先の”寵辱不愕”の故事、これは<唐書・櫓承慶伝>に記されています。
櫓承慶、字を子余、唐初幽州啄県(現在河北省に属す)の人、唐太宗の時に、”
考功員外郎”の官職にありました。
”考功”、 いわゆる官吏の成績評価専門官で、吏部に属していました。櫓承慶は
仕事に公正でした。
当時食料運搬の責任者がいて、かつて食料運搬船が沈没する事故により処罰を受
けたことがありました。
櫓承慶は彼の評価を”中の下”とし、本人に通知しました。その官吏は何の意見
もなく、何の疑いもない表情でした。
櫓承慶はその後、考えました。”食料船の沈没か・・・、彼の責任ではなく、彼
個人が行使救出できる範囲ではないなあ・・・。評価として、”中の下”は不適当
だ。”考慮の末改め、”中の中”とし、本人に通知しました。
その官吏からは意見はありませんでした。そしてお礼を兼ねた”お追従”もなく
、感激した様子も一向に見られませんでした。櫓承慶は彼のこの様子を見て、大変
感激し、称賛しました。「よっしゃ、”寵辱不愕”か、うーん、見事じゃ見事じゃ
!」そこで再び改め”中の上”に引き上げました。
ひいきにされても、奢ることなく、また辱められても慌てず”寵辱不愕”の反対
が即ち”受寵若愕”です。
<老子>上篇<道経>の十三章に謳っています。
「辱めの寵愛に いずくんぞ喜びの極みとなり、驚愕し驚くのか? 寵愛されて
喜び、恥辱を受けて泣き叫ぶ・・・」さらに言う、「至上の愛を受けて驚き慌て、
ポイと捨てられて、驚き慌て、これ”寵辱若愕”」。
突然愛され歓喜に噎ぶ驚きの形容に、”被寵若愕”があります。<径進東坡文集
事略>に”おべっかいは不要、寵愛を受けての感激”。
後に”受寵若愕”となり、表彰称賛に至り、嗚咽に咽ぶ称賛に感激し、歓喜、そ
の後の不安が交錯する心情となる形容に使われます。
成語の意味:福は災いの元である。寵愛を受けても謙虚さを失わない。
身に余る寵愛を受けて非常に喜び驚く。
春秋時代、晋の公子重耳は、十九年の長き間、国外に落ち延びていました。彼が鄭
国に居たとき、鄭は非礼でした。
重耳は帰国後、晋国の君、文公に即位しました。
彼はこれまでの仕打ちに対する恨みと併せて鄭と楚の外交に不満なことから、秦と
同盟を結び、共に兵を向け、鄭国を包囲しました。
大難に直面した鄭の文公は、非常に慌てました。この時、大夫イージフーは文公に
進言しました。
「燭之武が、秦の穆公に赴き事情を説明し、撤兵をしていただければ、我国はこの
危機を脱することができが、・・・」。
鄭の文公は直ちに燭之武に要請。燭之武は当初辞退しましたが最後には引き受けま
した。
夜、ロープで燭之武を城壁上部から吊し場外に送り出し、彼に密かに秦軍の営舎の
偵察をも含めて、秦の穆公に拝謁しました。
燭之武は穆公に会うなり言いました。
「秦晋両軍は大軍で鄭国を包囲攻撃・・・、鄭国は崩壊寸前です。残念なことに、
我々鄭の国土は秦国とは繋がっていません。鄭は東に、秦は西にあります。中間には
晋があります。我が鄭が滅亡した後、直ちに晋国のものとなるでしょう。その後、あ
なた方は隣国晋と相対することとなります。おそらく、晋は強大となるでしょう。し
かし、相対的に秦は晋より弱くなりますね!。」
秦の穆公はこの話を聞き、驚くと同時に、道理があると知り直ちに兵を引き上げま
した。
≪左伝・僖公三十年≫に、この状況が記されています。この時、燭之武は穆公に言
いました。
「あなた方がもし、鄭を”東道主(主人)”にするなら、秦国の使者が東の道
