「成語典故(十)」

※「成語典故」 遼寧省 人民出版社  著者:沈  同 衡
                     翻訳:うどん侍・福蔵


127.誤付洪喬

  江西南昌市新建県の西北に、大きな石の塊がありました。石頭渚
と呼ばれていましたが、後に投水渚と呼ばれるようになりました。
なぜでしょう?
 ここに一つの伝えられる故事があります。

 晋朝に殷羨と呼ばれる大官がいました。字を洪喬、“豫章太守”
に任じられていました。豫章郡とは、現在の江西省南昌です。

晋代の文人名士は、それぞれが一大センセーショナルを巻き起こ
し、コセつくことなく、思い通りに振る舞い、豪放磊落、其の実荒
唐無稽でした。 この洪喬がまさにその通り。

 南昌離任にあたり、彼にはたくさんの手紙が託されました。
 当時、現在のような郵便局はありません。通信は困難を極め、家
への手紙又は友人間の連絡は、人に託しての“やりとり”でした。

 今回も殷洪喬に託した手紙は、百通を越えました。しかし、彼が
石頭渚に着くやいなや、これらの手紙を全て水面に投げ捨て、これ
らの手紙に語りました。
 「愛が濃いのは沈み、軽薄だと浮くがいい、我には関係なし、殷
洪喬は、郵便配達夫ではないからな。」

 彼は、まったく無責任、変人です。このことから石頭渚は別名、
投水渚と呼ばれるようになりました。

 後に人々は、郵便物が遺失した時、この故事から、
「難道誤付洪喬了解マ?(まさか洪喬に頼んだのではないだろうね
?)」

 “誤付洪喬”(洪喬に頼むべきでない)、この成語は此処から生
まれました。
 故事の原典は≪世説新語・任誕≫に記されています。


126. 物以類聚(ウー2・イー3・レイ4・ジー4)

   戦国時代、斉国の淳イークンは小柄で弁の立つ人でした。
 斉の宣王は、賢士を招聘したかったので、淳イークンに相談した
ところ、その日の内に七名を推挙しました。
 王は淳イークンに尋ねました。
 「賢士は得難いと聞いている。千里の道もいとわず、百年の歳月
をかけても一人も遭遇できないと言われているのだが・・・、貴殿
は七名も推挙した・・・、多いではないか?」

 淳イークンは答えて言いました。
 「いえいえ、鳥には鳥の、獣には獣の仲間がいます。同種の鳥は
寝起きを共にし、獣も同様に住みかを同じにします。もしも柴胡、
桔梗等の漢方薬を探そうと池湖沼に行ったら、一生探すことはでき
ません。それらは皆山里に生長しているから。もしもガオ黍山、梁
父山に行き探せば数台の車に一杯満載できます。
 これを“物各有類”と呼びます。
 私はもともと、賢士と同じ里で生活していますから、私が賢士を
探すには費用も手間もかかりません。河から水を取るが如し、火打
ち石で火を起こすが如くです。
 私は今後も賢士を推薦継続するつもりですが、この七名でよろし
いでしょうか!」

 “物各有類”は≪戦国策・斉策≫ではこの故事を“物各有畴”と
記しています。
 ≪易経・系辞≫にも一句記されています。“方以類聚、物以群分
”(方は方法で、物は事物)

 ≪荀子・勧学≫にもこのような話があります。“物類之起、必有
所始。・・・草木畴生、禽獣群焉、物各従其類也”

 “物各有類”、“物各有畴”、“物以群分”、“物従其類”、こ
れらの成語の意味は皆似て、後に一般に“物以類聚、人以群分”は、
悪い人は概して悪い人と一緒にいる比喩に用いられます。

 成語の意味:類は友を呼ぶ 。



125. 五日京兆(ウー・リー・ジン・ジャオ4)

   “五日京兆”この成語は漢の張敞の故事が出典です。
 張敞、字を高、漢宣帝時、“京兆尹”(京城長安の府尹)に任じ
られていました。
 彼と楊揮は親友でした。
 その後、楊揮は罪を犯し、死刑の判決を受けました。日頃、楊揮
と比較的親密な大官は全て連帯処分を受けました。公卿達は張敞も
処分を受けるだろうと見なしていました。が、宣帝は彼の才能を買
い、彼を不問にしました。

