「成語典故(二)」

※「成語典故」 遼寧省 人民出版社  著者:沈  同 衡
                          翻訳:うどん侍・福蔵


  26. 「比肩接踵(ビー・ジエン・ジエ・ジョン)」

春秋時代、斉国の国相に晏子(名を嬰、字を平仲)がいました。身体は小さいが
雄弁でした。<晏子春秋>に彼に纏わる故事が沢山あります。其の例を紹介します。

 ある時、晏子は楚国を斉国の外交使臣として訪れました。楚王は自国の強大さを鼻
にかけ、斉国の使者である晏子を見るなり傲慢な態度で問いかけました。
 「貴殿の国、斉には人がいないのか?お前のような”小物”をなぜ寄越したんだ」
 晏子は応えました。

「我が斉国民は、”比肩接踵”(みなで肩を触れ合い、踵を接する如く)多人数、”
揮汗如雨”(一人一人の民の汗を合わせると雨の如く)、”張袂成陰”(皆が袖を掲
げれば太陽を遮断し、曇り空を創造する)、いたるところ人ばかりの国です。
 が、我斉国には規定があります。
 つまり、有能で礼儀正しい”やり手”外交使臣であれば、高徳ある才徳兼備な君主
に拝謁する機会を与えられますが、今回、あなた様には私が如き(このような小男)
を、それ相応の外交使臣として派遣せざるを得なかったようです。」

 楚王は彼を”へこましてやろう(陥れよう)”と考えていたのですが、逆に皮肉ら
れて自らつまらない結果を招くことになりました。

”比肩接踵”は人口が非常に多い形容です。そして同義成語に”比肩継踵”もありま
す。”張袂成陰”と”揮汗如雨”もまた人が多い形容です。

 ”比肩”と接踵”の漢字は人が多い事の形容だけでなく言葉の含みがあります。
例えば夫婦間の愛情がいいばあい、”比肩相親”と表現されます。

 ”比肩接踵”、この成語は”比肩”と”接踵”の二詞を合体することで、明確に人
口が多い事の意味を表しています。


  25. 「虎踞龍盤(フー・ジ・ロン・パン)」

 ”虎踞龍盤”、これは南京の地勢が要害堅固な形容の成語です。三国時代、蜀の丞
相諸葛亮、同時代の呉国の皇帝孫権が南京の地勢を語った時、この様に話した事があ
りました。

 古くは「金陵」、又は「建業」、「健康」とも呼ばれた南京は六朝の国都でした。
六朝とは、三国時代の呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳の六つの朝廷です。宋代、張
敦イー編纂の<六朝事遺編類>に金陵の名所旧跡、宮殿、楼台等に関して部門別に分類
された詳細に記述考察がなされて、其の中に,諸葛亮が金陵の地勢を二句の原話に残し
ています。

  ”鐘阜龍蟠、石城虎踞”

 鐘阜,即ち鐘山とは、紫金山のこと。現在南京市の東郊外にあります。石城とは又
の名を石頭、又は頭城のことです。金陵と石城は事実上古くからの南京城です。その
南京は金陵、建業等の古称以外に、さらに一つの呼名、石頭城があります。晋代の作
家左思の作品<呉都賦>に一つの句で語っています。

 ”戰車盈于石城”原注として”石城、在建業西、臨江”と。

 石頭城には軍の基地がありそこには軍用車が満ちあふれていました。当時の石城、
金陵は近くであったけれど却ってそれぞれが別の城を形成していたようです。

 金陵の東には鐘山があり、あたかも大きな龍がとぐろをまいているかのごとく、西
には険しくそそり立った石城があり、あたかも猛虎がうずくまって座っているごとく。
これが即ち”龍蟠虎踞”、又は”虎踞龍盤”と言われる所以です。単に簡単な四文字
ですが、却ってそれが南京の雄大な地勢状況を表わしています。

 なぜ、龍と虎を用いて比喩しているのでしょうか?
 形の要因以外に更には”左青龍、右白虎”の形容があります。これは良好な地勢の
伝統的な説明であり、東方の鐘山を龍と捉え、西方の石城を虎と捉える理由です。

