「成語典故(三)」

※「成語典故」 遼寧省 人民出版社  著者:沈  同 衡
                          翻訳:うどん侍・福蔵


43. 「海不揚波(ハイ・ブ・ヤン・ポ)」

 商が滅亡し、周が勃発の時、政治が公明正大で天下太平であったと伝えられていま
す。
 <尚書>等の古代の資料によると、当時、現在のベトナム南部の越裳国の国王が、
敬意を表し朝貢に訪れ、礼として白雉を献上したことがありました。其の時、祝辞を
述べました。「周辺には暴風も、悪い波も立つことなく(海不揚波)、既に三年経過
しました。きっと中国に偉大なる聖人が現れたからでしょう。」と。

 かつて”海不揚波(天下太平)”は”聖人”が出現し天下泰平の兆であり、人々は
”海不揚波”を隆盛の世の比喩として、また”四海揚波”を乱世の比喩に用いてきま
した。

 古代人はさらに、”滄海横流”を乱世の比喩として天下混乱の兆しに使います。
 <谷梁伝序>に「孔子睹滄海横流、乃喟然而嘆。(孔子は乱世のを見て、嘆き嘆息
・・)”。
 さらに、一つ古い諺があります。”黄河清、聖人出”。黄河の水が清ければ、近い
将来聖人が現れ、国家が太平で隆盛な予兆である。

 さらに人々は”河清海晏(黄河の水が安らかに清く澄むこと)”を天下太平の比喩
にも使います。

※ 黄河:今も濁っています。民主化されていないシナは今も乱世ということです。

 

42.  「錦上添花(チン・シャン・ティエン・ホア)」

   ”錦上添花”は美しい上にさらに美しいものを加える事という諺です。
 錦は華麗豪華な織物です。その錦に更に花の刺繍をすることで、更なる美を添加す
る事になるからです。
 この成語はかつて詩人が自作の詩に引用しています。
 宋代の詩人、王安石の<即事>に、
 ”麗唱仍添錦上花(美声が更に花を添える)”さらに、黄庭堅の<了了庵頌>には

 ”又要淀翁作頌、且用錦上添花(淀翁の詩がさらに花を添える)”
 さらに”俗”の意味変じて”雅”に置きかえらました。

 後に小説家が頻繁に使用するようになりました。
 例として<水滸>第十九回、晁蓋、呉用等、梁山の時、林沖は喜んで話す場面があ
りました。”今日山砦天幸得衆多豪傑到此、相扶相助、似錦上添花、如干苗得雨。・・
・・・・(今日ここに多くの豪傑が結集、お互い助け合うことで、錦上添花、即ち、
水を得た干苗のごとし”。

 ”錦上添花”はさらに”雪中送炭”と対句として使用されます。
 例えば、清代の劇作家李漁の<意中縁伝奇>に記されています。
”人情淡薄、世態炎涼、只喜添錦上之花、誰肯送雪中之炭!(人情とははかなく、ゲ
ンキンなものよ、金持ちには寄り付いていくが、貧しい者には見向きもしない。”

 この中の”錦上添花”は金持ちにはひいきし、堤燈を持つという比喩であり、”雪
中送炭”は貧困者救済の比喩です。

 ”雪中送炭”に関して一つの故事があります。宋の太宗(趙光義)は淳化四年二月
、天候異変で大雪に対し、城内の貧しい人々に米と炭を与えたのです。この事は当時
城内の称賛される話題でした。このことは<宋史、太宗紀>に記されています。

  さらに、宋代詩人范成大もかつて雪の日に友人に炭を送ったことを彼の詩<雪中
送炭与ゴン養正>、<大雪送炭与芥隠>に記しています。”不是雪中須送炭、聊装風
景要詩来(雪中、まさに炭を送るべきところ、いささか詩的風情を装いたい)”