 張敞の部下絮舜は盗賊取締官をしていましたが、公卿達による張
敞の処分要求の動きを聞き取り、直ちに張敞は罷免されると早とち
りし、その後指揮に従わず、仕事もせず、勝手に家に帰り、したい
放題。
 ある人がこれではいけないと諭しましたが、彼は反論しました。

「私は一生懸命張敞に尽くしてきたが、彼はせいぜいあと‘五日京
兆耳’(五日程でお役御免だ。)」
 張敞はこれを聞き、直ちに絮舜を逮捕しました。その時、大みそ
か、張敞は春節前に間に合うように絮舜に死罪を下しました。

 死刑執行の直前 張敞は人を派遣し、絮舜に申し渡しました。
「お前は言ったな、‘五日京兆(しばらくの在職だ)’と、現在ど
うか? お前は・・・、生き延びたいだろうな-」

 “五日京兆”は後に一句の成語となりしばらくの在職官吏の形容
として、いつでも離職の運命にある時使われます。


124. 東山再起

   成語“東山再起”は、東晋の謝安の故事です。
 謝安、字を安石、晋の武帝(司馬曜)に仕えた大臣でした。

 ≪晋書・謝安伝≫によれば、謝安は頗る上品な修養と風格があり、
若い時から、既に頭角を現していました。
 揚州刺使であるイービンは、懇ろに任官要請をするのですが、彼
にその気はありません。
 最後の手段として推薦委託し、無理に官吏に登庸したのですが一
ヶ月そこそこで彼は休みを申し出てその後出仕しませんでした。そ
の後、朝廷の要請も固辞。

吏部尚書の范汪は、彼を吏部郎として推挙しましたが、やはり、
断りました。
 さらに、直ちに会稽(現在の浙江省紹興)の東山に隠遁し、政と
縁を切ることを表明しました。

 “南郡公”として封じられていた桓温は軍事大権を掌握し、その
当時彼に及ぶ者はいない権勢を誇っていました。
 彼は謝安を桓温軍府の司馬に任じる命を下し、ここにとうとう山を
出ることになりました。

 桓温の死後、彼は尚書仆射撃(宰相と同格)に昇格しました。
 北部の秦の国王苻堅が兵を率いて南に侵攻した時、謝安は征討大
都督でしたが彼の甥建武将軍謝玄とともに戦い、百万の秦軍を肥水
において撃破しました。
 この戦いは歴史上著名な少数で多数を打ち負かした戦役の例です。

 謝安が東山に嘗て隠遁し、その後再び政治の舞台に登場し、声望
は一層高まりました。このことから、退いた者が再び世に現れるこ
とを“東山再起”と言うようになりました。

 失敗の後、使われる比喩に“捲土重来”がありますが、“東山再
起”と同意です。

  成語の意味:勢力を盛り返すこと。返り咲く、巻き返す。


123. 始終不渝(シー3・ジョン・ブー・ユイー2)

  “不渝”は、不変の意味です。操、志、願、誓など、決意した時
から堅持、守り通す、これが成語“始終不渝”の意味です。

 ≪詩経・鄭風・羔裘≫に二つの句があります。
“彼其之子、舍命不渝。(あの人、命を犠牲にする事もいとわず、
決意、不変なり)”、“不渝”の語からして、古来の話です。

 ≪晋書・謝安伝≫には、謝安若かりし時、既に名を上げていたこ
とが伺えます。
 揚州刺史のユイビンは彼の任官を固く要請したことから謝安は仕
方なく応じましたが一ヶ月多で帰宅しました。その後の朝廷からの
要請も、全て固辞。
  彼は会稽(現在の浙江省紹興)の東山に住み、隠者の“清高”
な暮らしを望んでいました。しかしながら、後にやはり、朝廷の命
を受けざるをえなくなり、大官になりました。

 “東山再起”に伝えられているが如く、彼が大官に就いても、東
山隠居の念願は、始終、放棄することはしませんでした。

 ≪謝安伝≫に、“安雖受朝寄、然東山之志、始末不渝(朝廷の要
請は受けるけれども東山の志は今も変わることはない)”と記され
ています。ーーーこの中の句“始末不渝”は現在では“始終不渝”
です。