 諸葛亮の後にあっては一般に”虎踞龍盤”は南京を表わす成語です。”蟠”はその
後”盤”として、使われ、例えば南北朝作家庚信の<哀江南>に”虎踞龍盤”を見るこ
とが出来ます。唐代詩人李白の<永王東巡歌>十一首中、の一首にも見られます。”

 虎踞龍盤帝王州、帝子金陵訪古丘。・・・・・”があります。


  24. 「城下之盟(チョン・シア・ジー・メン)」

 絞国(現在の湖北イン県の西北)は春秋時代の小さな国でした。
 当時、強大な楚国の近郊に位置していました。

 <左伝・桓公十二年>に記されています。ある時、楚は絞を侵略し兵力を集中し絞
国の都の南門を攻撃しました。絞国人は門外に出ることなく、死に物狂いで守ること
から、楚軍は攻めあぐねていました。

 武官の一人、屈瑕が提案しました。「絞国人は軽率で、計略に疎い。我々は”ごま
かし計略”で彼らを城から誘い出す事ができるぞ。山に薪を部下にとりに行かせ、其
の時わざと警備の兵士をつけないでおく。彼らは之を見て、必ず奪いに来るよ。」
 兵を従えた将官はその計画に従い実行された。絞国人は果たせるかな出てきて直ち
に三十数人の楚の人を捉えました。
 二日目、絞国人は、更に大胆になり競って北門から城を出て、山里に向かい薪を持
っている楚の人々を捉えました。楚軍は前もって山里に待ち伏せしていたのです。そ
してこの時、城の北門を塞ぎ兵が一斉に蜂起し、絞国は大敗を喫しました。そして絞
国を屈服させ”城下之盟”を成立させたのでした。

 ”城下之盟”とは敗戦国が敵兵により城下(或いは大群により国境に迫る事)に厳
重な脅威にさらされ、追い込まれて結ぶ屈辱的な条約のことです。

 <左伝・宣言十五年>には楚国が宋国(現在の河南省商丘県)を攻撃した時、故事
の中に”城下之盟”の話が記されています。

 其の時、宋国の国都は楚軍により幾重にも包囲されました。城内の宋国人は既に食
糧もなく、燃料の薪もなく、恐慌状態でした。
 そこで暗闇に乗じて華元を派遣し、楚軍の主将子反の野営に行き、強硬な口調で子
反に言いました。
 「我国の君主の命により、はっきりと現状をあなたに訴えてこいと言われて参上し
た。我々は既に食料も燃料も尽き果てている。だが、あなた方がこの機に乗じて我々
に”城下之盟”を結ばせ、我々を死に追いやるつもりなら、そうはさせないぞ!・・
・・」

 子反はこの華元のただ事でない雰囲気を感じ、直ちに軍を引き、対等に話し合い、
友好条約を結ぶことになりました。


  23. 「髀肉復生(ビー・ロウ・フウ・ション)」

 後漢末年、汝南(現在の河南省)で劉備は初めて兵を挙げ、曹操に挑みましたが敗
れました。
 残った兵士は一千にも満たず、途方に暮れていました。部将の孫乾は、暫く劉表の
ところに身を寄せる事を提案しました。劉表は劉備の同族であり、其の当時、(現在
湖北省の)地方長官でした。劉備は同意しました。

 <三国志>によると、劉表は劉備を歓迎し、相応の屋敷を提供しました。劉備はそ
こで一時を過ごすことになりました。
 或る日、劉表と劉備は酒を酌み交わしていたとき、劉備は突然悲しみが込み上げて
来た。劉表は彼の顔に浮かぶ泪を垣間見たので、驚き、何故か訊ねた。劉備は嘆息し
ながら応えました。

「備往常身不離鞍、髀肉皆散;今久不騎、髀里肉生。日月躓足它、老将到于 而功業
不建、是以悲耳! 」

 髀とは、太腿、内側の”たるみ”(贅肉)のことです。劉備のこの嘆きの大意を説
明します。
 「私は常々騎馬の人であり太腿に贅肉など皆無、そして生活は充実していた。今で
は蟄居の身、だからであろう太腿に贅肉がつき始めてきたよ。このように無為に時を
過ごし、老い、しかも事業を成就していない・・・(なんと)悲しい事よ!」

