇士、イーがいました。彼は民衆の為に悪獣を掃討
したい一心で桑林に向かいこの大猪獣を仕留めました。さらには各地に出向き、大蛇
を退治しました。
この神話から、後に人々は「封豕長蛇」の四文字を強暴な侵略者の喩えとして用い
るようになりました。<左伝・定公四年>に載っています。申包胥は秦の哀公に出兵
を願い呉を成敗するように願った時に言いました。「呉はしきりに土地を蚕食する「
封豕長蛇(大悪人)」です。(これは”秦庭之哭”を御覧下さい。)
先に述べた洞庭湖の”巴蛇”は一頭の象を一口で丸呑みしたことから後に”巴蛇呑
象”の成語が生まれました。極端に強欲な形容に用いられます。
<山海経>に記載されている如く巴蛇がその象を飲み込んでから、消化に三年費や
し、やっと象の頭の骨が吐き出されたのです。
神話中の大蛇が、一頭の象を飲み下した話ではありますが、結果として人々に身の
ほど知らずの行動と受け取られました。
このことから、後世人々は”貪心不足蛇呑象”を貪欲で厭くことを知らぬ、身のほ
ど知らずの喩えに用いています。
「兵不厭詐」の意は、戦争中にあっては、勝つために、敵への迷惑、奇計を多用し
て何ら差し支えない。即ち、敵に対し”ばか正直”になることなく、計略を用い、騙
してもなんら差し支え無し、の四字成語です。
中国古代の著名な兵書<孫子兵法・計篇>に記されています。
「兵者、詭道也(戦略家は、 偽りの腹芸なり)」曹操は後に付加えている。「戦
いに定石、形などない、勝利の為には、謀(はかりごと)次第」
※同義語として、唐の李筌曰く「軍不厭詐」と。
その<孫子兵法>の<軍争篇>にも”兵以詐立”の成語が述べられています。唐の
杜牧は「敵を欺き、我が本心、手のうちを知らせない・・・・ことが後に、勝利をも
たらす。」と語っています。
<呂氏春秋>に春秋時代の晋、楚、の”城濮之戦”の一つの故事があります。
: 晋の文公は狐偃に訊ねた。
「楚軍は多勢、我軍は少兵なり、いかにすれば勝てるか!」
狐偃は応えました。
「繁礼之君不足於文、繁戦之君不足於詐、君亦詐之而己」
大意は「礼を重んじる君主はその献上の品が多いほど、豪華絢爛であってもOK、戦
の好きな君主は戦いが多いほど、策が奇策であっったとしても検討し問題としない。
晋王様の採られる道は、この奇策あるのみです。」
※<韓非子・難>には「礼多き君主は忠義を尊ぶのが常道、だが、戦争は敵を欺い
ても差し支えない」と記述在り。
晋の文公は、擁李にも意見を求めた。
擁李は、たまたま偶然に生じた”詐(敵を欺く奇策)”策なら致し方ないが、”詐
”を、ベストな策ではないと主張。
晋の文公は擁李の主張に共感、賞賛しました。
だが、採用したのは狐偃の奇策であり、結果は大勝利を収めたのでした。(参考
:「竭澤而漁」)
「車水馬龍」とは、車馬の往来が絶え間なく活発で、にぎやかな雰囲気の形容に使
われます。
<後漢書・馬后紀>にこの話の由来があります。
馬后は後漢初期の名将馬援の娘でした。明帝の時、妃として入り、後に皇后に成ら
れた御方です。明帝の子供章帝が皇位を継承するに到り、称号は”馬后”となり後に
”馬太后”と呼ばれました。
章帝は馬后の実子ではありませんが、馬后を大変尊敬していたと伝えられています
。章帝は馬家の叔父の官職を引上げた事から、臣下一同は、気にいられようと”おべ
んちゃら”を使い、ひたすら御機嫌を伺う風潮がはびこりました。しかし馬后はこの
ような動きに対し、きっぱりと不快感を述べました。
