≪詩経・小雅≫に一遍の《 鴻雁 》の詩があります。
鴻雁於飛 哀鳴嗷嗷
この詩の意するところは深い。鴻雁が安らぐ場所を見つけることができず、目的も無く、
あてもなく、非哀を叫びながら飛ぶ情景です。
行く当てもなく、災難に遭い、救いを求める凄惨な状況の形容として使われます。
この詩から人々は後に安住の地を失った難民を”哀鴻”と呼んでいます。難民が至る所
にたくさんいる状況を”哀鴻遍野”または”遍地哀鴻”と言います。
原詩、哀鳴嗷嗷の”嗷嗷”は後に、よく用いられ、おなかをすかして鳴き騒ぐ声の形容
として使われます。(例えば”嗷嗷待哺(ひな鳥がえさを待わびク・ク・ランランとせわ
しく騒ぐ様”))
名著ユン・チアンの「ワイルドスワン」が数年前ベストセラーとなりました。中国文化
大革命の現実を知る歴史的作品。
直訳すると「野生の白鳥」ですが、その後中国語訳で「(哀)鴻」と知り、作者の推敲の
跡がタイトルに滲んでいることが伺えます。
成語の意味:災禍によって流浪する民が野に満ちている様。
唐の時代、牛チアオは神秘伝説を収集するだけでなく、<霊怪録>を書きました。
その中の一つ。
ある夏の夜のこと。郭翰は庭に横になり、一人で涼んでいました。
天空からふわり、舞い降りてくるのです。目を凝らすと、鳥肌が立つような美人
でした。 その仙女は、ひらり瀟洒に着地。
地上の仙女は、まばゆいばかり。なまめかしく、耀いていました。
郭翰は驚きながらもうれしくなり、彼女はきっと天上の仙女だと思いました。
訊ねると、彼女は天上の織女でした。郭翰は仙女の衣裳を細かに観察をしたところ、
こんな美しい衣裳をかつて見たことも無く、どのようにしてこれを作るのか、知る由
もありませんでした。
不思議なことに、この衣裳には一筋の縫い目も見当たりません。 そこで、思わず
尋ねました。「これはどのように裁断し、そしてどのように縫い上げたのでしょうか。」
と言いながら郭翰は、近づきました。
「これは、天衣です、・・・布を裁断し、その後、針で縫う・・・さような衣裳で
はありませぬ・・・。 天衣は・・・無縫の衣です・・・。」
この故事から”天女無縫”という成語が生まれました。
何事もてきぱきと、そして美しく、一点のホコロビも余韻も残すことなく、そして
自然にジャストフィット。
非のうちどころが無い時に使われる成語です。
”智者千慮、必有一失;愚者千慮、必有一得”-------
聡明な智者が、たとえ全神経を集中し、気配りしても「完璧」はなく、必ずどこかで失
策する。
愚者の場合、全包囲に集中し、気配りすると必ず、得る所がある。
この成語は<史記・准陰侯列伝>に韓信が李左車と話した時、李左車が述べた故事とし
て記されています。
李左車は趙王の参謀として知謀に長じていましたが、趙王は彼の策を採用しなかった為
に韓信により敗北を帰しました。
韓信は李左車を捕虜にした時、直ちに礼を持って接し、謙虚に教えを請いました。
当時、韓信は燕、斉を支配下に入れようと攻撃準備を整えていました。そこで、李左車
にいかにすれば成功するか訊ねました。
李左車は自由に、遠慮することなく意見を述べました。
「あなたは関中から兵を出し、黄河を渡り、東に向かい、一挙に魏を滅ぼし、趙を再び
撃破、名前は内外に伝わり、天下を震え上がらせ目下のところあなたが優勢です。しかし,
ながら、兵力は既に疲労しています。もし、燕を攻撃し万一早期の勝利が勝ち取れないな
らば、時間が引き延ばされたら、斉は必ず充分準備します。そうなれば、あなたの弱点が
暴露されます。用兵のうまい将軍とは自分の優位点と相手の弱点をうまく運用するのがう
まい。自らの弱点を持ってして相手方の優勢で戦いを勝つことはありません。」
韓信は質問しました。
「どうすべきか?」李左車は続けて答えました。