 その後、人々は、自分自身の失職閑散を嘆き、これといって成果のない時にこの”
髀肉復生”又は”髀肉重生”、”撫髀興嘆”、”拊髀興嗟”等の成語を使います。


  22. 「青出于藍(チン・チュ・イー・ラン)」

後魏の人、李謐(リー・ミー)は字(あざな)を永和といい、勉強熱心で、少年時
代すでに多くの書を修得し更なる勉学に励んでいました。<北史・李謐伝>に、彼は
あらゆる分野に学識が広く、当時の著名百氏の一人と記されています。

 彼の師匠、孔ファンも優れた人物でしたが、数年後に李謐は師匠に勝るようになり
ました。
 其の時、孔ファンは李謐に向かって翻り、教えを請いました。門下生は一つの詩を
歌いました。

  青成藍、藍謝青;

    師何常、在明経。

   青は、学生の比喩;藍は師匠の比喩です。詩の大意は次の通りです。

 学生が教師に成長し、教師が学生に教えを請う、つまり教師は未来永劫教師ではな
く、重要な事は、誰が、よりその学問に精通しているかである。

 ではなぜ、青が学生で藍が教師に喩えられるのでしょうか?
もともと藍は植物でその葉が青色となる染料の原料でした。

<筍子・勧学篇>に記されています。

 ”学不可以己、青、取之于藍、而青于藍;氷、水為之、而寒于水。・・・”

学問は永遠で止まることはなく、後に、必ず先輩の業績を超える者が出るということ
だ。青はもともと藍から取り出すが、その青は、藍と比べて更に青い。

 氷はもともと水が凝結して出来たが、出来た氷は水より冷たい。
 以上のお話から、学生が教師を超えた比喩であり、若者が先輩を超えることでもあ
る。即ち”青出于藍而勝于藍”又は”青出于藍”の成語となっています。

 ”氷、水為之而寒于水”この話は簡素化され”氷寒于水”の成語となっています。
意味は”青出于藍”と同義語であるため、人々はこの両成語を連用し、”青出于藍、
氷寒于水”として使っています。


  21. 「唇亡歯寒(チュン・ワン・チー・ハン)」

 春秋時代のこと。晋の隣国にグオと虞の小国がありました。(晋は現在の山西、河
北省南部一帯。グオ国は山西省平陸県、虞国は平陸県東北)

 晋国はこれら小国を手に入れようと、先ずはグオ国の進撃を企てました。しかし、
晋軍がグオに向かうには虞国を通過しなければなりません。
 もし、下手に出て、虞国がこれを拒み、逆にグオ国と虞国が連合すれば、晋が強く
ても、この企みを遂げるのは難しい。

 荀息(晋国大夫)は晋の献公に進言しました。「この際、虞公に名馬と国宝の宝玉
を献上し頭(こうべ)を垂れ、我軍の通行を請い願ってはいかがか。虞公を推し量る
に、必ずや同意してくれるのでは。

 晋公は言いました。「このような名馬と宝玉を献上だと!これは晋国の宝物だゾ。
なぜ、くれてやらねばならんのだ。」
 荀息は笑いながら
「 大事が成就しさえすれば・・・・、・・・これを活かさない手はありませんぞ。
我家に置いてるのと同じことですから。おわかりか!宝物は今スグ、虞公に送りまし
ょうぞ!」
 晋の献公はこの荀息の計略を見抜き、直ちに荀息に名馬と宝玉を携えさせて虞公に
献上させました。

 虞公の大夫宮之奇は荀息の来意を知ると、直ちに虞公に晋軍の借路要請をはね突け
る様に進言しました。「グオ・虞両国は表裏一帯、一致団結で成り立つ唇亡歯寒です
。もしグオ国が滅亡すれば、我が虞国も崩壊するのです!」

 いわゆる「輔車相依、唇亡歯寒」は、相接する両国の密接な関係の比喩です。輔は
「頬」であり、表情を作る。車は歯茎であり、即ち歯の総称を表わしています。

 頬、と歯と歯茎、これは表と裏の関係で相互依存している。だからこれを「輔車相
依」と呼びます。唇と歯も表裏一体、相互依存の関係だ。唇がもし存在しなければ歯
を隠す事も出来ず寒さに震え、いわゆる唇亡歯寒は唇歯相依とも呼ばれる所以です。