「概して御機嫌を伺い、取り入ろうとする人はそれなりの利的目的を持っているも
のです。
私が前回、里帰りすると、どの叔父も裕福豪奢な生活で訪問客は跡を断たず、”車
如流水、馬如遊龍(車は流れる水の如く、馬は戯れる龍の如く)”、にぎやかこの上
ありません。 更に、彼らの使用人の服装までもがきらびやかに着飾り一新されてい
ました。我が車夫の服装など遥か及ばない。私はこの時、憤りを押さえ、咎めること
もせず、怒ることもしなかった。しかしこの時以来、彼らを反省させるために、援助
資金を止めました。もし彼ら(叔父達)にさらなる利権、官職を私が与えたとしたら
、一体どう言う事になったかねえ・・・・!」
これが成語”車水馬龍”の生まれた由来です。
戦国時代、秦に一人の将軍がいました。下蔡の人で、名は甘茂(ガンマオ)。秦の
恵王は、戦功により彼を左丞相に任じました。だが、昭王に代り、罪人とされ余儀な
く秦国を離れ斉国に落ち延びて行きました。
このことは<戦国策・秦策>に記載されています。
甘茂が国境近くの函谷関(現在の河南霊宝県南)にさしかかった時、運良く、蘇代
に出合いました。
蘇代は洛陽の人でこの時、秦国訪問を任じられていた斉国の使者でした。甘茂は蘇
代に言いました。
「あなたは、江辺娘の故事を聞いた事はありませんか?」
「ありませんが、是非聞かせてくださいな!」
そこで甘茂は語りました。
江辺には多数の人家があり、娘達が集まり毎晩針仕事をしていました。
その中に貧しい娘がいました。
明かりを灯すろうそくを買うお金がなく、このことで他の娘達から”目先の小利を
むさぼる女”とみなし彼女の参加を嫌うイジメが発生したのです。
この時娘は言いました。
「私にはろうそくを買うお金がありません。しかし、私は皆より先にきて、部屋の掃
除をし、席を整え皆様の為に少しでも快適に作業が出来るように心がけています。
それなりに気をつかっているつもりです。ろうそくの”明かり”は大変貴重です。
私はその明かりを少し拝借したいのです。どれほどの損失がおありでしょうか?」
娘達は話しを聞き、彼女に道理があることをすぐに悟りました。
甘茂はこの故事を語り、さらに言いました。
「私は今、秦を追われ斉国に向かっています。部屋の掃除、席を設けたり、できるこ
とは何でもいたします。貴国のお役にたちたいこの私の願いを聞いて欲しい。」
蘇代は応えました。
「よろしい、わたしはあなたが斉国に留まれるよう、お力になりましょう」
蘇代は甘茂の要求に応え尽力しました。斉のミン王に彼を推薦した結果、甘茂は斉
国の”上卿”に任じられました。
このように他人から便宜を分ち合い、栄誉を受け、おかげを蒙る事を、”借光”又
は”叨光”と呼んでいます。
頴川県(現在の河南省許昌県付近)に、王覇がいた。彼のあざなは元伯。
王覇は仲間を引き連れ劉秀に馳せ、入隊志願した。 劉秀は、歓迎し入隊さ
せた。
以来、王覇は劉秀に忠誠を誓い、数々の戦いに臨んだ。その甲斐あり、昆
陽(現在の河南葉県)の戦役では、王莽を撃破する勲功を立て、劉秀から大
きな信頼を得たのだった。王覇の父もかつては劉秀の兵士であった。「私は
老いた・・、しっかり劉秀に仕えよ!」と言い残した。
王覇は、父の分まで積極的に活躍し、まもなく”大司馬”の位につき、
”功曹吏”(郡の属官吏)に抜擢された。
だが、好い事ばかりは続かない。劉秀軍が黄河を渡り、河北一帯の農民蜂
起鎮圧に向かった時、情勢は一転し、悪化した。当初、王覇と共に入隊した