を行き来するとき、鄭は必ず、主人の責務としてあなた方をおもてなしをします。
これはあなた方に不利など有ろうはずがない。重ねて言います、晋国の侵略・野心は
永遠で、満足の行く日がどこにあるというのでしょうか? 東の鄭滅亡、西の秦国拡
大を快く思わないのが自然でしょう?、どうかじっくりお考えください!。」
秦の穆公は聞く度に道理があると考え直ちに秦の大軍をこっそり退却させました。
晋文公はこの秦の退却を見て自軍も撤退の命令を下しました。
燭之武が言うところの”東道主”ーーーー鄭が東方道にありて秦国の為に招待の事
務治安責任を負うことを請い願うことを、後に人々は主人のことを”東道主”と称す
るようになりました。
現在我々は習慣で”東道”は主人、”作東道”は”請客((食事を)おごる)”の
ことです。また、家主のことを”房東”と称しています。
成語の意味:主人役、ホスト、(食事を)おごる
”不寒而栗”、「栗」は慄をなすこと即ち戦慄、身震いする意味です。
人は、寒い場合、または極端に恐れおののく感情から避けることはできません。往
々にして戦慄(身震い)を引き起こします。
寒さでなく、戦慄した場合それは恐れからきます。”不寒而栗”この成語は恐れお
ののくことが甚だしい形容に用いられます。
≪史記・酷使列伝≫義縦に関して記載されています。
義縦は漢武帝時における残酷な官吏として≪史記≫に彼の伝記が記されています。
このことから酷使の一人として歴史に残されています。
この人物は元来、盗賊出身であり、彼の姉義媼(イシ)は一廉の医者でした。王の
太后の医師として、格別の信頼と寵愛を得たことから義縦は仕官することができまし
た。
まず党郡の某県令を皮切りに、その後長安令となり、さらに河南の都尉(武官の上
官位)、南陽の太守、定襄の太守と昇進し、役人の官星、まさに順風満帆の勢いでし
た。
彼はなぜこんなに早く昇進できたのでしょうか? 彼には上述の姉の後ろ盾があっ
た以外に、当時の朝廷は、彼の思いきりのいい法の執行(その実、狂気の鎮圧、勝手
な殺戮でした。)に舌を巻き、且つこの”残酷才能”を恐れていました。
義縦は公開して民衆を鎮圧するだけでなく、さらに陰謀をしたため朝廷に代わり、
地域に根付いている権力者を抹殺しました。だから人民だけでなく権力者までも彼を
恐れ、横暴な貴族でさえも彼に畏怖を抱いていました。
史記によれば、義縦は党郡の某県令の時、荒々しく執行。
長安令の時は、天子の親族であろうと容赦せず法律に基づき執行、河南都尉の時は
一族を皆殺しにする残酷な刑を敢行。
南陽の太守に昇格した時、寧成一家殺害事件を引き起こしました。この寧成も”酷
使(悪役人が人民を駆り立て苦しめること)”の同類で、イイ人物ではありません。
当時人々は彼の役人としての執行を形容して”如狼牧羊(あたかも一群の羊の群を
狼に管理してもらうようなもの)”でした。
当時、寧成は都尉として関所の実権を握り、はばかることなく横行し、当地の吏民
と行き来する商人甚だしきに到っては関所を出入りする官吏、皆彼を告発する勇気は
有りませんでした。
義縦は南陽に赴任するに当たり南陽における寧成家の探りを入れるために、人を派
遣し、その情報でまずは一発かまそうと準備しました。はじめに先手で手ひどく出て
威厳を示す為です。
義縦は日を経たのち赴任しました。寧成が全体人員を統率して隊列を組み出迎えま
した。義縦は気にかけるようであり、またそうでない雰囲気でした。
