「成語典故(四)」

※「成語典故」 遼寧省 人民出版社  著者:沈  同 衡
                          翻訳:うどん侍・福蔵


  56.「東施効顰(トン・シー・シャオ・ビン)」 

 伝えられるところによると、春秋時代、越国に美しい娘がいました。
その名は西施。 又の名を先施、西子と言い、苧夢山のふもとの”薪割り”の娘でした。
苧夢山は現在浙江諸曁県南で浣江の下流、江中には”浣紗石”があり、西施がその浣
にいたと伝えられてます。 別説では、西施の故郷は浙江粛山と言われています。ここ
粛山県にも苧夢山があり、尚且つ、西施の里があります。伝説とともに,シナ商魂が各地
に残されています。

 <呉越春秋>、<越絶書>などに西施伝説が書かれています。
それらによると、当初,ある男がこの美しい娘を発見し、彼女を越王の勾践に献上しま
した。勾践は戦略上、彼女を呉王の夫差に提供しました。後に越は呉を打ち負かし国の
敵を報復したことで西施は祖国のために貢献しました。西施の名声は、そこから高まり
ました。
二千余年来、人々は一筋に西施を典型的美人として、女性が成長して美人になる形容
をすなわち西施の様と言います。

 西施の伝説から、意外なことに”東施”の成語が生まれました。只、この東施なる人
物がいたかどうか疑わしいようです。

<庄子・天運篇>に記された一つの故事があります。
 西施には病がありました(胃の病と想われます)。だからでしょうか、彼女は胸を軽
く両手で掲げ、かすかに眉間をねじるしぐさが習慣で、それが逆に評判となりました。
美人の彼女の、このしぐさは魅惑的で、人々を惹きつけました。西施を見たり聞いた
りした人は次々と、誇張して誉めそやすのが常でした。

 西施の家の近くに醜女の娘がいました。ある時、西施を初めて見て、彼女は嫉妬しま
した。帰宅後直ちに西施のしぐさを真似し、胸元を重々しく掴み、眉間を硬く捩り、こ
れを、自分では美しいポーズとみなしました。
 しかしながら元々醜く、さらに無理してシナを作ったから、怪物の様相となり、より
一層醜くなりました。 彼女を見て皆、気分が悪くなり、金持ちは大門を硬く閉め、貧
乏な人も、妻子子供を引き連れて彼女を避けました。

 いわゆる”東施効顰”の成語が生まれた故事です。但し原文には只”其里之醜人(そ
の里のブス)”と記されてはいるが”東施”という名ではありません。

 <晋書・戴達伝>には”美西施而学其顰(美しき西施、其の顰を学ぶ者)”と記され
ています。唐の李白の詩に”蛾眉不可妬、況乃効其顰”とありますが此処にも”東施”
の名はありません。”東施”が見ることができるのは”西施”と対とした後世の人が編
出した名字です。
 清の人、擢景の<通俗編・巻二十三・婦女>によれば、<太平寰宇記>の記載を引き
合いに出し”諸曁有西施家、東施家。”。

 さらに、宋人黄庭堅等は、はじめから”東施効顰”としてこの成語を使っています。

 強引に当てはめ応用し、形式上無理に他人を模倣し、似合わないのに学び、かえって
笑いものにされることを”東施効顰”と言います。

 これは風刺を含めた成語ですが、時には、謙遜するときにも使われます。


  55.  「画龍点睛(ホワ・ロン・ティエン・チン)」

 南北朝梁の時代に画家、張僧ユウがいました。彼は金陵(現在南京市)の安楽寺に
を克明に、まさに活き活きとした龍が舞い上がって描かれていました。
 観衆の一人が彼に、尋ねました。
「何故、眼を描かないのか?」
 彼は応えました。

「・・・もし、眼を描いたら・・・この龍はすぐ飛び立つのだ・・・。」

 これを聞いた人は信じることは出来ず、彼に試しに眼を入れるよう頼みました。

 張僧ユウは直ちに筆をとり、壁画の龍に眼を入れました。彼が二匹目の龍に眼を入
れるやいなや、突然閃光が走り、雷鳴が轟き皆恐れおののき体をのけぞりました。こ
の激しい雷鳴により、その壁面は、寸時に破裂しました。