 宮之奇が虞公に語った事は<左伝・僖公五年>に記されています。<左伝・哀公八
年>には子泄が呉王に言っています。「まさに魯、斉は晋の唇だ。唇亡歯寒を知るべ
し」。また<三国志・魏志・鮑z・`>では鮑z・ェかつて魏の文帝に言った記録があり
ます。「呉、蜀は共に唇歯相依だ」。

 しかし、この”輔車、唇歯”の成語を最初に引用したのは恐らく宮之奇でしょう。
宮之奇は当時”輔車唇歯”はグオ国と虞国の相互合体の重要性の比喩として使いまし
た。事実これは的を得た表現です。しかしながら、浅はかにも宝飾に目がくらんだ貪
欲な虞公は、この宮之奇の的確なる進言を聞かず、逆に晋国の陰謀に乗せられ、借路
を承諾したばかりか、あろうことに晋軍の出兵を援助し、共にグオ国を攻撃したので
す。宮之奇は祖国虞は滅亡する事を予知し、挽回する作戦も見出せないことから家族
ともどもすばやく曹国へ落ち延びました。

 このように晋の献公はこの虞公の”気前のイイ、お人よし援助”により、いとも簡
単にグオ国を滅ぼしました。
 晋軍は勝利すると今度は虞国に人馬の休息と称し駐留したのです。この時も虞公は
いささかたりとも危機意識を持ちませんでした。だが晋軍は突如、攻撃し、あっけな
く虞国は滅亡しました。

 虞公は捕虜となりました。こうして名馬と例の宝玉は元通り晋公の手に帰ったので
す。
 荀息は、薄笑いをうかべ「宝玉は以前のまま、美しいー。ただ、馬は二つ歳をくっ
たかな。」

 馬の歯は年々増えます。だから馬の年齢を知る事ができます。古人曰く、歳をとる
こと、すなわち”馬歯漸増(馬が歯を次第に増す)”と。

 自らいたずらに歳をとり、謙遜して言う言葉に”馬歯徒増”があります。


  20. 「後来居上(ホウ・ライ・チユ・シャン)」 

   漢の武帝時、汲黯は”中大夫”に任じられていました。常に武帝に対して直言し、
説教することから、武帝は彼を疎ましくなり,ついに”東海太守(東海とは郡名で現在
の山東省にあり、江蘇との境界近くの海側地区)”に左遷しました。

 東海郡にあって、彼の仕事はすばらしく、当地において人望を得ました。武帝はそ
こで再び彼を都に帰し”主爵都尉”の職に任じました。しかし、彼の性格は以前と変
わることはありません。再び武帝の気分を損ねたため、彼は昇格しませんでした。
  汲黯に馬鹿にされていた張湯と公孫弘は、”おべんちゃら(迎合)”に長けてい
たことから一挙に汲黯を超えて昇格しました。汲黯と同様、官職は元のままの人もい
るにはいたが、概ね彼を超えていたことから彼は不服でした。

 <史記・汲鄭列伝>に記されています。
ある日汲黯は武帝に言いました。「陛下は家臣を”積まれた薪”のごとく家臣を重用
しますね、”後来居上”(後から積まれたのをそのまますぐ重用する)だ。いわゆる
「積薪」は積み上げられた薪のことで、常に下にある薪はそのままで、後から上に積
まれた薪から使うことから、”積薪”は”後から来たものが先に上に立つことの比喩
に使われるようになりました。 汲黯は昇格しなかったことから、騒ぎ出し、この成
語ができました。
 当然”おべんちゃら”は悪い風習です。しかし、後輩が必ず上になるともかぎりま
せん。こうした状況は多分に個別的現状を確認しなければわかりません。

 孔子の発言により”後生可畏(若者、畏るべし)”の成語が生まれました。この孔
子様でさえ、若者をけっして軽く見ていない事が窺えます。
 <晋書・王忱伝>に記されています。 王忱は彼の叔父范寧に初めて会った時のこ
とです。范寧は彼が聡明理知であることを直ちに見て取り誇らしげに彼に言いました
。「君はすばらしい甥だ、君こそまさに後来之秀(立派な若者)”だ!」。 これに
対し王忱は「このような立派な叔父様がおられるからこそ、私がいるということでし
ょうか。」と応じました。
この両人は相互に誉め合い、機嫌取りをしていることは免じられないところだが、し
かし、有能な先輩から切りだし、若者を敬服する姿勢は、本質をとらえているという
ことだ。

