伊勢参宮本街道


第1回 玉造稲荷神社~御厨入口
第2回 御厨入口~枚岡神社
第3回 枚岡神社~南生駒 
第4回 南生駒~奈良・猿沢の池
第5回 猿沢の池~天理
第6回 天理~桜井 
第7回 桜井(三輪)~初瀬(長谷寺)
第8回 初瀬(長谷寺)~榛原
第9回 榛原~高井
第10回 高井~山粕
第11回 山粕~伊勢奥津
第12回 伊勢奥津~柿野
第13回 柿野~相可
14回  相可~田丸
各回数をクリック
してお好みのコー
スを選んでください
最終回 田丸~伊勢神宮

  おかげ街道 (暗越奈良街道編)  09.03.15
   << 1回 玉造今利神社~御厨入口   ・    第2回 御厨入口~枚岡神社  >>

 昨年(09年)の11月に伊勢神宮(内宮)にゴールしたが、このページは第11回から作り始めた。再度、
1回から10回までを歩き、このページの完結を目指すことにした。奈良までのコースはシニアネット・フォ
ーラムの皆様を4回に分けて案内したコースである。 初回は、1回、2回は連続で歩くことにした。

お伊勢参り
 大阪市の小学校では、卒業前の修学旅行は伊勢神宮が昔から定番のようになっているようである。
私の母は明治生まれだが、小学生の修学旅行は「お伊勢さん」だったと聞かされていた。
 私は小学生の卒業は大阪でなかったので、伊勢には行かなかったが、女房に訊くとやはり「お伊勢さん」
で、三人の子らも伊勢神宮だった。近鉄電車が専用電車「青空号」が今も走っている。

 毎年年末に大阪ユースホステル協会が、伊勢本街道を3泊5日で歩いて初詣をする会がある。170㎞を
5日で歩くことは一日35㎞は歩くことになり、最終日は夜明け前に着くことになる。強行軍であり、またいろ
いろ見たり来たりして歩きたいので、これの参加は遠慮している。

 江戸時代の明和年代(230年程前ほど前)のある一日の記録に「五月三日には大阪へ18万人ほど出る
由の噂これあり」とあり、結果この明和のおかげ参りには200万人を上回る人々が出たという信じがたい
ほどの人っだったという。その足跡をたどって歩くことにした。

玉造稲荷神社本殿 伊勢参宮本街道・歩講起点 道路の真中にある祠
定していた日は、天気が悪く3日ほど遅らせることにした。 玉造稲荷神社の境内に9時半に着いた。
境内には難波・玉造資料館があるが予約制で公開されている。豊臣家奉納鳥居が半分地に埋まって
保存さえているのは、先の阪神淡路震災で崩壊したものである。

 神社を後にすると、道の真ん中を占有した祠がある。街道を拡幅したときにあった祠をそのまま保存した
のあろう。南に下って突当たりを東に進むと玉造筋に出る。真直ぐに街道は進むが、少し回り道して玉造
の交差点を渡って、細い辻に入ると今度はJR環状線に行き当たる。街道は途切れて、長堀通り出て南に
信号を渡ると、「二軒茶屋跡・石橋」の碑が建っている。


二軒茶屋
 道をはさんで北側に「ます屋(桝屋芳衛兵)」、南側に「つる屋(鶴屋秀次郎)」、
の二軒の茶屋が向かい合っていたので、二軒茶屋と呼ばれていた。
 明治時代、暗越奈良街道は高麗橋が起点であったが、江戸時代まで遡ると
この街道の起点は玉造とされ、「南都路」とされていた。人々はここで名物の
菅笠を買ったり、見送りの人と別れを惜しんだりした。

黒門橋(通称 石橋)

 二軒茶屋のすぐ東を流れていた猫間川に架かっていた橋で、慶安三年
(1650)幕府の命により市中最初の石橋として架けられた。当時では珍し
い石ばかりでできた橋で、石橋と呼ばれるようになり通称となった。
 南北に流れていた猫間川は、今では埋め立てられて道路となっている。