「私なら、ひとまず軍を休ませます。その一方、燕攻撃を大々的に宣伝し、弁の達つ使者
に手紙を持たせて燕王に会見し、燕王に敢えて降伏を薦めるでなく、あなたの優勢を誇示。
燕王が投降の後、斉王も簡単に対処することができます。」
韓信は李左車の提言を聞き、心より賛同し、直ちにその様に行動しました。
李左車は韓信に対してこの建議提出時、態度は非常に謙虚に彼は言いました。
「古人曰く、智者千慮、必有一失;愚者千慮、必有一得。私の建議全部が採用されるな
どと思っていません。しかしながら愚者の忠言としてあなた様の御参考に少しでもお役に
立てばと願っています。」
人々は自分自身の、ちょっとした知識、意見を”愚見”、”愚者一得”、”一得之愚”、
または”千慮一得”と称して、自らをへりくだり使います。つまり謙譲語です。
人々は聡明と思う自らを戒めることをすすめています。一片の慎みをも持たず聡明をひ
けらかしてはいけないと。なぜなら、”智者千慮”でも”必有一失”すなわち、”千慮一
失”だから。
成語の意味:千回の考えの中に一回の成功がある。
”大腹便便”この成語は辺韶の故事から生まれました。
辺韶、字を孝先、後漢時代の浚儀(現在の河南省開封付近)の人です。彼は孔子、孟子の
書物を読破、多くの学生を指導しました。
<後漢書・辺韶伝>によると、次のような故事があります。
辺韶のお腹は大、行動はのろく、ものうさそうに、真昼間、いつもごろりと横たわる。数
人の学生は即ち歌を作り、同級生の間で、流行りました。いくつかは今も諳んじて朗読でき
ます。
辺孝先、腹便便
頼読書、但欲眠
辺韶はこれを聞くと当然怒ります。そして彼もまた数句を読み上げ仕返しました。
辺為姓、孝為字
腹便便、五経筒
但欲眠、思経事
いわゆる五経とは春秋時、孔子が編纂した五部書で後に儒家が経書を作り、”五経”とし
て残しました。即ち”詩経”、”書経”(尚書)、”易経”、”礼記”と”春秋”です。
辺韶はかつてこれらの類の経書を熟読したから、当時の人々は彼を”五経筒”(五経の書
箱を装っている)と称していました。この呼称は賛美かもしれないし、風刺でもあることを
辺韶自身、納得していました。
学生達はお腹の大きい(”腹便便”)彼を嘲笑していたし、彼はお腹の大きいのは中に経
書が充満しているせいだと言いました。
学生達はただ眠りたい彼を嘲笑し、彼は睡眠を、経書を常に思考を巡らしている結果だと
自認していました。
<太平広記・巻二四五>に上記の辺韶回答がこのように記されています。
辺為姓、孝為字 (姓は辺、あざなは孝)
腹便便、五経筒 (お腹の中には、五経がいっぱい)
寝与周公同夢、静与孔子同意 (夢では周公、瞑にふければ孔子と出会い)
師而可嘲、出何典記? (老師を嘲て、どうするの)
<論語>によると、孔子は嘗て、夢の中で周公と会ったと語っています。辺韶も此処から
「私も夢の中で、周公とお会いしたよ。静かに瞑想している時でも、私は孔子の理想と教導
を決して忘れていない!」と’ほら’を吹きました。
最後の二句は学生を訓戒説教し、教師を嘲笑するべきではないと述べています。
”大腹便便”この成語は、この段の故事の中の”腹便便”から生まれました。”便便”は
肥満を形容しています。
我々が通常使う ”大腹便便”は、お腹が太って、さらに嘲笑の意味合いが含まれていま
す。 又” ”便便大腹”とも呼ばれます。
成語の意味:腹が肥え太っている様。ベンベンたる太鼓腹。
転じて 搾取者、金持ちの形容
唐の時代、武則天執政時、二人の残虐無比の大臣がいました。
一人は来俊臣、一人は、周興。両名は数々の人道を外れた残虐な刑法を作り、多数の無
実の人々を殺めました。
周興のあだなは”牛頭阿婆(地獄からの使者)”とよばれ、常に自白を強要させる巧み
なコツを自慢し、吹聴していました。
「大概の被告人は裁判で冤罪だと主張する・・・。果して、死刑の後、一件落着。そ
