「成語典故(七)」

※「成語典故」 遼寧省 人民出版社  著者:沈  同 衡
                          翻訳:うどん侍・福 蔵


93.「燕雀処堂(イエン4・チュエ4・チュ3・タン2)」

   ”燕雀処堂”の故事は≪孔従子・論勢≫に記されています。≪孔従子・論勢≫
は、孔鮒の作と伝えられています。

 孔鮒は字を子魚といい、孔子九世の孫。戦国時代末年、魏の国を旅した、当時
の著名人です。彼は≪論勢≫の中で、その当時の魏の事情を記し、次の記述を残
しています。

 秦が趙を攻撃。趙は魏の近隣に位置し、魏の大夫達は警戒するでなく、逆に自
分たちにとって形成は有利と判断していました。魏の国相子順は、どのような根
拠か彼らに問い正しました。
 「秦が趙を破れば、我々は秦と仲良くすればよく、秦が趙に破れば・・・この
機に乗じて攻撃し、勝利をモノにすることができるじゃないか。」
 子順は笑いながら言いました。
 「そうかな・・・。孝公(秦)が登場して以来、負け戦などない。秦の将軍達
は戦の経験に富んだ強者がたくさんいる。このたびの戦いで秦は必ず勝利し、あ
なた方が乗ずるスキなどなし。」

 だが、大夫達は言いました。「趙が惨敗したとしてそれじゃ、我々にどんな損
失が生じるというのか? 隣国が負け、脆くなったとして我国には、有利じゃな
いか?」
 子順は言いました。
 「秦は貪欲な侵略国、・・・趙を滅亡させ、それだけで満足するだろうか?必
ず、東進を続け、やがては魏を不幸に遭わすことになるはずだ。」
さらに、子順は、次の故事を語りました。

   燕雀とはその名の如く、一般に燕、雀の類の小鳥を指します。それらは、人家
の軒先に住み着き、親子が寝食共にし、その場所が最も安全で信頼できる場所と
して安居気儘に暮らしています。

 はからずもある日のこと、人家の煙突が壊れ火炎が上がり屋根を燃やし、火事
となりました。しかし燕雀は、今まさに大きな災難がふりかぶってきていること
を一向に感じ取ることなく平然と、憂うことなく、顔色一つ変えません。

 子順はこの故事を話した後で、厳粛に魏の大夫に語りました。
 「今まさにその災難が自身の頭上にやってきているというのに、趙国の崩壊を、
他国の事と捉え、感じないのは、あたかも無知な燕雀と同じだ。」

   ”燕雀処堂”、この成語は、この故事から生まれました。
 後に人々は生活を安楽に過ごすことで、警戒心を失い、将来発生する一切の災
害を忘れる比喩に用います。
 或いは時として”燕雀処堂、不知大厦之将焚(燕雀がのんびりと、だが大きな
建物が今将に燃えていることも知らない)”として用いられます。

 それは平時にあっても危険に対する備えを怠らないこと、太平の概念に麻痺し、
そのまま押し流されないこと、の戒めです。
 また、人の権勢に頼り、楽に安住し、一時しのぎを風刺する時にも用いられま
す。

 成語の意味:安居して災いを忘れること。(危険が及ぶのに気がつかない)


92.登徒子(ドン・トゥ2・ズ)

  宋玉は戦国後期、楚国随一の文学者でした。楚懐王、楚襄王の時に”文学侍従”
として仕え、屈原の弟子と伝えられています。

 宋玉は文章に秀でただけでなく、風流洒脱、非凡な才能を持つ秀麗な若者とし
て際立っていました。

 時の大夫、登徒子は楚襄王に「彼(宋玉)は、”好色”」と評しました。
 襄王はさっそく宋玉を呼び、その真偽を問いました。
 宋玉は反論しました。
 「めっそうもありません。全然反対です。好色・・・私ではなく、それは登徒
子様御自身のことですよ。」。
 楚襄王はその根拠を問いました。

 宋玉は、次の話しを持ち出しました。(この話は≪登徒子好色賦≫の中に記さ
れ、この文章は宋玉自身が書いたものです)