 近寄って見ると、眼を入れた龍二頭は、飛び立っていました。
 幸せなことに、まだ眼をいれていない龍は健在でした。でないと全ての龍がいなく
なるところでした。

 この神がかり伝説は<宣和画譜>と<名画記>等にも同じように記されています。
 当然、このようなことは真実ではありませんが、張僧ユウの芸術を誇張し、褒め称
える人がいたということに他ありません。
 さらには安楽寺の評判を誇張し囃し立て生み出したという事でしょう。しかしなが
ら、この伝説から事実、一つの成語”画龍点睛”が生まれたこたは確かです。

 概して、言論、文章、その他文学芸術創作にて、もしもっとも重要なキーポイント
に目のさめるような奇抜な字句を潤色することにより、直ちにその作品を活き活きさ
せ、テーマを鮮明にする、これが即ち”画龍点睛”と呼ばれるところです。

 相関する成語に”破壁飛去”があります。にわかに「志」を得、理想実現の「悟り
」を開いたり、束縛から解き放たれ、上昇発展の比喩として使われます。


54. 「画餅充飢(ホワ・ビン・チョン・ジ)」

 ”画餅充飢(描かれた餅で飢えをしのぐ)”と”望梅止渇(梅を想像し、喉の渇
きを止める)”の成語は、同義語であるだけでなく、字面上相対的に形が非常に整
っています。さらに偶然の一致でしょうか、”望梅止渇”の故事は曹操から、”画
餅充飢”の故事は曹操の孫曹ルイから生まれました。

 曹ルイは三国時代魏国の第二代目の君主です。彼にはもっとも信頼の置ける大臣
ルーイがいました。
<後漢書・ルーイ伝>に記されています。ある時、曹ルイは”中書郎”に抜擢す
る適任者として、ルーイに推薦を頼んだが、あわせて彼に、決してうわべだけの評
判から徒に推薦するなと命じました。

「選挙莫取有名、名如画地作餅、不可啖也! (人を選抜するに、名声評判は要ら
ない、名声評判は描かれた餅に過ぎない、食べることなどできないのだ。)」

曹ルイのこの故事から”画餅充飢”の成語が生まれました。

 唐朝の李商は彼の<咏懐詩>の中で”画餅”を引用しています。”官職名は画に
描いた餅、その存在に艶・味はなし”。

 宋朝の蘇軾の<二王書跋>にもこの句が引用されています。”描いた餅は、痴呆
者によだれを出させるくらいのもの”と。

 <伝灯録>にも記されています。 ”画餅不可充飢”と。

 ”画餅充飢”と”望梅止渇”はともに実在しない虚(きょ)、空想を用いて自ら
を慰める成語です。


53.「鶏鳴狗盗(チー・ミン・ゴウ・ダオ)」

 戦国時代、斉国の大貴族田文、即ち孟嘗君はかつて斉国の国相として名声高く、人
がありました。その為か、彼の家には食客三千人が集まっていました。 この中に
は多種多芸、才覚のある者がいて主君の為に考えをめぐらし、忠誠に燃え、尽力をつ
くしました。

 ある時、秦の昭王は孟嘗君を秦の都(シエン陽)に招きました。秦の国相は彼への
妬みから彼が秦で得た情報を持ちかえった後、秦に対して不利にならぬよう秦王に彼
を殺害することを勧めました。
 孟嘗君はこの情報を知り、驚き、秦王の寵愛する后燕姫に救いを請いました。燕姫
は孟嘗君に条件を出しました。それは、白狐裘(純白の狐の皮で出来た長着礼服)
の要求でした。

  しかし、孟嘗君は、所有していた一着の白狐裘を、既に秦王に献上した後でした。
 どうしようか?
 この時、食客の中に、犬の如く素早く’失敬できる者’がいて、闇夜に乗じて秦宮
に侵入、守備よく例の白狐裘を手に入れる事に成功しました。

 直ちにそれを燕姫に献上しました。燕姫は約束通り秦王に話を持ち掛けると、果た
せるかな、秦王は直ちに孟嘗君を放免し、彼ら一行を国元に帰らせることにしました。

着たときは真夜中でした。関所の規程では毎朝、鶏の鳴き声を確認した後、開門し商
人を通行させていました。
 この時、食客の中に、鶏の泣きまねが達者な者がいて「コケコッコー・・・」と叫
びました。すると、付近の鶏がこれに呼応しはじめたではありませんか。
 門番はこれを夜明けとみなし直ちに、門を開けました。
 彼らはまんまと秦国から脱出できました。
 秦王が派兵し追跡してきた時には、彼らは既に国境を遠く離れていました。

