春秋時代、鄭国の王、鄭武公に二人の息子がいました。武公の死
後、兄の寤生が鄭庄公として王位を継承、弟名段は共叔段と称しま
した。
鄭庄公と共叔段、この兄弟には双方に気まずい確執がありました
。彼らの母、武姜は早くから弟の段を偏愛、鄭武公の後継者として
育てたからです。・・・残念なことにその通りにならず、母は面白
くありません。
彼女は段に代わり、庄公に対し、最大の城(都市)、京城(現在
河南省シンヤン県シン東)を弟に譲ることを要求しました。
庄公は心中不満でしたが、母の要望に今背くのは良策でないと判
断、直ちに同意する一方、母と段の行動に目を光らせることにしま
した。
段は母の寵愛を頼りに、京城にて、兵士の訓練、食料の備蓄と来
るべき政変準備を開始、砦や池の補強に取組みました。
段が謀反の準備をしている報告を、庄公は何度も受けました。大
臣、祭仲は、この際、出来るだけ早く段を殲滅することを進言しま
した。だが庄公は常に聞き流し、逆に仁、義の“人間道”を持ち出
すのでした。
あたかも親孝行で弟思いの“正人君子”を演じました。彼は祭仲
に「不義を行えば必ずや自ら躓き落命する、じっくり見ていろ!」
と言いました。
もともと、庄公は弟と母に対して断固とした処置をとりたかった
・・・が、時機早尚として、敢えて軽挙妄動には走りませんでした。
武姜が城門を開き、段が国都新鄭を攻撃体制を整えているという
内通者の確実な日時を聞くに到り、庄公は大将公子呂に出撃を命じ
ました。
公子呂は大軍を率い、瞬く間に京城を取り返しました。
段はイエン(現在の河南省イエン陵県)に逃げ、さらに共(ゴン)
に落ち延びました。人が段のことを共叔又は共叔段と呼ぶ所以です。
その後共叔段は万策尽き、自害しました。
庄公は母の弟への偏愛を恨んでいたことから、母を城潁(現在の
河南省臨潁県西北)に転居させました。
そして、彼女には二度と会わない誓いを立てたのでした。
「黄泉に到らなければ会うこともあるまい(死に至るまで会わな
い・・・死後地下で会おうと)」と。
しかし、まもなく庄公はこれは言い過ぎたなと後悔しはじめまし
た。潁考叔という人が庄公に知恵を授けました。地下に向かって隧
道を掘れば、かなりの深さで泉水を見ることが出来ます。それこそ
“黄泉”ではないでしょうか? 隧道にて武姜と会し、その後親子
の団らんをとれば、心に誓った約束に違反していると言うことはあ
りません。
庄公はこの考え方法に賛同し、そこで直ちに隧道(トンネル)を
掘らせました。
掘れた後、庄公は直ちに中に入り、母に会い、うれしくなり、歌
いながら言いました。
「拝見親娘隧道中、孩児心頭楽融融!」
武姜も非常に歓び庄公によって抱えられながらトンネルを行った
り来たりしながら、声に出して応えました。「随児走出隧道去、為
娘心頭楽泄泄」
≪左伝・隠公元年≫に母子二人の歌の原文が記されています。
公入而賦:”大隧之中、其楽也融融!”
姜出而賦:”大隧之外、其楽也泄泄!”