 原文の大意:天下の美人は楚国にあり。楚の国のなまめかしくも美しい娘は、
我が故郷に多い。
 その中でもとびきりの別嬪は、我が家の東隣の娘だ。その娘のボディー(体)
はナイス(適)。背は高くもなく低くもなく、表情は愛らしく化粧しなくとも
ほんのり薄紅色。眉毛、膚、縊れた腰、歯並び・・・、全て申し分ない。彼女が
にっこり微笑む時、その美しさは抜群。 形容のしようがない。もし洛陽、下蔡
の道楽息子が一目見ると、ただそれだけでとろけて、のぼせることは間違いない。

 だがね、この”東家之女(東隣の美人)”はね、壁によじ登り常に私を盗み見
し、既にまる三年になる。が、私は今に至っても彼女の愛情を受けていません・
・・・・。

 さらに、登徒子について書いています。

 大意は次の通り:登徒大夫について言いいますと、私と、はっきりと違います。
 彼の奥さん、髪は乱れ、耳は歪み、三口(ミツクチ)で、歯も欠け腰は曲がっ
てあっちへ行ったりこっちへ来たり、全身、”できもの”でさらに重度の”痔”。
 しかしながら、登徒大夫は彼女を好み、既に妻との間に五人子供を造っていま
す。

 最後に宋玉は楚襄王に反論して言いました。
 「述べた通り・・・、これが事実です。一体全体どちらが好色でしょうか?こ
れで明らかでしょう!」
 襄王は宋玉に道理があると認めました。

 この文章により、人々は登徒子を”すけべ”の代表とみなし、好色の人を即ち
”登徒子”と呼ぶようになりました。

 さらにこの文章から美人のたとえを”東家之子”又は”東家之女”と呼びます。

美女を称して”東隣”とした事例に唐の李白が詩句で使っています。

”自古有秀色、西施与東隣(古来より秀でた容姿端麗美人、西施と東隣)”

   成語の意味:好色漢、色魔、色鬼、すけべ。


91.愛屋及烏(アイ・ウ・ジー・ウ)

 伝えられるところによると、商の君主紂は残虐非道、贅沢の限りを尽くす、暗愚な
王でした。
”西伯”(西部諸侯の長)姫昌、すなわち後の周文王は嘗て、紂王に反対したことか
らり囚われの身となりましたが、知恵を絞り脱出に成功しました。

 当時周の都は岐山(陜西省岐山県)でした。周文王は岐山に帰還するやいなや、商朝
打倒を決意しました。
 彼はまず、軍師として姜尚(即ち姜尚公)を招聘し積極的に兵士を鍛え、近隣諸侯小
国を統合し次第にその勢力を強めました。
 続いて、都を豊邑に遷都(陜西省戸県付近)、東に向けて進軍の準備をしました。し
かし、まもなく周文王は他界しました。

 周文王の子姫発が継承し周武王となりました。軍師姜太公は継続。武王の弟姫旦(
周公)と異母弟姫夾(召公)の両名は武王の有能な片腕でした。同時に武王はその他、
数カ所の諸侯の支持を得ました。そこで、正式に宣布し、紂王打倒の兵を挙げました。

 大軍が孟津(河南孟県の南の黄河の渡し場)で黄河を渡り、東北に向かい、商の都朝
歌(河南淇県東北)に近づきました。
 商の紂王は既に人心を失い軍も彼と命運を共にする気はなく、逃げる者は逃げ、投降
するものは投降し、蜂起するものは蜂起し、朝歌は瞬く間に占領されました。
 紂王は自殺、商はここに滅亡。以後八百年、周の天下を迎えました。

 武王は朝歌攻略当初、商朝に残された貴族、宦官、兵士の処理をどうするか?あまり
にも早い局面で平定したことから、今後このまま生かして使うべきかどうか、武王の脳
裏に、これだ!といった考えはなく、憂鬱でした。
 そこで彼は姜太公等と協議しました。
 漢朝の人、劉向が編纂した≪説苑・貴法≫にこの時の状況が記されています。
 大意:周武王は商に打ち勝ち、姜太公を呼び、意見を仰ぎました。
「商の家臣をどのように取り扱うべきか?」

 太公は答えました。「聞くところによれば、もしその人を好きならば、その人の家の
上の鴉でさえ好きになると言われています。もし、その人が憎ければ彼の家来従僕をも
憎む。全部きれいさっぱり敵対分子を一人残さず殺戮・・・、貴方はどのように感じて
いますか?」