れで何も問題、・・・ないよ。」
来俊臣と周興の肝をつぶす暴行事例は<唐書>に記されています。このことから、人
々は彼らの蛮行を”酷吏”の典型と見ています。
しかし、<資治通監・唐記>に故事があります。周興が考えた酷刑を自身が受けると
いう、面白い故事があります。
武則天に、周興が謀反を企てているとの密告がありました。来俊臣は、武則天から周
興を逮捕し、詮議する命を受けました。
来俊臣は、彼をおとなしく白状させたいのだが、周興はこの方面の知恵者であり、一
筋縄にはいかない。だから、どうしても斬新な方法を考え出さねばなりません。
この時、来俊臣と周興は一緒に座って酒を飲んでいましたが、周興は自分が被告人と
して告発されていることをこの時知りませんでした。
来俊臣は、周興に教えを請う口調で訊ねました。「罪人はまことに悪賢い、色々な刑
具を皆試してみるのだがなかなか、白状しない。同志よ、なにかいい方法はないものか
?」
周興は得意になって応えました。「それは簡単さ、・・・貴殿にいい方法を教えよう。
まず、大きな甕を用意してくれ。そして周囲から炭火を起こして焼きつける。まもなく
内外ともにあぶられ熱くなる。そこに受刑囚徒を甕に放り込む・・・。白状するか、し
ないか・・・ふふふ!」
来俊臣は悪賢く笑いながら「おお、・・このやり方は的を得てる、すばらしい、」。
直ちに大甕を用意させ周興の言った通りに炭火を起こし大甕を焼き始めました。暫くし
て、その大甕は真っ赤に焼けました。
来俊臣はこの時、顔を翻し、甕を指差しながら周興に言いました。
「お前の謀反は、全てお見通しだ。私は今ここに、天子の詔を命ずる。(君を調べたいこ
とがあるから)どうぞ、甕にお入りください!」
周興は愕き、地に伏し詫びを入れ、直ちに罪を認めました。
これが”請君入甕”の成語が出来た由来です。
自らが、別人を想定して刑罠を考案したが、結局、自らを陥れることとわかりました。
しかし既に救済の道はなくただただ、おとなしく仕掛けた罠により自白するしかありませ
んでした。
こうした時”請君入甕”のユーモアある成語が用いられます。
<隋唐演義>にもこの段の記述がされています。しかしながらそれによると、周興を尋
問したのは来俊臣ではなく、厳思善でした。恐らくこれが本当だったのでしょう。しかし
ながら、この”請君入甕”の成語の原意からしてそれ程重要なことではありません。
成語の意味:自分で定めた厳しい規則や禁条に自らひっかること。
相手の方法で相手をやっつけること。
”矮子看戯”は、ことわざであり、隠語でもあります。自ら実践する事なく、独自
の見解思考を持たず、ただ、人が言ったことに同調し付和雷同する諷刺形容に使われ
ます。
ちょうど背の低い人が混み合う中で観劇しているようなもの。その人は舞台上でどの
ように演じられているのか見ることができない為、演技の良し悪しを論じることなど
できません。
彼はただ他人が笑っているのを見て笑い、他人が喝采した後に続いて喝采するしかあ
りません。
≪朱子語類≫(宋代の儒学家、朱喜の語録、同時代黎靖徳編集)に記されています。
”如矮子看戯相似、見人道好、他也道好。(見物人がイイと言えば彼もイイという、
まさに背の低い人が芝居を見るかの如く・・・)” 少なくとも宋代にはこの成語が既
に使われていたことが読みとれます。
清代の通俗小説≪快心編≫(”無名氏”撰、”天花才子”編)にも記されています。
”総之、無識的一味矮子看場、随声附和。(つまり、無知の一人、ちびの観劇、付和
雷同)”
所謂、”矮人看場”と”矮子看戯”は同じ意味です。
この成語は見識のない人の比喩としても使われています。
成語の意味: 一寸法師の芝居見物。
: 自分で何もわからないくせに他人の尻馬に乗り付和雷同する。