数十人の同士は次々と去って行った。だがこの苦難にあっても王覇だけは劉
秀の為に尽くしました。 劉秀はこの時、改めて王覇に更なる信頼を持つよ
うになったのです。
「頴川の時、人々は私を頼ってきたが・・・既に彼らは誰一人いない、お前
は残り、私の為に尽力してくれる、まさにこれ疾風知勁草だ。」
その後劉秀は、皇帝(東漢・光武帝)に就くと、王覇を偏将軍に機用し、
直ちに彼を”上谷太守”(上谷郡、源氏あの河北中西部地区)に任じました。
王覇はこの上谷の地で二十数年、始終光武帝の忠実なる片腕の将軍でした。
上記の故事は<後漢書・王覇伝>に記載されています。劉秀の”疾風知勁草”
はその後、四字成語として定着するようになりました。
<宋書・顧覬之伝>での記載: ”疾風知勁草”の意味を述べている:猛烈
な疾風を耐えてこそ、くじけて折れることのない「本物」を知ることができる。
人々は災難に遭遇してもけっして揺るぐことなく、最難関を潜り抜けること
ができる比喩に用います。
”疾風知勁草”は簡略されて”疾風勁草”としても使われます。
この子産について、面白い故事が伝わっています。
ある時、子産は一尾の大活魚をもらいました。
「どうしようか・・?」、熟慮の結果、子産は池の管理人にその魚を池で飼
うように命じました。
けれどもその管理人は、従うことなく、こっそり料理して食べてしまいま
した。さらに一つのデッチ話作りあげ、子産に報告しました。
「命じられた通り、魚を池に放ちました。最初はおとなしくじっとしてしま
したが、まもなく魚は尾をふりながら、ユックリと泳ぎはじめました。が、
しばらくすると突然姿をくらましてしまいました。」と。
子産はそれを聞き、満足して叫びました。「得其所哉、得其所哉!((魚
にとり)それがよかったな、それはよかった)」と。 管理人は腹の底でニ
ンマリ。
その後、管理人は仲間に内情をぶちあけた。「子産って賢い? 知恵者だ
って! ・・・ 俺は、あの魚を既に私の腹の中にネコババしたのによ。だ
のに、よかった、よかった ・・・だからね」。
この故事は<孟子・万章篇>にあり、孟子自ら口述した記録が残っていま
す。
孟子はこの故事を話し終えた後、「この管理人の作り話が、道理に合って
いたから、聡明な子産でさえも騙されてしまった。」と付加えた。
いわゆる「得其所哉」は、魚を貰ってから、理にかなった魚(の身になっ
て)の対処に子産自身が納得し、放った賛辞です。
現在 我々は、その人の願望にふさわしく適合した境遇に満足した時に、
「得其所哉」と使っています。
人がその人に合致した持場を得た時も、”各得其所”として形容されます。

右北平(現在の河北省東北部地区)での事。手負の虎を撃たんがために、
彼は無論やって来てその虎を仕留めました。
また、黄昏時分のある日、山中の草の中の一塊の巨石を見て、これを虎と
思い、直ちに一矢を放ちました。あくる日それを見届けに行ったところ虎で
はなかったが、その矢は巨石にぐさりと深く突き抜いているではありません
か。(唐の詩人の櫨ロンはこの事を題材として詩を詠っています。)
<史記>の記載によれば、李広は漢の文帝の時に入隊し、匈奴との戦いに
多くの功績を残しました。漢の景帝と武帝の時にも匈奴と戦い、多数を相手
に奇襲先鋒にて少数で戦い勝利をものにしました。匈奴はこの李広を畏れな
がらも一方では敬服し彼を”飛将軍”と呼ぶまでになっていました。
ある時、李広はわずかの兵馬をあてがわれただけで多勢の匈奴討伐の命を