 ”後生居上”の成語はその後、原義の不満の意味は消え、後輩が先輩を追い抜き、
先輩より強い後輩、若者を称賛する形容として使われています。後発の若者優秀者を
、”後来之秀”又は”後起之秀”とも呼んでいます。


  19.「沐猴而冠(ムー・ホウ・アル・グワン)」

    秦の末期、劉邦と項羽等は、打倒秦に燃え、兵を挙げました。
 劉邦が真っ先に秦の都、鹹陽(現在西安市東渭城故城)に進撃、続いて項羽が進撃
しました。
先に鹹陽に進攻した将軍が”関中の王”とする協定をしていました。だから項羽は
面白くありませんでした。
 彼は城内に入るや、大量殺戮の後、秦朝一族を皆殺し、秦の宮殿に火を放ちました。
 数ヶ月を要し都は廃墟と化しました。
 項羽はその後かなりの金銀財宝を探しあて、年若き婦女子を略奪し、東方に向かう
準備をしました。

<史記・項羽本紀>に記されている話。
その当時、人は項羽に建都には以前同様、鹹陽を勧めていた。
 ここは中原の中心にあり、地形学上難攻不落、守り易い。さらに土地は肥沃で覇業
建都に最適だから。
 項羽は秦の宮殿が焼け落ちたのを見て、故郷が恋しくなり、既に気持ちは東方に向
かっていたようです。そこで言いました。
「人は富み、偉くなると、故郷に錦を飾るべきだ。冨と権力が備わり故郷に帰還しな
いのは「衣綉夜行(錦で着飾り真っ暗闇を歩く)」の如し、誰にも見られず、評価も
されない。」
 某人は、この話しを聞き、項羽は一人の英雄に仕立て上げてもらいたかったようだ
が、実は、それほどの人物ではなく、彼への憐れみさえ感じた。そのことを陰で言い
ました。
 「項羽は単なる「沐猴而冠(猿に冠)」にすぎない、これが事実だ!!」 思いも
かけずこの事が項羽の知るところとなり、直ちにその人は連行され、”釜茹の刑”で
殺されました。

   楚国の人は猿を”沐猴”と呼びます。「沐猴而冠」は、猿が人間の帽子を被り人真
似をする野猿のことです。これは人を罵る話です。

 <漢書・伍被伝>にもこの成語が出てきます。 伍被はかつて、淮南王劉安の配下
で”淮南中郎”の官でした。劉安の謀反に対して、伍被は何度も諌めますが劉安は聞
こうとしません。伍被に対し軽蔑的な口ぶりで言いました。
 「漢の朝廷の御公家どもは、まるで”沐猴而冠”の耳だ(聞く耳は持たない)!」

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 四字成語の意味: 猿に冠・・・外見だけは立派でも中味は全く非なるものをいう
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18. 「後生可畏(ホウ・ション・コオウ・ウェイ)

   ”後生可畏、焉知来者之不如今也? 四十、五十、而無聞焉、斯亦不足畏也己。”

これは孔子が語った話として<論語・子ハン>篇に記されています。

 大意は次の通りです。

 ”若者はおそろしきもの(斬新で奇抜、敬服に価する)。現役のベテランに劣る、
などとどうして断定できようか? 人が四十、五十に達し、その人に貢献と成就が無
ければ、畏敬する価値はない。”

 ”後生”又は、”後生子”、これは若者(男子)あるいは後輩のことである。後発
の若者には、精力が満ち溢れ、勢いがあり、まさに畏れるに価する。”後生可畏”こ
の成語には含蓄があります。

 この意味するところ”可畏”には”可怕(恐らく)”、簡単に理解する事はできな
い、驚くべき賞賛と感心、敬服する意が深く包含されています。


17.「包蔵禍心(パオ・ツアン・フオ・シン)」

  春秋時代の故事。
 楚の公子圍(後の楚霊王)は、鄭の国に友好使節団を装い、状勢をさぐっていいま
した。当時、楚は南シナの大国であり、鄭は北方の一小国。

   鄭の大夫(公孫段)は、友好関係を楚と保つために、自分の娘を公子圍の妻にと望
んでいたところ、この話、思いがけなく双方の思惑が一致。
 だが、楚はこの縁談にかこつけて、公子圍の花嫁を迎え請けるためと称し兵を派遣
、武力により鄭国を占領する腹でした。