融融、泄泄は快楽快適の意味です。”融融泄泄”は後にみんな
が共に歓ぶことの句の成語の形容に使われるようになりました。
成語の意味:なごみ、楽しむ。
斉の桓公、晋の文公は、春秋時に“五覇”の覇王として相前後し、
シナ古代の著名歌手に、韓の人、韓娥が上げられます。
ある時、斉を旅していましたが、路銀を使い果たしました。そこ
で斉の都(現在山東省の臨ズー)の雍門で独演会を催しました。そ
こで、人々の心に染みる歌を披露しました。
天性の声は澄み、心地よい節回し、・・・、抑揚にメリハリがあ
り、聴衆を感動させました。
熱唱の後、さらなる恋慕が雍門の群衆を帰そうとしませんでした
。
有志が直ちに宿舎に韓娥を訪ね、さらに熱唱を請いました。
しかし宿舎の主人が韓娥に非礼であったことから、韓娥は思わず
泣きました。
その嗚咽は悲惨の極み・・・、耳にした住民は圧倒され、共に感
動で涙し、数日間は皆、ご飯を食べる状況にはありませんでした。
人々は、韓娥が城(まち)を出ると知り、直ちに人を派遣して引
き留めました。
韓娥は群衆の要求に逆らうことなく、再び人々の為に引き返しま
した。
人々は躍り上がって歓び、数日間の悶々たる気分が吹っ飛びまし
た。
さえずりるが如き声、節回しの巧みさが聴衆を魅了し、歌を終え
ての数日の間その歌声が耳に残り、家屋の梁の間にまつわり、飛び
交る感覚がいつまでも残りました。
≪列子・湯問≫にこの情景が記されています。
”余音繞梁、三日不絶(三日間、熱唱の残響余韻が梁に絶えなか
った)”
このことから、人々は、余韻が残る歌声、または音楽演奏を賞賛
して、”繞梁三日”の成語を使っています。
上述の故事は晋の張華の≪博物志≫に記されています。しかし、
別の人による見方もあります。次のように解釈しています。
韓娥が挙行した場所は雍門だが、斉国の首都ではなく、秦の首都
(咸陽)である・・・。
さらに、韓娥は雍門で熱唱はしたのだが、時期は斉国に行く前で
ある。斉国に到着してからではない。彼女は斉に行きたかったが旅
費が足りなく、だからそこで歌うことでお金を工面したのだ、と。
後に韓娥の姓名に”秦”を加えて、韓秦娥と呼ぶ人もいます。
韓娥のこの故事については、もともと言い伝えによるので、現在
事実確認考証は出来ないため、何とも論じられません。
”清風両袖”、旧時、官吏の清廉潔癖を賞賛した成語です。
両袖には清き風のみ、うしろめたい財はなし、という意味です。
明朝の人で、都穆が書き上げた≪都公譚纂≫に一つの故事が記されています。
これが成語となりました。
於謙にまつわる故事があります。
於謙は明朝の清廉な官吏であり、また文才ある詩人でした。
彼は明の宣宗、英宗、景宗に仕えた実力官吏でした。当時の官のほとんどは、横
柄で賄賂を目当てとし、法を曲げることは常でした。
当時、外地に赴任の官吏、或いは都の官吏は出張の命を受けると、この機とばか
りに民をユスり、搾り取り、己の資産形成に全力を尽くしたのです。
都に帰還する時は、皇帝とその時の有力者へ献上品をかき集め、昇進を画策す
るのが常でした。だが、於謙は何もありませんでした。
於謙が”兵部侍郎”として河南を巡察しましたが、都に帰郷の日、こうした類の
“戦利品”はなにもなく、ただただ詩を残しました。
絹のハンカチ、蒙古種シメジ、線香
元来、民に属するものを・・・、
ぶったくるから嫌われる
朝廷には、仕事の報告と両袖の清き風のみ持参する、
これで天子に拝謁だ
民百姓に非難される事、何も無し・・・
“清風両袖”は“両袖清風”とも言われている。清廉な官吏を形容するだけでな
く、清貧な文人の形容にも使われます。