南陽に到着するやいなや言いがかりをつけて寧成の家を没収、併せて彼を逮捕。そ
して彼の家の者すべてを殺しました。その地の人々は非常に驚愕! そのため、孔、
暴の二つの氏族称の人々は慌ててそれぞれの故郷に逃亡しました。
引き続き、義縦は定襄を鎮圧しました。
人民を上手に”蜂起させた功績”により、さらに定襄の太守に昇進しました。 彼
が定襄に着くやいなや、直ちに約二百人を逮捕しました。これらの逮捕者に関係する
家族、友人が監獄に見舞いに来ました。 その数およそ二百名あまり、これも逮捕。
罪状を”言い逃れは死罪に値する”とこじつけ、全員に処刑の判決を下しました。
結局総勢四百名以上を処刑しました。
≪史記≫に次のように記されています。「この一日で、皆殺し四百名、郡中不寒而
栗(国中、寒くもないが、震う)」
≪漢書・義縦伝≫にも記されています。”不寒而栗”、この成語は上述に記載され
たことから、この故事から生まれました。
成語の意味:寒くないのにふるえる、恐れる。
戦国時代、斉国に顔燭という人がいました。修養に富み、有能な人物で任官よりも、
むしろ隠居し、自由気儘に生きるのが好きでした。
ある日のこと、斉王は彼を、招きました。彼は命に逆らっては礼を失すると考え、
渋々宮中に向かいました。
斉王は彼を見るなりいばり、高慢に話しかけました。
「燭(チュウ4)、こっちへ来い!」
顔燭は、不動の姿勢で言いました。「王よ、こっちへ来い!」
斉の宣王は怒りで青ざめ、左右の側近は慌てて顔燭に忠告しました。
「我国の君だぞ、お前は無冠無職の文士だぞ、わきまえよ、粗忽をしていいことな
いだろう?」
顔燭は答えました。
「売り言葉に買い言葉、これぞまさにきっかけの原因だ。だから私は王よ、こっち
へ来い!と言ったまで。もし私がそちらに行けば、王に取り入ろうとする邪(よこし
ま)な疑いは免じ得ない。王がこちらに来れば、文士を尊重している証となる・・・
。」
斉宣王は、怒り大声で言いました。
「一体全体、王が高貴か、それとも文士が高貴か、どっちだ? 申して見よ!」
顔燭は笑いながら答えました。
「当然、・・・文士が高貴だ。王がどうして高貴なのか?」
斉の宣王は憎々しげに言い放ちました。
「よし、そこまで言うなら、具体例を朕に聞かせろ!」
顔燭は言いました。
「例ならいくらでもある。たとえば,かつて秦が斉を攻撃し、秦軍が魯国を通過し
ている時、名士柳下季の墓を守りたいことから全軍に命令が下った。『何人も、もし
この墓五十歩内に入り、一草一木を壊す事が有れば直ちに処刑! 』 斉国に進軍後、
また命令を下しました。『誰でもイイ、斉王を仕留め、首をはねて持参した者、その
者には”万戸侯(一万戸を有する諸侯)”に封じさらに賞金千鎰だ!』 これを見
よ!一つの王の生首とて、所詮、死した文士の墓にかなわないのだ。 貴方はおっし
ゃる、国の君が高貴か文士が高貴か?」。
斉宣王は一言も話すことができませんでした。そして思いました。『才能があり徳
がある人に結局失礼をしてしまった、自らつまらない結果を招き自業自得で、心苦し
い。』。直ちに、改め、作り笑顔で丁重に言いました。
「おお!顔さん、噂に違わず、感服しました。顔さん、どうか私を弟子にしてほし
い。私は貴方に教えを請いたい。是非とも私のところに来て、共に遊び、一緒に暮ら
しませんか。毎度の食事には牛、羊豚肉を保証し、一緒に車で外出しましょう。貴方
の御夫人、お子さんにも美しい衣装を準備します。共に栄華富貴を享受しましょうぞ