41. 「鉄杵磨針(ティエ・チウ・モー・ジェン)」

 李白は唐代の大詩人として知られています。伝えられるところによれば幼年時代の
李白は勉強が好きではなかったと伝えられています。

少年の時、李白は勉学が嫌で、書物を捨て常に遊びに出かけました。
  或る日のこと、毎度の如く郊外をぶらついていました。ある農家の道端で一人のお
ばあさんが、石の上で鉄の棒を磨いているところでした。李白は尋ねました。
「おばあさん、何をしているのですか?」
「私はね、これを磨いて一本の針を作っているのだよ」李白は思わず笑い出しました。
「冗談じゃないの?・・・こんなに太い鉄の棒を磨いて一本の針をつくるだなんて、
並大抵のことじゃないですよ!」

  おばあさんは笑うどころか、彼に厳かに答えました。
「ただただ、一生懸命磨けば、できないことなどないんだよ。」
 李白はおばあさんのこの言葉にいたく感動したのでした。この時以来学習に励み刻
苦研鑚し困難に遭遇してもこの”鉄杵磨針”のことを思い出し、勇気と気力を奮い立
たせるのでした。
 彼は後に大詩人として大成しましたが、このおばあさんとの出合いが多いに影響が
あったと言われています。

  この故事は、李白の正式伝記<唐書>には記載されていませんが、<潜確類書>に
記されています。
 これがその後伝えられ、さらに「若要功夫深、鉄杵磨成針(さらに一生懸命に精進
すれば、鉄の棒でも針になる)」の諺も生みました。

  この話は事実と違うかも知れませんが、確かに的を得た教育故事と言えます。

       

40. 「刻画無塩(クー・ホア・ウー・イエン)」

  戦国時代、斉国の無塩地方(現在の山東省東平県東)、に一人の女がいました。

 姓は鐘離、名は春、醜女のため男から縁遠く結ばれることはありませんでした。
 四十歳の時、彼女は斉の宣王に謁見し、王の面前で斉国の諸問題を指摘。併せて
自らの意見を述べたところ、斉の宣王は彼女の才能に敬服し、見初め”無塩の君”と
称せられる御后になりました。

 その後、人々は”無塩”を醜女の、”西施”を美女の呼称に使っています。
 ---西施は春秋時代、越国の苧夢山の”薪売りの娘”で越王は彼女を呉王に献上した
伝説中の古代絶世の美女です。

   無塩と西施は対照的で、一方は極めて醜く、一方は極めて美しく簡単に比較する事
は出来ない事です。もしも彼女等両名を一緒に論じるならば、醜女が持ち上げられ美
人が低く落とされる、いわゆる”刻画無塩、唐突西施”です。(刻画は修正加工描絵
のこと。唐突は、だしぬけに失礼である意です。)

 <晋書・周伝>に記されています。周、字を伯仁。晋の元帝の時には”尚書左
仆射”を務め朝廷の宦官は彼を高潔な人物とし、彼と楽広と比べようとしました。楽
広も勿論当時高潔な人物と見なされ”楽翁冰清”の賛辞を得ていました。だが、周
は楽広が根本的に彼と比較できない人物と考えていたから、或人が楽広と比較してい
る事を知り面白くなく、「何及刻画無塩、唐突西施也!」と言い放ちました。

 これは醜と美を比べることは、適切ではなく、さらにはそれは美人を侮辱すること
になる、即ち”刻画無塩、唐突西施”なのです。


39. 「開源節流(カイ・ユアン・ジエ・リウ)」

  ”開源節流”、これは財源を開拓し、支出を節約する意です。<荀子・富国論>に
記されています。
 <荀子>の作者は戦国時代、趙国の学者荀況です。

   彼は<富国篇>の中で国家の強弱、貧富の道理を語っています。
 もし国家が富強を望むならば、朝廷は先ず農民を愛護し、農民の居住を安定させ仕
事を楽しくやらせ、積極的に生産を伸ばす事により国庫を充実させる事が国家富強に
つながる。

 もしも朝廷が生産を願うことなく、只、増税し浪費すると農民は困窮し生活できな
くなる。それでは国家は貧弱になるだけだ。だから彼は言う。
「下層階級の貧困は支配者にも貧困をもたらし、下層階級が富む事は上層階級も富む
事だ。」。
 更に言いました。「農民は季節の変化に基づき順次農事活動を積極的にすることで
収穫し、これが国家経済の根源となり、”水源”となる。国庫に集められた税を、こ
れ以上使うことは”水流”でしかない。賢明な当局であれば必ず農民の身になって考
え、生産の向上に便利な方法を与える一方、財政支出のムダを省き、更なる財政資源
を探り、これらを合理的に統括調整し国家と農民との利益向上に苦心するものだ。」

