江西南昌市新建県の西北に、大きな石の塊がありました。石頭渚
と呼ばれていましたが、後に投水渚と呼ばれるようになりました。
なぜでしょう?
ここに一つの伝えられる故事があります。
晋朝に殷羨と呼ばれる大官がいました。字を洪喬、“豫章太守”
に任じられていました。豫章郡とは、現在の江西省南昌です。
晋代の文人名士は、それぞれが一大センセーショナルを巻き起こ
し、コセつくことなく、思い通りに振る舞い、豪放磊落、其の実荒
唐無稽でした。 この洪喬がまさにその通り。
南昌離任にあたり、彼にはたくさんの手紙が託されました。
当時、現在のような郵便局はありません。通信は困難を極め、家
への手紙又は友人間の連絡は、人に託しての“やりとり”でした。
今回も殷洪喬に託した手紙は、百通を越えました。しかし、彼が
石頭渚に着くやいなや、これらの手紙を全て水面に投げ捨て、これ
らの手紙に語りました。
「愛が濃いのは沈み、軽薄だと浮くがいい、我には関係なし、殷
洪喬は、郵便配達夫ではないからな。」
彼は、まったく無責任、変人です。このことから石頭渚は別名、
投水渚と呼ばれるようになりました。
後に人々は、郵便物が遺失した時、この故事から、
「難道誤付洪喬了解マ?(まさか洪喬に頼んだのではないだろうね
?)」
“誤付洪喬”(洪喬に頼むべきでない)、この成語は此処から生
まれました。
故事の原典は≪世説新語・任誕≫に記されています。
戦国時代、斉国の淳イークンは小柄で弁の立つ人でした。
斉の宣王は、賢士を招聘したかったので、淳イークンに相談した
ところ、その日の内に七名を推挙しました。
王は淳イークンに尋ねました。
「賢士は得難いと聞いている。千里の道もいとわず、百年の歳月
をかけても一人も遭遇できないと言われているのだが・・・、貴殿
は七名も推挙した・・・、多いではないか?」
淳イークンは答えて言いました。
「いえいえ、鳥には鳥の、獣には獣の仲間がいます。同種の鳥は
寝起きを共にし、獣も同様に住みかを同じにします。もしも柴胡、
桔梗等の漢方薬を探そうと池湖沼に行ったら、一生探すことはでき
ません。それらは皆山里に生長しているから。もしもガオ黍山、梁
父山に行き探せば数台の車に一杯満載できます。
これを“物各有類”と呼びます。
私はもともと、賢士と同じ里で生活していますから、私が賢士を
探すには費用も手間もかかりません。河から水を取るが如し、火打
ち石で火を起こすが如くです。
私は今後も賢士を推薦継続するつもりですが、この七名でよろし
いでしょうか!」
“物各有類”は≪戦国策・斉策≫ではこの故事を“物各有畴”と
記しています。
≪易経・系辞≫にも一句記されています。“方以類聚、物以群分
”(方は方法で、物は事物)
≪荀子・勧学≫にもこのような話があります。“物類之起、必有
所始。・・・草木畴生、禽獣群焉、物各従其類也”
“物各有類”、“物各有畴”、“物以群分”、“物従其類”、こ
れらの成語の意味は皆似て、後に一般に“物以類聚、人以群分”は、
悪い人は概して悪い人と一緒にいる比喩に用いられます。
成語の意味:類は友を呼ぶ 。
“五日京兆”この成語は漢の張敞の故事が出典です。
張敞、字を高、漢宣帝時、“京兆尹”(京城長安の府尹)に任じ
られていました。
彼と楊揮は親友でした。
その後、楊揮は罪を犯し、死刑の判決を受けました。日頃、楊揮
と比較的親密な大官は全て連帯処分を受けました。公卿達は張敞も
処分を受けるだろうと見なしていました。が、宣帝は彼の才能を買
い、彼を不問にしました。
張敞の部下絮舜は盗賊取締官をしていましたが、公卿達による張
敞の処分要求の動きを聞き取り、直ちに張敞は罷免されると早とち