!」
顔燭は、冷淡且つ厳粛に言い放ちました。
「感謝します。だが、私はどのような栄華富貴のご提供もご辞退申しあげます。私
は願う”晩飯以当肉、安歩以当車、無罪以当貴、清浄貞正以自娯!」
この意味は、(金がないので)肉を食べることなどできない。食事の時間を遅らせ
ることでおなかを徹底して空かし、その後食べることで特選肉と同様の雰囲気となり
ます。 車もありません、でも歩く方が心が落ち着き、安心、かつ気楽、・・・車に
乗るより快適です。 人生、邪(よこしま)な考えを抱くでなく、罪を犯すでなく、
清く正しく正直が一番。どんなに出世し、財を蓄えるより、高尚で、得ることが多い
ことか。自由快活で心配なく、”気軽なお気楽”が一番。
顔燭は、斉宣王にこの話をするやいなや一言「謝謝!(シエシエ・ありがとう)」
と言って帰りました。
この故事は≪戦国策・斉策≫に記されています。顔燭が最後に言ったこの句の話は、
後に簡潔に四字の二句となり”晩飯当肉、安歩当車”となりました。
または四句の”無罪当貴、早寝当富、安歩当車、晩飯当肉”とも称せられます。
古代より文人は、この成語を,退職して隠居暮らしを表明し、貧苦生活に安んじ,
いわゆる清廉高潔思想として、または、官職失意の後いかんともしがたい心情の表
明に用いています。
この数句の中の”安歩当車”の句は我々が現在運用しています、しかしながら字
面の意味を使い、ゆっくりとした趣の散歩の形容であり、消極的因子は含んでいま
せん。
成語の意味:車に乗る代わりに歩いていく。貧に安んずる。
後漢の時、シャンシー(現在の浙江省シャンシー)の劉晨はある時、友人の阮肇
と薬草を採りに天台山に入りました。
二人は麓を行来きしているうちに、道に迷いました。
行き交う人はなく、二人はひたすら歩きました。数里は歩いたでしょうか、一筋
の渓流のそばで、二人のオナゴに出会いました。
この二人、礼儀正しく、振る舞う所作に無駄はなく、なまめかしくも美しく、優
雅。
劉晨は道に迷った状況を、礼儀正しく説明、そして一夜の仮の宿を求めました。
二人の美しい女は同意し、彼ら二人を山洞にある美しい御屋敷に迎い入れました。
その屋敷の名前は”桃源洞”と呼ばれていました。
彼女らは礼儀正しく歓待し、彼等に食事と宿舎を提供しました。 ここに、愛慕
が芽生え、感情が愛となり、遂に末長く一緒に同居を願う二組の美満の夫妻の契り
が結ばれました。
こうして半年が経ちました。劉晨と阮肇は一度帰郷し、家の様子を知りたくなり
ました。
二人の女は、すぐに帰路を指し示し、男達を山から見送りました。
家に着くと、はからずも、何もかも変わっていました。劉晨の子孫はすでに七代
目でした。二人は、ここで山中で出会ったオナゴが仙女であることを知りました。
二人は再び、天台山に行き、二人を捜しましたが、どうしても探すことはできま
せんでした。
以上は神話の故事で、晋の葛洪編纂の≪神仙伝≫に記されています。この他、数
種類の神仙伝の古書にも記されています。しかし、ある書には、劉晨と阮肇は後に
天台山に引き返し、ともに仙人になったと記されています。
唐代詩人の劉禹錫は左遷され、都を出て数十年の後やっと帰京。
彼は長安の道院玄都を参観した時に一首の詩を残しました。以前彼は、玄都で桃
の花を見たことがありましたが現在、桃園はすでに荒廃、当年の道士の行方も定か
ではないことから、この様な二句の詩となりました。
種桃道士帰何処?
前度劉郎今又来!