 いわゆる”源”と”流”、これは財政経済を水に喩えています。一般に言われる事
は”源”は生産、収入の比喩で”流”は費用、支出の比喩です。
 ”開源”と”節流”は両者が結合する事で、もしも”開源”だけで節約が無ければ
、又は節約だけで開発がなければ資本の蓄積、国庫の充実は不可能であり国家富強の
目的は達成できません。

 ”開源節流”、この成語は財政経済問題の成語として使われ、現在国家の問題に限
ることなく、広範囲の事業においても我々は使っています。
 同様に我々が通常使うところの”増産節約”も基本的に同じ意味の成語です。


38. 「不辨菽麦(ブー・ビエン・シュー・マイ)」

   ”不辨菽麦”、豆と麦の区別さえできない、何もわからないこと。一般常識さえな
く、無知の極みの形容に使われます。

 この成語の出典は<左伝・成公十八年>です。
 其の当時、晋国の上層貴族の間は、権力闘争が激烈でした。国の君、公は胥童を
重用し、国家の実権は胥童の手中に有りました。
 ルアンシュと中行偃等は先ずこの胥童を殺害し、続いて晋の公をも亡き者にし、
晋の襄公の曾孫、周子を国君として擁立し、政権をもぎ取ったのです。周子は悼公と
して即位、このとき十四歳でした。

 一介の少年に国の政が務まるでしょうか? 明らかにこれは傀儡そのもの。しかし
ながら当時、ルアンシュ等貴族大夫は全てこの周子を聡明であると認めながら、併せ
て陰で言いました。「周子には取り巻きがいるが何もわからぬ馬鹿者ばかり。国の君
には不釣合い。」

 これは左伝に記載されています。

 ”周子有兄而無慧、”不辨菽麦”、故不可立”

 ”不辨菽麦”の成語はここから広まりました。


37. 「返老還童(ファン・ラオ・フアン・トン)」

   伝えられるところによれば、漢の准南王劉安は神仙学を好み、不老長寿の秘儀を得
ようとしていました。
 有る日、所謂”八公(八人の老翁)”が聞きつけ”長生不老”の秘儀を伝授しよう
とやってきました。
   門番が通報すると、劉安は言いました。
「なに、彼らは、すでに老いぼれているじゃないか、いったいどこに”長生不老”が
あるというのか? 明らかにペテンじゃないか!」

 そこで彼は接見を断り門番に言いつけて彼らを追い返しました。
 八公は笑いながら「准南王は我々老人を嫌いをみえる。ならば、変身してやろう!」
と言うが早いか八人の老翁は突然すべてが童子に変身しました。

 この故事は<神仙伝>に記されています。老翁が童子に変身とは当然不可能なこと
で神話伝説のみのお話です。<神仙伝>の類の雑書には記されているが歴史書には記
されていません。歴史上には確かに准南王劉安、其の人はいたけれど・・・。

 ”返老還童”に関して一句の成語ができました。老年が青春を取り戻して活躍する
形容として我々は現在使っています。
 ----老いてますます元気。


36. 「悪貫満盈(オー・グアン・マン・イン)」

  <尚書・泰誓>に”商罪貫盈,天命誅之”の句があります。<尚書>研究の古代学者
はこの句に次のような注釈をつけています。
 ”紂(ジョウ)の悪は、ただものではない、悪で貫かれ満ちている、天誅が下るで
あろう”。
 さらには”紂の悪は太い縄の塊だ、その悪は連続し満ち溢れている。物事は極に達
すれば必ず逆送する。天下はその命の終えることを望んでいる”。
 この両方の解釈は基本的に同じです。双方ともに言っていることは「商の紂王の悪
事は止まることなく、一つ一つの犯罪案件は多くなって、その事件の一つ一つを連結
すると太縄の如くである。
 商紂王の罪悪は既に多くなりすぎて彼の末期が近い、まもなくその罪を受けるとき
が来ている。

