「成語典故(九)」

※「成語典故」 遼寧省 人民出版社  著者:沈  同 衡
                     翻訳:うどん侍・福蔵


118. 九牛一毛

 ≪史記≫の作者、司馬遷は字を子長といい、漢代傑出の歴史家、文
学家です。
漢武帝の時、“太史令”の役職でしたが、李陵の事変で、獄人とな
り刑罰として、去勢されたのです。

 李陵事変とは、どのような事件だったのでしょうか?
   もともと李陵は勇猛で騎乗射撃を得意とし、当時“騎都尉”の職に
ありました。
 匈奴が領土を頻繁に侵犯することから、李陵は自ら願い出、与えら
れた五千の兵を従え、北上して抗戦しました。

 はからずも、匈奴軍八万の騎兵により包囲されました。それでも李
陵は衆寡敵せず、十数日を戦い、一万以上の敵兵を殺傷しました。
 だが、弓矢を使い果たし、糧食を食い尽くし、帰路は塞がれ、援軍
は無く、遂に李陵は降参、俘虜となりました。

 武帝は李陵投降の報に、激怒。怒りは治まらず、その矛先は李陵の
母、妻、血縁親戚一同に向けられ、皆殺し・・・。

 司馬遷は、漢朝の家臣としての李陵の功績は、彼が戦で敗れた事を
穴埋めするくらい大きい事。投降はしたが、五千の兵で敵八万を相手
に、最後まで戦ったことは将来きっと、国益に反映する、と力説。

 武帝は、司馬遷が李陵を弁護し、さらに皇后の兄弟である李広利が
指揮し率いる軍が敵を正面にした時、驚き怯えていた事を皮肉ったこ
とに激怒し、忠臣“太史令”司馬遷をあろうことか、去勢虐待のどん
底に蹴落としました。

 司馬遷は肉体と精神に、この上ない痛みと、屈辱から、死にたい心
境でした。
 しかしながらこうした思いをきっぱりと、払拭しました。
 “もし私が、ここで死ねば、これは牛にあるうぶ毛と一緒では無い
か?、死すれば一介の蝦蟇と同じ運命ではないか? しかも、この世
の人々は私を烈士同様にみるでなく、大罪人の類とみなし死して当然
と見下すだろう。”
 そこで、彼はこの恥辱を堪え忍び生きながらえることを決意し、偉
大な大作≪史記≫を書き著しました。

 司馬遷は友人である任少卿に嘗て長き手紙を書き送りました。それ
が現在に伝えられる、≪報任少卿書≫です。
 その中に、死にたい心境から、死んではならないと変化した決意が
記されています。

 原文によると「仮令我伏法受誅、若(好比)九牛亡一毛、与蝦蟇何
以異?而世俗又不能与死節者次比、特以為智窮罪極、不能自免、卒(
到底)就死耳!(仮に、私が罪を認めて死すれば、九頭の牛の一本の
毛が無くなるが如く、踏みつけられる蝦蟇とどこが異なるというのか
? 世間は節有る死とは認めず、智恵に窮しての罪は特に重く、結局
自身でも許し難くなり、罪を認め死した、と見る。」

蘭 仮にわたしは罪を受け、殺されたら、9匹の牛は1本の毛が
なくなるみたいで、蝦蟇と同じでしょう。世間は 死節者と比
べるできないから、単に智窮は罪が大きくて、許されなくて、
最後に殺されたと思う。

 司馬遷は≪報任少卿書≫で“九牛亡一毛”の句がありますが、後に
これが“九牛一毛”と変化し、かなりの牛に生えてる一本の毛に均し
いくらい、極めて軽微(極小さい部分)の意味として使われています。

   司馬遷は手紙の中で任少卿に対してさらに憤慨して述べています。
「私は朝廷に尽力したい一心、友人よりも、家族よりも、日夜、自身
の能力を、自己の責任に於て忠実に、総じてこのようにして朝廷
に申し訳が立つように努力してきた。だが事実は・・・、この様に荒
唐無稽、ばかげたことになってしまった。まったく思いも寄らない結
果だ。」

 ここに所謂“大謬不然”は後に、成語となり、“大錯特錯、根本不
是如此(大きな誤りだ、根本的にこんなことではない)”と言うが如
きに使われます。


117.泰山鴻毛(タイ4・シャン1・ホン2・マオ2)

 我国古代の偉大な歴史家であり文学者であった司馬遷・・・、匈奴
と戦い、不幸にも捕虜となった李陵を弁護した一言から、漢の武帝の
怒りを買い、獄に繋がれ、その刑罰として“去勢”されました。