詩中の所謂”劉郎”は劉禹錫自身、上述の神話で劉晨の故事を用いています。
概して、一度去った者が後に再び復帰すること、を”前度劉郎”または”再度劉
郎”と呼んでいます。
成語の意味:一度去った者が復職すること。返り咲き。
孔子は、我国春秋末期に出た著名な思想家、教育家でした。
姓は孔、名は丘 。字を仲尼。
魯の国の人で現在山東省の曲阜が彼の故郷です。
伝えられるところによると、彼の弟子は三千人、その内、名を成した人物は七十二
名いました。
シナ歴代の封建時代の為政者の多くは孔子を尊敬したことから、彼を”孔子”と称
するだけでなく、”聖人”とも称しています。
その後二千四百数年、ほとんどの人々は彼を知っています。
しかしながら、生存中において、この様な名声評判を得ていたとは限りません。
≪孔子家語≫に故事が記されています。
当時、孔子の西隣に一人の男が住んでいました。東に住む人物がどういう人か知る
よしもなく、彼は孔子の話題となるといつも孔子の幼名を、遠慮なしに呼び捨て、て
いました。(”俺東家之丘(俺の家の東隣)”の・・・・カクカクシカジカ。)
後漢の時代にも、上記と同類の故事があります。≪三国志・丙原伝≫に記されてい
ます。丙原、字は根矩。青年時代、当代一級の先生を探し求めて嘗て旅立とうとして
いました。
有る人が彼に言いました。「あなたの家のすぐ近くの康成さん、学を修めた先生で
はないか?近くを嫌いなぜ遠くに行くのか!」。元々この康成老師、姓は鄭、名は玄
、当時”博通諸経”として、聞きしに勝る儒学者で、遙か遠くから学を修めようと弟
子がひっきりなし、その数実に数千人。
彼は山東省高密出身でした。丙原の家は山東省・臨チーで高密とは同じ青州に属し
ていました。後に丙原は鄭玄老師を師と仰ぎさらに、有名な儒学者に成長し両名を嘗
ては”青州丙鄭”と称されていました。しかし、丙原は当初故郷にこの様な名高い儒
教学者がいたことを知りませんでした。
当時の人々は言いました:「丙原先生は、鄭玄老師を当時”東家之丘”とみなして
いたんだ・・。」
近くにいる有名な人物を知らない比喩としてたびたびこの”東家之丘”の成語が使
われます。
成語の意味:灯台もと暗し
東漢時代、華陰(陜西省)の人、楊震がいました。貧しかったが学問にすぐれ、”
関西孔子”と称されていました。彼は故郷からたくさんの門下生を世に送り、五十才
を過ぎて仕官しました。
≪後漢書・楊震伝≫では、楊震は先ず”荊州刺史”になったと記されています。そ
の後”東莱太守”(現在の山東半島一帯の知事)に転任しました。
東莱に赴く道中、彼は昌邑(東莱管轄)に寄りました。
昌邑県令の王密は楊震の推薦で”荊州刺史”に任官していましたが、楊震の来訪を
知り、直ちに接待の準備を整えました。
夜が来ました。
王密は闇夜に乗じ、黄金十斤を”みやげ”に楊震を訪れました。
王密が楊震へ”みやげ”を献上するにはそれなりの理由が有りました。一つには推
薦してくれたお礼、二つには、今後発生するであろう”取りはからい”を期待してい
ました。(シナの習慣により)
しかしながら楊震は王密のこの、やましい”みやげ”をはねつけました。
「故人知君、君不知故人、何也?(親友は君をよく知っているが、君は親友である
この私を全然理解していない、なんたることか!)」。
王密は楊震が遠慮を装い、故意に辞退しているものと見なし、重ねて言いました。
「暮夜無知者(真夜中、知る人などいない)」。
楊震は怒って言いました。
「天知、地知、汝知、我知、・・・知る者がいないだって?」。
これを聞き、王密は恥じ入り、この重い”みやげ”を慌てふためき持ち帰りました。
当時の人々は楊震を、稀に見る清官と賞賛しました。
”楊子四知”の成語はその後、暗闇の賄賂の形容として流布しました。
その後”暮夜無知”または、”暮夜懐金”、”暮夜苞苴”とも言われます。(”苞
苴”とは即ち小包、贈り物の意味です。)
≪後漢書≫はさらに楊震の故事を記しています。