うけ、城門をあとにしました。
双方の戦闘力はかけ離れ、李広は手向かう事なく捕虜となりました。
だが、敵の営舎に向かう途中、彼は敵方の不備に突けこみ、突如蜂起。馬
を奪いとり、脱出を図りました。数百人の匈奴兵が懸命に追いかけましたが
、彼の反撃に遭い多数を殺傷し遂に脱出に成功しました。
しかし、無事帰還したにもかかわらず、漢軍は軍法に基づき彼に死罪を命
じたのです。だが、官職を辞し、多額の罰金を納付する事で事無きをえました。
それから数年後、再び匈奴が大挙来襲して来ました。李広は再び召集を命
ぜられ四千の騎兵で参戦しました。其の時、彼は四万の敵兵により包囲され
たのです。彼の部下は大変恐がりました。
そこで李広は彼の息子李敢を使い、数十騎の兵を従え、左から右へ敵陣地
を一直線に突っ走るよう命じました。作戦後、李敢は報告しました。
「 問題ないよ! 匈奴に立ち向かう事は難事ではない。」。
部下達はこれを聞き、安心しました。
李広自らは強靭な弓を携え、敵の武将を射落としました。 さらに連続し
て数人を射ぬき、敵兵の攻勢は次第に衰えてきました。
李広は部下を指揮し、沈着に戦い、その風格において慌てる事は微動だに
ありませんでした。兵士は皆深い感動を受け、彼がいるだけで勇気がみなぎ
って来るのでした。このように我慢を重ね、二日後、援軍が来るや否や敵は
退却したのでした。
最後の匈奴と李広が戦ったのは既に六十歳を越していました。が、彼は活
気に満ち溢れ、老いたるところは見られませんでした。
このとき、衛青が大将軍でした。
李広は作戦において先鋒前将軍でしたが衛青は彼の軍功がさらに耀くのを
恐れ彼を正面から出陣させず、故意に彼の軍を迂回させました。 斥候がい
なかったことから、道に迷い、期日通り、合流する事が出来ませんでした。
その咎で彼は罪に問われました。李広は憤懣やることなく、自ら首を掻っ切
って自刃しました。
李広に従兄弟がいました。名は李蔡、文帝の時、李広と同期の一小官でし
た。声望は李広にはほど遠く、平凡な人でした。
しかしながら、武帝の時李蔡は既に侯爵、官位は丞相でした。だが李広は
一生を匈奴征伐に合計七十数回出陣し”飛将軍”でしたがた、最後は悲惨な
末路を向かえました。李広が抱いていた憤懣遣り方ない仕打ちと運命のいた
ずらを誰が説明できるでしょうか?
”飛将数奇”この成語はこうした中から生まれました。
古来からの言い伝えで、偶数が吉であり、奇数が不吉と見なされています。
李広は才気ある蛮勇な超人的武将であったけれども、不運でした。そこで<史
記>ではこれを”李広老数奇”と記載しています。
能力ある人でしかも不遇に遭う比喩として、”飛将数奇”を使います。
官僚の対応を見るにつけ、食い物にされている 日本人納税者一人一人
が”飛将数奇”でしょうか。
その庄子、暮しは貧しかったと伝えられています。
ある時、彼は借糧の為、知人の監河候(黄河防災地方官)を訪ねました。
監河候は庄氏を助けるつもりはなく、逆に太っ腹を装い言いました。「よっ
しゃ、わかった。近いうちに年貢を取りたてるから、しばらく待て。そうし
たら三百金貸そう。」
庄子はこれを聞きくやいなや”たとえ話”を出し怒りを表わしました。
「昨日ここへ来る道中、弱弱しい声で助けを求める声がした。振り返ると轍
(わだち:往来する車輪により作られた溝)に一尾の鮒が、息絶え絶えの運
命にあった。『頼む、私にわずかの水でいいから今欲しい、助けてくれ!』