 司馬遷はこのような屈辱と非常な激痛を味わいましたが、くじける
ことなくがんばり、かの巨著、≪史記≫を完成させました。

 彼は友人である任少卿に宛てた手紙≪報任少卿書≫の中で、詳細に
これまでの経緯と自らの意見を書き残しています。

 その中の一説、「人固有一死、或重於泰山、或軽於鴻毛」−−−人
には必ず死が訪れる。しかしながら、或る人の死は泰山の如く重く、
また或る人の場合は・・・、鴻毛同様に軽い。

 “泰山”を非常に重い比喩として、“鴻毛を非常に軽い比喩として
捉え“重如泰山”、或いは“軽如鴻毛”としても使われています。


116.兔絲燕麦(トウ4・スー1・イエン1・マイ4)

 “兔絲燕麦”の成語は古歌の一節から生まれました。

  田中兔絲、 如何可絡?
  道辺燕麦、 何嘗可穫?


   兔絲とは菟絲とも記され黄色のか細い野草(ネナシカズラ)で絲と
いう名がありますが、その繊維から紡いで布を織ることは出来ません

 燕麦、これも麦という漢字を持った野草ですが、収穫しても食料に
はなりません。麦という名だが、有名無実の形容として、“兔絲燕麦
”と呼ばれています。

 この同類成語に“南箕北斗”があります。

   “南箕北斗”の出典は≪詩経≫です。
 ≪詩経・小雅≫の≪大東≫篇の最後の一節の四句(全詩七節、毎節
八句)
維南有箕、不可以簸揚
   (“ちりとり”の呼び名の南十字星、しかし“ちりを取れない”)
  維北有斗、不可以汲酒漿
  (ひしゃくの形の北斗七星、酒をくむことはできない)

 箕、斗、共に星座に使用される漢字だ。箕星は南に有るが故に南箕
、斗星は北にあるが故北斗と呼ばれている。南箕四星は並んで台形を
形作りあたかも“ぬか”と米を選別する“とおみ(ちりとり)”のよ
うだ。

 北斗七星は、四粒の星が並んで台形を形作りさらに三つの星が一列
となり合わさってみるとあたかも酒を汲む長柄杓のようだ。南箕には
箕の名はあるが、“とおみ”ではなく、北斗も柄杓の意味があるが、
名だけで柄杓ではない。そこで、有名無実のことを“南箕北斗”とも
呼ぶことが出来ます。

 ≪北史・刑邵伝≫に記されています。刑邵、字を才といい、北魏宣
武帝、孝明帝時代において“国子祭酒”という高級学者官僚に任じら
れていました。
 当時、朝廷では学術文教を重視することなく、膨大な労働力、莫大
な物力、財力を重視し寺院を建てていました。刑邵は朝廷のこの政策
に大反対し、他の同学官僚と連名で最高学府の復興を要求しました。
 願い出た奏上文の中で述べています。
「・・・今私は“国子祭酒”という官名にあるが“兔絲燕麦”、“南
箕北斗”とどこが変わっていよう?・・。・・・同じ、名だけで教え
授ける事がない。」

 ≪資治通鑑・梁武帝天監一五年≫にもこの件が記されています。奏
上文は基本的に同じですがそれによると、最高学府復興を要求したの
は“揚州刺史”の李祟であり、連名での上奏ではありません。李祟と
刑邵は同朝、同時代の人物で、≪北史・李祟伝≫によると、李祟は宣
武帝の時、確かに“揚州刺史”に任官されていましたが、孝明帝の時
に、免職を願い出ています。しかし、最高学府の復興を上奏したとい
う記載はありません。
 ≪通鑑≫と≪北史≫のどちらが正しいか知りませんが、此処で、こ
の件を解明するつもりはありません。
 “兔絲燕麦”、“南箕北斗”この成語の来歴と意味、私たちは既に
明白になったから。

 

115. 泰山北斗(タイ4・シャン1・ベイ3・ドウ3)

韓愈、字を退之、唐代南陽(現在の河南省孟県)の人。
 本籍が昌黎(現在の河北省唐山専区)だったことから自称“昌黎韓
愈”、死後爵位を贈られ“昌黎伯”と封じられましたが、世間は韓昌
黎と呼んでいます。
 ≪昌黎全集≫、即ち彼の遺著です。
 彼の詩、文章は大変有名です。特に散文は風格があることから、人
々が口ずさみ、これを“韓文”と称しています。