成語の意味:所持金が一つもない。一文無し。
秦末、漢初、楚と漢は争い、その結果楚は破れました。
楚の覇王項羽は、垓下(安徽省霊壁県東南)で大敗し、遂に烏江(安徽省和県東
北)で自刃しました。
死の直前、彼は残りわずか二十八名になった騎兵に語りました。
「我、兵を起こし八年。七十有余の戦いで、未だ敗北はない。遂に天下の覇者と
なった。しかし、今ここに生を終えんとす。これは天命であり、戦の方法が悪かっ
たというのではない。」
さらに、「今日は決死の最後を飾る。諸君の為に潔く戦いたい。これが天命・・
・。」。項羽は幾重にも固められた漢軍兵士の中に、勇猛果敢に飛び込み将兵を切
り倒しました。漢軍は驚き、ちりぢりに退散しました。
最後に烏江にて烏江亭長が舟を手配し、項羽に渡江し、江東への逃亡を促しまし
た。項羽は笑いながら言いました。
「天命である、・・・なぜ渡る必要があろう」。と言って自刃しました。
以上の歴史書の記述から、項羽は死に際し、三度も”天之亡我(天命)”を語
りました。
戦敗の原因は自分自身の過失ではなく、運命にあると。
漢代の学者揚雄は項羽のこの見解に同意せず、彼の著書≪法言・重黎≫で劉邦、
項羽の興亡を述べています。
漢の劉邦は多くの人々の知謀と力量を用いていかんなく発揮、しかし、項羽は、
部下の積極性を引き出すでなく、提案を受け入れることなく己の”血気の小勇”に
頼るのみ。
項羽の失敗の原因はこれに尽きる、”天命”ではない。
揚雄のこの話は後に進展変化し、成語”群策群力”として広く遍く皆の知恵を出
し創出する形容として使われます。
当然、揚雄の指す”群”はその実体は封建当時者の家臣の知謀であり、我々が今
日言う”一般人民大衆”の知謀ではありません。
成語の意味:衆知を集め大勢の力を集める
春秋時代、斉の桓公は著名な覇者として君臨していました。
近隣の諸侯小国は彼の指揮に従いました。
南方の楚国は大国でした。
斉と、かなり離れていることもあり、桓公に従っていませんでした。
楚国の北に小さい蔡国があり、そこも斉国に従わず、尊重するでなく南に位置す
る楚国と同盟関係をとっていました。
あるきっかけから、斉の桓公は言いがかりをつけて蔡国に出兵し、討伐しました。
≪左伝・僖公四年≫によれば、斉桓公は、この年の春、蔡に侵攻しました。
斉は魯、宋、陳、衛、鄭、許、曹、と自国を寄せ集めた八つの諸侯国家の兵力で
南下し、弱小国蔡をたちまち負かしました。その後、斉の桓公は連合軍に命令を下
しさらに南下、楚の討伐を命じました。
部隊は楚の陞(シン)に侵攻した時、楚の成王は代表を派遣し、前線にいる桓公
に詰問しました。
「貴方は北方に住み、我々は南方に住み、中間部は相隔て、遙かに遠い。まさに
”風馬牛不相及(盛がついた馬牛が相求めても、あまりにもかけ離れているので関
係できない地域だ)”。
あなた方が我が領土に突然侵攻することなど予知できるでなく、あなた方がいっ
たい何の大義名分で出兵しているのか、知るよしもない。」。
これが”風馬牛”の成語の生まれた故事の背景です。
当時、斉の桓公の時の国相、管仲が楚国の責問に回答しました。
当然侵略の本来の原因を口に出さず、屁理屈をこねて、それなりの横車を押した
発言をしたことだろう。
しかし、楚は相手方が多数なので対抗しても勝ち目はないと見ていました。
斉も既に面子の縺れであることから、楚を撃破するつもりはありませんでした。
こうした事情から双方直ちに歩み寄り、平和的に結束同盟を結ぶことなりました。
”不相及”は、”両者いささかも関わり合うことなし”であるが、なぜ”風馬
牛”と呼ばれるのでしょうか?