よし、よし。私は呉、越の国王に謁見しに行く途中だ。南方は水がたっぷ
りある。私があなたの為に長江の水を引くことにしよう。 その鮒は言いま
した。『今、私は生き延びるには、今すぐに水が欲しいのです。だのにあな
たは私が日干しとなり乾物店に売りに出されるのを望んでいるごとくの回答
ではないでしょうか?』」と。
この故事は<庄子・外物>に記載あり。
この故事から、極度の貧困にあり、緊急に援助救済が必要な人々の比喩と
してこの「涸轍之鮒」(涸は水が干上がった状態、涸轍は干上がった車輪の
轍の溝)が使われます。また時には「車轍鮒魚」、また簡略して「涸轍」、
「涸鮒」としても用いられます。
例えば唐朝の李白の詩
涸轍思流水、浮雲失旧居・・・・
南朝 庚信の詩
涸鮒当思水・・・・・ 等に 詠まれています。
お金を借用する時、「斗升之水」と用います。
緊急な貧困救済を受けた謝辞として、”幸蘇涸轍”を用います。
悪い事に、狐は、ばったり虎に出くわした。
『殺られる!』、・・・狐は間髪を入れず、虎に言い放った。
「待て!、我は 天帝の命により遣わされた大王である。もし、我に歯向か
うのは、天命違反である。よって、きさまの命はないぞ!」 だが、信じるよ
うな虎ではない。狐はさらに続けた。
「信じないのであろう。うん! よし、それなら森の百獣どもが、我をどの
ように畏れているか、我の後ろについてまいれ、そして特と見よ!」
狐はそう言って、虎の前に立ち胸を反り上げ、大威張りで歩き出した。虎は
半信半疑で狐の後について歩いた。果たせるかな、森の百獣は彼らを見るなり
畏れをなして逃げ去って行きました。
虎は狐を本当の”百獣の王”として判断を誤まったばかりでなく、山の百獣
が恐れていたのは、「虎」自身であることを見抜く事ができませんでした。
この故事は<戦国策・楚策>、<新序・雑事>篇に記載されています。
楚国は戦国時代、南方の大国でした。
北方各国は、楚の将軍昭渓血を畏れていた。 ある日、楚の宣王は、大臣
達に向かって昭渓血は、それほどに恐ろしい存在なのかと訊ねました。昭渓
血と不仲の大臣・江乙は、やおら宣王に対し上記の寓話を持ち出し、進言した。
「現在、楚王の領地は四方千里、武装兵士は百万。北方各国、すべて将軍
昭渓血を畏怖、だが実態は楚王の軍事力を畏怖。百獣が狐ではなく虎を畏れ
るが如し。」
江乙の意図は、一つには楚王の百万の強力な兵士を傘に威力を誇示してい
る昭渓血の実態、さらなる一つは、昭渓血によって操られている楚王に、国
家の現実を直視掌握してもらいたい事にあった。
後に、人々は、上記の故事を”虎威狐假”の四字(この假は、借るのこと
です。)に要約。
その後,人々は”狐假虎威”を併用し、他人の威勢に頼り、驚かす比喩の成
語として使っています。
申包は私上の恨みで祖国に矢を向けることのないよう彼を説得したが・・・
、伍子は聞く耳をもたなかった。
申包は「もしも貴殿が楚の国の滅亡を企てるなら、私も誓う、・・・楚国の
復興を!」。両名はこの時から盟友関係を断ったのです。
呉国に向かった伍子は、呉の公子を担ぎ政権を奪取、呉王ホーリーを擁立し
た。さらに呉王ホーリーを策動し、楚の内乱に乗じて、楚の都城インを陥した。
既に、楚の平王は亡くなり、平王の子、昭王は命からがら敗走した後だった。
伍子は楚の平王の屍を掘り出して、死体に三百の鞭を打ち、仇討ちを遂げたの
でした。
この行動に申包は伍子の憤怒し、直ちに楚の昭王を探して楚国復興を話し