  玉造の矢田地蔵道標
 二軒茶屋を過ぎ、すぐ右に玉造駅東商店があり、入口に「暗越奈良街道」
の新しい道標が建っている。角の蕎麦屋も昔風で趣がある。商店街に入る
とカラー舗装された道に、短冊風の飾りが軒を並べていた。少し行くと、右隅
に「矢田地蔵尊」がひっそりとある。道標はもうほとんど読むことができない。
地蔵信仰の聖地として知られる、大和郡山の矢田寺への道標が刻まれてい
るとある。
 八坂神社
 黒門橋(石橋)が廃橋になったとき、大阪市より石材として寄贈されたもの
が記念碑として保存されていると言うことで、立ち寄る。
記念碑によると、
「大正13年撤去に際し石材六枚を当社に寄贈せられ狛犬灯篭の敷石
として用う 三百余年の歴史と共に歩んできたこの石を回顧し永年の
労を後世に伝えんが為その一枚を茲に記念の碑として建立す」
とある。

 常善寺道標
 玉津橋から南に入り、東へ曲りまた南へと曲がる角に、常善寺道標が
立っている。
 若取若捨経耳成縁或順或遺終因斯脱  (東面)
 これより左へ三町 常善寺         (西面)
 南無妙法蓮華経  法界
           (南面)
   (文字なし)                  (北面)
東面の漢文は
 ー若は取 若は捨 経耳ぞ縁と成る 或いは順 或いは遺 終の因
 斯ち脱すー と読みその意味は、あなたが、それを取るにしても捨て
るにしても、法華経のみが、(成仏の)因縁となるものである。ものの
順逆にかかわらず、(法華経を誦することにより)ついに悪因より脱け
出すことが出来るのである。               (山蔭智也氏 訳)
二軒茶屋跡・石橋 旧跡
矢田地蔵尊
常善寺道標

 玉津橋
 八坂神社を出て、街道に戻ると玉津橋を渡る。この橋は平野川に架かる
橋で、諸大名の往還となってたという。
 新しく架けられた橋には、暗越奈良街道の絵地図がはられている。また、
石畳を敷き詰めた橋は、暗峠の石畳をイメージしたものである。


 五千石堤
 玉津橋を渡ると奈良街道は南へ、そして東へ大きく曲がっている。ここ
から深江までの街道は両側の畑より2,3m高い堤で、五千石堤と呼ばれ
ていた。畑は住宅で埋め尽くされているが、左右に入る道は下りとなって
いて、そのことを物語っている。

 
                                   
 東成警察署を過ぎると今里筋に出てくる。ここの信号を渡り、1㎞足らずの
道幅の街道は、蓮格子や白壁の土蔵がのこり街道の風情が残されている。
 産業道路の広い道に出る手前の左手に、熊野神社と妙法寺が並んでいる。


熊野大神宮
妙法寺
 熊野神社はもと大今里村の氏神様で、私の住む区域で氏子となっている。
 そういう訳で、何かと縁があり、葬祭時に訪れている。でも案外無関心で
あったことを恥じ入るばかりだ。

 契沖阿闍梨は妙法寺にあって老母を養いつつ水戸光圀の依頼によって、
「万葉代匠記」を完成した。光圀はその労をねぎらって、白銀1000両、絹
30匹などを恩賞として与えましたが、契沖はそれをことごとく貧しい人に分
け与えました。現在、妙法寺にはその時拝領の香炉が寺宝として残されて
いる。

妙法寺内の十三仏板碑
 十三仏板碑は生駒西山麓の北河内を中心に、室町時代より江戸時代に
かけて数多く作られたようだが、妙法寺の十三仏板碑は昭和に入って作ら
れたというケースは大変珍しいものである。

 傘燈籠
 熊野大神宮を過ぎるとほどなく奈良街道は作業道路に出てくる。その出
会った右側に、角柱の上部に四角い火袋があって、その上に屋根型の傘
を乗せた珍しい傘燈籠の道標がある。







 このコースは私がいつも歩くウォーキングコースであり、今里筋には
堺屋太一の書で次のように書かれた名盤が建っている。

今も街道の面影を残す
妙法寺門前
妙法寺内の十三仏板碑
傘灯篭道標
     堺屋太一・暗越奈良街道・シルクロードの終わるところ」 名盤

シルクロードの終わるところ
 暗越奈良街道は、大阪と奈良を結ぶ最も近い道だ。 
 それだけに古来、様々な人と物とがここを通った。古くは天平時代、大仏開眼に招かれたインドの僧が
(736年)、次いで中国の鑑真和上が(753年)、ここを通って奈良の都に入った。正倉院に残る宝物の中
にも、この道を運ばれたものが多かったことだろう。この道は、シルクロードの東の端なのだ。