後に人々は彼を“唐宋八大家”の首席として彼を評価しています。
 その当時、漢の司馬遷の如く、揚雄で崇高な技巧と勇ましく元気で
清新な気概はこの時衰えていましたが、一般の文風は六朝以来の影響
を受け、作家は皆、語句の“あや”と華麗さを競い、対句などの対偶
法における形式に主眼を置き、その上に魏以前優秀作家の伝統を受け
継いでいました。

 韓愈は直ちに古文学習を奨励しつつ、エネルギーを散文創作に身を
投じました。
 彼の提唱指導により、古文運動(即ち散文運動)は大きく胎動し、
後の世に大きな影響を与えました。宋代著名文学者、蘇武は彼を“文
起八代衰”と賞賛しました。

 ≪新唐書・韓愈伝≫の末で賞賛し「自愈没、其言大行、学者仰之如
泰山北斗雲(韓愈が亡くなってから、その偉業はあまりにも大きく、
泰山北斗の如く・・・。)」

泰山(山東省)、主峰は泰安県に位置する中国五岳名山の一つです。
 北斗とは、大熊座の七つ星で、柄杓の形をして一年中北に位置して
いることから北斗と称されています。人々は韓愈を尊敬し、彼をそび
え立つ泰山と、向かうべき方向を指し示す北斗星に喩えています。
 “泰山北斗”は学問品徳に高尚、又は芸術修養に精深で傑出模範と
なる人物を称える成語です。

 また、簡略し、“泰斗”としても使われます。
 例:“文壇泰斗”、“医界泰斗”等々。

 成語の意味:人に仰ぎ尊ばれる権威者。要人、巨頭、権威者など、
       多士済々である。


114.脱胎換骨(トウオ1・タイ1・フアン4・グ3)

 古来より、文人は詩文を練る時、常に古来の詩、古文の意味を
活かし、単に原句を模倣するのではなく、借用し新しく創作しこ
れを“奪胎換骨”又は、“換骨奪胎”と称しています。

 ≪冷齋夜話≫に、黄庭堅(宋代文学者、詩人、書家)が語って
います。「古詩の原意を借用し、さらに自分自身の言葉を用いて
付け加え表現すること、この手法は“換骨法”である。より深く
探求し極め、古詩の原意を理解体得し、さらに踏み込んで形容修
飾技を駆使する手法を“奪胎法”と呼ぶ。

 ≪捫虱新話≫にも記されています。「文章というのは古人の語
った、一言一句をそのまま模倣、借用するのではなく、奪胎換骨、
即ち、感性を絞り、手を加えることで見違えるようになる。」

 又、道家は“奪胎換骨”して仙人に変身する。金丹を飲めば凡
人でも、仙人になれるが如く・・・。
 “奪胎換骨”は現在では一般に“脱胎換骨”と記され、古い感
覚の殻を捨て、改造され、洗練された感覚に変わった比喩として
使われます。

 成語の意味:生まれ変わる


113.退避三舎(トウイ・ビ・サン・シャ)

  春秋時代、晋の献公は妃驪姫を偏愛しました。驪姫は我子、奚
斉を、将来国君となる太子に擁立したい一心で、陰謀を企て太子
申生と重耳、夷吾を陥れました。

 献公は驪姫の情欲を聞き入れ先ず、申生を亡き者にし、さらに
は、重耳と夷吾を逮捕しようとしたが、両名は察知、国を脱出し
ました。

 重耳は国外をわたり歩き一九年、やっと政権を手にし、春秋五
覇の一人、晋の文公と称せられました。
 ≪左伝≫には、文公に関する記述がかなりあります。

 重耳出奔の時、彼に随行したのは甥の狐偃、趙衰、顛ジエ(2)
等でした。
 先ず、晋北の荻に向かいました。荻で重耳は妻李隗を娶り、子
供伯テイアオ(2)と、叔劉をもうけました。趙衰は叔隗を娶り、
趙盾をもうけました。この地で彼らは十二年間、暮らしました。
そしてこの時、晋の献公が亡くなりました。

 奚斉もまた臣下に殺害されました。逃亡し梁国に落ち延びてい
た夷吾が帰国し国君を継承し、恵公として即位しました。恵公は
重耳が帰国し、王位を奪還するのではないかと畏れ、刺客を荻に
派遣し忙殺を謀りましたが、重耳は察知し、斉国に落ち延びるこ
とにしました。
 出発に際し、彼は妻の李隗に別れを告げました。
「待我二五年、不来而後嫁(我を二五年間待ってくれ・・・、そ
して私がもし帰って来なかったら、嫁にいけ!」
「既に私は二十五才ですよ。そしてさらに二十五年、・・・お嫁
にいけですって?その時は棺桶の材料にふさわしくなってますよ
。お許しいただけるなら、終生あなたをお待ちしています。」