 カラスは”不吉な鳥”として、古来より一種の迷信が伝わっています。それが家に舞
い降りるとその家は不幸に遭遇すると。
 我国最古の詩歌集≪詩経≫の≪小雅≫の部分、題(タイトル)≪正月≫の詩に有りま
す。

 瞻烏愛止、於誰之家

 この詩の意味は カラスの止まった家、その後、どの家にも災難が訪れる。
 古来より、人々はカラスを嫌い、カラスを好きな人はまれでした。いわゆる”愛屋及
烏”とは、その人を愛すると彼の家に止まっているカラスでも不吉ではなく、嫌悪感を
催さない。(止まる烏でさえもが可愛くなる。)

 この成語は元来、「愛」を押し上げる作用の比喩です。その人を深く愛するが故、彼
の親族友人その他関連する品物までもを好きになることを”愛屋及烏”、またはこの様
な愛が周囲のものまで広がることを”屋烏之愛”と称します。

 唐代詩人杜甫の詩でも記されています。
 丈人屋上烏、人好烏亦好  (尊敬する老師の家の烏、その烏も好き)

 宋代の人周敦頤の詩
 怒移水中蟹、愛及屋上烏  (怒りは水の中の蟹、愛するは屋上の烏)

 宋代の人陳師道の詩にも記されています。
 時清視我門前雀、人好看屋上烏  (時静かに優しく我が門の雀を見る、好きな人の
屋上のからすよ!) ともに”愛屋及烏”が成語の出典です。

成語の意味:その人を愛する事によって、その人の何もかも愛するようになるもので
ある。人を愛する心がその周囲のものまで及ぶこと。

 

90. 外不避仇、内不避親(ワイ・ブ・ビ・チョウ2、ネイ・ブ・ビ・チン)

春秋時代、晋国の大夫祁渓、即ち祁黄羊(チー2・ホワン・ヤン)は正直で私心
のない人でした。 晋の悼公の時、”中軍尉 ”に任じられていました。

 ≪史記・晋世家≫に記されています。祁渓は老齢を理由に退職を願い出ました。
 晋の悼公は彼の願いを聞き入れ同意、併せて彼に有能な後継者を推薦することを
要請しました。
 祁渓は直ちに解(シエ・フー)を推薦しました。晋の悼公は驚きながら言いまし
た。「解狐だって、・・・貴方とは犬猿のライバルではないですか?」
 祁渓は応えました。
 「貴方は才能のある人を推薦を要請されたでしょう? 私情による好き嫌いは、
考慮せず。」。
 悼公は祁渓の後継者に解狐を徴用しました。だが、解狐は任命された後、就任す
ることなく亡くなりました。

 悼公は再び祁渓に後継者として最適の人物の推薦を要請しました。祁渓は即座に
祁午を推薦しました。悼公は再び驚きを隠さずに言いました。
 「祁午?、彼は貴殿の息子ではないか?」
 祁渓は応えました。「貴方は私に、仕事に適応できる人物の推薦を要請したので
はなかったのですか? 我子か、他人か?は、考慮せず!」
 悼公は早速祁午に祁渓の仕事に代わることを命じました。

 次の故事は≪左伝・襄公三年≫にも記されています。しかしながら文中の内容は
同じではありません。たとえば次の如くです。

 晋の悼公は祁黄羊に訊ねました。「南陽県に一名、県官の派遣せねばならない。
適任者を推薦してほしい」。
 そこで祁黄羊は彼のライバル、解狐を推薦しました。
 解狐は果たせるかな才能を発揮し、就任後人民の為に多大の成果を上げました。
 その後、しばらくして、晋の悼公は再び祁黄羊に訊ねました。「朝廷に一人法官
が必要だ。適材者を推薦して欲しい」。祁黄羊は彼の息子の祁午(チー2・ウ3)
を推薦しました。祁午もその任に応える最適者で、人々の為に尽力しました。

 孔子は祁黄羊を大変賞賛し彼に言いました。

 「外挙不避仇、内挙不避親」。

 人を任官する公正な選抜方法は、自分自身に都合が悪く、好きでない人でもその
人を避けてはならない。また自らの親族に対しても私的縁故の嫌疑によって、避け
てはいけない。即ち、「外不避仇、内不避親」、または「外不隠仇、内不隠子」、
「親仇不避」とも呼ばれています。