法妙寺道案内地蔵 布施柳通り・歴史の道 高井田地蔵石仏

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第2回 御厨入口~枚岡神社


 深江から枚岡に向かう産業道路は、旧奈良街道に沿って新しく作られたものと
考えられる。旧街道はこの産業道路を左右に縫うように走っている。今では、片
側一車線のこの道も手狭となり、北側に中央大通りとして石切りへと伸びている。
しばらく産業道路を歩くと、布施柳通りの交差点に出る。そこから旧街道は北側
に入っていく。入口に歴史の道の道標が作られているのだが、周りの風景を写真
に収めているとリックを背負ったハイカーに声をかけられた。

 「どちらまでのハイクですか」と言われて、はじめてその人に気づいた。
 「枚岡まで行きます」と言うと、「私は石切りまでです」と返ってくる。一緒に歩きた
気だったが、私はぶらぶら、写真などとりながら歩くし、歩く趣旨が違うので先に行っ
てもらう。

 しばらくは後姿を追う形が続いたが、高井田地蔵石仏地蔵まで来て写真を撮ったり、
説明文を読んだりしているともう後姿も見えなくなり、先に進んでいるものと、気にしな
くなった。
 この辺りはいろいろと地蔵尊が多い。渡し地蔵や新家の首つき地蔵尊野などがある
。旧大和川は新喜多新田の中を200mもの川幅があったというから、今では想像する
こともできない。
 
 再び産業道路に出て、産業道路沿いをいくと、右手へと旧道は入って行く。ワイガヤの
皆さんを案内したのは、また産業道路に出る手前で右手に入って、司馬遼太郎記念館に
案内したところである。

 市指定文化財 植田家住宅
 御厨の村は古くから大阪と奈良を結ぶ暗越奈良街道筋にあたっていて、街道筋の村々
には本陣札を残す家があります。植田家もその一つで、「松平甲斐守御本陣」と片桐石
見守御本陣」と書かれた木札が残されている。江戸時代の御厨の村には、このような大
名が足を留めた家が他にもあり、街道を行き来する大名が休憩していたものと考えられる。

 ハイカーとの遭遇

 第二寝屋川に架かる新御厨大橋を越えると、並木通りがしばらく続き、産業道路へ
と出てきた。その先は中央環状線を跨いでいくことになる。産業道路挟んだ向こうから、
一人の男が私に手を振って招いていた。私の先を歩いていたはずのハイカーだった。
道路沿いにある公園で、コーヒーを沸かすから飲まないかと誘う。少し休憩をとっても
いいと思い、コーヒーブレークにすることにした。

バナー身火をつけ、紙コップに水を入れて温め始めた。ボーイスカウトのリーダーを
していたと言い、野外活動は慣れているらしい。いろいろ話が進むうち、携帯電話の
メールアドレスを交換することになったが、EメールでなくCメールを使うというから、少し
早まったかと後悔の念が湧いた。
御厨に立つ道標
御厨・行者堂
植田家住宅
 河内街道と分岐点の道標
八剣神社・おかげ道標 もちのき地蔵尊 菱江のおかげ燈籠
 そこからハイカーと別れ、私が先に出発することになった。
中央環状線を越え、街道は右手へと入って行くと、河内街道と交差する。
 交差点に昔の道標が立ち、「すぐ 石切 瓢箪山 奈良・左 住道 四条畷」とある。

 少し行くと八剣神社が右手にあり、境内の入口に道標がコンクリートで固められて
保存されていた。「右 大坂 おかげ 左」と刻まれ、おかげ街道であったこことが分
かる。ここで写真など撮って時間を使っていると、先ほど別れたハイカーが追い付い
てきた。