 この故事の原文は<史記・孟嘗君伝>に記されています。故事の中で二人の食客の
活躍が記されています。
 彼らの働きで主人孟嘗君が救われたのだが、その他の食客達は、高い学問を修めて
いない者による裏技として評価を見下しました。

 高度な技術ではなく、真の学問とは無関係で、裏社会に通じた人を”鶏鳴狗盗之徒”
と呼び、裏技を要する人の形容を”鶏鳴狗盗”として使っています。


52. 守株待兎(ショウ・ジュ・ダイ・トウ)

 昔、昔、宋の国に一人の農夫がいました。
 彼の畑に一本の木がありました。
 ある日、畑を耕しているとそこへ、突然一羽の兔が飛んで出て来ました。この兔、多
分、猟犬に追われていたのか、慌てふためき、めくらめっぽう走り乱れその拍子に木の
根っこに頭をぶつけ、死にました。

 農夫は、なんなく一羽の兔を手に入れることができ、大喜びしました。彼は思いまし
た。「 しめた!兔が自分でやって来て転んで・・・死ぬとは・・・、これからも、この
畑を汗水たらして耕す必要があるのだろうか?」。

 この時、彼は鍬を捨て、耕すことをやめ、一日中、例の木の下に座り込み兔が引き続
き転んで死ぬのを待ちました。
 日は一日一日過ぎ去りましたが、兔は再び現れることはありません。そして、彼の田
畑はまもなく荒れ果てました。

 宋の国の人々はこの事情を笑い話として伝えました。
 これが”守株待兎”の故事で、<韓非子・五蠧>に記されています。

 ”守株待兎”、後に一日中待つ比喩の成語となりました。たとえば、主動的に勝ち取
るのではなく、動かず守りに徹し、ただ希望的観測で座って成り行きを見守り、結果と
して何も獲得できないことを”守株待兎”と呼びます。 そして人が、ぶらつきながら
”お守り”したり、そこだけ異常に死守することを”守株”、又は”株守”と呼んでい
ます。

たとえば、家でぶらつき、どこにも行かず、どんな仕事もしようとしないのを、”株
守家園”と言います。

 梁の武帝が<圍棋賦>で言っています。「勿膠柱而調瑟、専守株而待兔(物事に拘泥
して融通が利かない、徒に株を守り兔を待つが如し)」。いわゆる”膠柱”は融通の利
かない比喩に使います。


51. 「秦晋之好(チン・ジン・ジー・ハオ)」

 春秋時代、晋と秦は相隣する二つの強国でした。両国統治集団の間には、秘策を練
っての争奪覇権、矛盾が先鋭化し、ある時は出兵し戦いました。

 しかしながら、その一方、彼らは自分自身の利益となる場合にはお互いに連合し、
相互が利用し、はなはだしきに至っては互に婚儀を成立させ、密接な親戚関係を結成
しました。

 例えば、春秋五覇之一、秦穆公の夫人は即ち、晋献公の娘でした。晋献公の息子が
晋の文公であり、彼も春秋五覇之一で、彼の夫人文インは秦穆公の娘でした。

 秦、晋両国はお互いに矛盾を抱えながらも相互に婚姻関係を持つ点において、国と
国との関係バランスにおいては、突出していました。

 晋、秦両国は代々婚姻関係を重ね密接であることを、後の人々は”互結秦晋”或い
は”秦晋之好”と呼んでいます。


50. 「画虎類狗(ホア・フウ・レイ・コウ)」

 東漢時、”伏波将軍”、馬援に二人の甥、馬厳と馬敦がいました。
 この両人は、他人と皮肉混じりの議論をするのが好きでした。侠客との交友もあり、相当
軽薄で上滑りな性格でした。 馬援は軍にありて、この状況を知り、両名に手紙を書きまし た。
 それが今日に伝わる<誡兄子厳敦書>です。

 その手紙の一段落に次の故事が記されています。
 龍伯高(当時”山都長(長い口をもったヒヒ:カクマ)”)は、厚道謹慎(手厚く暖かい
)、ムヤミに人の長所短所を語るでなく、謙虚で慎み深く、清廉潔白。私はこのような彼を
尊敬している。 お前たちも彼を見習うことを望む。