成語の意味:絶妙、この上なくよいの隠語。黄絹は色糸なので絶、幼婦は少女なので妙。
後漢のお話。 浙江上虞に十四歳の少女がいました。名前は曹娥。 父親が長江で溺死。そ
の父の亡骸を捜しながら、彼女も足を滑らせ溺死。 人々は、彼女を孝女と称えました。
当時、”上虞長”である度尚は邯鄲淳に哀悼文を作らせ、それを石碑に<曹娥碑>を刻み
ました。この<曹娥碑>の哀悼文の作者、邯鄲淳はその時、十三歳になったばかりでしたが、
類まれな文才がありました。
著名な文学者蔡イオンは、この碑文を訪れました。しかし、彼が到着した時は日が暮れた
時でした。そうした中、彼は手探りで刻まれていた碑文を読み終え、そして八個の漢字を提
示しました。
”黄絹幼婦外孫斎曰”。
その当時、人々は誰もこの八漢字の意味がわかりませんでした。
<世説・捷悟>に記載されています。
その後、曹操と彼の秘書楊修が<曹娥碑>付近を通りかかった時に、その碑を参観しまし
た。
(<三国志>では、曹操とその楊修は蔡イオンの娘蔡イエンの家で曹娥碑の拓本を看たこ
とが記されています。)
曹操は蔡イオンの’八字’を見るなり、楊修にその意味を尋ねました。楊修は応えました。
”黄絹は色物の絹のことで糸偏に色をつけると、’絶’である。幼婦は少女のこと、女偏に
少の漢字をつけると’妙’です。外孫とは女の子のこと、女偏に子は’好’となる。斎、こ
れは辛いすりつぶした大蒜、葱の類、斎曰とは大蒜(にんにく)をすり潰す小鉢、辛さを辛
抱する器、受ける、辛さ、この二字を一つにすると、’辞’これは又は’詞となる。
これは蔡イオンが碑文を称えていることです。即ち”絶妙好辞!”であると、・・・曹操
はこれを聞き楊修の聡明さに敬服しました。
後に人々はこの’隠された言葉’を引用して人物を称賛し、物事の”絶妙”の時、”絶妙”
と言わず、”黄絹幼婦”と言います。同時に詩文の素晴らしいできばえを”絶妙好詞”とし
てこの成語を使います。
<神仙伝>によれば、漢朝の淮南王、劉安、は仙方神術を好み探し求めていまし
た。
八公の仙翁と呼ばれる仙人は、彼に精錬仙丹の方法を伝授しました。彼がそれを
飲むやいなや、真昼間に昇天し仙人になりました。
彼の家に数粒の仙丹を遺していましたが、鶏と犬がそれを啄ばむやいなやこれら
の動物も仙人となり昇天。一時空中でコケコッコー、ワンワンの泣き声が響いてい
ました。
類似したこのような神怪奇伝説が、古書に書かれています。
<水経注>に唐という姓の人が仙人になろうと、丹薬を飲み、鶏犬と同じ昼に昇
天し、”鶏が天上で鳴き、犬が雲の中で吼える”等が記されています。
また<太清記>では”抜宅飛昇(全家昇天)”と記されています。
我々は当然これらのことを事実とは信じることはできません。言われている淮南
王劉安は歴史上に実在する人物です。但し、<史記>と<漢書>によれば、彼は人
により謀反を告発、罪を恐れ自殺し、どこにこの”昇天”のデマ(風説根拠)が何
処から来たかわかりません。
しかしながら、ここから、趣有る成語が生まれました。
旧社会にありて、突然昇進し、それがあまりにも高い場合、”白日昇天”または”
白日飛昇”と呼び、一人が大出世すると、大小全員がその富貴の恩恵を受ける事を”
抜宅飛昇”と言われるようになりました。
嘲笑的な意味を加えて”一人得道、鶏犬昇天”と呼び、一人の出世を頼りに急に
派振りがよくなった人を、”淮南鶏犬”と呼んでいます。
成語の意味:自分で自分の首を締める。
戦国時代、秦の孝公の宰相商鞅は歴史上有名な政治家でした。当初、衛の人だか
ら、人々は彼を衛鞅と呼んでいました。
秦の孝公は彼の功績により”商”を封じたことから商君、商鞅と呼ばれるように
なりました。
商鞅は秦の宰相として最大の功績は二次にわたる法制の改革でした。十年の間に、
旧制度を改め、かなりの新しい規定を創りました。