 重耳は衛国を経て、斉国に到着し、再び曹国に到着しました。
 曹の共公は彼らに対して非礼でした。曹の大夫僖負羈の妻は心
配し夫に伝えました。
 「私の勘では、重耳の従者は皆国相の才覚がある。これらの人
たちは帰国し、諸侯の覇者となるにふさわしい人物です。その時、
彼に対する非礼への返礼、我ら曹国は痛い目に遭いますよ・・・、
あなた、彼に対し今の内にこれまでの釈明が必要ではないでしょ
うか?」

 そこで僖負羈は人を遣り、豪勢な食事を持てなし、料理にの中
に玉璧(宝石)を忍ばせました。
重耳はこの饗応にいたく感激。

 その時、「受夕食而返璧(料理は戴くが玉璧(宝石)は御辞退
申し上げる)」と語りました。
 この故事から、後世、人は贈られた礼物を恭しく辞退するとき、
“返璧”、“璧還”又は“璧謝”“敬璧”と呼ぶようになりまし
た。

 其の後、重耳等は宋国、鄭国を経て楚国に移りました。楚の成
王は丁重に宴を設け、もてなしました。
 その時成王は、訊ねました。「もし、晋国へ帰国したら、今後
どのように我ら対処なされるのでしょうか?」
「貴国にはいくらでもある玉棉珍宝、だが我国にはありません、
何を、どのようにお返しをせよというのでしょうか?」と重耳は
答えました。

 成王は言いました。「総じてどのように政を我国に取り仕切る
のか、方針を、できることなら、お話ください。」
 そこで重耳は言いました。「あなたのおかげで私が無事帰国で
き、将来もしも、晋楚で戦争が生じ、両軍が中原で遭遇の畏れが
ある場合、今日の御歓待に報い、“避君三舎”、私は自軍を貴軍
から遠ざける事を命じます。 その時もし、貴軍が納得できず、
戦いを望むなら、その時は私は弓矢を携え貴軍と渡り合うことに
なりますが。いかがか?」
 “避君三舎”は、貴軍より九十里離れて行動することです。
 今日では、人と争うことなく避ける形容として“避君三舎”を
使っていますが、この故事から生まれました。
 “与君周旋”も成語ですが「お相手申す、後には引かない」と
同じです。この成語は礼儀正しく宣言しながらも、遠慮なく堂々
と戦う趣旨の意味が込められています。

 其の後、重耳は、楚から秦に移りました。
 秦の穆公は親秦の国、として今後の晋の国君を育成し支援する
ため重耳に対し丁重に歓待し、五名の娘すべてを彼に与え、彼の
晋帰還に際しては楚の軍隊を護衛につけました。当時、晋の国君
は重耳の甥晋の懐公でした。

 重耳は秦国の支持の下、晋国の政権を奪取、さらに、人を遣り
懐公を刺殺し自らが国君となりました。

 三年の歳月が経ち図らずも、晋楚両軍は城濮において因縁の戦
いとなりました。
 晋文公(重耳)は過去の約束通り、軍を九十里引きました。こ
こで文公は、信義を植え付け以前の恩に報いる手段をとりました。

 しかし、それは”誘敵深入”、“後発制人”、即ち戦略の手段
でした。
 先ず相手に手を下させ手の内を読ませて安心させておきその間
に準備をして相手を撃破する作戦でした。
 この戦略を運用し、楚軍に錯覚を与え油断を誘う方法で、晋軍
を有利に導き、この戦の勝利の基礎固めをし、後に大勝利を手に
入れました。

  成語の意味:遠慮して譲歩する

  

112. 推 敲

 唐時代の詩人賈島、字を浪仙。
 青年時、科挙の試験に落ち、その後出家しました。
が、再び還俗し、再度“進士”に挑戦。
・・・だが、これも落ち、結局“長江主簿”の小官として生涯
を終えました。

 彼の詩風は清麗で、字、句の選択、響きに細心の注意を払いま
した。
 ≪隋唐嘉話≫、≪唐詩紀事≫、≪召渓漁隠叢話≫に彼に纏わる
故事が記されています。

  賈島は科挙の受験の為、長安に向かいました。
 道中ロバにまたがり、詩を作っていました。
 突然二つの句が浮かびました。

  烏宿池辺樹、僧推月下門

 賈島は、この両句の出来に久々に満足、しかし、下の句“推”
がしっくり来ません。もう既に月明かりの夜、門は閉まりおそら
く、推しても開かない。
 “僧敲月下門”と改めたほうが良さそうだが・・・。
 心中、繰り返し、念じて反復。
 “僧推・・・”、“僧敲・・・”、彼の右手は知らぬまに手を
伸ばして推したり、拳を作ってトントンと叩いたりしていました。