 ≪新唐書・魏徴伝≫に記されています。
 魏徴は剛直で勇気を持って諫める官僚でした。唐太宗の時の著名
な大臣でした。

 ある時太宗は人を派遣し名馬宝飾などの高価な金品を探し求めよ
うとしましたが、魏徴は此に賛成しません。直ちに上書し諫めまし
た。
 「我、此処に仕えて十余年、陛下の臣として“仁義之道、守而不
失(仁義之道、これを守り通す)倹約朴素、始終弗渝(倹約質素、
これを貫く)、徳音在耳、不敢忘也(この良き句、忘れてはなりま
せんよ)”」

 この中に“始終弗渝”は、現在“始終不渝”として使われていま
す。

  成語の意味:終始一貫ぐらつかない


122. 欲速不達(ユイ4・スー4・ブー・ダー2)

  “欲速不達”、この成語は≪論語・子路≫が出典です。関係箇所
を抜粋します。

 子夏は姓をト、名を商、春秋時代、衛の人。
 孔子、お気に入りの門下生の一人です。
 チウ父(現在の山東省高密県東南)は地名です。

 子夏はチウ父県の県長に任命されました。赴任する前に彼の恩師
(孔子)にどうすれば良い政事ができるのか教えを請いました。
 孔子の答えは、二つの句でした。一つは“無欲速”、もう一つは
“無見小利”です。

 孔子曰く「単に計画が早いのはいけない。ただ計画が早いだけで
は、逆に目的に到達はできない。目の前の小利に気を奪われてはい
けない。往々に小利に走ると、大事は達成できない。」
 事情がどうであれ、「快」は一般に悪いことではない。が、早い
と同時に品質(保証)と効果が要求される。単に「快」を追い求め
るならば、いい加減で軽薄でみすぼらしくなりやすく、甚だしきは
誤りと錯誤と損失を生む。

 これは、早いことではなく、逆に一層面倒である。
 所謂“欲速則不達”或いは“欲速不達”である。

 清朝人、馬時芳の≪朴麗子≫に一つの故事があります。“欲速不
達”の具体例と言えるでしょう。

 或る男が蜜柑を担ぎながら城門へ向かいました。空は暗くなって
来ました。城門が閉まることを心配し、閉門に間に合うようにと心
は急いでいました。 うまい具合に一人の男が歩いてきたから、訊
ねました。
 「間に合うだろうか?教えてくれないか?」。その人は彼が慌て
ふためいている様子を見て答えました。

 「敢えて、ゆっくり歩けば、・・・多分間に合います。」。
 蜜柑を担いだ人はこれを聞いて、怒り、その男がわざと冗談を言
っているものと解釈しました。

 「なんだって、ゆっくり行けば城に入れて、急げば反対に城門に
入れない、だって・・・!」
 彼は心の中でつぶやきながら歩く速度を速め、今度は駆け出しま
した。

 不覚にも、転んでしまいました。蜜柑はあたりに飛び散り、転げ
ました。彼は急いで拾い集め一つ一つ籠に入れました。そしてやっ
と拾い終わりました。その時、空は既に真っ暗、城門はぴったり閉
まって城(都)に入ることはできませんでした。


121. 呉牛喘月(ウー・ニウ・チュアン3・ユエ4)

  “呉牛喘月”は過剰に畏れる比喩の成語です。
 呉牛、これは江南一帯の水牛を指します。水牛は暑さを嫌うため、
夏は水辺で水浴し、木陰で休むのが好きです。
 水牛は真昼の照りつける太陽を最も怖がります。夜、月を見てこれ
を太陽と錯覚し、驚き慌てぜーぜーぜんそくを引き起こすこともあり
ます。

  何かのきっかけで、常に警戒防備する人が、幻でそのような状況が
再現したと勘違いし、心神不安定に陥り畏れる状況を“呉牛喘月”と
いいます。

   ≪世説・言語≫ に記されています。
 晋初、“尚書令”に就任した満奮は、ある時晋の武帝にお目通りを
したことがありました。
 武帝は彼を北窓に座らせました。北窓には透明の琉璃屏風が立って
いて、風を通しませんが満奮は吹きさらしと思い込んでいました。
 元来、満奮は風が嫌いで、北窓へは行きたくありません。だが、皇
帝に命じられ弱り果てました。