 ≪左伝・襄公二十一年≫には、祁大夫は「外挙不棄仇、内挙不失親」と記されて
います。


89.去住両難(チー・ジュ・リャン・ナン)

東漢末時代に著名な文学者であり音楽家に蔡イオンがいました。その娘、蔡炎、
字を文姫(ウェン・ジー)といい、小さいときから音楽が好きでした。

 漢の献帝の時のこと。蔡炎は北方の匈奴に連れ去られました。
 匈奴の左賢王は、ことのほか彼女を愛し、二人の子をもうけました。

 蔡の文姫が匈奴で暮らした、その十二年の間に、民族文化の交流を通じて民族
相互の障壁をなくし、多大の貢献をしました。

 当時の丞相曹操は蔡イオンの友人でした。蔡イオン死後、蔡イオンの事業の継承
者は無く、蔡イオンの著作を整理蒐集する人も無く、曹操は困り果て、直ちに人を
匈奴に派遣して、蔡の文姫を身請けする交渉をさせて、成立しました。

 文姫が、匈奴をまさに離れ南方の漢(故郷)に帰る時、彼女の心は平常でなくな
り、矛盾に満ちた苦痛が襲いました。
 十二年を経過し望郷の念で待ちに待ったこの日ではあったが、彼女は二人の愛す
る我子を捨てがたく、まさに”去住両難(帰りたい、だが、留まりたい・・・でも
両方は叶うことがない、この板挟み)”ーーー帰りたいが、このままずっと留まる、
それもかなわない。

   蔡の文姫が漢に帰国後、≪胡笳十八拍≫の琴曲を作曲しました。これは匈奴の生
活における彼女の心情を描いています。
 胡笳は匈奴の一種の民間楽器で蔡文姫の琴曲は、胡笳の音色を真似、全十八曲、
だから≪胡笳十八拍≫と呼ばれています。

 第十二曲は彼女が匈奴から帰国する時の心情を描写しています、その歌詞の一説
です。”・・・十有二拍唖哀楽均、去住両情唖難倶陳”(哀し楽しが均し、この十
二年の歳月、ここを去るも、留まるも板挟み、この心境、・・・述べ難し)

 成語の意味:行くも留まるも板挟みの窮境


88.曲突徙薪(チー1・トゥー1・シー3・シン1)

   ”かまど”の煙突が真直で、さらに煙突のそばには柴草が積み上げられてい
る家がありました。
 この状況を見て、ある人は忠告しました。
 「これ、・・・火災になりますよ。煙突は曲げて・・・、そして柴草は”か
まど”の近くから遠ざけては・・・いかがか!」
 だがその家の人は、従わず、気にもかけませんでした。

 しばらくして、その家は、あろうことか失火しました。
 隣近所の人々が駆けつけ、なんとか火を消しました。だがその時、数人が負
傷し、ある人はかなりの火傷を負いました。家の主人は、隣近所の人々へ失火のお
わびと救援のお礼を兼ねて酒食をもてなすことにしました。

 消火に駆けつけてくれた人、全員を招待し、重傷を被った人を上座に据え、労を
ねぎらいました。

 しかし、最初に好意的に忠告してくれた、かの隣人は忘れられていました。この
ことから、ある人が一首の詩を作りました。

      曲突徙薪無恩澤(ze2)、焦頭爛額是上賓
   (忠告した人への恩恵はなく、災害を被った人が最上の恩人)

 この故事は、嘗て漢の時代に編纂された≪説苑・権謀篇≫の中に収集されていま
す。
 なんと≪漢書・霍光伝≫にも引用し述べられています。霍光は漢の宣帝の時、実
権を掌握していた大臣です。徐福という人物が宣帝に上書し、いざこざをもたらさ
ない為に、傲慢放縦の霍光の罷免を願い出ました。
 この意見は顧みられることはありませんでした。
 霍光の死後、果たせるかな、ある人が彼の後継者を陰謀謀反で告発し、宣帝は直
ちに命令を出し鎮圧しました。併せて鎮圧に功のあった家臣に褒賞を与えましたが
徐福には何の表彰もありませんでした。このことから、某人は宣帝に対して上述の
故事を説明しました。

 ”曲突徙薪”は後に災害を予防する成語の代表となり、”防患未然(災害を未然
に防ぐ)”の意です。
 ”焦頭爛額”も、火傷の形容に限らず、事情が更に悪くなり、煩わしさを伴い簡
単には解決できない苦しい状況の比喩として幅広く使われる成語です。