 商紂王とは古代シナにおける伝説中の暴君です。
 <泰誓>は、周の武王が商の紂王を討伐した時、彼の軍隊が黄河を渡り京城に接近
し周王朝勝利の形成下発布された誓師宣言です。
 いわゆる”商罪貫盈”の”貫盈”の言葉は比喩手法の一種です。”貫”は”串”動
詞であり、名詞でもあります。”盈”は即ち”満”と同意語です。古人が沢山の貨幣
を串ザシ一連で使用していた如くを”一貫”と呼びます。

 このつもり積もった悪が 満ち溢れ、その極みの状態になっていることを”貫盈”
と呼びます。”貫盈”すなわち”悪貫満盈”の原形は、その簡略体でもあります。

 <左伝・宣公六年>に記されています。赤狄が晋を攻撃し、現在の河南省温県を包
囲しました。晋の成公は出兵討伐を主張、大夫の苟林父に言いました。「彼らは人民
が忌み嫌う戦争を好み、”以盈其貫”(悪事が満ち溢れている)、彼らはまもなく消
滅だ」

 ここでの”以盈其貫”の”盈貫”は<泰誓>の”盈貫”と同じ意味です。

<韓非子・説林>で記されている”満貫”に次のような故事があります。
 隣人に粗暴で野蛮な人をいました。其の人は日毎、不安を感じるようになり、その
屋敷を売り払い転居を決心しました。
 友人は彼に勧めました。「そう急ぐ事はないのでは?あの輩は悪貫将満(悪がまさ
に溢れている)が、暫く様子を見て待って見ては・・・」この住人は答えました。
「私は、他拿我来満貫口阿(彼が私にさらなる悪事と恐怖をもたらす事を恐れます。
(だから、引っ越すのです)」
”悪貫満盈”、これを人は”罪悪満盈”とも呼んでいます。


35. 「江郎才尽(ジアン・ラン・ツアイ・ジン)」

   江淹、字(あざな)を文通、南北朝時代の文学者です。彼はかつて南北朝時代の宋
、斉、梁と三代に続けて任官され、梁にあっては”金紫光禄大夫”に任じられ併せて
”醴陵候”として封じられました。彼の詩は<醴陵候集>に集められています。

 <南史>に記載されているところによると、彼は若い時、家が貧しい中で、勉学に
励み類稀なる詩、文章を生み出しその名を挙げました。しかし、晩年に、才気は減退
、文章は平坦になり詩においてもこれといっての秀句はありませんでした。
 当時人々は之を”江郎才尽”と言いました。

 ”江郎”がなぜ”才尽(才気が消滅)”したのでしょうか?  原因の大半は、出
世して栄誉を受けている間に生活が華美になり、うぬぼれが出て更なる努力を怠たっ
た結果、退化したのです。

 さらに当時語られた伝説があります。
 ある晩のこと江淹は夢の中で郭璞(晋代一有名な文学者)が現れ、彼に言いました。

 「あなたに預けた一本の五色彩筆、どうか私に返えしてくだされー!」
 江淹は懐をさぐると、果たせるかな一本の筆があったのですぐその人に返しました。

 このときから江淹は才気溢れる文章を書く事ができなくなったということです。
 これは、<南史・江淹伝>に記されていますが、信憑性はありません。しかし、江
郎才尽”又は”才尽江郎”は一つの成語となり、文才有る作家が、その後いい作品を
生み出せなくなった時の比喩に使われるようになりました。

 さらに”江郎失筆”、”失筆江郎”としても使われます。


34. 「風燭残年(フオン・ジュウ・ツアン・ニエン)」

  ”風燭”又は”風中之燭”、これは人命に危機が迫った比喩で、あたかも蝋燭の明
かりが風に吹かれて今にも消えそうな状況のことです。又、”風灯”、又は”風中之
灯”とも呼ばれています。
 この比喩は古人の漢詩に引用されています。