りし、その後指揮に従わず、仕事もせず、勝手に家に帰り、したい
放題。
ある人がこれではいけないと諭しましたが、彼は反論しました。
「私は一生懸命張敞に尽くしてきたが、彼はせいぜいあと‘五日京
兆耳’(五日程でお役御免だ。)」
張敞はこれを聞き、直ちに絮舜を逮捕しました。その時、大みそ
か、張敞は春節前に間に合うように絮舜に死罪を下しました。
死刑執行の直前 張敞は人を派遣し、絮舜に申し渡しました。
「お前は言ったな、‘五日京兆(しばらくの在職だ)’と、現在ど
うか? お前は・・・、生き延びたいだろうな-」
“五日京兆”は後に一句の成語となりしばらくの在職官吏の形容
として、いつでも離職の運命にある時使われます。
成語“東山再起”は、東晋の謝安の故事です。
謝安、字を安石、晋の武帝(司馬曜)に仕えた大臣でした。
≪晋書・謝安伝≫によれば、謝安は頗る上品な修養と風格があり、
若い時から、既に頭角を現していました。
揚州刺使であるイービンは、懇ろに任官要請をするのですが、彼
にその気はありません。
最後の手段として推薦委託し、無理に官吏に登庸したのですが一
ヶ月そこそこで彼は休みを申し出てその後出仕しませんでした。そ
の後、朝廷の要請も固辞。
吏部尚書の范汪は、彼を吏部郎として推挙しましたが、やはり、
断りました。
さらに、直ちに会稽(現在の浙江省紹興)の東山に隠遁し、政と
縁を切ることを表明しました。
“南郡公”として封じられていた桓温は軍事大権を掌握し、その
当時彼に及ぶ者はいない権勢を誇っていました。
彼は謝安を桓温軍府の司馬に任じる命を下し、ここにとうとう山を
出ることになりました。
桓温の死後、彼は尚書仆射撃(宰相と同格)に昇格しました。
北部の秦の国王苻堅が兵を率いて南に侵攻した時、謝安は征討大
都督でしたが彼の甥建武将軍謝玄とともに戦い、百万の秦軍を肥水
において撃破しました。
この戦いは歴史上著名な少数で多数を打ち負かした戦役の例です。
謝安が東山に嘗て隠遁し、その後再び政治の舞台に登場し、声望
は一層高まりました。このことから、退いた者が再び世に現れるこ
とを“東山再起”と言うようになりました。
失敗の後、使われる比喩に“捲土重来”がありますが、“東山再
起”と同意です。
成語の意味:勢力を盛り返すこと。返り咲く、巻き返す。
“不渝”は、不変の意味です。操、志、願、誓など、決意した時
から堅持、守り通す、これが成語“始終不渝”の意味です。
≪詩経・鄭風・羔裘≫に二つの句があります。
“彼其之子、舍命不渝。(あの人、命を犠牲にする事もいとわず、
決意、不変なり)”、“不渝”の語からして、古来の話です。
≪晋書・謝安伝≫には、謝安若かりし時、既に名を上げていたこ
とが伺えます。
揚州刺史のユイビンは彼の任官を固く要請したことから謝安は仕
方なく応じましたが一ヶ月多で帰宅しました。その後の朝廷からの
要請も、全て固辞。
彼は会稽(現在の浙江省紹興)の東山に住み、隠者の“清高”
な暮らしを望んでいました。しかしながら、後にやはり、朝廷の命
を受けざるをえなくなり、大官になりました。
“東山再起”に伝えられているが如く、彼が大官に就いても、東
山隠居の念願は、始終、放棄することはしませんでした。
≪謝安伝≫に、“安雖受朝寄、然東山之志、始末不渝(朝廷の要
請は受けるけれども東山の志は今も変わることはない)”と記され
ています。ーーーこの中の句“始末不渝”は現在では“始終不渝”
です。
≪新唐書・魏徴伝≫に記されています。
魏徴は剛直で勇気を持って諫める官僚でした。唐太宗の時の著名
な大臣でした。
ある時太宗は人を派遣し名馬宝飾などの高価な金品を探し求めよ