 鄭の子産(当時鄭国の執政官)は、楚が兵を引き連れて花嫁を迎えに来たことから
、その下心を察知。子羽を派遣し遠まわしに入城を断った。 「鄭国は小国にもかか
わらず、この度はこんなにたくさんの方々の兵士による花嫁のお出迎えを受け、かた
けない。が、あまりにも多い。無用な混乱を起こしたくない。・・・一番いい方法は
入城なさらないことです。 城外にて婚儀を挙行したいが・・・、いかがかな。」

 公子圍は子羽に謁見し、鄭の申し出を拒否、併せて言いました。
 「大事な婚儀をなんと心得る。野外で挙式せねばならぬ理由はなかろう。 貴国は我
らを城中に入れぬつもりか。天下の世人は貴国に比べて我国の地位が低いものとして
大笑いするだろうよ。そればかりか我々の公子圍は国を離れる時、御先祖に報告して
きた。反古にする事はそのまま御先祖を欺くことになるのだぞ?」

 この時、鄭国の子羽は単刀直入に、強い口調で切り出した。
「国家は小さいが、誤解めさるな! 国は小さくとも、大国に依存しなんら防衛力が
ないと考えるのは大きな誤りだ。
 我鄭国と楚国との婚儀により、大国である貴国と固い絆で結ばれ、晴れて我々を保
護するのが本来の姿・・・。しかし、包蔵禍心、つまり我国を陰険にも攻撃略奪しよ
うとする意図がみえみえ、これを我々が容認する事はできない。」

 楚国の陰謀は暴かれていた。鄭国はすでに有事体制下にあり、楚の計略は見ぬかれ
ていました。逆に、侵略の意図のないことを楚は誓うハメになりました。
しかし面子の問題のため、入城の要求を引っ込めるわけにはいきません。結局、楚の
兵士は弓矢と武器を携帯せず、入城することで話し合いがつき、子羽と子産は晴れて
これを許可したのです。

 この故事は<昭公元年>に記載されています。心中に渦巻く不穏な企て、これ即ち
「包蔵禍心」です。

 

16. 「不遺余力(ブー・イー・イー・リー)」

     ”不遺余力”----遺はのこす、余はあまるの意。余力をのこすことなく全力を尽く
す形容として使われます。

 この言葉は<戦国策・趙策>と<史記・霧卿伝>に記されている故事です。

   戦国時代、秦と趙両国の第一次戦争の内容を記しています。
 故事の要点は二つです。一つは趙国の敗戦。二つは講和を求める趙国。<戦国策>
と<史記>は記載内容は同じですが記述の順序が異なっています。<戦国策>では先
に「講和」、後に「敗戦」が述べられ、理に適っていませんが、ここでは、<史記>
に基づき故事を述べます。

秦は趙打倒に燃え出兵、趙はこれを長平(現在の山西省高平県)で迎え撃った。趙
は抵抗したが防ぎ止めることができません。趙王は大臣の霧卿と楼昌を呼び、意見を
求めた。「我軍はこのままでは勝利しない。すでに一人の有力武将を失った。ここで
全兵力を挙げての総攻撃しようと思うが、どうか? 」
 楼昌が応えた。「戦闘は止め、秦に特使を派遣し講和を求めるべきだ」
 霧卿が応えた。「講和を主張するのであれば、常日頃から”我軍は和を求めず、必
ず勝つ”と常日頃強調しておかねばならない。大王様から見て、秦軍は我趙軍を破る
ことはできないのではないでしょうか?」

   趙王は言った。「秦軍は全力を尽くせば、必ず趙軍を撃破する。」

 霧卿は言いました。
 「大王、私の話をお聞き下され。先ず、礼を持って使者を近隣の楚、魏等の国々へ
派遣していただきたい。これらの国々は重礼を歓迎し、必ず我国の使者に謁見してく
れます。彼らと会うや否や、秦国は、必ず我々を他国と既に連合しているものとみな
すゆえ、秦は逆にプレッシャーを感じるはずです。このような状況下になって後、同
じように秦と講和に進むべきです。そうなれば我国は有利に事が運べます。」