≪書経・費誓≫に”風牛其風”が記されています。
後漢の賈逵の説明によると:「風は放なり、放たれた牝牡が相互に戯れる中で生じ
る”熱き本能”のことです。」。
牡と牝の牛馬が互いにむつまじく誘い合う、そういう雰囲気から、やがて激しい
”風(さかり)”を生みます。
だが互いの地点が大変離れていると、双方の牛馬は関係を結ぶことは不可能です。
北京大学中国文学史研究室が選出した≪先秦文学史参考資料≫に記されています
。
”風”と”放”は通じ合います。
、離れていれば本能に従う自堕落な牛馬であっても、お互い関係を持つことがな
いように、この場合両国はかなり離れていることから、関わり合うことはまずあり
ません。
しかも、清の呉楚材等が書き残した≪古文観止≫の注釈によれば”牛走順風、馬
走逆風、両不相及(牛は風に従い、馬は風に立ち向かい歩く、両者全く無関係)”
以上この成語に三種類の説明が書物に記されています。一,二は基本的に同じ意
味、最後の一つは比較的こじつけた解釈のようである。
しかしながら、”風馬牛不相及”この句の含む意味するところ明らかであり、人
々もそのことを熟知しています。”風馬牛”の三字が即ち、”不相及”の意味です
。
この成語は、現在我々はそれらを二者の間にいささかも関係のない形容に用いる
だけでなく、人と人、事物と事物の間ににおいて、完全に無関係である形容として
使われます。
成語の意味:さかりのついた馬がいくら相求めても及ばないほど遠く離れていること。
関係がないこと。何も関係がないこと。
晋の人、殷浩、字を深源といい長平(現在の山西省高平県)の人でした。(彼の
父は他人から手紙を託されるのを嫌った、あの殷洪喬です。 )
彼は若き時、官職を願わず、富貴を求めない清廉高潔の人でした。
≪世説新語・文学≫に記されています。ある人が彼に質問しました。「夢の中で
死人が官職を得たり、夢で大便した者は財を得るという話を聞きます。これには、
何か根拠があるのでしょうか?」
彼は答えました。「官とは本来・・・臭くて、腐っている。財とは本来・・・汚
い土、肥やしから生じる、ババ汚い・・・ね。役立て、活かさねば・・・ゴミだ。」
当時の人々は、彼の妙を得た回答を賞賛し、これを”名通之論”と称しました。
しかし、殷浩は決して任官しなかったわけではありません。
彼は晋の武帝の時、”征西将軍”イーリャンの”記室参軍(従軍記録室)”等の
官職についた経験があります。その後十年来退いていましたが再び、晋の康帝の時、
”建武将軍”の肩書きで”揚州刺史”の任に当たりました。
北征伐の時、後秦の姚襄との戦いにおいては”中軍将軍”として揚州、豫州、イ
エン州、青州の五州の軍事を統括し、その職は低くはありませんでした。しかし、
晋朝内部は団結してないことから、将軍間に相互に猜疑を生み、不利な作戦から結
果として遂に職を解かれ併せて信安(現在浙江省の衛県)に流されました。
この時以後、再び任官することは有りませんでした。おそらくその後遺症は深く
心情はいいわけがなく、神経が常軌を逸しました。
≪晋書:殷浩伝≫によれば彼が免職されてから、不満を述べるでなく、奇妙な咄
をするでなく、家人であっても誰一人追放された生活への不満を知る人は有りませ
んでした。但し、彼は常に指で空に字を”咄咄怪事”と書くだけでした。
≪世説新語・黜免≫にもこの事が記されています。
殷浩は口では不平を述べなかったけれども、心中不満やるせないことは想像に難
くありません。後に人々は驚き異常奇怪で意表をつく行動にに出ること、理解しが
たくこれ即ち”咄咄怪事”と言っています。(咄咄とは驚きの表現です)いじめら
れ悔しい思いを受けた形容、無実の罪で訴えがたく、ある人は”書空”のこの故典
を引用して、又は”書空咄咄”とも読んでいます。
唐の詩人杜甫の≪清明≫の詩の中に、二つの句があります。
”寂寂系舟双下涙、悠悠伏枕左書空(寂しく舟をつなぎ、涙する、病床に横たわ