うとしましたが、魏徴は此に賛成しません。直ちに上書し諫めまし
た。
「我、此処に仕えて十余年、陛下の臣として“仁義之道、守而不
失(仁義之道、これを守り通す)倹約朴素、始終弗渝(倹約質素、
これを貫く)、徳音在耳、不敢忘也(この良き句、忘れてはなりま
せんよ)”」
この中に“始終弗渝”は、現在“始終不渝”として使われていま
す。
成語の意味:終始一貫ぐらつかない
“欲速不達”、この成語は≪論語・子路≫が出典です。関係箇所
を抜粋します。
子夏は姓をト、名を商、春秋時代、衛の人。
孔子、お気に入りの門下生の一人です。
チウ父(現在の山東省高密県東南)は地名です。
子夏はチウ父県の県長に任命されました。赴任する前に彼の恩師
(孔子)にどうすれば良い政事ができるのか教えを請いました。
孔子の答えは、二つの句でした。一つは“無欲速”、もう一つは
“無見小利”です。
孔子曰く「単に計画が早いのはいけない。ただ計画が早いだけで
は、逆に目的に到達はできない。目の前の小利に気を奪われてはい
けない。往々に小利に走ると、大事は達成できない。」
事情がどうであれ、「快」は一般に悪いことではない。が、早い
と同時に品質(保証)と効果が要求される。単に「快」を追い求め
るならば、いい加減で軽薄でみすぼらしくなりやすく、甚だしきは
誤りと錯誤と損失を生む。
これは、早いことではなく、逆に一層面倒である。
所謂“欲速則不達”或いは“欲速不達”である。
清朝人、馬時芳の≪朴麗子≫に一つの故事があります。“欲速不
達”の具体例と言えるでしょう。
或る男が蜜柑を担ぎながら城門へ向かいました。空は暗くなって
来ました。城門が閉まることを心配し、閉門に間に合うようにと心
は急いでいました。 うまい具合に一人の男が歩いてきたから、訊
ねました。
「間に合うだろうか?教えてくれないか?」。その人は彼が慌て
ふためいている様子を見て答えました。
「敢えて、ゆっくり歩けば、・・・多分間に合います。」。
蜜柑を担いだ人はこれを聞いて、怒り、その男がわざと冗談を言
っているものと解釈しました。
「なんだって、ゆっくり行けば城に入れて、急げば反対に城門に
入れない、だって・・・!」
彼は心の中でつぶやきながら歩く速度を速め、今度は駆け出しま
した。
不覚にも、転んでしまいました。蜜柑はあたりに飛び散り、転げ
ました。彼は急いで拾い集め一つ一つ籠に入れました。そしてやっ
と拾い終わりました。その時、空は既に真っ暗、城門はぴったり閉
まって城(都)に入ることはできませんでした。
“呉牛喘月”は過剰に畏れる比喩の成語です。
呉牛、これは江南一帯の水牛を指します。水牛は暑さを嫌うため、
夏は水辺で水浴し、木陰で休むのが好きです。
水牛は真昼の照りつける太陽を最も怖がります。夜、月を見てこれ
を太陽と錯覚し、驚き慌てぜーぜーぜんそくを引き起こすこともあり
ます。
何かのきっかけで、常に警戒防備する人が、幻でそのような状況が
再現したと勘違いし、心神不安定に陥り畏れる状況を“呉牛喘月”と
いいます。
≪世説・言語≫ に記されています。
晋初、“尚書令”に就任した満奮は、ある時晋の武帝にお目通りを
したことがありました。
武帝は彼を北窓に座らせました。北窓には透明の琉璃屏風が立って
いて、風を通しませんが満奮は吹きさらしと思い込んでいました。
元来、満奮は風が嫌いで、北窓へは行きたくありません。だが、皇
帝に命じられ弱り果てました。
晋の武帝は、満奮が風を怖がるのを知っていたことから、この様な
彼を見て、屏風の琉璃を見分ける事ができないと察知、そこで琉璃屏
風を指さし、笑い出しました。
この時、満奮はやっと自分が笑われていることに気付きました。彼