ちょうどこの時、当時の流行作家で“京兆尹”兼“吏部侍郎”
の要職にいた韓愈が従者を従え、通過する所に出くわしました。
 先払いの家来がやってきました。
 当時の規定では要職の大官が通る時、通行人は必ず迂回するか
又は道を譲らなければなりませんでした。でないと犯罪と見なさ
れました。
 賈島はこの時、詩句の創作に夢中となっていましたから気がつ
きませんでした。もう間に合いません。直ちに役人に取り押さえ
られ韓愈の前に連行されました。
 だが、韓愈がこの訳を知るところとなり、賈島を責めず、逆に
彼の真摯な創作態度を賞賛しました。

 “推”と“敲”の漢字に対して韓愈は考察吟味、結論を出しま
した。
 「敲のほうがいい」。
 その後、両人は騎乗しながら、詩文の創作について語り合いま
した。また、これがきっかけで二人は友人になりました。

 成語“推敲”は、この故事から生まれました。
 後に、字句の配置処理、ああでもなくこうでもない考慮選択へ
反復研鑽、を“推敲”と呼ぶようになりました。

 上述の賈島の詩句は≪題李凝幽居≫に記されています、これは
五律です。
 全詩は下記。

 閑居少鄰併、草径入荒園
 鳥宿池辺樹、僧敲月下門
 過橋分野色、移石動雲根
 暫去還来此、幽期不負言


111.王顧左右而言他

 孟子はある時、斉の宣王に問いました。
 「在る人物が、楚に行かねばならなくなり、妻子の面倒を彼の友
人に託しました。 だが帰国すると、冷害で妻子は食物がなく悲惨
な状況でした。その友人に落ち度はありません。あなた様なら、ど
うされますか?」

 斉の宣王は答えました。「彼(友人)とは絶交だ。」

 孟子は再び問いました。「在る執行法制責任者がいました。刑罰
を掌握している長官です。だが、部下を掌握出来ない場合、あなた
様ならいかなる処分を下されますか?」
 宣王は言いました。「それならば、更迭だ。」

 最後に孟子は言いました。「全国で、政治は乱れ、民は安心して
生活出来ないとしたら・・・。あなた様はこのような場合、どのよ
うに処置されますか・・・。」

  王顧左右而言他−−−宣王は両側に立つ側近を眺め、故意に話
を逸らしました。

   上述した話は≪孟子・梁恵王≫篇に記されています。

 投げられた問題を、避けて、答えず、見聞きはしたが、していな
いふりで、目は別の所を眺め、話題を逸らしました。
 このことからこれに類した状況形容を”王顧左右而言他”または
”顧左右而言他”として用いています。


110.臥薪嘗胆(ウオ4・シン1・チャン2・ダン3)

   春秋時代、江南の呉、越両国は数世代にわたり戦いが絶えること
はありませんでした。当時、呉の国都は呉(現在江蘇省の蘇州)、
越の国都は会稽(現在浙江省の紹興)に在りました。

 呉王に夫差が即位後、越攻撃に力を注ぎました。
 両軍は太湖と固城(江蘇省、高淳県南)一帯に展開し、結果は越
が破れたのです。

 越王勾践は大夫文種を呉の前線指揮官伯ピーに派遣し、講和を求
めました。伯ピーは文種が黄金、白壁等宝礼品、美女を携えている
のを見て、鼻高々。
 直ちに彼を率いて呉王夫差に凱旋報告に向かいました。

 文種は夫差に会うなり、越王が心から呉王の臣下となり、越領地
が呉の支配になることを受託する旨伝えました。

 夫差はすぐに承諾し、礼品を受取り、越王勾践を呉国に呼びつけ
て家来にしました。
 ≪史記・越王勾践世家≫と≪呉越春秋≫に記されています。
 越王勾践は国事を文種とその他の大臣に託し、自らは妻と大夫范
リ−を伴い、会稽を離れ呉に着きました。
 呉の夫差は勾践夫妻を范リ−と共に呉王闔閭の墓の傍の石室で馬
の世話係を命じました。(闔閭とはこの前の呉越戦争で命を落とし
た、夫差の父です。)
 勾践は夫差に三歳馬の飼育係りとして、慎重且つ注意深くこれを
職務と素直に受け、堪え忍びました。
 夫差が車を出すときには毎回、勾践は車馬を御し、綿密且つ周到
に仕えました。