 事前の災害防止を、防患未然と呼んでいます。
 ≪申鑑・雑言≫に記されています。
 「一曰防、二曰救、三曰戒。先ず、未然に是を防ぐこと、発生すれば直ちに救う、
行動責務これを戒めとする。先ず、防ぐことが一番、次に救、これらをもって戒め
だ。」

 災害、又は悪事に対しては、まず芽を摘み、拡大しないうちに直ちに予防、これ
を”防微杜漸(悪いことがまだ軽微である中に手当をして、その漸次拡大を防止す
る)”

 ≪後漢書・丁鴻列伝≫が源流で東漢の和帝の時のこと、竇(ドウ4)太后が国政
を司りました。外戚にあたる竇憲兄弟は権力を傘にし、悪事を働いていました。司
徒の丁鴻が和帝に上書し竇氏兄弟の横暴がこれ以上大きくならない中に、後で後悔
しないよう速やかに制止させる建議を出しました。

 丁鴻の書状には次のことが書かれていました。「もしも皇帝の詔により我が身を
反省すれば、災いを未然に防ぐこととなります。それは妖怪が消滅し害が除かれ福
を招く事になるのです。」

 この中で”杜漸防萌”はその後”防微杜漸”の成語となりました。
 ≪元史・張偵伝≫にも、その一説、”防微杜漸而禁於未然”と記されています。
 成語”防微杜漸”は””杜漸防微”とも言われます。

成語の意味:煙突を外に曲げその辺にある薪を徙(うつ)す。
        未然に災害を予防する。


87.羞与会伍(シウ・ユイ・クワイ・ウー3)

  樊会は秦末、漢初時代の人(現在の江蘇省)で漢の高祖劉邦と同郷です。貧困の
出で犬肉屠殺販売を業としていました。

 劉邦が反秦を旗印に兵を起こすと同時に、彼は劉邦の部隊に入隊しました。
 彼は気性が強く、心がまっすぐで且つ勇敢でした。
 劉邦に対し、忠誠心を忘れることなく、度重なる戦いに多大の功勲を挙げました。

 劉邦が秦の都咸陽を攻撃した時、秦宮殿の豪華絢爛を見て、戦に見られる”邪な
野心(略奪強姦)”を戒めるため、樊会は劉邦に忠告直言しました。劉邦はこれを
聞き入れ、部隊を城外に駐屯させ、城内の治安に努めたため、人心を得ました。

 劉邦と項羽が鴻門で会った時の事です。
 范増は項羽に宴会の時劉邦を殺害することを建議しました。樊会はこれを知り、
直ちに宴会場に突入し劉邦の身を守り、劉邦は危機を脱することができました。
   ついに項羽でさえもこの樊会を賞賛せざるをえなくなり、彼を”壮士”と呼びま
した。

 劉邦は皇帝についてから後、功臣に爵位を与えました。樊会を”舞陽侯”に封じ
ました。
 この時、大将韓信は逆に劉邦により軍事権力を削除され、改めて”楚王”に封じ
られました。さらに”淮陰侯”に降格されました。このように、彼は樊会と同格、
一様に侯爵となりました。韓信には不満が残りました。

 ≪漢書・韓信伝≫に記されています。ある時、韓信は偶然に樊会の屋敷の近くに
さしかかりました。
 樊会はこれを知り直ちに出迎え、以前の部隊大将軍として敬意を払い韓信に対し
て跪き、自らを臣僕として侍り、奏上しました。
 「大王様、よく我が家に御出くださいました。まことに光栄の極みです」。

 韓信は実のところ、彼の家に入りたくなかったが、この時、そうする他はなく、
ただただ答礼の為に車を降り、門に入り、ちょっと腰掛け簡単に二言三言話した程
度で早々に去りました。
 樊会はさらに恭しく大門に侍り、韓信が遠くに行くまで見送りしました。しかし、
韓信はこの時、ふと感慨を漏らしました。これが一騒動を巻き起しました。
 「我乃与会等為伍!(私はやっと樊会と同格、仲間になったか!)」

韓信も樊会同様貧乏な出身でしたが、自分は才能があり、樊会を志しがなく、平
凡粗野な男として見くびっていたから、彼の地位と同じになったことへの不満があ
のような発言となったのでした。