その一つは「廃除井田制」で開墾を奨励し、耕地面積を拡大し農業生産の発展に
貢献しました。
そして相互監視制度、賞罰条例を実行し、治安の保全を強化しました。
秦国は当時諸国の中で、比較的弱かったがこの時より、富強を開始し、社会秩序
がますます安定し、国家の野望が高まりはじめました。
しかしながら一般貴族は大変不満でした。
秦孝公の死後、秦の恵王として太子が即位。恵王は本来、商鞅の反対派でした。
ある人がこの機に乗じて、商鞅を陥れようと謀反を進言。恵王は直ちに彼の逮捕
を命じました。商鞅は仕方なく密かに逃亡しました。
<史記・商君列伝>では、商鞅は明るいうちに国境近くに逃亡したかったが、日
暮れとなり、宿を取らざるを得なくなりました。
図らずも、宿屋は彼に敢えて提供せず言いました。
「商の法では、身分不明の客を泊めるわけにはまいりません。私達がまた罪人と
なるからです。」
彼らはこの身分不明の男が、正真正銘の商鞅とは知るよしもありませんでした。
商鞅は長い溜息の後、言いました。
「私の作った法で・・・このざまだ」。
商鞅のこの話、意味は「私自身が法律改正し、幾種類もの法律を生み出し、結果
として私自身をこのような境地に陥れる結果となってしまった。」
後に人々はこの話を簡略し”作法自死”又は”為法自”を、自が主張したこと
の結果として自分の首をしめる比喩に使います。
<宋書>に劉毅に関する”作法自”の故事があります。
劉毅は晋末の武将でした。晋の安帝の時、桓玄が位を奪い取りました。
劉毅と劉裕らは出兵し、討伐しましたが桓玄無き後、劉毅と劉裕が不和となり劉
裕は劉毅を攻撃し、劉毅は大敗し、逃げました。夜になり、しばらく身を隠し追手
から逃げるために寺院に要請しました。
和尚は答えました。
「我我らの師父は以前お寺に逃げ込み桓尉を引き取り世話をしましたが劉毅に処刑
されました。」
劉毅は、これを聞き言いました。「これはまさに”為法自”だ!」
成語の意味:ひた隠しに隠し秘密を守って漏らさない。堅く口を割らない。
春秋時代、魯の庄公は彼の后孟任を溺愛しひたすら、孟任の子、般を次の継承者と
願っていました。
しかし、庄公には数名の妻子、と三名の兄弟がいて、王位継承は決定されていません
でした。彼が病に倒れ、この問題を提起せざるを得なくなりました。
庄公はまず、三男である弟、叔牙に意向を聞きました。「王位継承の適任者に誰が
いいだろうか?」;叔牙は応えました。
「慶父(庄公の兄)は有能です、必ずや任に耐えられるでしょう。」 庄公は叔牙の
提案は意に沿わなかったので、今度は老練な友人、季友に意見をききました。季友は
言いました。「般がふさわしい、命を犠牲にしても般を擁立して、私は悔いはない。」
ここで庄公は同意を表明した。
庄公の死後、季友は叔牙を毒殺、直ちに般を後継者に推挙しました。慶父はこれを
不服、庄公の夫人哀姜と共謀し般を殺害、そして国君として開を立て、直ちに魯のミ
ン公として即位しました。季友はしかたなく、陳国へしばらく身を寄せました。
一年が経過し、慶父は、時が熟したとして、直ちにミン公(開)を殺戮。自らが国
の君にと準備を整えました。 この時、人々は、彼の残虐で二人の国王を連続して殺
したとして、次々と反対の声が出ました。
陳国に身を隠していた季友は、魯国の人々に「処刑しよう!慶父を」と呼びかけま
した。慶父は驚き、慌てて斉国に逃走しました。
以上を史実として、孔子はこれを<春秋>に記載しています。
彼は記して曰く。
「子般卒、公子慶父如斉」。 ”卒”とはこの世を去ること。”如斉”は”往斉国
去(斉に逃亡)”のことだ。”如”には”往”向かうという意味があります。孔子は
<春秋>にて慶父が国王を殺し、”逃奔”斉国に逃げ込む、と記さずにソフト描写し
て”如”斉(斉に逃げ込む)と記しています。これは何故か?