 ハイカーと歩くことになり、また産業道路に出ると、真直ぐ奈良街道は伸び産業道
路を渡って進む。曲がり角に「もちの木 地蔵尊」碑があり、大きな木の下にコンクリ
ート造りの立派な地蔵尊の祠があった。横に立つのが「菱江のおかげ燈籠」であった。
天保二年に(1831)に建てられたもので、その年に建てられたものが一番多いが、
それは前年、文政十三年(1830)が、伊勢神宮の遷宮の行われる年(おかげ年)
で、この年に参宮すると、平年より一層のご利益があると言われ、「おかげ参り」と
いって集団的な伊勢参りがあったのである。

 またまた、街道は産業道路へと出て、「セブンイレブン・アイ」のスーパーの食堂で
昼食にする。ハイカーも付いて入って来た。私はラーメンを注文したが、ハイカーは
アイスクリームだけで私に付き合った格好だった。食事が終ると、ハイカーはそこで
ショッピングをするということで別れた。

 花園ラグビー場が右手に見えるとこから、左へと街道は入って行くと、松原宿に入
ってきた。宿場跡ということだが、それを感じさせるものは何もなかった。道標が街道
辻に立っているのが、唯一の証だろうか。「右 なら いせ 道 左 大坂 道」とある。
水速の住宅道を通り、恩智川に架かる水速橋わ渡ると、外環状線を超える陸橋に上
がると、前方に生駒山が逼って来ていた。またも産業道路に出ると「箱殿」の標識が
あった。右手に弘法大師石象の祠があり、古い道標が建っていた。祠は閉まってい
たが、失礼して扉を開けさせてもらい、写真を撮らせてもらった。合掌。

 右手の道を進むと枚岡へと入ることになる。途中、自然石の「権現塚碑」が石碑
に囲まれて立っていた。この権現とは家康のことをいい、感謝と供養の意味で建て
られたものと推測されている。
 続いて「徳川家康本陣」の碑が、児童公園の一角に自然石に刻まれている。

 近鉄奈良線のガードの手前まで来ると宝憧寺と子安地蔵尊が大木の横ある。

宝憧寺と子安地蔵尊

 伝承によると、昔、行基菩薩が、旅の途中、この辺りの旧家武智氏宅に一泊
さてた時のこと、難産で苦しんでいるこの家の妻のために加持祈祷されたところ
無事出産したので主人は大いに喜び、行基に地蔵尊を刻んでもらい子安地蔵尊
と名付けておまつりした、ということである。

 国道308号線が暗越奈良街道である。細いこの国道は登り口から100m程、
の急坂を登り右に曲がると掠根橋あり、枚岡神社へと続く。
                             第1回と第二回のゴールである。      

松原宿の道標
弘法大師石像の祠に立つ道標
家康を供養する権現塚碑
子安地蔵尊

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第3回 
枚岡神社~南生駒
 


 
3月27日
伊勢参宮本街道
枚岡神社の紅梅 自然石に刻まれた芭蕉句碑 暗がり越え・遊歩道を行く

勧成院と松尾芭蕉
芭蕉の句碑、「菊の香にくらがり登る節句哉」が勧成院の境内に立って
いて、中には入れなかったが、元は、暗峠の街道にあったのが山津
波のため、いつしか埋没して行方不明となっていたが、大正二年三月の
大雨で出現して本寺の境内に建てられたとある。先般中に入ったと
きに見たが、摩耗で字がほとんど読めなかった。

 国道308号線が街道筋であるが、コンクリート道となり、急坂が続くの
で椋根橋を渡り、川沿いの道を登り遊歩道を歩く。枚岡展望台につき、一
休み。大阪の平野が一望でき、大阪湾まで見渡せると、地図が出ていた。

大師堂の笠塔婆
 
らくらく登山道まで来ると休憩所があり、らくらく登山道の終点となって
いる。神津岳ハイキング・コースは健脚向けとなっている。らくらく登山
道の終点の延長の道を行くと、国道308号線の暗越奈良街道に出る。
 街道を少しのぼると、弘法の水の大師堂が右手に現れる。中を覗く
と古い石仏や石碑がずらりと並び、熱心にお参りする人が合掌して立
っていた。