   はからずもこの話が後に成語の根拠となりました。
 同じように俗っぽい人と友として知り合いになる比喩を”与会為伍”と言います。
 逆に俗人と知り合いになり交遊したくない表示の成語が”羞与会伍”と呼んでい
ます。

   成語の意味:仲間になることを潔しとしないこと。


86.「熊掌与魚( シオン・ジャン・ユイ3・ユイ 2)」

 ≪孟子・告子篇≫に孟子が語った故事があります。

 大意は次のとおりです。
 私は魚が大好き。熊の掌も大好きです。両方の中で一つを選ぶとするなら、その
時は魚を捨て、熊の掌を選びます。
 命は大事です、義も大事です。もし両方のうち、どちらかを捨てねばならないと
すれば、私はむしろ命を捨て、義を選びます。

 孟子はここで述べています。”生死”の問題と”栄辱”問題のどちらかを切り捨
てねばならない場合、死して栄光に当たるべきで、生きて屈辱を受けるべきではな
いこれを”捨生取義(身を捨てて大義に生きる・正義の為に身を捨てる)”という。

 大好きな二つの事物に対して両方とも望みが叶う場合、次の句が往々にして引き
合いに出されます。

”魚我所欲也、熊掌亦我所欲也”、亦は簡略化して”熊掌与魚”とされます。


85.「司馬昭之心(スー・マ・ジャオ・ジ・シン)」

 三国時代、魏の文帝(曹丕)の死後、政権は次第に司馬氏の手に落ちて行きまし
た。

 曹丕を引き継いで即位したのが子の曹睿(魏明帝)でした。曹丕の突然の死後、
皇族の曹爽と功臣の司馬恣に政を託し曹睿を共に支えたことから、両名の朝廷にお
ける地位は次第に増していきました。

 曹睿が亡くなりその子曹芳が王位を継承。
 まもなく司馬恣は曹爽を殺し、一切の軍事権は司馬恣が一手に握りました。その
後、司馬恣の子、大将軍司馬師は、曹芳を追い出し、さらには、曹髦を名義上の皇
帝として奉り、自らは国の大臣として次第に実質的で強固な統治権力を拡張しまし
た。

 司馬師死後、その弟司馬昭が司馬師に代わりその役職に就き専横跋扈。年少の皇
帝曹髦など既に眼中にはありませんでした。

   曹髦は司馬昭を”晋公”として奉じ、さらにかなりの珍品宝物を賞賜したが司馬
昭は礼をわきまえず、逆に見下した態度で、受領しませんでした。
 曹髦にはわかっていました。いかなる褒賞でも司馬昭を満足させることは不可能、
彼の野心、望むところは帝位だと。曹髦は怒りがこみ上げ、数名の大臣と側近に向
かって言いました。

「司馬昭之心、路人皆知!(司馬昭の心、皆知れる所なり)! 私は生きながらえ
て辱めを受けるより、真っ向から彼とぶつかり刺違えようぞ。」
 そこで、曹髦は司馬昭に対して武装攻撃を発令しました。しかし、武装隊の全権
は司馬昭の手中にありました。曹髦は少数の警護官のみ・・・。勝つ見込みはあり
ませんでした。
 この攻撃は直ちに鎮圧され、司馬昭の部下により曹髦は殺されました。

 司馬昭は、不服の輩による刺客を恐れました。
 そこで自ら皇帝になることを避け、傀儡政権として曹喚を擁立、表看板としまし
た。まもなく司馬昭の息子司馬炎が、たやすく曹喚を追い立て天下を取り、晋朝初
代皇帝(晋の武帝)として即位しました。
 彼は父司馬昭が亡くなった後、亡父に晋の文帝の尊号を与えました。

 以上がこれまでの故事として一般の歴史書に記されています。
 ≪漢晋春秋≫にはとりわけ詳細に記されています。”司馬昭之心、路人皆知”の
句は後に流行し、陰謀野心が完全に暴露され既に人々が皆知り、隠し立てする必要
のない場合の形容の成語として使われます。