 杜季良(当時、越の”騎司馬”でした)は豪侠で義の人、他人と同じように苦楽を共にし、
好きな人、嫌いな人を論ずでなく、全ての人と心通じる人徳を持っていたからでしょう、彼
の父の葬式には弔問客が大勢でした。こうした彼を私は勿論好きですが、あなた方が彼を学
ぶことを私は望みません。

 君達は、伯高の真似は出来ず、既に真面目で慎み深いという人徳を失している。いわゆる
アヒルが白鳥をまねしても所詮はアヒル。季良を真似ることは出来ない。
 それは一介の軽薄な放蕩人から、すっかり変身などできないということだ。いわゆる”画
虎不成反類狗(無理して虎を描くと、かえってそれがあだとなり犬(狗)の如くなる)”。

 白鳥は白鳥、アヒルはアヒル。いくら白鳥を装っても変身は不可能。単なるアヒルだ。
 猛虎を描きたいが、失敗し、かえって単なる狗(犬)と大差のない状態にはまった時に、
”画虎類狗”または”画虎不成反類狗”と言われるようになりました。

 以上の故事からこの成語が使われはじめました。
 力量のないものが、更なる高望みをしてもそれが水疱に帰し、あざ笑われる種になる比喩
として使われます。


49.  「白雲親舎(バイ・イン・チン・ショ)」

  ”白雲親舎”、この成語は狄仁杰(ディ・レン・ジエ)の故事とし記されています。
 狄仁杰、字(あざな)を懐英といい、初唐時代,太原の人でした。唐の高宗と武則
天時代の家臣として大理では丞(次官・副知事)を、河南では軍政長官を、豫州では
地方長官の職を歴任して、後に宰相となりました。

 <唐書・狄仁杰伝>によると、狄仁杰が青年のころ”併州法曹参軍”(当時の併州
即ち太原府、現在の山西省太原市西南:法曹参軍は司法部門の役人名)に任じられま
した。その時、彼の両親は河陽(現在の河南省孟県付近)に住んでいました。

 ある日、狄仁杰は太行山に登り河陽方向を眺めると、一片の白い雲が天空にポッカ
り浮かんでいました。彼はその雲を指差し、同行の者に言いました。”我親舎其下(
私の両親はあの白雲の下で住んでいるんだよ!)”(舎とは房舎、即ち生活している
所)。
 彼はしばらく、じっと感慨にふけり眺めていましたがその白雲は次第に小さくなり
ました。
 

 ”白雲親舎”は父母を懐かしく思う形容の成語ですが、時に、”白雲孤飛”として
も使われます。

 狄仁杰の活躍した以前の六朝時代に使われていた事から、この成語は彼が元祖では
ないとも言われています。しかしながら、”白雲”を用いて親友の心情を慕う喩えと

 南北朝時代、南斉の文学者、謝ティアオ(人名)の文章に”白雲在天、蒼波無極
(白雲天空にあり、際限ない蒼波)”という詞句がその一例です。


48. 「掲竿而起(ジエ・ガン・アル・チ)」

 ”斬木為兵、掲竿為旗”ーーーー木を切り、武器とし・・・、竹竿に旗(むしろ)
を掲げて立ち上がろう。

陳勝が蜂起した時<漢書>と賈誼による<過秦論>に、この詞句が記されています。
<史記・陳捗世家>には、称賛の言葉として記されています。

  陳勝、又の名を陳渉、彼は秦政権末期、陽城(現在の河南省登封県)の一小作農民
でした。他の小作農民と同様、長きにわたり牛馬の如くこき使われる、この不条理な
運命に対して統治者に恨みを抱いていました。
 ある日、畦で陳勝は、一言もしゃべることなくふさぎこみ、同僚たちは彼が病気に
かかったものとして彼を慰めました。彼は突然、頭をもたげて憤りながら言いました

 「この苦しみを忘れることがなければ!・・将来我々は富貴な生活を得ることがで
きるんだ。」。
  当時これを聞いた人は間の抜けた話としてあきれ、嘲笑し「おー、お前も俺も、貧
乏小作だよ、なんでそんな富貴な人になれようぞ?」。
 陳勝は彼に一瞥し、ため息をつきながら言いました。
  「燕雀安知鴻鵠志!(燕や雀がどうして白鳥の志をわかろうか?、 わかりはすま
い)」