矢田出迎地蔵尊
 大師堂を過ぎると、急な上り坂は終わり一息つける。国道は僅か2m
ほどの道幅となり、ここを車が行き来するから大変である。数軒の集落
の中に入り、地蔵堂があった。矢田の地蔵さんがこの峠までわざわざ
出迎えにきておられるので矢田出迎地蔵尊と呼ばれている。この先は
石畳が続き、暗峠となっている。
 峠は大阪府と奈良県の県境で、道路標識も「東大阪市」と「生駒市」と
背中あわせになっている。茶店の名残と思われる家が残り、峠の茶店
を営業している処もある。

 暗峠の名前の由来は、うっそうと茂った昼なお暗い峠ということから
付いたという説と、馬で峠越えする時、ここで馬の鞍を替えたことから
の二説があった。
 
暗峠の石畳・茶店と旅籠跡
暗峠地蔵祠 暗峠地蔵石仏 暗峠・本陣跡

峠を下る


暗峠地蔵石仏
 
峠の左手に入り少し登ると、古風なかなり大きな地蔵堂が建っているが、
ハイカーとして歩いているときは見落としがちだった。花が手向けられて、
手厚く祀られているのであろう。文政五年(1268)の銘が入っているという
から相当前のものである。

西畑村
 西畑村は昔の呼び名で、地区名は西畑であろう。暗峠を越すと南生駒まで
下り道、昼前であるが早目の弁当にしようと、棚田の中に場所を探す。段々畑
の石垣を背に座ると、陽だまりの中丁度具合が良い。弁当はおにぎりとカップ
麺を持ってきていたので、カップ麺に湯を注ぎ段取りをしているとき、箸がない
のに気づいた。にぎりめしだけなら手掴みでも食べれるが、熱い麺はそうはい
かない。どうしよう、どうしよう。えい、木立の小枝を一本拝借して、間に合わせ
ることにした。枝の箸で面をすすっていると、烏が飛んできて電柱に止まり、
「あほー、あほー」と馬鹿にされたみたい。

 旅行く芭蕉
 
集落が現われてきた処に、蕎麦屋を商う店が「うどん 蕎麦」ののぼりが上
がっていた。道路の曲がり角が広くなっているところに車が数台停めていた。
車でここまで食べにくるところを見れば、名物食があるのかもしれない。

 停められた車の脇に、「旅行く芭蕉」の碑がたち、その奥まった所に石仏が
並び花が手向けられている。横の岩場を登ると、巨岩の上に文化5年(1808)
銘の磨崖行者象がある。旅人の往来の安全を祈って建てられたものである。




暗峠から続く棚田

カラスにおちょくられた
旅行く芭蕉碑 藤尾村の阿弥陀石仏 蕎麦屋の看板暖簾  萩原の街道風景



藤尾村の来迎阿弥陀石仏
 西畑の集落を離れ、峠道を下ると左右の分かれ道に突き当る。右にとれば
南生駒へと奈良街道は伸びる。曲がり角に建てられた素朴な祠堂があり、
文永七年(1270)銘の来迎阿弥陀如来像が収まっている。里人より「はず
かしがりの地蔵」と呼ばれていると本にはあったが、その謂れはなかった。
昔はこのあたりに茶店があったという。
萩原

美努連岡万(みぬのおかまろ)の墓
美努連岡万は大宝元年(701)の隋唐使に随行した人で、明治5年、地元の萩原忠平と言う人が、ここを
開発していたとき発見し、国の史跡に指定されている。

 たつた川に出て橋を渡ると小瀬である。左手に近鉄生駒線、南生駒駅。
まだ、午後1時だったが、今日のゴールとする。

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第4回
南生駒~
奈良・猿沢の池
   
4月11日
伊勢参宮本街道



第4回 南生駒~奈良・猿沢の池   4月11日

小瀬

小瀬の造り酒屋蔵元・菊司 石垣塀から樹木が 矢田丘陵からの生駒山 榁木峠茶店跡

 このところ晴天の日が続いていた。今日もまた快晴。近鉄線生駒駅で生駒線にタッチの差で乗り遅れ、
次発は20分待つはめになった。少し悔しかったが、仕方がない。南生駒を10時に出発の予定が、10時
15分の出発となる。