 ある時、夫差が病になり勾践は伯ピーを通じて、夫差の寝所に入
り、自ら夫差を世話し、いたく感動させました。病はその後よくな
り、直ちに、勾践夫婦と范リ−を祖国に帰してやりました。

 勾践は越に帰り、刻苦自励を決し、志を新たに国の復興を決心し
、直ちに文種に政治を管理させ、范リ−に軍事訓練を担当させ、人
民に強く自立できるよう檄を飛ばしました。
 勾践は自分の闘志を鍛え堅持するために、快適な生活を願わず、
布団さえも使うことなく柴草を敷き、そして常に、胆嚢を準備し、
ご飯前、座って休む時、決まって苦味を賞味しました。
 これが“臥薪嘗胆”と言われる所以です。

 越国は更に復興計画と具体施策を決定、準備に十年の時間をかけ
、子供を作り、財物を蓄積しさらにこの十年に教育と軍事を強化、
すなわち“十年生聚、十年教訓”をスローガンにして、十年後に呉
をうち破りました。(ある人は二つの十年の計画だから二十年だ、
という説もある。)

 こうして、十年も経たぬ間に越国は復興、発展強大になりました

 ただ一度越は呉に破れはしたが。再び数年後、勾践は文種と范リ
−を引き連れ自ら大軍を引き連れ呉を攻撃、呉軍は抵抗できず、伯
ピーは投降夫差は自殺、ここに呉国は壊滅しました。

 “臥薪嘗胆”、“十年生聚、十年教訓”は後に刻苦自励、富国発
憤、報仇雪辱を喩える成語として使われています。

  成語の意味:復讐や大望達成の為に長い間刻苦精励すること。


109.一一犹(イー・シン2・イー・ラオ)

 春秋時代、晋の献公は数名の妻を娶りました。第一の妻は賈国か
ら娶り、子はいませんでした。
 次の妻斉姜は元もと父の妾でした。太子申生と、一人の女子を生
み女子を秦の穆公の夫人として嫁がせました。
 その他、戎国から二人の娘を娶りました。一人の姓は狐、公子重
耳を産みました。もう一人の姓は允、公子夷吾を産みました。その
後、晋は驪戎国を攻撃、驪戎国の君主は和平を求め、その証に女二
人(姉妹)を晋の献公に献上しました。
 これが驪姫で、彼女は公子奚斉を産みました。驪姫の妹も同様に
献公の后とし、彼女は公子卓子を産みました。

 こうした経緯から晋の献公は妻を、少なくとも六名娶りました。
献公の家庭は幸福どころか、逆にこれらの妾姫らの争いが絶えず、
正式夫人の座を巡り我子を国君の継承者にしようと彼女たちは常
に秘策と嫉妬の日々に明け暮れる集団となりました。

 巧言を駆使し驪姫が最も寵愛を受けました。彼女は正夫人を要
求、さらには陰謀を巡らし、太子申生を陥れ、他の公子の中傷を
まき散らし、奚斉に太子を要求しました。

 ≪左伝・僖公四年≫に由れば、献公は驪姫の巧みな言葉を信じて
きたが、彼女を夫人にしていいものか・・・、当時の迷信信仰に基
づき、先ず、占い師に来て見てもらいました。
 「驪姫を夫人として将来、吉か、凶か?」この占い人は驪姫一派
ではありませんが、その結論は‘不吉’。
 献公はおもしろくなく、今度は筮者により占ってもらったところ
“吉”がでました。
 献公は大層歓び笑いながら言いました。「筮を取り入れる、卜に
は頼らない。」そこで卜人は同意せず、言いました。

 「筮は卜より劣ります。卜に基づくのが本論、その上、次の詩句
がある。(詩句の内容:一途な寵愛は乱世を造り将来あなたの王位
を奪うはず。所謂、一一犹即ち、一香一臭、又は一正一邪、・・
・邪気が漂い、十年内に悪い結果を招くだろう。) だから、公に
おかれましては、決して筮者の神託に依ることのなきよう御配慮く
だされ!」

 しかし、献公は、驪姫を正夫人に据えました。その後、一段と、
驪姫を信じた結果、申生を死に追いやり、重耳と夷吾を追い出し、
ごたごたを巻き起こしました。

 上述の故事”一一犹”は後に一善一悪を喩える成語となりまし
た。
 晋代学者杜預は≪左伝≫の研究者として、彼は「は香草;犹は
臭草です。香草は善を表わし、臭草は悪を象徴」と述べています。