     成語の意味:はっきりわかっている。誰でも知っている。


84.「水深火熱(シュイ・セン・フオ・ロー)」

 戦国時代、燕王のクアイは国を国相の子之に与えました。将軍子被、太子平らは
不服。子之を攻撃。子之は反撃し、子被と太子平を殺しました。

燕の国内は乱れに乱れました。
斉の宣王はこの機に乗じ、匡章を派兵し燕を攻撃。燕の民の歓迎をうけながら斉
は素早く勝利をものにしました。

 ≪孟子・梁恵王篇≫に、その当時の斉宣王は大得意になり、今回の燕の併合を孟
子に語る下りがあります。

「燕は我が晋と比べて小さい国ではないのだが、我軍は五十日足らずで燕を征服
しました。これは単に、兵力だけでなく、きっと天意がそうさせたと考えます。
  もしも我らが燕を併合しなければ、それは天意に背くことになり、天は我らを叱責
し、処罰として災難が降りかかってくることだったでしょう。しかし併合しました
。貴方は、この件をどう受け取られますか?」

 孟子は応えました。
 「天意などではない、民の心だ!、燕の民は非常な苦難から脱却したいが為に、
軍隊を歓迎し酒食のもてなしをしたのだ。もし、斉が燕を併合後、燕の民が苦難の
圧政から抜け出せなければ、(あたかも水更深、火更熱となり)さらに事態は深刻
となり、人民の苦難はさらに増加し、この様であれば、彼らは次に斉と対立が起き
るはずだ!」。

 孟子のこの話から、後に人民生活困窮の形容として”水深火熱”が生まれました。
 民百姓が困難から脱却することを”救民水火”又は”拯焚救溺”と呼んでいます。

          成語の意味:非常な苦難

83. 「双鯉(シュワン・リー)」

     客従遠方来、 遺我双鯉魚
     呼童烹鯉魚、 中有尺素書
 これは、古楽府の詩です。「遺(ウェイ4)」は贈、送る意味です。古人は書簡
に薄い白絹(およそ一尺)を用いたことから”尺素書”あるいは、”尺素”、”尺
書”とも称されます。)
 この古詩から古人は鯉の贈呈を通じて手紙のやりとりをしたことが伺えます。
 いわゆる”魚腹蔵書”または”魚伝尺素”の故事があり、内容はこの古詩と相似
しています。
;友人より一対の鯉が送られてきた。開けるとお腹の中に手紙が有りました。

 しかし、ある人はこう言います。古人の”尺素”は、決してほんとうの魚の腹に
入れるのではなく折り紙で魚を装いその腹の中に書簡をしのばせ、あたかも二尾の
鯉の如くにしたため、送りました。
 上に述べた古詩中の”烹鯉魚”も魚を調理し、煮込むのでなく、一種の喩え、手
紙の封を切ることです。

 これ以外の古詩からも、この意見は信じられます。
 たとえば、

         尺素如残雪、  結成双鯉魚
         要知心中事、  看取腹中書
 ”双鯉”又は”双魚”、これは書簡の別名です。
 唐朝の劉禹錫の詩
   ”相思望淮水、  双鯉不應稀 (故郷淮河を慕って思う、 手紙が稀であ
ってはならない)”
 李商隠の詩
   ”双鯉遙遙一紙書(手紙、それは遠くから来る一枚の書)”
 宋朝范成大の詩    生平書札凭双鯉(双鯉の様式による、一生涯の手紙)いる)
 黄庭堅の詩      会思臨水寄双魚(河に近づき寄り添う魚、手紙によせる思慕)
 手紙を”魚書”と称している詩もあります。

 唐朝の韋皋の詩 長江不見魚書至、為遺相思夢入秦( 長江 至る魚(手紙)な
し、 募る思いを夢にして秦に入る)

同時に人々は≪双鯉≫の詩、或いは”魚腹蔵書”の故事と、漢朝 蘇武の”雁足
伝書”故事を連想し”魚雁”をも書簡の別名として”魚腸雁足”、”雁封鯉素””
魚雁沈浮”等に用いています。音信不通の形容として”魚沈雁杳(yao3)”が使わ
れます。