 趙王は霧卿のこの話を無視し、鄭朱を特使として秦に派遣し講和を求めた。霧卿は
趙王に対し言った。「大王、講和は不調となり、戦となり趙軍は必ず敗れますよ、勝
利はきっと秦のものです。 鄭朱は趙国の著名で高貴な方、秦国に行けば、秦は必ず
これを吹聴するでしょう。楚、魏等の周辺諸国はこの状況を察知し、必ずあなたの応
援はしないでしょう。秦王は、各国があなたへの応援をしない事を見抜いています。
あなたは講和を求めたいでしょうが、彼はそう簡単に応じないでしょう。」

 果たせるかな、秦は猛攻撃に転じて、趙都の邯鄲を包囲した。隣国は応援に来るわ
けはなく、逆に、趙をあざ笑う始末。
 秦は既に目的を達したとし撤兵を宣言、・・・但し、趙に六つの都市の割譲を要求
し、それが講和の条件だと宣した。趙王は、趙赦を秦に派遣しこの条件を飲む腹を決
めた。霧卿は利害得失を分析し、趙王にこの条件を飲む事に反対しました。
 趙王に策は無かった。楼緩という秦からの人物がいた。だが、彼はやはり、国土を
割譲し講和を進言、もしそうしないなら来年、秦は再度攻撃し、そうなればさらなる
、割譲となり元も子もなくなるぞ趙王をそそのかした。

趙王は状況を霧卿に訴え、彼の意見を求めた。霧卿は逆に反問した。「大王、秦軍
の撤退を、秦軍が全力を尽くし、疲労困憊したからだと見ますか? それとも彼らは
進撃を継続するに余裕はあるが、秦はあなたを擁立庇護するために、攻撃意欲をなく
したのでしょうか?」

 趙王は言った。「秦の攻撃目標は私だ。全力を尽くし、余力を残す戦いなどしない
。それは疲労困憊したのだ。」

 そこで、霧卿は切り出した。「秦は全力を尽くして、何も手に入れる事はなかった
ではないか、ただ、疲労困憊しただけです。彼らは全力で攻撃して陣地をもぎ取るこ
とが出来なかったのです。大王、おめおめとおとなしく彼らにくれてやるのですか、
それは自殺行為で秦を手助けするにひとしい。そうなればさらに来年、秦が再攻撃で
す。そうすれば大王、それこそ危険極まりない。

 引き続き霧卿は秦国に立ち向かう具体的方策を王に提出しました。 趙王は聞き、
道理があると悟り、その計画に頼る事を決定しました。

楼緩は形勢不利を感じ取り、尻尾を巻いて逃げ出しました。


15. 「賓至如帰(ビン・ジー・ルー・グイ)」

     用意周到な”もてなし”で、客がまるで我家に帰ったかの如く喜んで投宿すること
を「賓至如帰(ビンジールーグイ)」といいます。

 春秋時代、子産にまつわる一つの故事からこの成語が生まれました。子産即ち公孫
橋は鄭国の大夫であり長年にわたり国の要職を務めた人物です。(参考:”得其所哉
”)

 <左伝・襄公冊一年>に記されています。

 子産は鄭の簡公の命を受け、晋国に向かいました。時を同じくし、魯の襄公が御逝
去されました。晋の平公は、その魯国に対し、哀悼を表するとの口実で、接見を取止
めました。明らかに大国君主の思い付きによる見栄と横暴です。

 子産は随行する部隊に命じ、晋国の迎賓館の外壁を壊し、車馬を進めました。
 晋国の大夫、士文伯はこの知らせを受けるや驚き、直ちに迎賓館に駆けつけ、子産
に対し無礼な振舞いを叱責しました。

 「我晋は来訪する諸侯の身の安全を確保するためにこの迎賓館を造り、盗賊を防止
するために、ぶ厚い壁まで設置したのだ。それを貴殿は壊してしまった。今後、賓客
の安全を誰が負うというのだ?  ことに、我晋は諸侯の盟主である、各国の諸侯の
来訪が特に多いのを御存知か!」
 子産は応えた。「我鄭は小国です。苦労して集めた献上の品を、できるだけ速やか
に献上したいのです。現在貴国の王にいつお目通りがかなうのか見当もつきません。
 貴国の宝物殿は満ち溢れんばかり。だが我々は献上の御品を貴国の宝物殿に勝手に
立ち入り納める訳にも参りません。