 晋の武帝は、満奮が風を怖がるのを知っていたことから、この様な
彼を見て、屏風の琉璃を見分ける事ができないと察知、そこで琉璃屏
風を指さし、笑い出しました。

 この時、満奮はやっと自分が笑われていることに気付きました。彼
は北窓の座席に向かいながら自らを嘲笑して言いました。

「臣犹如呉牛、見月而喘(私は呉牛と同じ、月を見て喘いでいる)。」



120.食言而肥

 “食言”は、≪尓雅≫の解釈によると、“食は言の偽りなり。・・
・言うが行わず、食べると物が無くなるが如く、結局は言ったことを
為さず、偽る・・・、故に通称、偽言為食言(偽言、たわごとは、言
を食い尽くすこと也)だ。”

 すなわち、嘘、は皆“食言”と言うことができる。物を食べれば、
物は無くなる。嘘もこのように言い終わればそれまで、言った約束を
実行されることはない。

 言ったことを、守らず、ただ、自分自身に都合よく話を形容して“
食言而肥”と言います。
 承諾し、言ったことは必ず着実に固い決意で実行することを“決不
食言”と言います。

 この成語の出典は、≪左伝・哀公二十五年≫の一段落に記されてい
ます。

 春秋時代のこと、魯国の大夫孟武伯は一貫して話がいい加減でした。
 魯哀公は彼に大変不満でした。
 ある時、魯哀公は五梧地方にて、宴会を挙行、孟武伯も例により参
加しました。さらに郭重の大臣も列席していました。この郭重、大変
太っていました。平時は哀公からかわいがられていたことから、孟武
伯の嫉妬とやっかみを買っていたのでした。

 この宴会で孟武伯は、哀公への献杯の機会を利用して郭重に皮肉を
込めて言いました。
 「貴殿はいったい・・・、何を食べて、このように太ったのか?」

 魯哀公はこれを聞き、嫌悪を感じたので話に割り込み、郭重に代わ
って返答しました。
「食言多也、能無肥乎(嘘が多いから、太ることはできないよ!)」

 この句の話は明らかに正反対、孟武伯が常に嘘を言う事への皮肉で
す。
 さらにこのような盛大な宴会の席で、国の君が直接口を出した事か
ら、孟武伯は赤面し、大恥をかきました。


119.語言無味、面目可憎(ク3・ジェン1)

 韓愈は唐代の著名な文学者として声望高く、また重要官職に就いて
いましたが、何もかも順風ではありませんでした。

 彼の遺作文章から社会に不満を述べていることから読みとれます。
 彼の諷刺を込めた一篇、≪送貧文≫に著わされています。

 韓愈は貧乏神を追い立て、責めることで、貧乏神の弁解を書き記し、
それを≪送貧文≫に纏めました。

 大意:
 某年某月某日、主人(韓愈自称)“結柳作車、縛草為船”、併せて、
ささやかな食事を準備し、貧乏神に立ち去ることをお願いする。

 貧乏神等は、立ち去らず、どなりながら、「こうして四十多年、あ
なたの昇進名誉を妨害することもなく、あなたを、侮り恨み嫌う所謂、
凶神悪鬼同様に認識されてます。私たち貧乏神は、むしろ暗闇の中で
あなた様を見守っているのですよ。」、
 さらに「あなた様は我々数名でさえ、いまだどのようか、知らず、
根本的に実態を知っていません。どのように聞き信じ込み、誰にそそ
のかされて、理由もなく我々を追い立てようとするのでしょうか?」

 主人は答えて言いました。「あなた方は即ち五名、私が知らないだ
って?、第一名は"智窮(智の欠乏)"だ。わたしの面子を無くし、言葉
を味気なくさせます。「智」は人々の願望です。
 第二が“学窮”、その次が“文窮”、その次が“命窮”と“交窮”
だ。
 およそ、この五鬼、私には五患である。私を飢えさせ、寒くさせ、
訛らせ、誹られ、迷わされ・・・、人間失格とさせる。」
 貧乏神はこれを聞いて、不服、再び弁明をする。

 最後に“主人”が、“窮”は確実に最も悪い者ではないと認め、そ
こで原意をうち消し“上手称謝(礼を述べ)“さらに“延之上座(上
座をすすめる)”となる。

 この篇の文章中で“面目可憎、語言無味”の句が後に成語として広
がりましたが、一般には全く逆に“語言無味、面目可憎”と伝えられ、
耐えられないほど俗っぽく、話が聞きづらく、容貌が悪い形容として
使われます。

うどん侍・福蔵