 造り酒屋の「菊司」の蔵元の前を迂回して、暗越奈良街道に出ると二人のハイカーが、地図を見ていた。
私が近付くと、「榁木峠はこの道で良いですね」と尋ねてきた。広げた地図はパンフのような略図だった。
これでは分かり辛いだろうと思ったが、私のいく方向だったので説明した。聞くと二人は岐阜の方から来て
松尾寺の方を目指しているとのこと。「榁木峠までは私も行く途中です」と言うと、後からついて行きます」と
後からついて歩いてきた

 住宅街の急坂を登りきったところで、振り返り一緒に話しながら歩くことにした。私も初めて歩く伊勢街道で
戸惑いながら歩いた経験があるので、その気持ちはよくわかるし、少しの優越感を抱きながら歩いていた。
 県道の広い道に出てバス停がある。「小瀬」のバス停の表示があり、街道の通過点であった。信号を東へ
渡ると緩い上り坂が続く。温泉の足湯をあるところまで登ると、左手に生駒山上がくっきりと見え、雲が浮かん
でいた。ここらで一息入れるため、リックをおろして給水をしていると、二人のハイカーは先に行くというので
概略説明して見送った。

榁木峠

 私も長く休憩する積りではなかったので、後に続く感じだった。急に
 道幅は狭くなり、上り坂も急となる。榁木峠のすぐ手前に、矢田寺、
 松尾寺方面のハイク用の標識が立っているところで、二人のハイカ
 ーは思案していた。ここを入るべきか、もう少し進むべきかと。「ここ
 から山道を進めば、松尾寺に続きます」教えると「尾根伝いに行けば
 良いのですね」と。そこで「では、気をくけて」と別れた。

  すぐに榁木峠にでると、勝手は茶店などで賑わった峠道である。
 榁木峠の標識は見当たらなかったが、なぜ無くなったのか分からない。
 右手に「榁木山弘法大師堂」が石碑があり、それが榁木峠の確認と
 するしか ない。少し下って、弘法大師参道を入り石段を登った先に
 桜の木が満開を過ぎた桜の花びらが舞っていた。
  少し石段を登ったが、見る物もないようですぐ下りてしまった。

  峠の下り道を足早に下りた。下り道の歩き方を最近マスターしたのだ
 が、これが正しい方法どうか分からないが、「おれ流」でやっている。、
 今まで、下りを普通に歩くと膝に負担が掛り、膝ががくがくになり痛み
 出したりしていた。
  そこでストックなど使い、つっぱってブレーキをかけながら、そろそろ
 歩くしかなかった。 新歩行法は下り道は、腰を落とし、ビンボーダンス
 のバーをくぐる様な気持で歩くと、意外と膝に負担がかからないことが
 分かった。傾斜が緩くなると自然と腰が伸びてくる。しかも速足で歩け
 るのである。

  下り道を降り切ると、昔の石の道標が立っている。「右 やたやま 
 まつお ・・・」、横に「大坂」、坂の字が土編である。まっすぐ進むと
 「子 供広場」で矢田自然公園となっている。風に吹かれて焼肉の匂
 いが漂ってきた。どこかでバーベキューをしているらしい。
  時間をみるとまだ11時を少し回っただけ、昼飯にはまだ早い。追分
 の梅林で昼にしようと歩き始めた。街道筋には桜はなかった。満開の
 時期は過ぎ始めていたが、期待外れだった。

 
追分

 竹林を少し登って下り始めると、追分神社の鳥居があった。鳥居の先
 は急な石段が続き、神社があるらしい。一度登ってみた。石段の上に
 小さな祠があり、これが神社であった。神社と言っても、ヒンからキリま
 であるのだ。キリなどとこれまた失礼。追分をいく旅人の安全を祈願し
 ていたとも考えられる。
   追分の辻に「追分本陣村井家住宅」の立札が立っている。そこに曰く。

 「村井住宅は奈良から生駒峠を越えて大阪にいたる街道沿いに
 位置し、ここが大和郡山との分岐点であるために追分の本陣と呼
 ばれる。主屋の屋根は茅葺と桟瓦葺を組み合わせた大和棟形式
 で、この主屋の南東に上段の間控の間、玄関などからなる座敷棟
 が接続する。村井家住宅は市内では珍しい宿場建築として貴重で
 ある。」


