伊勢参宮本街道


おかげ街道 08.9.22

1回 玉造稲荷神社〜御厨入口
第2回 御厨入口〜枚岡神社
第3回 枚岡神社〜南生駒 
第4回 南生駒〜奈良・猿沢の池
第5回 奈良・猿沢の池〜天理
第6回 天理〜桜井 

7回 桜井〜初瀬(長谷寺)
第8回 初瀬(長谷寺)〜榛原
第9回 榛原〜高井
第10回 高井〜山粕
第11回 山粕〜伊勢奥津
第12回 伊勢奥津〜柿野
第13回 柿野〜相可
14回  相可〜田丸
最終回 田丸〜伊勢本宮(外宮、内宮)

           第13回 柿野〜相可

  伊勢本街道歩きも、今回を入れて、後3回となった。出発点に出る交通をどうするかが、一番の難題だった。
次回のことを考えると、一泊することも考え旅館やホテルをネットで探していた。出発日が近づき、近鉄松阪駅
とバスの連絡が良い時間を見つけた。柿野に着くのは11時頃になるが、15qの行程であれば午後3時50分
のバスか、遅くとも午後4時55分のバスで帰れる見込みがついた。

 松阪駅で30分ほど時間待ちして、柿野のバス停に着いたのは丁度11時のなる手前だった。
国道を少し入ると、柿野神社前に出てきた。ここが今日のスタート点となる。

柿野神社をスタート 宝積寺の鐘楼と本堂 庚申供養碑 宝積寺・地蔵

 柿野からの街道は、R166号線の北側を平行に走っていた。今までのように本街道の道案内が細かく出てくることは
なかった。ただ今度は、10年ほど前にあった街道歩きのコース絵地図をもらっていたので、それを参考にして歩いた。
天気は本当によく、写真の空の色を見てもらいば分かると思う。暑いことは暑いが、夏の蒸し暑さはない。日陰を歩くと
涼を感じ、それほど苦しくはない。国道の上を走る街道は、見晴らしの良いところでは国道沿いに走る櫛田川か見え、
しばらくは並行して歩くことになった。

宝積寺
 最初の訪れたのは宝積寺であった。境内に道標があると本に書かれていたが確認できなかった。庚申供養碑には
元禄八年と読めるが、他はほとんど判読できなかった。当寺は貞享3年(1686)、永平寺三十三世覚海智円禅師徹翁
和尚の開基と伝えられている。

国道沿いを流れる櫛田川 国道沿いの商家 絵地図にあった美容院・ラブミー

 街道は国道へと出てきた。絵地図には街道沿いにある店舗の名前が書かれていたが、十年以上前のこと、
今もあるか疑わしい。ところが、あるのもあった。「美容室・ラブミー」とあるが、確かにあった。
そんなこんなで道を確認しながら歩けて便利ではあった。

 この国道は松阪からバスで柿野まで来た道で、逆戻りしていることになる。バスの中で「大石」のバス停を「おいし」
とアナウンスされていた。「おおいし」ではなく、「おいし」なんだと分かったのである。
 
 また、今日の目的地である「相可」をなんと言えばいいのだろうか。間違ったことを言えば、地元の人は「???」と
思うに違いない。ローマ字表記があれば便利なんだが、それを見つけられない。
伊勢街道歩きの本に「おうか」と出ていた。「そうか」か「あいか」と読んでいたので、それでは地元の人には通じまい。
大阪の「放出(はなてん)」と同じくである。

 街道は国道を逸れて、大きく右手に曲がっていた。やがて、国道の左手に、へばりつくような大石不動院が 現れてきた。

大石不動院


不動尊・弘法大師作

夫婦滝と挙がった二つの滝の前で

大石不動院本堂

石勝山 金常寺 不動院 


 大石不動院に着くと、正午少し前。
大体予定通りだった。
本堂の横手に二筋の滝が流れ、立札に「夫婦滝」と挙がっている。
二つ対になっているとすぐ「夫婦」と名付けたがるきらいがあるように思えた。
旅の本には「不動滝」とあったが、これのことだろう。古くから脳病に効くと伝えられ、
今でも滝に打たれる人も多いという。


 人の気配もなく、滝のそばにあった石のベンチに腰掛け弁当を広げ、昼食にする。
不動院の解説が挙がっていたので以下に記す。

 当寺は石勝山金常寺不動院と称し、弘仁三年(812)弘法大師の開創であります。
現在の本堂は慶長七年(1602)当時中興の住職政音和尚の時、松坂城主吉田
重勝殿の再建によるものであり、本尊不動明王は弘法大師の作と伝えられています。

 

 ムカデラン群落

  ムカデランとは聞き慣れない言葉である。名前の由来は分からないが、
おどろおどろ、しく感じたのは、あの足のたくさん付いたムカデを想像した
からに違いない。


 説明によれば
境内の街道に沿った高さ30mの炮烙岩(観音岩)には
ムカデランの群生が見られ、昭和2年に国の天然記念物に指定されている。
 我が国の中西部以南の暖地に見かけられろ気根性植物で、岩石や樹木 
岩ひばの仮根に着生する一属一科の着生ランである。