 燕や雀は家の軒先、屋根瓦に身を寄せ生活、概して小鳥はこれにて満足している。
  だが、鴻鵠(鴻雁ではなく、白鳥に類する鳥)は天高く飛行し、悠然と水上で遊び
自由を謳歌して生活している。それが大鳥だ。
 ”燕雀安知鴻鵠志”ーーー、目先の浅はかな雇われ人が偉大な人物の崇高な志をど
うして理解することができようか、という意味の趣旨に人々は用いています。

 その後、秦は二世元年,辺境を守るために陽城にて九百人を徴兵しました。勿論、こ
れらは貧苦にあえぐ農民に向けられました。陳勝もその一人でした。同じく農民呉広
も身体頑丈なことから加わり、漁陽(現在の北京市密雲県)共に急遽向かいました。

 秦軍(地方隊)からはさらに二人の憲兵が派遣され、隊の監視に同行し、まず大澤
郷(現在の安徽省宿県)に集結をはじめました。其の時連日の大雨で進行は難航しさ
らに数日かけなけらば大澤郷には到達できない状況でした。陳勝と呉広はこっそり相
談しました。

 「思うに・・・、我等は期日通りに漁陽に到達できそうにない。遅れることは”死
”であり、行かないのに等しい・・・であるからには敢えて行かず、・・・この場所
で蜂起しよう!、たとえ死んでも本望ではないか!」。
 ・・・当時の軍法会議では、決められた要害の地を防衛できなればそれは処されて
もいたしかたなかった。

 二人は、決めた。憲兵の酒酔いの不意を襲い彼等を殺害しました。そして全兵士を
招集し緊急事態を説明し、反秦蜂起を宣言。兵士たちは歓呼し起ち上がりました。そ
して将軍に陳勝を、呉広を都尉と定め、国名を”大楚”と命名しました。さらに二人
に帰属し従う証として全員右肩の’もろ肌’を出させました。

 まず大澤郷を占領、蜂起にあたり木を切り武器とし、旗を立て(斬木為兵、掲竿為
旗)部隊を編成し、粛清の後、付近の村を攻撃し兵を集めながら軍事拡大を謀りまし
た。
 引き続いて陳県(現在の河南省准陽県)を攻撃しました。其の時すでに戦車六七百
両を擁し騎兵は千人を超え歩兵は数万人に達していました。
 彼等はすでに陳県を根拠地とし、陳勝を”張楚王”として擁立していました。
 このうわさはたちまち広まり各地の秦に抑圧された人々に深い影響を与えることに
なり次々に反応呼応し、統治している官吏を殺害し、蜂起し、蜂起の旗をたてました

 中国歴史上初の農民による蜂起はこのように連鎖爆発したのです。この蜂起は後に
失敗に帰しますが、彼等の勇敢な行動は人々の訴えるところとなり、貧困者の団結に
より武装闘争を引き起こし体制統治に対する反動が可能となりました。

 ”斬木為兵、掲竿為旗”、この成語は,後に”掲竿而旗”とよばれるところとなりま
した。


47. 「左右袒(ズオ・ヨウ・タン)」

 漢の高祖、劉邦の死後、呂后(呂雉)が朝廷の実権を握りました。当初、彼女の子
、劉盈が恵王として即位したが、在位七年で世を去りました。呂后はそこで皇太后と
して天子に代わり国政を司ることになり、実質上の女皇帝となりました。

 さらに長兄の呂澤の子呂産を呂王とし、宰相に任じました。
 次兄の呂釈の子呂禄を趙王として将軍とし、関中の南軍、と北軍を分担して管理さ
せました。
 最終的に、呂性姓の多くを諸侯の王又は諸侯の丞相に任じました。劉氏の天下は次
第に呂氏の手中に組み入れられました。

 呂后の死後、呂産、呂禄は関中の軍事力を取り合いし、政変となりました。
 漢の高祖時代の老臣、陳平、周勃等は談合しました。
 「かつて、高祖(劉邦)は盟約を結んだではないか。”劉性でない、この世の王を
攻撃しよう!”この盟約を我々は忘れるわけにはいかない」。
 この時の陳平は、名義上では、丞相だったが実権はありませんでした。周勃は太尉
であったけれども軍事上の実権を掌握はしていませんでした。つまり皆、無力だった
のです。