 例えば、<古楽府・怨詩行>では
 ”百年未幾時、奄若風中燭(やがて運命の時・・、風中の蝋燭の如し)”。

 晋王義之<題衛夫人筆陣図後>:”時年五十有三、或恐風燭奄及、聊遺教子孫耳(
現在既に五十三年、突然の死を疑いながら恐れ、子孫に教えを残す)”

   南北朝ユイシンの<傷心賦>:”一朝風燭、万古塵埃(一陣の風、全て消滅)

 唐玄奘<大唐西域記>:”世間富貴、危険甚風燭(冨も名声も、脆いもの、蝋燭の
炎の如し)
 其のほか:”不知人世如風燭”、”過眼百世如風灯”

 この様に”風燭”とはこの世に広く伝わっている成語です。一般には”風燭残年”
が使われます。年をとり、有効可能な旬の人生が残り少ない形容に使われます。


33. 「鳳毛麟角(フォン・マオ・リン・ジアオ)」

  ”鳳毛麟角”は極めて優秀な人の形容です。
”鳳毛”に関して謝超宗の故事があります。

   謝超宗、南北朝時代の宋の人、原籍は陽夏(現在の河南省太康県)。
 彼は有名な文学家謝霊運の孫です。
 謝超宗は勉学が大好きで聡明な上に、華麗な文章を書くことで,後の宋孝武帝(劉駿
)から絶賛を博しました。

 <南史・謝超宗伝>に記されています。謝超宗はかつて新安王の”常侍(側近)”
でした。王府における重要文書はすべて彼の直筆文であり、すこぶる誉高い職でした。
 新安王の母殷淑儀がお亡くなりになられた時、哀悼の弔辞はこの謝超宗が書きま
した。孝武帝が読後、非常に感動した言葉があります。
 「超宗殊有鳳毛、霊運復出(謝超宗は稀有の才がある、霊運の再来だ!)」

 ここにおける”鳳毛”は本来は、その父方先祖を誉めるのではなく、名人の子孫本
人に文才がある場合に称える言葉です。

 <世説・容止篇>の例をあげます。:”王敬倫の容貌は父親似でした。桓公は感心
して言いました:
 「敬倫固自有鳳毛(敬倫は、もともと稀有の才能がある!)」
 しかも父の謝超宗もうまい具合に名鳳だ、だから彼に対して”鳳毛”の称賛語を適
用すると、言葉に二葉の意味を含むことになる。

 鳳、鳳凰とは伝説に現れる神の鳥です。”鳳毛”がもしあるとすれば当然稀な、こ
の世のお宝です。だから人々はこの成語を、数少ない優秀な人の比喩に用います。往
々に”麟角”と合体し”鳳毛麟角”として使います。

 ”麟角”の意味は”鳳毛”と同じこの世に稀少なことです。<北史・文苑伝>に記
されています。”学者如牛毛、成者如麟角”、麟は麒麟で、これも伝説上の神獣です
。”牛毛”の意味は”鳳毛麟角”とは正反対で、何処にでもある形容です。時に”多
如牛毛”として用いられます。


32. 「不入虎穴、焉得虎子(ブ・ル・フウ・シュエ・イエン・ド・フウ・ズ)」

  ”不入虎穴、焉得虎子”、---虎の巣に立ち入らねばどうして虎の子を捕らえること
ができようか! この句は<後漢書・班超伝>に記されています。

 班超、字(あざな)は仲升、東漢時の人物です。
 漢の明帝の時、班超は西域各国の訪問を命じられました。彼がシャンシャン(現在
新彊シャンシャン)に到着した時、シャンシャン王は当初、上国の貴賓待遇で彼と会
見し、友好的でした。
 数日後、匈奴が使者をシャンシャンに派遣、その使者が、王をそそのかしたのでし
ょう、シャンシャン王は班超に対して次第に冷たくなり、更には敵意を抱くようにな
りました。
 班超はこれを見ぬき、直ちに随行員を召集、状況を説明し今後の対策を練りました
。其の結果、先手必勝で匈奴の使者を殺し、シャンシャン王を降伏させる計画を企て
ました。
 直面するこの事態に、随行人員はわずか三十六名だったけれども、班超はいささか
も恐れることなく勇猛果敢に決断し、部下に言いました。
 「不入虎穴、不得虎子!、今だ、我々は只迅速に行動し敵を殺戮し、勝利をものに
しようぞ!」