 元朝宋無の詩
        波流雲散碧天空、魚雁沈沈信不通

 宋朝戴復古の詩
     天辺魚雁幾浮沈

 南陳孔范の詩
     雁封帰飛断、鯉素還流絶

   として使われています。

成語の意味:書簡


82. 「桃源楽土(タオ・ユエン・ラ・トウ)」

陶淵明は晋代著名作家です。彼の文章と詩は今日に至るまでたくさん伝えられて
います。
 <桃花源記>に、彼が書いた一篇の文章があります。要旨は次のとおりです。

 漁夫がいました。ある日のこと渓流に沿って船を漕いでいました。
知らぬ間に桃花林に到着。
林の中は、全部桃の木、すべて満開、すばらしき眺めです。

 桃林をさらに進むと、正面に山が現れその山の下に一つの洞窟があり、渓流の水
がこの洞窟から湧き出てきていました。
 これが渓流の源流でした。 漁夫はこの洞窟に近づき、内部をのぞくと、一筋の
亮光を感じました。
 不思議に思い、船を降り、洞窟の中に入りました。洞窟の入り口は狭かったけれ
ど 内部は進めば進むほど広くなりました。
 さらに数十歩進みその山洞を出た途端、別世界となりました。そこには整備され
た肥沃な田畑の村があり、老若男女それぞれが幸福に、しかも安楽に暮らしていま
した。

 村人たちはこの漁夫を見て、驚くとともに次第に親しみを持ち始めました。まも
なく彼を村に招き入れ、鶏をつぶし、酒食を共にし、歓待しました。

 村人は代わる代わるやってきては彼と会い、互いに打ち解けて愉快に話しました。

 村人達の祖先は秦の時代に乱世を避けるためにここにやって来て以来、安住の地
とし、外界と完全に隔絶した生活を代々送ってきたのでした。

 彼等は秦がとっくに滅亡していることも知らず、さらに、秦朝以後、漢朝を経て
現在の晋朝成立も知りませんでした。
 村人たちはかわるがわる彼を自宅に招待し、漁夫はかなりの日々を過ごしました。
そしてやっと、お別れの時が来ました。村人たちは、はっきりと頼みました。
「我々のこうした生活をけっして他人に他言することなきよう・・お願いします」
と。

 だが、漁夫は帰宅するや、これまでの経過を人々に話しました。
 ある人は其の場所はどこか探しましたが探し出すことは出来ませんでした。

 この虚構の故事は作者の、幸福な生活願望と現実社会への不満を反映しています。
<桃花源記>のこの文章以外に、彼はさらに<桃花源詩>も書いています。

 後世の人々は、この故事を借用して幸福安楽の形容として世間から隔絶された理
想の地、それを”桃源楽土”または”世外桃源”と呼んでいます。

 ”不足為外人道”も一つの成語です。その意味は「関係者以外に決して言うこと
ならず」、略して同義語に”不要外伝(口外する莫れ)”があります。

    成語の意味:世外の楽園


81.「桃李不言(タオ・リ・ブー・イエン)」

   漢初期、類まれな騎射撃の名将に李広がいました。彼は文帝のときに入隊し、景
帝を経て武帝に至る間、匈奴と戦いました。

 当時、北方の匈奴は南侵し、辺境地区は乱れていました。
 匈奴は騎射に精通し、出没来襲が定かでなく手ごわい相手でした。李広は幾度も
兵を率い敵陣深く潜行、生涯七十数回の戦歴を持っていました。

匈奴兵は皆彼をおそれ、匈奴の国王も李広の威名を恐れながらも敬っていました。
 しかし、漢朝は彼を重用するでなく、逆に打撃を与え、匈奴との戦いでは彼を自
刃させました。彼が六十数歳の時でした。
 当時全軍の将軍兵士はそれぞれが慟哭し、一般の人々も彼の最後の消息を知るや、
涙を流さずにはおられませんでした。
(5.「飛将数奇(フェイ・チアン・シュウ・チ・)」参照)

 東漢の史学家、班固は著書<漢書>で李広の伝記を書き、彼を褒め称える話を残
しています。

 その大意は次のとおりです。李将軍は真面目で、弁舌は巧みでなく、口数は少な
く、きわめて”普通の人”でした。
 しかし、彼が死して後、彼を知らない多数の人々が、国のために全心を払い、一
貫して忠誠を貫き、士大夫たちと比べても遜色ない功績ある彼のために涙を流しま
した。

 ことわざにいう”桃李不言、下自成蹊(桃、李は何も言わないが、その下には自
ずと道ができる、徳のある人には自ずと人々はその徳を慕ってくる)”。

 成語の意味:桃や李はものを言わないが、その下には自ら道ができる。 徳のあ
る人は黙っていても自ずと人が徳を慕って集まる。

    

うどん侍・福蔵