 その後、彼等は呂禄の将軍印を騙し取りました。周勃は北軍に進入し軍の中から命
令を発しました。
 「呂氏に賛同する者は右の、劉氏に賛同する者は左の片肌を出せ!」。将官全員左
の肩をもろ肌脱いだのです。周勃はただちに北軍の統率者となりました。

 劉章は呂産を殺害し南軍も解決しました。続いて呂禄が逮捕され斬首されたのです
。呂氏と同族権力者は殺戮され、粛清されたのです。

代わって劉恒王(漢高祖の中子)が継承し、漢の文帝となりました。 劉氏の天下
がよみがえりました。

 この歴史は<史記>と<漢書>に詳細に記述されています。左袒或いは右袒は古代
の態度表明の故事でこれだけではありません。

 <戦国策>にも王孫賈が斉人にジュオチー殺害呼びかけた時、右の”もろ肌脱ぎ”
を示した故事(倚門倚閭)がありました。<史記>或いは<漢書>に勝利を呼び、兵
士に役立つ為にもろ肌脱ぎの故事があります。

 後に、一方に加担、エコヒイキすることを”偏袒(ピエンタン)”又は”袒護(タ
ン・フ)”と呼んでいます。公正な態度を堅持し、一方的には偏らないことを”不為
左右袒(ブ・ウェイ・ズオ・ヨウ・タン)”といいます。


46.「左右手(ズオ・ヨウ・ショウ)」

 漢の高祖劉邦の丞相瀟何は劉邦と同郷(江蘇省沛県)でした。劉邦は郷里にありて
秦に反旗を掲げ起兵、瀟何は直ちに彼につき、共に秦朝を打倒。そして項羽を打ち負
かし、漢朝を興しました。劉邦は皇帝となり瀟何は始終劉邦の信頼厚い助手となりま
した。劉邦も、ひと時も彼を遠ざけることはありませんでした。

 秦が滅亡し、劉邦が漢の王となると、韓信が劉邦に身を寄せてきました。韓信は才
能ある軍事専門家だったが、劉邦はそれを理解せず、彼を食糧管理の小官にしていま
した。瀟何は韓信と以前に話したことがあり韓信の軍事才能を高く買い、心中彼に敬
服していました。

 その時、漢王劉邦の領地は漢中にありました。部下の軍人の中にも戦中の結束が薄
れ、あるものは劉邦と西進を望まなくなり故郷の東方に帰りたい兵士も大勢出てきま
した。そこで毎日、脱走する人が出てきました。韓信は劉邦が重用しないことから、
この機に乗じて密かに逃げ去りました。

 瀟何は韓信が逃げたのを聞き、驚きを隠せず、直ちに馬を引き連夜自ら追いかけま
した。ある人は瀟何が血相を変え馬にまたがり東に駆けたことから、直ちに劉邦に瀟
何も一緒に脱走したと報告しました。劉邦は気が気でなく、二日間不安にさいなまれ
ました。如何にしたらいいのか知る由はありませんでした。

 その後やっと瀟何は韓信に追いつき、一同揃って帰還しました。劉邦は喜びました
がもう一方で恨みも抱きました。だが彼が駆けて行ったことに対して一言も言わず、
そしてこの顛末をもうこれ以上話さない事にしました。

 瀟何は再び劉邦に対して韓信を取り立てることをお願いしました。そこで劉邦はや
っと韓信を大将軍に抜擢したのです。

 <史記・准陰侯列伝>に瀟何が韓信を追った時、劉邦が不安の様子が伺えます。「
人が言ってる・・、丞相瀟何亡(なぜ、いない・・!)。王は怒り、左右の手を失っ
たが如き」。

 有能なる助手の形容がいわゆる”左右手”、左右の手の如く、ひと時も無くてはな
らない・・・。


45.「倚門倚閭(イー・メン・イー・リウ)」

 戦国時代、斉の泯王の時、燕、秦等の国々は連合して斉を攻撃しました。燕の将軍
楽毅はさらに斉の都臨に侵攻し、斉国の財宝を全部略奪しました。
 斉の泯王は衛に、さらには鄒、魯、最後はシ゛イ(山東省)に追われました。

 楚はジュオチーを大将として派遣し、斉の救援に駆けつけました。ジュオチーは斉
の大臣だったから。その実、楚は心から斉の救済をするのではなく、ジュオチーは終
に、斉の泯王を殺害しました。そして、燕と領土と宝をを分かち合いました。