合いました。しかしながら、この時すでに、楚国は衰弱し、隣国の援助を請わ
ねばならない状況に置かれていた。申包は秦からの救援を請う事を主張をしま
した。なぜなら、楚の平王皇后は秦哀公の娘、即ち楚の昭王は秦哀公の甥、必
ず秦は見捨てることはないと確信していたからです。
楚の昭王は賛同し、直ちに申包を特使として秦国に派遣。申包は秦の哀公に
謁見し、直ちに危急存亡にある楚国の現状と、理不尽な呉国の横暴を述べまし
た。そして貪欲な呉は必ず拡大し、中原に入り楚を滅ぼし、更には秦国の平和
を乱すと指摘。 楚の復興支援だけでなく、秦国自身の安全のために、呉討伐
を要請したのです。
しかし、秦哀公は戦うことを望まず、「遠路はるばる御苦労、先ずはお休み
くだされ、それからお話を聞きましょう」と。申包を呈よくあしらうだけでした。
申包は退出することをせず、重ねて要請を繰り返すのですが、秦哀公は取り合
いません。
それからというもの申包は、壁に立ち、一水も飲まず、嗚咽しながら日夜懇願
し通しました。
泣き通して七日目、申包は既に朦朧、それでも意識を省みず訴え続けていまし
た。秦の哀公は遂に心を動かされた。「楚国にはこのような忠誠心溢れる愛国の
士がいるとは! 我々は楚国復興のために援助せずにおられようか!」と、公自
らが申包の頭を両手で抱え上げ、彼に水を与え、薬を飲ませ介護し、彼に向かっ
て無衣の詩を朗吟した。
この無衣の詩中に、武器を手に共同の敵に立ち向かう秦国の意気込みを感じ取
り、申包は秦哀公が出兵を決断したことを悟りました。其の瞬間、最大の謝意を
表す為に、頭を九回叩き付けたのです。
秦国は二人の大将を派遣し、戦車五百輌(合計四万人の兵員)と楚国の残余の
軍が結集し起ちあがり、ほどなく呉軍を打ち破りました。
呉王ホーリーの兄弟はこの混乱に乗じて自分の部隊を引き連れて、王位奪取に
動いた。だからホーリーは急遽戦いを停止、内乱に対処せざるをえなかった・・・。
楚国は失っていた国土をやっと取り返しました。楚昭王はこの時から政治を改革
し、賢人を抜擢し楚国は次第に強国の地位を次第に回復したのです。
これがすなわち”申包吏哭秦庭”の故事です。<左伝>、<国語><史記>等に
記載されています。無力な人による武器、武力に頼らない「懇願による勝利」は、
この故事を引用し”哭秦庭”、又は”秦庭之哭”と呼ばれています。
晋の国王はこの礼物を見て非常に喜び、歌姫の半数八名を功臣の魏縫に与え
ようとした。
「この数年来、朕の為によくやった!。そなたの諜報活動のおかげだ。
万事筋書き通り。
バランスと、テンポのいい音楽の如し。予は満足じゃ。山分けしようぞ!」
しかし、魏縫は国王からの贈呈を固辞。逆に国王に直訴した。
この魏縫の話は<左伝、譲公十一年>に記載されている。
大意:「晋は現在、大変順調です。功労者の第一は晋悼公の才能、次は家臣一
同の結束力です。私一人の貢献ではありません。さて、この絶好調な時にありて
こそ、国家のなすべき重要項目を片付けることを進言します。 <書経>にも述
べられている「居安思危、思則有備、有備無患」、この句を国王に謹んで奉献し
たい。」
「居安思危」後に成語として定着。その意味するところ:平安な時にこそ、常に
想定されるであろう発生の危険を思い起こすべきだ。このような警戒心があって
こそ事に先んじる準備であり、有事に備えての危機を避けることが出来る。これ
即ち「有備無患(準備あれば憂いな)し」。