<春秋谷梁伝>には、”これは明らかに逃亡であり、”如(向かう)”とはこれい
かに?・・・作者が事の真相に対して、諱莫如深、硬く口を割らない、漏らさない為
である。
この”諱莫如深”は、その後成語となりました。諱は隠し、言うことがはばかられ、
隠すこと。この成語は事の実態真相を人に知られることを只恐れ、ひたすら覆い隠す
成語となっています。
成語の意味:蛇を描いて足をつける。余計なつけたしをする。
楚国のある家で先祖の祭祀がありました。それが滞りなく終了し、主人はそのお祭
りに使った酒を参列していただいた人々に振舞おうとしました。しかし、人は多いが、
酒は十分でない。
さて、どうしようか?皆で考えあぐねていますと、蛇を描く競争を思いつきました。
蛇を、誰が一番に描き終えるか、一番先に描きおえた人が、その酒全てを飲みほす
ことができる事に決めました。
そこで、一同蛇を描き始めました。
そのうちの一人が早速描き終えました。彼は他の人の多くがまだユックリ描いてい
るのを見て、一方で酒壷を手に持ち、笑いながら言いました。
「あらあら、皆さん、遅いね。じゃ、私はこの蛇にさらに脚を描き加えよう、充分、
間に合いそうだわい、!」と言いながら、直ちに、描いた蛇に脚を加え、絵を完成さ
せました。
この時、第二の人が描き終え、直ちに酒壷を奪い取り言いました。
「蛇のどこに一体全体脚があるのだい?お前が描いたのは蛇ではない、だからこの
酒は私のもんだ」。
他の人全てがこの男の意見に同意、もともと真っ先に絵描いた男は”画蛇添足(蛇
に脚を加えて描いた)”ことにより、反って、その酒を一滴も飲むことは出来ません
でした。
この故事は<戦国策、斉策>にも記されています。
楚懐王の時、昭陽を大将として派兵し、魏を討伐し、さらに、八城をも破り大勝利
を収めました。さらに、彼は斉国に進攻しようとしたところ、斉王は慌てました。う
まい具合に、秦国担当の使者陳軫が、この時丁度斉国を訪問中でした。陳軫は直ちに
昭陽と会見、”画蛇添足”の故事を語りました。そして彼に魏討伐大勝利の大功績は
人の知るところ。もしさらに追加して、斉を攻撃、・・・故事”画蛇添足”とまった
く同じではないか、万一勝利しなければ、逆に功績はどころではありませんよ。昭陽
は陳軫の話を聞き終えるや、撤兵しました。
すでに完成した仕事の上に余計な加工を施し反って失敗することを”画蛇添足”と
呼んでいます。
即ち”弄巧成拙”の意味です。宋朝の黄庭堅はかつて彼の<拙軒頌>の中で言って
います。「弄巧成拙、為蛇添足」。”弄巧成拙”の”巧”は聡明の意味。
”拙”は”愚鈍(のろま)”の意味。元々聡明を取り繕い、馬鹿な結果を招くこと、
これは”弄巧反拙”とも呼ばれています。
成語の意味:大ぼらを吹く。
初期唐の時代、呉県(現在の江蘇省)に陸余慶がいました。かつて”監察御史”、”殿
中侍御史”等の官職を歴任しました。 同時期の著名文人に陳子昴、杜審言、宋之問等は
、彼の友人でした。 しかし、陸余慶の文章はさっぱり・・・でした。
口はすこぶる達者、絶えることなく論じるのだが、自己の所見を文章にすることはまる
でダメ。
ある時、起草文を書く役に任命されましたが、一日かけても、一句の文も書き上げるこ
とが出来ず、このことで官職を辞しました。