りむなしく書を読む)”
成語の意味:はて!いぶかしきこと。
韓信は、漢の高祖劉邦の大将で瀟何、張良、と併せて”漢を興した三傑”と称さ
れていました。
しかし、劉邦は韓信を信頼していませんでした。韓信も又劉邦に対して不満を持
っていました。
劉邦が皇帝となり、まず韓信の大将名義と兵の統率権を解除し、改めて楚王とし
て封じました。そして申しつけました。韓信は陰謀謀反を企んでいる、彼の逮捕を
準備せよと命じたのです。
劉邦は陳平の計略を採用し、”雲夢”で自らは遊覧と称しながらも、その裏で併
せて諸侯に陳地で遭おうと通知、韓信をここで襲撃したかったのです。
韓信はこのことを知り、慌てたが、劉邦に敢えて行って遭うこともせず、反抗を
公然とすることもせず、どう振る舞えばいいのかわかりませんでした。
このとき、項羽の元の部下に鐘離昧がいて、韓信の家に住んでいました。彼と韓
信は古くからの友人であったため劉邦は彼を逮捕したかったのです。
ある人は韓信に建議したことから、彼は鐘離昧を殺しその首を持参し、劉邦に見
せましたが効果は有りませんでした。韓信は自身の身の安全のために果たせるかな、
友人を犠牲にしたのでした。
しかし、韓信は劉邦に遭うなり、やはり直ちに逮捕され洛陽に護送されました。
劉邦も雲夢を周遊するでなく、直ちに洛陽に帰りました。
洛陽に着いてから大赦を宣言、ここに韓信は罪を免ぜられましたが、再び所領知
行を改め、”准陰侯”に降格となりました。
この故事から、後に人を捉える比喩に”偽遊雲夢”が使われます。
≪史記・准陰侯列伝≫に記されています。ある時、劉邦は韓信に尋ねたことがあ
ります。
「貴公から見て、私の様な男はどれほどの兵馬を率いて指導できようぞ?」
韓信は応えました。
「陛下は十万の兵馬を統率できます。」
劉邦は再び尋ねました。
「それでは、貴公の場合はいかほどか?」
韓信は遠慮することなく応えました。
「臣多多而益善耳(私にとり、兵は多ければ多いほどイイです)!」
劉邦はそこで笑って言いました。
「貴公はこの様に上手に兵を率いているからには、私は、逮捕できないではない
か、・・・。」
韓信はしばらく考え込み応えました。
「上様が兵を率いる能力は私に劣るかも、でも、上様は将軍達を管理する能力が
抜群に優れています。」
これらの故事から後に、”越多越好(多ければ多い程良い)”を形容して”多多
益善”、又は”韓信将兵、多多益善”として使われるようになりました。
また、”韓信将兵”を単独で使う場合でも、人々はそれを即ち”多多益善”の意
として用います。
晋朝、恵帝の時、内部抗争が起きました。いわゆる”八王之乱”、およそ十
余年の間、殺戮が繰り返されました。
これに乗じ、西北、北方の五ヶ民族は晋朝を揺さぶり相前後して独立を宣言。
さらには南に向かって進撃をはじめました。
即ち、歴史に言われる”五胡乱華”です。晋の懐帝、ミン帝が共に捕虜となり
殺害されました。
晋朝はしかたなく中原を放棄し、長江以南の東南沿海一帯に退却し東晋と称し
ました。
当初、司馬ルイが”左丞相”として、現在の南京、建康を守っていました。首
都長安の陥落を目の当たりにして、晋のミン帝が匈奴の劉曜により殺害され、さ
らに、広大な領土を失い、多数の人民が辛酸を味わいました。
こうした中にあり、”左丞相”が大権を掌握し、密かに江南に座し、無頓着を
装いながらも、野望(心)を動かすことはありませんでした。
祖逖、劉クン等の愛国の将師は北伐をしながらも、その一方では人を派遣し、
司馬ルイに即位誓願を上書し、国家大事を司る担当者として帝位につくことを要
請しました。
そして彼を発憤させ、国家が困難を畏れることがないよう激励しました。
さらに、国家が度重なるこのような危険に遭遇し、朝廷が深き憂慮をされるこ
とを理解しながら、この、危険困難有事から教訓を得て、国難に対し発憤し、救
うことができたら、災い転じて福になるかもしれないと考えました。