108.夜以継日(イエ・イ3・ジー4・リー)

 “夜以継日”は≪孟子・離楼篇≫が出典の話です。
 大意は次の通り。

 夏の禹王は美酒を嫌悪し、有意義な言論を好んでいました。
 商の湯王は中正之道を堅持し、固定概念にとらわれず人を選びま
した。
 周の文王は人民を常に負傷者に接するが如く思いやり、道理を追
求。

 周の武王は側近に対しても尊大ぶるでなく、また遠隔地にいる部
下をも片時も忘れることはありませんでした。
 周公はこれら夏、商、周三代の君主の長所に学び禹、湯、文、武
の四王の徳政を手本にしました。

 ある時不適合な現実問題に直面しました。
 昼夜をいとわず思考した結果、夜、思いがけず、ひらめき、直ち
に実行しました。

 これが“夜以継日”の出典で、“昼だけでなく夜も”の意味です。
 昼の間、甚だしく忙しい、即ち“夜以継日”、日夜兼行の意です。
 人々は常にこの成語を日夜忙しい形容に使います。

 しかし、別の人は”日以継夜”を使います。
 忙しい形容の原意から、“日以継夜”と“夜以継日”は同じです。

 しかしながら一般には、昼間は正常な仕事の時間、昼の時間が十
分でないから夜間を用いること、だから“夜以継日”が合理的な表
現と言えます。


107.叶公好龍(イエ・コン・ハオ・ロン)

 “叶公好龍”の故事は漢朝時代、劉向が著した ≪新序≫の≪雑事
≫篇に記されています。

  叶公、本名は沈諸梁、字は子高、春秋時代、楚の人。父が叶に封
じられ、その後彼がこの封地を引き継いだことから自ら叶公と称し
ました。

 この叶公、“龍”が大好き。家具、室内装飾等、其のほとんどを
龍の図案を用いました。鈎、鑿(ノミ)の小物でさえ龍のデザイン
を使っていました。門、窓、梁、柱にも各種各様の“龍”をあしら
っていました。

 叶公が殊の外龍が好きであることを天上界の龍が、聞きつけ、直
ちに、人間界に舞降り、訪ねました。
 叶公が自室の窓から正房室を覗くと龍がにどっかりとぐろを巻い
て横たわっているではありませんか。肝をつぶし、驚き畏れ、大声
で助けを求めながらて逃げました。もともと、叶公が好きなのは本
物の龍ではなく、龍に似ているが龍に非ざる、自分好みの”まがい
物”でした。

 この故事には風刺が含まれ、その実、喩え話です。故事の主役で
ある叶公は歴史上実在した人物ですが内容は明らかに虚構です。し
かし逆に、“叶公好龍”は伝わって一つの成語としなりました。

 ≪新序≫に記されています。孔子の弟子である子張は、魯の哀公
が賢才を招聘していると聞き、彼を訪ねましたが、なんと七日の間
待たされ、魯哀公は礼を持って接することがなかったことから、子
張は気分を悪くし帰りました。

 その時、「魯哀公は“叶公好龍”と同じだ、もともと賢才を歓迎
招聘する気はなかった。」と語りました。

 ≪後漢書・崔イン伝≫によると、崔インが朝廷の威徳を褒め称え
る≪四巡頌≫を書き残したところ、漢の章帝がこれを見て大変歓び、
側近の竇先に問いました。

「君は、崔インを知ってるか?」竇先は答えました。
「班固とは嘗て数回、私と会見、話したことがあります、しかし竇
先とは面識はありません」
 章帝は笑って答えました。
「君は、班固を尊敬し、崔インを疎んじているってことだよ。これ
も又、“叶公好龍”だ。なぜ、彼を招き、会おうとしないのか?」

 −−−−この両段には、叶公を例に出し、共に“龍”を世に傑出
した人物の象徴とし、表面上は賢才を愛しながらも、実態は排斥又
は、こうした人物を無視の故事として記されています。

 “叶公好龍”、後に、口では好きなことを言いながらも実際はそ
の逆である比喩に使われる成語です。


106.一敗途地(イー・バイ4・トー2・ディ4)