<唐書・陸余慶伝>によれば,当時陸余慶に対し二つの嘲笑的論評があります。言う事
は”喙長三尺(くちゃくちゃ言う)”が、文筆処理には”手重千斧(手が非常に重い)”。
唐の張鷙の撰集<朝野仝載>では”筆頭無力嘴頭硬(文才は非力、弁は達つ)”と記さ
れています。
意味のない言葉巧みの美辞麗句の形容を”喙長三尺”と呼んでいます。(”喙”は鳥の
尖った長い嘴のことです)
”喙長三尺”の話しは、最初は<庄子>に記されていました。原意は口を閉ざし、何も
言わない意味でした。<庄子・徐無鬼>に見られます。
「孔子曰く、’某願有喙三尺(ある者、三尺の嘴を欲す)’」
郭象が注釈をつけました。「嘴長き者に蓋をする(口を塞げば)、何も叫ぶことはでき
ない。」清のジャイハオの<通俗編>では、俗語、風刺は的を得た表現で人を言い当てる。
「三寸の鳥、七寸の嘴、と<唐書>ではさらに陸余慶を”喙長三尺”と嘲笑している所を
見ると、言ってることが全て嘘であり、”己誤用<庄子>文矣(<庄子>で用いた文は既
に誤っている)”その実、人々は既に”喙長三尺”の成語を用いています。
そしてさらに、”三寸鳥、七寸嘴”の俗語では、一人の小賢しい’しゃべくり人間’とし
て、活き活きと意をほのめかす形容に描写されていることから、孔子の原意と<庄子>の文
に拘り、遠慮するには及びません。
”剛愎”は片意地でわがまま、”傲悪凶慢”の意です。<左伝・宣公十二年>に一つ
の故事が記載されています。それが”先穀剛愎不仁(先穀のわがまま,徳のなさ)”で
す。
先穀は春秋時代の晋の武将でした。
ある時、晋楚の戦いで統率者の命令を聞かず、勝手に行動しその結果晋軍に大敗北
をもたらしました。
当時、楚軍は既に撤退を開始、晋軍統率である苟林父とその他の武将たちは敵情を
分析し形勢判断の結果、軽率に軍を進めることは取りやめて、今回の戦の敗北を認め
ていました。
だが先穀(当時中軍佐即ち中軍副将)は、自分の部隊を引き連れて楚軍を追撃しま
した。苟林父は気がついた時にはすでに遅く、ただただ全軍に前進を下さざるを得ま
せんでした。楚軍は、晋軍の追撃を聞き、大夫伍参は反撃を主張、令伊(楚の執政官
)・孫叔敖は逆に戦うつもりはなく兵馬を継続して南に向け、帰国の命令を出しまし
た。
伍参は直ちに楚王に直訴しました。
「なぜ、出陣しないのか、ごらんなさい、苟林父が任じた中軍主将は威信もなく、
命令を下しても伝わらない。しかも”其佐先穀、剛愎不仁(先穀は、わがままだけで
徳はなし)”根本的に命令を聞かない。他の将軍とも意見が合わず不一致、部下はう
ろたえるばかり。ここは戦う時ですぞ。わが軍は必ずや、勝ちます。 晋は負けます
よ。」
楚の庄王は伍参の話を聞き、直ちに令伊(楚の執政官)・孫叔敖に伝令を発し、撤
退を停止し、反撃の北進を開始。晋軍攻撃が始まったのです。その結果、晋軍は大敗
を喫しました。
”剛愎”は常に”自用”と一緒に用いられ、”剛愎(傲慢)”な性格の人は往々に
して”自用(独断)”となります。<金史・赤盞合喜伝>で、”性剛愎(性格が傲慢、
往々に勝手)、好自用(独断に走るもの、なりやすい)”と記されている。
自用とは独りの判断にてその己の持論に過信しての軽挙妄動に走ることなり。