天然記念物むかでらん群落の碑

 
 不動院を離れて国道の右手の櫛田川沿いを歩くと、左手に大石神社
の碑が見えた。
山手を登る道が見えていたが、また国道をまたがねばな
らなかったので、カメラの収めパスすることにした。国道をもう少し進むと、
大石のバス停の手前から街道は国道から離れて右手に入って行った。

天気なよく、何も遮るものなく絵地図の目標を確認しながら歩いた。
明日はお彼岸の中日、彼岸花があちこちに見られる。

 迂回してきた街道は又国道と交わるが、絵地図は細かく行き先を
指示していたので助かる。二つ国道をまたぐと、バス停が絵地図にあり、
それを確認して道は緩い上り坂となり始めた。
すると後ろから自転車に乗った中学生と思われる女子生徒が、追い越
し際に、「こんにちは」と声を掛けてくれた。この街道歩きは、滅多に人と
出くわすことは少なかっただけにうれしかった。そう言えば、伊勢街道歩
きの本に同じようなシーンがあったので、おかしくもあった。
切り通しになった峠を越えると、街道は左のわき道へと入って行った。



 
津留の渡
 彼岸花の咲く街道筋を右手に入ると、鉄橋の入り口に「一級河川 櫛田川 
三重県」と表示さてていた。ここが津留の渡しがあったところである。橋を渡
らず左の川沿いに入る。この辺りに参宮接待所があったと表示されていたが、
見当たらず進むと「津留の渡し・はかり岩 −>」の標識が挙がっていた。
川の中を覗くと確かにそれらしき岩が水面から顔を出していた。川土手には
彼岸花が咲き、遠くまで続いていた。
  小片野に入った街道筋
津留橋の手前を左に入ると鶴の渡し
櫛田川の増水を測ったはかり岩 参宮接待所跡付近の彼岸花 櫛田川をまたぐ津留橋

風景写真をカメラに納めて、戻ろうと歩きはじめると、地元のおじいさんがこちらに向かって来る。
少し待って、おじいさんに声をかけた。川の中を指さして、 「あれがはかり石ですか」と尋ねると、
「はかり岩だよ」と返ってきた。思わず岩と言わず石と言ってしまったらしい。
 
 おじいさんが、いろいろ教えてくれた。あの岩に箱が載っていたいたが台風の時流されてしまった。
土手はなだらかになっていて、向こう岸までロープが張られ、それを手繰りながら船を渡す珍しい
渡し方である。伊勢湾台風やその後の台風でも、櫛田川は増水し氾濫、相当の被害があったという。

 川が増水すると川止めになるという難所。「お伊勢参りして怖いとこ何処か 飼坂 櫃坂 鞍取坂
 つるの渡しか 宮川か」と唄わたというが、その殆どを突破してきたことになる。

 おじいさんと別れ、津留橋を渡って松阪市から多気町に入る。
街道をまっすぐに歩いていると、いきなり「<−伊勢本街道」と
左に入る標識。見落とせば直進するところだった。
 昔の石の道標は「右いせ 左 まつさか」と読めるが、判読
しずらい。移動させていることもあるので、方向も正確でない。

仏足跡碑
 伊勢自動車道路の高架をくぐり、大きく右へ曲がると「仏足石」
碑が立っていた。草鞋が数足かけられているが朽ちかけていた。
 説明文にはこのように書かれている。

仏足跡とは、釈迦の足跡のことで、仏教が広まったころ仏像の
代わりにこれを拝んだ。街道を旅した人たちは、ここを過ぎる時
この「足神さん」にわらじを奉納して旅の安全を祈願した。
碑は櫛田川対岸の広瀬・永正寺の名僧天阿人によって建てられた。  


 一人歩きをしていると、ついつい休息を取るのを忘れがちになる。
ここでは少しゆっくりと腰をおろして休憩することにした。
持ってきたスポーツドリンクのペットボトルもここで空になった。
絵地図のキロ数を見ると 10920m となっていた。あと4Kmほど
でゴールの相可に着く。歩数計を見ようとベルトに付けたとこに手を
やった。ない!・・・、方々探してみたが見つからない。
途中、7500mのところで歩数計の記録を絵地図に書いていた。
その時脇に置いたのを忘れて来ていまったらしい。3キロも先の
ことだ、くやしいが、諦めるしかなかった。

 ストックを落とし、歩数計を落とし、次は何を落とすか。命さえ落とさ
なければ大丈夫と、強がって出発した。

 地名表記に「鍬形」が出てきた処に「左 丹生大師道」の道標、読みが
分からないが、勢和村丹生にある丹生大師(神宮寺)を指している。

仏足跡碑・(鍬形)天明五年(1758)
右 丹生大師道 道標

伊勢三郎物見の松といぼ地蔵 歯痛(はやみ)地蔵 歓喜寺の石室

伊勢三郎物見の松といぼ地蔵
 県道を進むと、また左に「伊勢本街道」の手矢印があり、左にとって行くと、小さな松と古ぼけた石の地蔵が傍らにあった。
説明文には、
 源義経の家臣伊勢三郎が敵の軍勢を松に登って見はったという伝説がある。
尚、現在は五代目の松が植えられている。 その傍らに古くから里人がいぼ落としを
祈願したという「いぼ地蔵」が一体ある。
 とあるが、地蔵は朽ちて原型が分からないほどである。