”多難”は、我らが晋朝を復興し強固に再興できる激励と捉える時だ。
”深憂”が皇帝にこの現状をはっきり認識させ、潔く決心しました。
この一連の話から、原文に二つの句があります。
”或多難以固邦国、或殷憂以啓聖明”
この句から、”多難興邦”の成語が生まれました。
このようにして、司馬ルイは、当時東晋の第一代皇帝として晋の元帝に即位し
ました。
しかし、晋の元帝は北伐の決心はせず、祖逖、劉クンに対して多くの疑いを抱
き、劉クンは殺され、祖逖も憤りの中、死にました。
東晋は東南にかろうじて面目体裁をととのえて、百数十年継続しました。
しかし、”多難興邦”、この成語は、歴代の愛国の志士が、国家困難憂慮の事
態に遭遇した時に、自らと他人を叱咤激励する時に用いられています。
成語の意味:国家多難の際は国民が発憤して国家を興隆させる。
≪史記・灌夫伝≫に”首鼠両端”の話が記されています。
灌夫は漢初期、穎陰(現在河南省許昌市)の人でした。彼の父は灌孟、本来
の姓は張でしたが”穎陰侯”として灌漑嬰家の食客になって後、改名し灌を名乗
りました。
景帝の時、漢は呉を討伐し、楚七国の反乱に際し、灌夫父子は灌嬰の指揮の下
、共に戦いました。この戦いにおいて灌孟は戦死、灌夫も我が身を顧みず敵陣深
く進入し戦った為、重傷を負いました。
灌夫の勇猛さはその当時、遍く天下に伝えられました。
竇嬰は景帝の母、竇太后の甥にあたります。七国の乱の戦の功労により、魏其
侯に封じられましたが、景帝は彼を信任することはありませんでした。
その後、武帝が即位、まもなく竇太后は、亡くなり竇家の勢力は衰退しました。
この時、皇族の中にあり勢力を伸ばしたのは 田フェン(2)といえます。
田フェンは景帝皇后の実の兄弟で、即ち武帝の伯父です。竇嬰と比べると田フ
ェンは後輩でしたが、このような特別の姻戚関係により、丞相に出世。勢いが衰
えた竇嬰は既に彼の眼中にはなく、武帝でさえもこうした彼をどうすることもで
きませんでした。
権勢に迎合する官僚はすべてこの時、田フェンに帰順しました。
両者を比較してみると、竇嬰の家門は明らかに衰退。この時、灌夫は数回地方
官をしていましたが、こうしたことで免職となり長安にて竇嬰と共に不平不満の
毎日を愚痴をこぼしていました。
田フェンが”後添え”を迎えることになりました。
祝賀の大宴が開かれ、貴族、大臣はこぞって駆けつけました。灌夫は、田フェ
ンを蔑視し、行きたくはなかったのだが、竇嬰が形だけでも・・・と、説得した
ことから、シブシブ出席することにしました。
当時の習慣で、主客が共に敬意をはらい酒を酌み交わすのが常でした。
灌夫が田フェンに注いだ時、田フェンはそれを飲まず、灌賢に注いだ時、灌賢
も同様、程不識(客名)と耳もとでコソコソ囁きき、素知らぬ顔でした。
ここに至り灌夫の怒りは爆発し、灌賢に向かって言いました。
「私は常日頃、程不識を一銭の値にもならない男と見なしているが、これ
でも年長者だ。おまえに敬酒したのだが、あんたは立ち上がるでなく、無視し、
あたかも小娘が惚れた男の耳をかじるが如く話し込む有様、・・・こりゃ、何ん
たる様か!」
この故事から、後に酒を借りて狼藉し、怒り出す形容として”灌夫罵座”又は
、”使酒罵座”の成語ができました。
その時、田フェンは灌夫が人を罵倒するのを見て、直ちに部下に命じて彼を逮
捕させました。ある人は灌夫に田フェンに対して許しを請うことを勧めましたが
彼は同意せず、逆に辛辣に声を荒げました。
田フェンは、直ちに牢獄に閉じこめ、灌家の親族すべてを拘禁し、一家皆殺し
を企てようとしました。
竇嬰は灌夫に祝宴に行くことを勧め、結果としてこの大事件を引き起こしたこ
とから、直ちに解決を謀るためにお金を持って奔走・・・、さらには漢の武帝に
上申しました。
「灌夫は勇猛果敢な武将で、かつて彼の父は名誉の戦死、彼も単独敵陣に乗り
込み数十カ所の傷を受けながらも退却することはなかった。これは誰もしってい