 夜になり、班超は三十六名を率いて匈奴の使者がいる陣営に向かい攻撃を開始しま
した。班超は先兵隊十名に太鼓を持たせ匈奴陣営の後に潜ませ、その他の兵には各
自に、弓、槍、刀を持たせ、陣地前の両側に配置。
 その後,風を利用し火を放ち、太鼓を叩きトキの声をあげ、一同を殺戮しました。
 匈奴は寝こみを襲われ漢の軍隊の人馬の数も知ることなく驚き慌て取り乱し、防御
することが出来ません。その現場で、匈奴の使者を含めて三十数名が殺され、さらに
約百名全員が焼死。
 あくる日、班超はシャンシャン王を招き、匈奴の使者の首を彼に見せ、言葉巧みに
忠告し、彼を先ずは安心させました。
 やっと、シャンシャン王は漢王朝と友好を関係を結ぶことを希い願い、心から服す
ることになりました。

 班超のこの努力により、後に西域五十数カ国は全て漢王朝と友好関係を結ぶ事に同
意しました。

 彼は四十歳から西域に出て、七十一歳に洛陽に帰るまでの間、万里の外に有り、苦
労を重ねた三十一年でした。彼が成した仕事は漢王朝辺彊の防衛と漢王朝の発展であ
り、さらには西域各民族と兄弟関係を持ちながらの文化交流が加わり、偉大なる貢献
を遺しました。

 さらにこの班超が語った”不入虎穴、不得虎子”は有意義な成語の一として使われ
ています。後に”不入虎穴、焉得虎子”が一般に使われています。

 困難に遭遇した時に、恐れないだけでなくさらに勇猛果敢に立ち向かい困難を克服
することが成功をもたらします。
 ”不入虎穴、焉得虎子!”班超のような英雄が行動する時に使う豪快な言葉の形容
です。

 <三国志・呉志・呂蒙伝>には”不探虎穴、安得虎子”の話があります。
 <北史・李遠伝>には”不入獣穴、不得獣子”があります。


31. 「不違農時(ブー・ウェイ・ノン・シー)」

  孟子は戦国時代の儒家(思想家)で、彼の主張は”仁義”を推し、”王道(政)”
を打ち立てることでした。

 かつて梁恵王は彼に教えを請いました。
「国富民安を目的とした、生産発展はどうあるべきか」
 孟子の回答は<孟子・梁恵王>の記載によると下記の通りです。

 農時は違えず季節に適合させることが食糧確保の基本。頻繁に,緻密な網(小さな魚
は残しておく)で池、湖沼の魚を採らない。でないと魚がいなくなる。山に入っても、
規則をまもり斧で乱伐しないこと。でないと木材がなくなる。
 穀物、魚を食い尽くし木材を全て使い果たせば、民百姓の「生養死葬(生活環境)
」を考えることもなく、心配は無くなります。

 民百姓が「生養死葬(生活環境)」に対し、なんら心配が無いこと、これが即ち”
王道”の開端(きっかけ)です。

 孟子はこの話の中で”不違農時”という成語を生み、今日,我々は常用しています。

 是は即ち、農業生産の収穫を確保するには、最適のタイミングを失しない(早くも
無く、遅くも無く)のが肝心であり、かき乱し、妨害する用件・事情を無くすことが、
重要だ。


 30. 「不求甚解(ブー・チウ・シェン・チエ)」

  ”不求甚解”、この成語の出典は晋代、陶淵明の<五柳先生伝>です。

 陶淵明、名は潜、当時の官吏社会に不満でした。農村での隠遁生活をこよなく愛す
る詩人、文学者でした。
 <五柳先生伝>は彼が五柳先生に手紙を書いて綴った一篇の伝記です。この五柳先
生は誰でしょうか?それは、陶淵明自身です。
 彼の屋敷の傍には五本の柳がありました。だから、彼は自号を”五柳先生”と称し
ました。

 陶淵明は、<五柳先生伝>で、自分を”好読書、不求甚解、毎有会意、便欣然忘食”
と語っています。

 どうして”不求甚解(深くは極めず、いいかげんにしておく)”でしょうか?