当時、漢安帝が公金民財を乱用し、彼個人、流用享受し、甚だしきは大型土木工
事をし、彼の幼少時の乳母に与えた華麗な大邸宅を建造、提供しました。
宦官のファンフォン、お気に入りの周広等はこの機に乗じ、取り入り、利益を出
していました。
楊震はこれを知り、直ちに漢安帝に上書、こうした案件を忠告して止めさせると
ともに、朝廷のこれら奸臣を摘発しました。彼の上書で述べられています。
ファンフォン、周広等は結託し、職権乱用し賄賂を受け取り朝廷をも、大衆をも
欺き、本末転倒の私利を営み、白黒入り交じり、悪人が大権を振りかざすから、善
人の方がたじろぎ、至る所で紛争が絶えない。これでは、治安が乱れ安寧であろう
はずがない。・・・・。
楊震の上書を、漢安帝は当然おもしろくはなく、ファンフォン、周広等も彼を恨
みました。楊震の様な人物が、かの封建時代に存在したことはなんともめずらしい。
彼が上述した書に、”白黒混淆”があります。その後これが変化して”黒白混淆”
または”混淆黒白”という成語になりました。
成語の意味:真夜中、誰にもわからない。
闘鶏は古代、博打性の濃い娯楽でした。紀シン子が当時有名な闘鶏専門家と伝えら
れています。斉王は彼を招聘し、闘鶏の調教責任者に任じました。
≪庄子・達生篇≫に次のような故事があります。
紀シン子は斉王の命により闘鶏を調教し始めました。
まだ十日になったばかりだが、斉王は催促を含めて訊ねました。
「訓練の成果はどうだ?」紀シン子は応えました。
「まだ、だめです、かの軍鶏は別の闘鶏を見るや、また別の闘鶏の声を聞くや、は
やる心が勝り、それは、それは、・・・落ち着きがありません。」
そしてそれから十日が経過しました。
斉王は又訊ねました。
「現在の調子はどうか?うまくいっているか?」紀シン子は応えました。
「まだ、だめです。心神まだ未熟、気性邪念が激しく、癇癪持ち・・・まだ、まだ
です。」
それから、十日経ち、斉王は再び聞きました。
「どのようだ? まさかまだ無理、・・・とは言わないだろうな・・・。」紀シン
子は応えました。
「現在、良くなってきました。驕りはなく、心神も安定しています。;他の闘鶏が
叫んでも、何事も聞かなかったかの如く反応はなく、突然驚かしても、慌てず、驚か
ず。あたかも、木の鶏、同様です。このような、最強の闘鶏を・・・やっと育てるこ
とに成功しました。別の鶏がこの軍鶏を見るやいなや、きっと身を翻し逃げるでしょ
う。かなわないから・・・。」
果たせるかな、この軍鶏はその後、闘鶏試合には必ず勝ちました。
態度が穏やかで落ち着き、水が染み込むように味わい深い人を称して”木鶏養到”
と呼んでいます。
人々は”木鶏”を生気を失った状態、例”呆若木鶏(木で作った鶏の如くぼんやり
している様)”のぼんやりした比喩に使います。
成語の意味:木で作った鶏、(ぼんやりしている様)
宋代の文学家であり詩人であった蘇軾(東坡)に一人の親友がいました。
名前は陳慥、字を季常。蘇軾が黄州に左遷された時、常に彼と共に日々を過ごし、
話しは尽きませんでした。
陳季常は友も多く客好きだったから、自宅に熱心に招待し、話しは尽きることなく、
深夜に及び、分かれ難くなるのが常でした。
しかし、陳季常の妻は異常に嫉妬深かったため、男の客に関わらず、あたかも歌女
と戯れているかの如くに逆上し、度々仕切り壁を棒で力任せに叩き、大声で喚きチラ
シて妨害するから、客人は退散を強いられました。
陳季常は、妻をとても恐れ慄いていました。
蘇軾はこの有様を見て、’面白おかしい恐妻の詩’を作りました。
龍邱居士亦可怜、談空説有夜不眠
忽聞河東獅子吼、抂杖落手心茫然
”龍邱居士”は陳季常の別名です。仏教を信奉する人は、出家修行する人を和尚、在宅
修行の人を居士と呼んでいました。
陳季常は常に仏教を信奉していた、いわゆる自称”居士”でした。
”談空説有”は中途半端でお経を止められた可哀相な陳季常の形容です。
”河東獅子吼”はどんな意味があるのでしょうか?