る、国家にとって得難い壮士である。現在、酒席のもめ事で、彼の全財産没収、
もうそれで十分ではないか。」
しかし、田フェンは、灌夫の非道横暴、無法無天彼の故郷穎川に家財を蓄え、
良民を抑圧さらに皇族を排斥まことに罪深き大悪人だとさらに力説しました。
竇嬰はここぞとばかり、直接田フェンの汚職三昧の数々を暴露、田フェンも
また竇嬰、灌夫が侠客を集めを不法なことを企んで入るとぬれぎぬを着せての
反論。
二つの皇室親族は、一時、のっぴきならない状況となりました。漢の武帝も決
断できず、大臣を呼び、意見をださせました。
”御史大夫”韓安国(長孺)は、しどろもどろに言いました。
「魏其侯(竇嬰)が言うには、灌夫は平生は問題もなく、有能だが、酒が入る
と一言多くなる、これが実体だ。だが重罪には当たらないのでは。丞相(田フェ
ン)が言うように、灌夫はでたらめ非道、国家に危害を及ぼす、これもしかり。
つまるところ、どのような処理が適切かは、陛下の裁定こそが賢明ではないでし
ょうか?」。
その他の大臣、大多数は、痛くもかゆくもない一言二言で敢えて口を開きませ
んでした。こうしてその時、ただただ喧嘩別れで終わりました。
田フェンが宮殿を去るとき宮殿の門で韓安国がまさに前面を通過しているのを
見て彼を同乗させ、怨みがましく彼に言いました。
「長孺よ、お前はワシにつき、一緒にあの禿翁(竇嬰をさし、官職のなくなっ
た彼をあざ笑いながら)を取り扱おうじゃないか、お前はなぜ首鼠両端のように
決めかねているのだ。」
”首鼠両端”、一歩進み、一歩退却・・、ああでもない、こうでもないと躊躇
しながら決断できないことです。
決めることができず疑いためらう比喩、考えを持たず畏れ縮こまり、どっちが
失敗しないのだろうかと思案にあぐねる、肝の小さい、鼠の様な人物を表してい
ます。
”首鼠”の二つの漢字にはどのような意味が含まれているのでしょうか?
一般に、”首鼠一前一却也”。
≪ピー雅・釈虫≫に記されています。古鼠は疑り深く穴から外に出るときいつ
も二つの頭で遠くを臨む。首と尻尾で畏る畏る、所謂 ”首鼠両端”です。
しかし、≪後漢書≫の≪鄭訓伝≫には”首施両端”、≪西羌伝≫では”首尾両
端”と記されています。
≪三国志・呉志・諸葛恪伝≫には”緩則首鼠”として使われています。ある人
は”首鼠”を”ためらう・躊躇”と解釈しています。さらにある人は”首施”と
首鼠(ショウシュウ)”をともに”躊躇(チョウチュウ)”の音が変化したとし
て”首鼠両端”、”首施両端”を用い、意図する内容は”躊躇両端(ためらう、
ぐずる)”の意です。
成語の意味:態度がはっきりせずどっちつかずである。
秦昭王の時、権勢ある宰相に范スイがいました。弁舌の才に長じ、昭王から大
変信頼されていました。
范スイは本来、魏の人でした。魏在職中、”中大夫”須賈に随行し斉国に行っ
たことがありました。
須賈は彼が斉国と私通しているのでは?・・・と疑念を抱き、このことを帰国
後宰相魏斉に報告しました。
魏斉は人に命じて、范スイの毒殺を謀りました。だが、范スイはこの危機を逃
れ、死亡を装いながら親友の鄭安平の宅に身を寄せ、張禄と改名し、養生しなが
ら時を待ちました。 その後、秦が魏に派遣した使者王稽のコネを頼りに、密か
に秦国に向かいました。
その秦国にありて、王稽の推薦と彼の巧みな弁舌で昭王の信頼を得、宰相の高
位に上ったのでした。
宰相范スイは、まもなく昭王に魏国討伐を進言しました。魏国は逆に戦を辞め
ようと須賈を秦国に派遣しました。
范スイは須賈が秦国に来ているのを知るやいなや、落ちぶれた乞食に変装し宿
舎を訪ねました。
須賈は范スイを見て驚きました。「おお!、お前、まだ生きていたのか!」。
二言三言話すうちに須賈は不憫になり、すぐさま手頃な紬の着物を彼に与えま
した。
しばらくして、須賈は范スイが秦の宰相張禄と知り、旧時の出来事を思い起こ