<中庸>には”愚而好自用(愚かなり、独断専行)”、<尚書仲ホエ之誥>では、
仲ホエが商の湯王の勧告に対し述べたことが書き残されています。
「好問則裕、自用則小(いい問答は即ちこころ豊かに広く、独断は度量狭い判断で
ある)」、<左伝・桓公十三年>にも莫敖屈瑕に関する”自用”の故事があります。
”莫敖”は楚の官名です。それは春秋戦国時代楚武王の時、莫敖屈瑕は楚の大軍を
率いて付近の小国羅(ルオ)国(現在湖北省宜城県西)を征伐に向かいました。出兵
のその時、大夫斗伯比は壮行に参会、その帰り道、路上で彼の馬車夫に言いました。
「今回の出兵は莫敖は必ず・・・負けるぞ。ほら、意気揚揚として、あの輩、天狗に
なってはしゃいでいるじゃないか!」
これより前に、屈瑕はかつてさらに小さなイン国の蒲騒地方(現在の湖北省応城県
)で初陣を飾ったことがありました。これが原因で、彼は傲慢になりました。そこで
斗伯比は楚の武王に言いました。「早急に莫敖屈瑕に応援部隊を派遣しなければ、こ
の戦いは勝てませんよ」。楚の武王は考えました。「戦はまだ始まっていないのに、
援軍だって?・・・其の上、出陣部隊は、ほとんど出払っているんだが。斗伯比は、
又不可解なことを言うもんだ・・・。彼は何を言いたかったのだろう?」。
楚の武王は、不思議に感じ、夫人の曼に尋ねました。曼は思索し、言いました。
「大夫斗伯比が言いたかったことは、増援部隊を考えていないことへの危惧、さら
には貴方に訴えたかった・・・、莫敖屈瑕は敗北をきっすると。確かに、莫敖屈瑕は
確かに蒲騒の戦いでは勝利を収め、まさに天狗になって’聞く耳をもたない独断専行
、必ず小国の羅(ルオ)国の如き運命だ’(まさに身のほど知らずで勧告を聞かず、
羅(ルオ)国の如き運命だ)。」
楚の武王は直ちに人を屈瑕に派遣し、彼に虚心謹慎の行動を命じたが既に遅く、間
に合いませんでした。さらにこの時、屈瑕は全軍に命じて「みだりに、意見をするで
ない、違反者は処断する!」と。
だから部隊の規律はゆがみ、慌てふためきながらイエン水を通過しました。まさに
羅(ルオ)国に近づいた時、羅(ルオ)国と、慮戎国の軍隊によって、挟み撃ちにさ
れチリジリばらばら、狼狽退却となりました。屈瑕はこの戦闘中に自害しました。
”剛愎自用”、この成語は、傲慢でうぬぼれて天狗になる意と相似です。
文中で一人の船を漕ぐ漁夫を描いています。彼は渓流の源流である洞窟を発見し、その
洞内に、一陣の亮光を感じとりました。
そこで、船を降り、洞内に入りました。最初は狭く、無理してやっと歩けるくらいでし
たが数十歩進むと急に明るくなってきました。
原文には”豁然開朗”と記されています。”豁然(かつ然と)”は”開朗”、”通達
(解明され、物事がすらすらと処理できる)”を形容しています。開朗は広くて明るい形
容です。
豁然開朗は狭くて暗い所から一変し、快活明朗になる気分の形容です。
豁然は<大学>の例”一旦、豁然貫通(ある日、心が急に開け通じる)”開朗の如く、
学習上、かつ然と理解納得する形容です。
開朗は性格的な楽観、壮快の形容。例えば<晋書・胡奮伝>”性開朗、有籌略(性格は
明るく、計画を持つ)”豁然開朗は学習を経て思考或いは別人の助けで突然一つの道理が
理解できた形容に用いられます。