元々、陳季常の妻は姓は柳。その柳氏は河東郡より出でたことが、唐代詩人杜甫の作品
の”河東女児身姓柳”の詩から伺えます。
蘇軾が用いた”河東”の二文字は、暗に壁を隔てて喚き騒いだ、かの柳氏夫人を指した、
いわゆる掛け言葉です。
”獅子吼”、これは、元々僧侶が正義と威厳を示す比喩ですが、この詩にあっては作者
は柳氏夫人が獅子のごとく怒号する形容と、その一方で、陳季常のお経を読む時が”獅子
吼”であることから、ここに二つを掛けて用いていることが伺えます。
旧時、人は”怖老婆”の夫を”季常”または”季常之癖”と呼び、荒々しく腹を立て嫉
妬する妻を”河東獅吼”と言います。この蘇軾(東坡)の’面白おかしい恐妻の詩’が出
典です。
成語の意味:激しい焼き餅焼きの女、やまのかみ。
しばしば恐妻家を揶揄していう。
春秋時代、趙衰と趙盾の父子は共に晋国の功臣でした。
趙衰は晋文公の重要な参謀でした。
晋文公は晋献公の公子で名は重耳。晋献公は寵愛する妃、驪姫の子、奚斉を後継者にし
ようと、流言を信じ、その他の子どもを迫害しました。
そこで重耳は国外に落ち延び、一九年の後、やっと、晋国に帰って来ました。趙衰と狐
偃らは終始重耳に尽力し各国を流浪、重耳のために尽力しました。
重耳は帰国後、直ちに晋の文公として即位しました。趙衰は続いて、国政の政策を補佐
しました。
晋の文公は此処に”春秋五覇”の一人に数えられていますが、趙衰の影響力は甚大でし
た。
文公の死後襄公が引き継ぎました。趙衰は一貫して忠義に励み、晋国のため生涯貢献し
ました。
趙衰の子供趙盾も実行力有る、かなりの行動派でした。晋の襄公の時、彼は嘗て国相を
担当し国政を指揮執行、すこぶるいい成績を上げました。襄公死後、大臣達の多くは夷皋
(イーガオ)を国君として主張しましたが、夷皋はやっと七歳そこそこ、実際幼すぎるの
で趙盾は反対しました。 大夫狐射姑(狐偃の子供)は公子に楽を提案したけれど、趙盾
はこれも拒否しました。趙盾は公子に擁を後継者に主張しました。 狐射姑はこれに不服、
直ちに晋を離れ、祖母の里狄国に向かいました。(狐射姑の母は狄人でした。)
後に趙盾は折れて、夷皋を国の君に立てました。即ち晋の霊公です。
霊公は果せるかな幼稚で無能かつ横暴。趙盾は何度も厳しく諌め忠告するのですが効き
目なし皿には趙盾を殺そうとしました。趙盾は仕方なく暫く、国都を離れざるを得ません
でした。
まもなく、晋の霊公は趙穿(趙盾の親族・父方の兄弟)により殺され、趙盾はこの時や
っと帰国し、晋の成公を擁立、彼は旧体制を捨て、再びもとの政治補佐を継続しました。
趙盾と彼の父趙衰の活躍は格の如くでした。当時人々は彼ら父子を晋国の功臣として
称賛しましたが、両人の性格は同一ではありませんでした。
(左伝・文公七年)に記されています。ある人が狐射姑に質問しました。「趙衰と趙盾
いずれが賢いでしょうか?」狐射姑は応えました。
「趙衰は冬日之日也;趙盾、夏日之日也(両人ともにすばらしい。しかし、一人は比較的
おだやかで冬日の太陽のように人に好かれている。一人は比較的厳しい夏の太陽の如く、
(令人可畏)人に畏れられている」