 陶淵明による本来の原意は、”読書とは、かたくなに、些細な事に固執するのではな
く、書を注意深く理解し、書中の原意を把握する事だ。そうすることで其の都度、納
得できる喜びがあり食事を忘れるくらい面白いものだ”と。

 しかしながら後世の人々はこの”不求甚解”を字面からだけ取り、読書は真面目に
取り組むことなく、深くを極めない形容と見なしています。

 仕事において研究せず、調査せず、深くは極めず、いいかげんにすることを ”不
求甚解”として使っています。

  

 29. 「仏頭着糞(フォー・トウ・ジュオ・フェン)」

  <伝灯録>(宋僧道原撰)に”仏頭着糞”の話があります。

 崔相公が寺院を拝観していると仏像の頭に雀が糞をしました。すぐに怒りを和尚に
言いました。「この界隈の雀には仏心が皆目、見当たりませんな。」
 和尚は即座に答えました。
「いや、いや、そうではありません」
「それなら、なぜ仏像に糞をたれるのでしょうか?」
「別の頭上にはできないからです-----例えばトンビの頭上にしないでしょ。」

 雀は何も恐れることなく仏様の頭に糞をするが、トンビにする勇気はありません。
・・・これは一つのユーモア話です。

”仏頭着糞”この成語はここから生まれました。
聖人潔白者が汚される比喩、善良者が侮辱を受ける喩えです。

 又は、立派なものに良くないものがくっ付いて、軽んじ侮どられる意味にも使われ
ます。
 宋代文学家の欧陽修は<五代史>を新しく改訂し<新五代史>を編纂しました。当
時の人々は薛居正等が編纂した<旧五代史>を使用していましたが、内容と筆のタッ
チは言うに及ばず、あらゆる面で優れていました。

 そこで正文に先立ち、紹介と称賛の意をこめて、”序言”を付ける事にしました

 指名をうけた王安石は欧陽修のこのような優れた文章の前に、(謙遜しながら)”
乱れた序言”を挿入する事に対し、ただただ笑いながら「仏の頭上に、なんで糞をた
れてよかろうか!」と語ったということです。

 

 28.  「 高枕無憂(ガオ・ジェン・ウ・ユウ)」 

  孟嘗君は戦国時代斉国の大貴族でした。
 姓は田、名は文、”孟嘗君”は彼の称号です。
 彼は斉国の大臣として薛(シュエ)(現在の山東省東藤県付近)の領地を任され、
一万戸の小作農家を有し、田租税収入だけで食べきれないくらいであった。しかし
それでは充分とはいえず、金融業も兼業していました。

 孟嘗君の家には常に門客があり多い時には三千人以上を養っていました。これらの
人の中には等級に基づき待遇招待していました。

 門客の中に馮驩(ファオ・フアン)がいました。ある時、孟嘗君は彼に薛に赴き、借
金の取り立てを命じました。出発間際に馮驩は孟嘗君に訊ねました。「取立てが終了
すればどういうものを買ってきましょうか?」 孟嘗君は応えました。「我家に欠乏
しているものならなんでも買ってきてくれ」

   馮驩はこの薛に来て、地方官の下役に、債務者を皆集めさせました。そして債務者
に向かって宣言しました。
 「孟嘗君様に対する、皆さんの借金返済は無用です、即ち借金は全て棒引きです。」
債務者は皆望外の喜びに感激、大歓声が上がりました。

 馮驩は直ちに引き返しました。
 孟嘗君は彼があまりにも早く帰ってきたので驚きました。
「取りたてはどうなんだ?」馮驩は応えました。
「全て完了しました。」
「・・・して、いったい何を買って帰ってきたのだ」馮驩は応えました。
「あなたは私に我々の家に無い物を買って来いと言われました。私が思うに、真珠、
宝飾、馬。美女、あなたはなんでも持っています。ないといえば一つです。今回その
”義”を持ち帰ってきました。」