  漢の高祖劉邦は秦末、沛県(現在江蘇省に所属)泗水地方の“亭
長(村長)”でした。当時、各地の諸侯は傲慢な秦の統治に反旗を
翻し、挙兵していました。

 農民一揆のドン(首領)、陳勝は大澤郷(現在の安徽省宿県西南
)で蜂起。劉邦はこの時、芒とダンの山間で武装し、挙兵しました。
 沛県の県令(知事)はこうした不穏な情勢の中にあり、己の不利
を感じていました。
 それと同時に、武装集団の中でも劉邦が威信があると聞き、人を
遣り、彼を招聘しましたが、劉邦が百人の人馬を引き連れて来たこ
とから、恐れを成し、城門を固く閉ざしあろうことか、入城を阻み
ました。
 そこで劉邦は書状をしたため矢に巻きつけ、城中に放ちました。

 群衆を鼓舞し、蜂起を促す檄文でした。
 ここに群衆は団結一致し、県令をなぶり殺し、城門を開き劉邦を
迎え入れ、併せて彼に、沛県の県令(ドン)になることを要請しま
した。劉邦が又の名を“沛公”と呼ばれる所以です。

≪史記・高祖本紀≫に当時の、劉邦が入城するくだりが記されて
います。
 群衆は首領として彼を推戴したのだが、彼はへりくだって言いま
した。
 「現在、至る所で打倒秦に燃え蜂起している、形勢は拮抗・・・
。こうした時、リ−ダ−の選択は重要だ。今置将不善、則一敗途地
(もしもふさわしくないリ−ダ−を選べば、一旦破れればもう立ち
上がれなくなるからだ)」

“一敗途地”、これは唐朝の顔師古により注釈が付けられています

 「敗け戦になるとその時点で肝臓、脳みそが飛び散って血みどろ
になることだ。」
 “肝脳途地”とは、本来、むごい死体惨状の形容です。
 例えば、 ≪漢書・萌通伝≫には「今、劉邦と項羽が争っている
。使人肝脳途地、流離中野、不可勝数(人の内臓、脳みそがいたる
ところ飛び散りっている」と記されています。

 ≪越絶書・内伝≫にもあります。「越王謂子貢曰:“士民流離
、肝脳途地”」。
 この句にも、忠誠を尽くし壮烈に戦い犠牲をいとわない表示に
用いられています。
例えば≪漢書・蘇武伝≫にて、

 蘇武曰:武常愿肝脳途地、今得殺自効、・・・・・、誠甘楽之。
   しかし、現在われわれは普通に一敗途地を使う場合、“肝脳途
地”の意味は含まず、ひとたび破れるともう再起出来ず、修復に
堪えられないほどの失敗の形容として使われています。

 成語の意味:完全に失敗し再び立つことができない。


105.(尽)竹難書(チン4・ジュ2・ナン・シュ)

   “チン竹難書”は罪状が多すぎて、筆紙に書き尽くし難い形容
の成語です。
 紙が発明されるまで、字を竹に書いていました。竹簡(ちっか
ん)です。
 この竹簡を使い尽くしても罪状が多すぎて、書き尽くせない悪
事が多い事です。(チンは即ち“尽”の事です)

 なぜ、良い事に使われなかったのでしょうか?
 古の人々により、引用されていますが、決まって罪状の多い場
合に用いられています。それが次第に慣例となりました。

  ≪通鑒・隋紀≫に記されています。
 隋に李密とジャイ譲等は隋の煬帝に反旗を翻し軍を組織、洛口
(当時の東都洛陽付近)を占拠し、河南、河北のかなりの地方を
攻撃占領しました。李密は “魏公”と称し、煬帝打倒の檄文を
書き、各郡、県に発布しました(別説では、檄文は李密の秘書祖
君彦の筆)。内容は隋の煬帝の十大罪状を列挙、さらに“チン南
山之竹、書罪無窮、決東海之波、流悪難尽!”と言い放ちました。

 しかし、“(尽)竹難書”の成語は李密が最初ではありません

 早くは西漢の漢武帝の時期、朱世安という侠客が丞相公孫賀に
よって無実の罪を着せられ監禁されました。その獄中で公孫賀父
子の悪事の数々を上申しました。

   “南山之竹、不足受我詞”

 この話は実質 “(尽)竹難書”の意味です。

 西漢末、王莽が王位を奪い取ったことから、隴西の隗シアオは
立ち上がり、その時の檄文には王莽の罪状を述べ、さらに “(
尽)竹難書”のこの句が用いられています。

 南朝梁の元帝の時、 “河南王”侯景謀反の変、当時の首都建
康(現在の南京)、梁元帝の檄文中にも侯景の罪状の多いことを
形容して“(尽)竹難書”の句が用いられています。

   “(尽)竹難書”この成語はこのように早くから使われていま
す。その後、李密の煬帝への檄文、糾弾で更に使用範囲が特定さ
れ確定されました。

      

うどん侍・福蔵