ここに”可畏”は敬畏の意味です。例として宋の時代の作家蘇東坡はワン・イーチョン
の肖像画を賛美しました。
「耿然如秋霜夏日、不可狎玩(毅然とした秋霜夏日、冗談は微塵も無い)」と記しまし
た。
所謂”秋霜”と”夏日”は共に正直で尊敬できる人の比喩であり、”夏日秋霜”とも呼
ばれています。
董狐は春秋時代、晋国の晋霊公在位中の史官でした。晋霊公は、幼い頃に王位を継承、
幼稚であるだけでなく、我儘でした。
例えば、高台から弓を用いて通行人を射るのが、楽しみでした。またある時、お抱え厨
房師に、熊掌の煮込みが口に合わない、と難癖をつけ、その厨房師を殺しました。
国相趙盾は、何度も彼を諌めましたが聞き入れません。当初は非を認め、悔い改めると
約束はするのだが、その場限り。その後、反省するどころかかえって恨みを抱く始末。さ
らに晋霊公は、何度も趙盾の殺害を企てたりしましたが成功しませんでした。
趙盾は身の危険を察知し、仕方なく、一時都を出ることにしました。
やがて、趙盾の叔父、趙穿は、晋霊公が桃園で深酒しているのに乗じ、刺客を放ち、晋
霊公を殺害しました。
趙盾はこれを知り、直ちに都へ引き返しさらに、国の君として晋成公を擁立、自らは国
相を担当し引き続き国政を指揮しました。(参看”冬日之日”)
この事件を、史官董狐は史冊に記入する時、このように書きました。”趙盾は、国君を
殺めた。”(封建時代にありて帝王又は下のものが敬うべき年長者を殺害することは、かな
り不道徳な大罪でした。)
趙盾はこれを知り、びっくり、直ちに董狐に向かっ、「自分はやっていない、主君殺害
とは無縁、無実である」と釈明しました。
董狐は言いました。「貴方は相当の地位に身を置きながら、出奔。それも、国境を出る
でなく国内に雲隠れ、復帰後は、首謀者を処罰することもなく・・・これ、主君殺害の陰
謀でなくてなんとする。あなた以外に誰がこの事件の指揮責任をとれるというのでしょう
か?」
<左伝・宣公二年>、この段の故事が記されています。孔子がかつて董狐に関して称賛
しています。「董狐とは、古(いにしえ)のよき史官だ。事件の実態を隠すことなく、率
直だ。」。
しかし、孔子は趙盾をも称賛しています。「趙盾は、古の良き国相だ、冤罪を被り・・
・。 残念なことよ。もし彼が国を離れて他国に身を隠していたならば、彼に責任は無か
ったであろうに・・・。」
孔子のこの評する故事の意図は正確ではありません。 しかし、その後”公正な史官”
と称賛されるようになったのは、まさにこの”董狐”の故事の由来からでした。
唐時代に呉競がいました。呉競は<武後実録>の中で張説の評論解説を指摘し、責めま
した。後に張説は<中書令(位は宰相クラス)>となり、呉競に評論解説を書き改めるよう
懇願したが、呉競は同意しませんでした。当時人々は、彼を称して”今の董狐”と称して
います。
人の錯誤、欠点を包み隠さず、何を言われようと、憚ることなく真実の状況を大胆公
正に記述、このような文筆を”董狐之筆”と称せられています。
成語の意味:何を言われようと、憚ることなく真実を公正に記述、このような文筆