  説明文にもあるように、茅葺と桟瓦葺の古風な建物は如何にも時代
 を感じさせた。カメラをその建物に向けていると二組のハイカーが、建
 物を見上げて話していた。この追分の辻でどの方向行けばとあれこれ
 と迷っている様子。私のいく方向は奈良ではあるが、直進して坂道を
 下り左手の脇道から入って、第二阪奈道路下をくぐり、308号線に出
 るコースを取っている。ところが、この辻を左にとれば308号線に続く
 ような気になった。
  そこで二人のハイカーは私に「奈良の方はどの道ですか」と訊いて
 きた。私は思わず、左手の道をとれば、右手にカーブして308号線に
 続くと言いきってしまった。


   砂茶屋
榁木山弘法大師堂
弘法大師堂参道
右 やたやま 左 むろうき峠
追分神社
村井家住宅の前の二人のハイカー 富雄川沿いの桜は満開 砂茶屋の地蔵尊

  赤膚焼

ここの追分梅林へ行って昼にしようと思い、ハイカーの行った道と逆方
向に行く。道は下り坂となり時間のロスになる予感がして、梅林行きは
止めて引き返してきた。時間をみるとまだ11時を過ぎたところだ。この
先弁当にする場所と言えば、尼辻の垂仁天皇陵の堀端が考えられた。
頑張れば12時半には着きそうだ。先ほど自分が教えた追分の辻を左
の道を歩くことにした。その道は、第二阪奈道路の上を越えると、思っ
たと通りに道は右へとカーブしていた。

この道が以前歩いた直進して右手に入り、第二阪奈道路をくぐって
308号線に出た道に出るはずだった。大日寺の横を過ぎここらで、
前回の合流点になるはずと思いつつ行くと、結局その道へは出ず、
富雄川に土手に出てきた。右手を見ると橋が見え、この橋を通る道
が探していた道であった。
またの機会には逆を歩いてどこに繋がるか試してみたい。

 富雄川に架かる橋は「しもとりみはし」と読み取れた。ここを渡ると、
常夜灯の横に砂茶屋の地蔵尊がある。時代を感じさせる立派な地
蔵堂。中を覗くと赤いよだれ掛けをした地蔵さんが花に囲まれていた。
 砂茶屋の地名が交差点の信号についていた。古い家並みあり、
昔は茶屋で賑わったのだろう。
 この先のコーヒーハウスは、syggの面々と休憩を取ったところであ
る。緩やかな上り坂を行くと、、赤膚焼の工房がある。工房の庭に赤
膚焼の壺が並び、花壇と共にあった。

 今日は道行く人のガイドの役を少しさせて頂いたが、最初に歩いた
時はいろいろ迷い道をしたものである。地図で見ると、第二阪奈道路
をもう一度くぐることになっているが、勘違いして右手に走る第二阪奈
道路を見て、右手の道路に入り、どんどん行くと、とんでもない方向へ
と進み、結局尼辻でリタイアしたことがある。迷った時は元へ戻るのが
鉄則であるが、なかなかその踏ん切りがつかないのが悩みである。

 尼辻の垂仁天皇陵に着いたら12時半となっていた。予想通りだっ
た。御陵の堀は鉄柵で囲まれていた。堀の土手に松の木が木陰を作
っており、そこを昼食場に選んだ。堀の周りは畑となり耕運機の音が
届いてきた。
1時にここを出発しても、残り4.5㎞ほど2時にはゴールできそうだ。

 近鉄尼ヶ辻駅の踏切を渡り、三条大路が真直ぐ東へと伸びている。
今この通りは、拡幅工事が続いている。
歩道があちこちで寸断されて、歩きにくい。出来上がればきれいな
道が続くことになるのだろう。いつ頃出来上がるのか何年もかかっ
ている気がする。


 奈良の都

  JR奈良駅に着いた。この駅の高架となって、旧駅舎は保存されるの
だろう。緑の木々のペイントの塀で囲まれていた。駅前には大きくて立
派な常夜灯が二基立って、「平城宮大極殿跡」の碑がある。ここからの
三条大路は商店街となり道幅は狭くなって続く。奈良公園に近づくと、
満開を過ぎ始めた桜吹雪が舞い、花びらが道端に積もっていた。猿沢
の池に丁度午後2時に到着した。観光客も土日ほどの混みはなかった
が、人出はある。