 我らはこれら献上の品々を野ざらしにするわけにも参りません。このように、献上
品は湿気を帯びると傷み易く、虫に蝕まれるのです。
   我らは罪な事をしようとしているのではありません。
 晋の文公の治世を憶えておられるでしょうか? 当時、諸侯からの賓客に接する態
度はこんなではありません。

 迎賓館は美しく広々と、王宮の様でした。道路も補修が行き届き平坦でした。冬季
には客が着くなり、暖炉の準備は整い、用意周到な手厚いもてなしでした。車馬共に
落ち付ける場所、即ち”賓至如帰”、”無災無患”でしたよ。

 客はスムーズに出入りでき、快適にすごすことが出来ました。ましてや盗賊の心配
等なく、虫に蝕まれる畏れもありませんでした。しかし、今、あなた方の住まれる離
宮は広く大きいが、この迎賓館はあたかも奴隷の館、入り口が狭いから車馬を引き込
むのに往生する始末。さらに治安と衛生もはなはだ悪い。賓客が来てるというのに、
いつになればお目通りが出来るのかわからぬとはなにごとか? このように、我々に
、難儀を故意にさせるおつもりはないのでしょう?」

 士文伯は引き返し、平公にあらいざらいを報告しました。晋の平公は自分で理のな
い事を悟り、直ちに子産に非礼を詫び、さらに賓館の修復を命じました。

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(その2)大人物小幽黙:大人物のユーモア(国際文化出版公司より)
 レーガンがアメリカ大統領に就任し、初めてカナダを訪問した時のこと、演説を始
めると反米団体によって、絶え間なく野次が飛びました。 同行していたカナダ首相
はこの手がつけられない事態に困惑していましたが、其の時レーガンは笑顔で彼に言
いました。
 「このような状況はアメリカでもありますよ。私が思うに、きっと彼らは私に「賓
至如帰(ビンジールーグイ)」感覚にさせる為にアメリカから貴国にわざわざやって
きたのでしょう」と笑い飛ばしました。


14. 「抱甕灌畔(バオ・ウオン・グアン・チー)」

    ”抱甕灌畔”、この成語は「子貢」と「漢陰丈人(漢陰のおやじさん)」にまつわ
る故事として<庄子・天地篇>に記されています。

 子貢は孔子の弟子として世に名を知られた人物です。 姓は端木、名は賜、春秋時
代、衛国の人。
 伝わるところでは彼は弁が立ち衛国と魯国の要職を務め数々の諸侯、国々を訪問し
ました。
 ところで”丈人”とは古代の老年男子の尊称、現在の老頭、”おやじさん”のこと
。 ”漢陰丈人”は、漢陰地方における姓が不祥の、ある一人の”おやじさん”の意
味。
 漢陰は当時、定かではないが、その地方の漢水南岸にあることから、”漢陰了”と
いわれていたのでしょう。

   故事の大意は下記の通りです。
 子貢が南方の楚国訪問を終え、晋国に向かって漢水南岸近くを通りかかった時、一
人の”おやじさん”に出会いました。
 田に灌漑しているところでした。彼の灌漑方法は昔のママの旧式でした。
 先ず坂を下り、水瓶を抱えて、井戸に向かい、水を汲み上げ、再び抱えて田地に振
りまくのでした。
 この様に繰り返し繰り返し、一回一回行ったり来り、労力は大変で、効率は低い。
 子貢は彼に訊ねました。
「”おやじさん”、なぜ水をくみ上げる便利な道具を使わなの? たとえば”はねつ
るべ”があるじゃない? それは使えば、一日で百畔を楽に満たす事が出来ますよ。
・・・早くて、省力・・・知らない事はないでしょう?」
 ”おやじさん”はそれを聞くと気分を壊しながらも、無理して笑顔で応えました。
「 俺が知らないだって! しかし、俺は、そんな”おもちゃ”を使う気はねえ。ず
っと今までこうやってきたんだ。それとも、俺を、ど素人と思ってるのか?  こり
ゃあ、もう習慣になってるんだ。」

 この故事から後に人々は、古臭いままで改造せず”ばかばかしい行動”を遠まわし
に諭す時に、この”抱甕灌畔”の成語を使います。又は”抱甕灌圃”です。

うどん侍・福蔵