は北窓の座席に向かいながら自らを嘲笑して言いました。
「臣犹如呉牛、見月而喘(私は呉牛と同じ、月を見て喘いでいる)。」
“食言”は、≪尓雅≫の解釈によると、“食は言の偽りなり。・・
・言うが行わず、食べると物が無くなるが如く、結局は言ったことを
為さず、偽る・・・、故に通称、偽言為食言(偽言、たわごとは、言
を食い尽くすこと也)だ。”
すなわち、嘘、は皆“食言”と言うことができる。物を食べれば、
物は無くなる。嘘もこのように言い終わればそれまで、言った約束を
実行されることはない。
言ったことを、守らず、ただ、自分自身に都合よく話を形容して“
食言而肥”と言います。
承諾し、言ったことは必ず着実に固い決意で実行することを“決不
食言”と言います。
この成語の出典は、≪左伝・哀公二十五年≫の一段落に記されてい
ます。
春秋時代のこと、魯国の大夫孟武伯は一貫して話がいい加減でした。
魯哀公は彼に大変不満でした。
ある時、魯哀公は五梧地方にて、宴会を挙行、孟武伯も例により参
加しました。さらに郭重の大臣も列席していました。この郭重、大変
太っていました。平時は哀公からかわいがられていたことから、孟武
伯の嫉妬とやっかみを買っていたのでした。
この宴会で孟武伯は、哀公への献杯の機会を利用して郭重に皮肉を
込めて言いました。
「貴殿はいったい・・・、何を食べて、このように太ったのか?」
魯哀公はこれを聞き、嫌悪を感じたので話に割り込み、郭重に代わ
って返答しました。
「食言多也、能無肥乎(嘘が多いから、太ることはできないよ!)」
この句の話は明らかに正反対、孟武伯が常に嘘を言う事への皮肉で
す。
さらにこのような盛大な宴会の席で、国の君が直接口を出した事か
ら、孟武伯は赤面し、大恥をかきました。
韓愈は唐代の著名な文学者として声望高く、また重要官職に就いて
いましたが、何もかも順風ではありませんでした。
彼の遺作文章から社会に不満を述べていることから読みとれます。
彼の諷刺を込めた一篇、≪送貧文≫に著わされています。
韓愈は貧乏神を追い立て、責めることで、貧乏神の弁解を書き記し、
それを≪送貧文≫に纏めました。
大意:
某年某月某日、主人(韓愈自称)“結柳作車、縛草為船”、併せて、
ささやかな食事を準備し、貧乏神に立ち去ることをお願いする。
貧乏神等は、立ち去らず、どなりながら、「こうして四十多年、あ
なたの昇進名誉を妨害することもなく、あなたを、侮り恨み嫌う所謂、
凶神悪鬼同様に認識されてます。私たち貧乏神は、むしろ暗闇の中で
あなた様を見守っているのですよ。」、
さらに「あなた様は我々数名でさえ、いまだどのようか、知らず、
根本的に実態を知っていません。どのように聞き信じ込み、誰にそそ
のかされて、理由もなく我々を追い立てようとするのでしょうか?」
主人は答えて言いました。「あなた方は即ち五名、私が知らないだ
って?、第一名は"智窮(智の欠乏)"だ。わたしの面子を無くし、言葉
を味気なくさせます。「智」は人々の願望です。
第二が“学窮”、その次が“文窮”、その次が“命窮”と“交窮”
だ。
およそ、この五鬼、私には五患である。私を飢えさせ、寒くさせ、
訛らせ、誹られ、迷わされ・・・、人間失格とさせる。」
貧乏神はこれを聞いて、不服、再び弁明をする。
最後に“主人”が、“窮”は確実に最も悪い者ではないと認め、そ
こで原意をうち消し“上手称謝(礼を述べ)“さらに“延之上座(上
座をすすめる)”となる。
この篇の文章中で“面目可憎、語言無味”の句が後に成語として広
がりましたが、一般には全く逆に“語言無味、面目可憎”と伝えられ、
耐えられないほど俗っぽく、話が聞きづらく、容貌が悪い形容として
使われます。