し、今度は、恐怖におののき正気を失いました。
直ちに上半身をさらけ出し、跪き、范スイの面前で許しを請いました。范スイ
は須賈を罵り、彼の罪状を列挙、さらには盛大な宴会を挙行し各国代表賓客の集
う中で、彼を侮辱しました。だが、須賈が着物を贈り、昔の出来事を忘れていな
かった事を考慮し、彼の命を取ることは許しました。
そして、魏の昭王に直ちに魏斉の首を持参させるよう、さもないと派兵し直ち
に魏の都を攻撃すると厳命しました。
魏斉はこの知らせを聞くやいなや驚き慌て趙に逃げ込みましたが、趙も秦を恐
れ、敢えて逗留に賛同しませんでした。
そこで、楚国に逃げようとしましたが楚国でも歓迎されませんでした。宰相魏
斉は遂に追いつめられ自害しました。
范スイとは、個人の光栄と恥辱、個人的な恨みの報復に、あろうことか敵国に
身を売り、祖国に背いたまことに恥ずべき罪人です。
しかし、当時ある人は逆に彼を”恩怨分明”として、仇をとるだけでなく、恩
にも報いている点を賞賛しました。彼は、命の恩人鄭安平を秦の将軍に保証推薦、
王稽を”河東守”として抜擢。更に、彼を支えて援助してくれた人々に家財を分
け与えました。
≪史記・范スイ伝≫にも彼を讃えています。
”一飯之徳必償、一飯之徳必償(睚眦は目を大きく見はる、怒りを表すまなじ
りのことです)。
たとえ一飯の恩であっても、それに報いる。たとえ小さな怨みでも報復する。
このことを”一飯必償”、又は”睚眦必報”といいます。
小さな恩の形容を”一飯之恩”、小さな怨みの形容を”睚眦必怨”といいます。
心が偏狭で、器量が小さく、些細なことで疑り仲違い、さらに辛抱できず、許
せない、これを”睚眦必報”と言います。
成語の意味:些細な怨みでも仕返しする。
蘇武は、字を卿といい杜陵(現在陜西省長安県東南)の人でした。
漢の武帝の時、蘇武は”中郎将”として、命を受け匈奴に出向しました。
その匈奴にて、やっと外交業務を終え帰国する段になり、匈奴は彼に難癖をつ
け彼を拘留しました。
匈奴の国王である単於は蘇武を脅し、無理に投降を迫りましたが彼は頑なにこ
れに屈することなく、拒否しました。話はこじれ、遂に秘密裏に羊の放牧をして
いる僻地北海に送られました。
単於は彼に言いました。「雄羊が子羊を産む頃には・・、漢に帰してやる、ふ
ふ。(永遠にお前を帰国させることはない。)」
漢が昭帝になりました。匈奴は再び漢朝との友好を提案してきました。その時、
漢朝は蘇武の帰国を要求しました。しかし、単於は漢朝の使者に対し、蘇武は既
に死亡したと告げ、追い返しました。
常恵という人がいました。蘇武に随行し匈奴に行きましたが、彼も同様に捉え
られましたが、蘇武が僻地北海に追いやられていることをかつて耳にした事があ
るので、直ちに対策を打つよう使者に告げました。
そこで漢の使者も嘘をつきました。
「漢の皇帝が狩りをしていた時、北方から南方に向かう一羽の雁を仕留めた。
その雁の足に一通の手紙があり、それを開くと、なんと蘇武の直筆で『自分は現在
北海にいて、決して死んではいない』と書かれていた。」
単於はこれを聞くなり、謀略を認めざるを得なくなり、直ちに蘇武を漢に帰し
ました。
彼が匈奴で拘留されたのは通算して十九年の長きに渡っていました。 これぞ
まさしく、ちまたに伝えられている”蘇武牧羊”の故事です。
≪漢書・蘇武伝≫にこの事が記されています。
この故事から、人々は”雁足”を書簡として称するようになりました。古人は
元々鯉魚を書簡の象徴としていましたが、今回の故事から更に”魚雁”を書簡と
称するようになり、たとえば”魚腸雁足”として用います。王僧孺(南朝、梁の
人)の詩に見られます。
”尺素在魚腸、寸心凭雁足(雁の足を頼みとする機転による書簡、魚に仕込
まれた風情ある書簡”
また、ある人は”雁音”或いは”雁帛”として柳貫(元の人)の詩に見られま
す。
”江驛北来無雁帛(江南の騎馬宿場、北から書簡は無し)”