 ・・・その後、田単が燕軍を撃破して、やっと斉の失った国土は復興したのでした。

 <戦国策・斉策>に記されています。ジュオチーは斉の泯王を殺害した時、当初人
民は只王が失踪し、行方不明と思っていました。

 大夫王孫賈の母は息子に言いました。「お前は、朝出かけて、夜帰る・・・、
私はいつも門によりかかり帰りを待っていますよ。もし、お前が夕方出かけて半日間
帰らなかったら私はさらに不安に刈られ門に寄りかかっているよ。お前が十五歳の時
国王になられた、そのお方が現在行方不明なんだよ。お前はよく安心でいられるねえ
・・・?」。
 王孫賈はこれを聞き、いたく恐縮し、そこで泯王の捜索に向かいました。
 そしてまもなく、泯王が殺害されたことを知り、怒りがこみ上げてきました。直ち
に市民に呼びかけ、正義に基づいて蜂起することを宣言しました。

「私と一緒にジュオチー成敗願う者、一同、腕まくりを!」。

 その場で、四百人が呼応しました。彼らはジュオチーの居場所に突入し、この侵略
者を殺害しました。

 王孫賈の母が言った「倚門而望、倚閭而望」は、後に「倚門倚閭」という成語にな
りました。

 父母が外出する子女の安否を常に思いやる心情の形容として使われます。


44.  「挙案斉眉(ジ・アン・チ・メイ)」

 東漢の人、梁鴻、字を伯鸞、原籍平陵(現在の陝西省)、若き時家庭は貧しかった
が勉学に励みました。しかし、彼は任官する気はなく、妻と共に働き質素で充実・愉
快な生活をすごしました。

 梁鴻の妻は、彼と同じ村の孟家の娘で名前は孟光。生まれつき色が黒く、体は頑丈
で肉体労働が好きで、女らしさは微塵もありませんでした。
孟家はこの娘の縁談に手こずっていました。三十になっても独り身、結婚していませ
ん。その原因はいわゆる彼女の器量が若旦那(一般男性)の好みではなかったことに
もよるが、彼女自身、こうしたひよわな男を軽蔑していたこともあります。
 結局、彼女自身が梁鴻に白羽の矢を当て「彼のような男性を・・・」と要請したの
でした。 彼女の両親は、ただただ使者を梁鴻家に派遣し懇願するしかありません。
 梁鴻は孟光の性格を聞き、知っていていましたから、意外にも直ちに同意しました。

 孟光が梁鴻家に嫁入りしました。だが、美しい衣装をまとった花嫁を、梁鴻は相手
にしませんでした。七日の間、彼女と同衾することはなかったのです。 さすがに八
日、孟光は頭髪の髻(たぶさ)を引きちぎり、怒り爆発!。首飾りを払い捨て着飾っ
た衣服を脱ぎ捨て、勤労服(普段着)に着替えようとした刹那、梁鴻は、感激の絶頂
に至り、”よっしゃあ、これでこそ我が梁鴻の女・・・”。
 猛然と・・・・・・・省略・・・・・・。”男の仕事”をやり遂げ、果てたのでし
た。
 <後漢書・梁鴻伝>によれば、梁鴻と孟光は婚儀の後、濡陵(陝西省長安県東)の
深山に二人して籠もり、誰はばかるこなく思う存分性生活を堪能したということです。

 両人の互助互愛、共同”労働”、・・・この原点は、極まりの礼儀(セレモニー)
だった。 相互が”お客を甲斐甲斐しくモテナスガごとく敬愛しての性交。

 伝説によれば、毎日の営みが完遂すると、孟光はいわゆる御馳走をおこたることな
く、タイムリーに膳に乗せ両手でささげながら自らの眉の高さにまで恭しく掲げ、自
愛に満ちた眼を梁鴻に向けるのでした。

 梁鴻は再び歓喜に満ち、このようにして両名は愉快に食事をとることができたので
す。 これが”挙案斉眉”の故事です。(案とは即ち皿鉢のことで、飯椀又は,碗、
野菜皿の一種の食器です。)梁鴻と孟光の夫妻関係は良好で、シナの古代歴史上有名
です。人々はこのような夫婦を”梁孟”と呼ぶことから、人民は”挙案斉眉”または
”梁案相庄”を夫婦間の相思相愛の形容に用います。

また雑劇に<挙案斉眉>として上演されています。

うどん侍・福蔵