 さらに、全ての債権を免じる事を宣告し、すべての借金をチャラにしてきた事を報
じました。孟嘗君は是を聞き、怒りましたがいかんせん、どうしようもありませんで
した。

それから一年経ちました。悪い事に、孟嘗君は突然大臣の職を解かれたため、しかた
なく、薛(シュエ)に住まいを変えざるを得なくなりました。
 彼にとっては薛を離れて久しかったため、薛の農民達は老いも若きも歓迎しました
。 孟嘗君は大変感動し馮驩に言いました。
「お前は私に買って来た”義”を今日私はやっと見る事ができた!」
 馮驩は答えました。
「賢きうさぎは三つの横穴を持つことで災難から逃れる事ができます。でもあなたは
現在只一つの横穴しかありません、枕を高くして寝る事はできません。そのためには
さらに二つは必要ですよ!」

 その後馮驩は孟嘗君が大成するに必要な二つの戦略を贈りました。
 その一つは孟嘗君に替わり馮驩が魏の国に遊説し、孟嘗君の声望を高め、魏国が彼
を大臣として招聘するように展開しました。

 魏国は果たせるかな繰り返し特使を派遣し孟嘗君の就任を願いました。この事を斉
王が知ることになり直ちに彼を大臣の職に復帰させました。
 さらに一つ。 馮驩は孟嘗君に勧め、斉王に対し請い、薛に寺を建立し先王からの
祭器をこの薛の寺に奉献する案を進言しました。

 寺が建立された時、馮驩は孟嘗君に対して言いました。「やっと、三つの横穴が完
成しましたね、これであなたは心配無く枕を高くして眠る事が出来ますね」

 上述の故事は<戦国策・斉策>に記されています。数ヶ所の地に心配無く身を預け
る事が出来る形容として、”狡兔三窟”もあります。
 なんの杞憂もなく、安心した状態でいられることを”高枕無憂”、又は”高枕而臥
”といいます。


  27.「割鶏焉用牛刀(ゴ・ジ・イエン・ユン・ニウ・ダオ)」 

 ”割鶏焉用牛刀”、鶏をさばくのになぜ牛刀を使うのか?これがこの成語の意味で
す。些細な事をするのに大げさになぜするのか? この反語は、”割鶏用牛刀(鶏を
さばくのに牛刀を用いる)”です。
 即ち”大才小用(すぐれた才能で腕を試す)”又は”小題大作(小さな問題を仰々
しく捉える)”の意味です。
 開始に先立ち、一つの事に才ある人が比較的平易な条件の下で軽く腕を試し、技を
見せびらかす、即ち”牛刀小試(牛刀で腕試しをする)”のことです。
”割鶏焉用牛刀”この句は<論語・陽貨>に記されています。

 武城(現在の山東省費県付近)は春秋時代魯国の小さな町でした。当時そこには町
長である子遊がいました。彼は呉の国の人、孔子の弟子であり姓は言、名は偃。
 ある時、孔子がこの武城に立ち寄ると、琴に合わせて唱歌し、朗読する声が聞こえ
てきました。子遊がこの地にて教育している事を知り、すぐさま笑みを浮かべて彼に
言いました。「割鶏焉用牛刀----この小さな田舎町で、なんでまた”教育”をし始め
たんだい?」

 当時、シナのこのような田舎町にどうして学校に類した施設があったでしょうか?
 孔子は彼の弟子、子遊がこの町にありて、仰々しく”教育”を施していることを見
て、この”割鶏焉用牛刀”の句を持ち出しました。

 しかしながら子遊は孔子に返答しました。「以前、私は老師が語っていた事を憶え
ています。老師が直接教育を授けた上級の弟子は、すでに心が厚く相互に敬愛する能
力があります。 その我らが、指導指示することで教えられる人々は容易に多くのも
のを享受できるのです。」
 孔子は之を聞き、直ちに随行している弟子に向かって言いました。
 「みなさん、お聞きなさい。偃の話が真っ当です。私が今言った事は、私の戯言で
した。冗談として聞き流してくれ。」

 ”割鶏焉用牛刀”は”殺鶏焉用牛刀”とも言われ現在成語として使われています。

うどん侍・福蔵