歯痛(はやみ)地蔵
 街道沿いに背の低いお堂があり、横に説明文。
の地蔵堂の中には、歯痛に効能があるという地蔵が祀られている。
これは道標地蔵で『左丹生山近長谷寺三十丁』と彫ってある。ここを
南に曲がれば長谷の近長谷寺へ達した。
この地は参宮のための茶屋や馬つなぎ場があったと伝えられる。

 歓喜寺観音堂・石仏が収められているという石室が見られたが中を覗く
ことは出来なかった。「聖観音立像」の説明文は上がっていたが、石室に
入っているのではないと思う。

 四疋田の大常夜燈
 三疋田、四疋田と来て、大常夜燈が立っていた。
  この常夜燈は高さ5.5m、この街道では最大級のものである。
 江戸時代の終わりころ、四疋田組の大庄屋・三谷蒼山(1779〜1841)
 が亡くなるとき、後世まで献灯するように遺言したことによって弘化二年
 (1845) に建てられたものである。

四疋田の大常夜灯
相可高校前の椋の大木 千鳥ヶ瀬・西行歌碑 明治45年 札の辻に立つ二本の道標

千鳥ヶ瀬
 県道に戻ってしばらくすると、相可高校の白い建物が見えてきた。いよいよゴールに近いと思う間に、
行くての道を茂った大木が道を塞がんばかりに張り出していた。「大型車前方頭注意」の看板傍らに
あった。その大木の根元に千鳥ヶ瀬・西行歌碑があった。 歌碑は万葉仮名で書かれているというが、
読むすべもない。伊勢街道旅の本に解説が載っていた。そこに出てくる「阿不可」(あふか)とは相可
(おうか)のことであると書かれていた。境界から悪霊を追い払うという塞の神が祀られていた。

 札の辻道標
ここが今日のゴール相可のバス停となっている。
 この辻の二本の道標が立ち、三叉路は昔、高札場であった。 ここで盆踊りをしたので踊り場とも言
ったという。

 ゴールしたのは三時半だった。バスの時刻は三時五十分発まだ待ち時間がある。
おばあさんが一人、軒下の敷石に座り込んでバス待ちをしてるらしい。

 少し話し掛けてみる。どこまで行くのですかと訊くと、はっきりと返事は返って
来なかったが、域内を循環するバスを利用するらしい。会話はあまりかみ合わ
なかったが、県道を右に入ったところにお寺が見えた。

 「あれは「何という寺ですか」と訊いたが思い出せないようで、首を傾げるだけだった。
時間もあるので、ぶらぶら時間つぶしに行ってみた。「長盛寺」と看板が出ていた。
ただそれだけを見て戻ると、「長盛寺じゃなかった?」と先ほどのおばあさん
思い出したのか、そう私に言ってきた。
伊勢相可名物まつかさ餅店前のバス停

バス通過
 間もなくバスが来ると思い、亭留所の立て看板前のベンチの腰掛け待った。その時バスが反対側に停まること
に全然気付かずにいた。やがてバスが来て目の前を通過してしまった。あわてて手を振ったが素通り、運転手は
乗客のいないこと確認して通過したのだろう。反対側に立っていればそんなことなかったのにと、見ると少し先で
バスが止まった。亭留所は先だったんだと考え今さら追いかけても間に合うまいと諦めてしまったのである。

 しばらくしてバスは出て行ってしまった。よく考えると、先に亭留所があった訳でなく、私が合図に気付き、先で
停まってくれたのだと気付いたが後の祭り。
 松阪行のバスはあと一時間余り待たねばならなくなった。その時、JRの相可駅が近くにあることを思い出した。
先ほどから三脚にビデオカメラを乗せて撮影している女子高生が二人いたので、「JR相可駅この近くにあったね」
と訊くと、怪訝な顔をする。「そうか駅」と言ってしまったらしい。 「おうか駅ですか」と訊き返してきた。
「そう、おうか駅」というと二人で相談して道順を教えてくれた。

 10分ほど歩いてJR相可駅に来ると、無人駅で男子高校生が数名が駅の片隅に
たむろしていた。時間表が高校生の後ろにあったが、見てみると時間が全く役に立つ時間はなく、バスを待つしか手
はないとわかった。

 相鹿上(おうかみ)神社がバス停に戻りしなにあったので、寄ってみる。ここは次回立ち寄ることにしていたので丁度
よいかと思い入って行った。 誰もいない神社は、陽が落ち始めて薄暗い感じ。一巡して石段に腰を下ろしていると、
いつの間にか蚊の餌食になり始めたので、早々に引き揚げた。

 かくして、今日の旅は終り、4:55分バスで松阪駅に向かったとさ。・・・(おわり)


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