暗越奈良街道は終わったが、これから先は伊勢本街道目指して歩きます。
 赤膚焼・窯元 大塩昭山
 赤膚焼 壺 
尼辻へ向かう街道
尼辻から三条大路の合流点
 JR奈良駅前の常夜灯  奈良公園前のお土産屋  甲羅干しの亀が並ぶ猿沢の池

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第5回 猿沢の池~天理

第5回
奈良~天理
伊勢参宮本街道

猿沢の池から (4月27日)

猿沢の池のほとり 奈良町・伊勢本街道入口 奈良町情報館

 暗越奈良街道が終わり、伊勢本街道、おかげ街道に入るこことなった。今回の奈良桜井間は、今までの様な
峠越えはない。猿沢の池の南に端に奈良町の入り口があり、両側に常夜灯が並んで立っている。この道を真直
ぐ南へ下る道が桜井まで続いている。これほど楽な道はないと考えがちだ。そこに落とし穴があり、後半えらい
目にあうことになったのである。

元興寺
 最初に元興寺を見る予定だったが、通り過ぎたようだ。戻る気もなく
歩くことにした。元興寺は南都七大寺の一つで広大な寺地を有してい
たが、その多くが民家や田畑の化したというから、どこまで広がってい
たのか想像も出来ない。

京終(きょうばて)
 奈良盆地全体をみると、南北に延びる道が何本かあり、名前が付いて
いる。一番東に古道の山の辺の道次の西寄りが伊勢本街道であった。
 直進する道を進むと、京終の常夜灯が二基並んで立っている。過って
は道路に対面して立っていたに違いないと推測する。

京終とは平城京の南の果て、奈良町の南の端である。最初はなかなか
読めないが、くたばってしまうことを「ばてる」と言うが、ここから来ている
のだろうか、などと考えたりした。京と言えば京都のことであるが、平城
京とすぐ思う浮かばない。歴史認識が甘いということだろう。

 京終を過ぎると民家は途切れて、田畑が続くようになった。

 帯解(おびとけ)
 岩井川と地蔵院川を越えると、最初に帯解寺駐車場の看板が見え
近ずくと、すぐ先に山門が現れた。重文の帯解寺立札が上がってる。
この境内に入り一休みすることにした。
平日の午前中とあり参拝する人影もなく、老人が一人ベンチでスケッチ
していた。声をかけるのもはばかられて、離れたベンチに腰掛け、ポット
の熱い茶をすすった。

 ベンチの横手に地蔵菩薩が立ち、手向けられた花の向こうに小さな
地蔵が立ち並び、水子地蔵を祀ったものであった。

 寺伝によると、文徳天皇の皇后の出産が遅れていた時、春日明神
に祈ったところ、当寺の地蔵菩薩に祈願するようにお告げがあった。
早速当寺に祈願し無事出産したことにより、後に帯解寺と称するよう
になった。

 帯解寺を出て10m歩だ先の反対側に、「帯解子安地蔵尊 龍象寺」
が出てきて、帯解寺のあやかり寺という感じだった。そんなこと言うと
叱られるに違いないと思うが。
奈良町の商家・呉服店
京終の常夜燈
帯解寺山門

曇り空に雲雀の声がする田園 菩提仙川を渡る 楢大明神


 田園風景
 
 出発前の天気予報では晴れの予報で、雨の心配は全然していなか
った。空は曇天でなかなかすっきりと晴れてこない。広がる田園風景の
東の空は、山並みが続き、「ピーチク、パーチク」雲雀の声。くもり空に
目を凝らすと数匹の雲雀がひらひらと舞っていた。山の上の黒い雲が
雨を持ってこないかと気にかかるようになってきた。

 櫟本(いちもと)
 軒先の表札に住所が書かれて天理市に入ってきたと確認した。
この地を櫟本というが、この櫟本という字もなかなか読めない。
PCのワードにも出てこない。地名であるが、櫟は「くぬぎ」と読
めるらしい。

 菩提仙川を越えて、楢神社の大きな鉄版を巻いた鳥居があり
中に入る。人の気配はない。確か前回歩いた時はここで境内で
昼食弁当にした記憶がよみがえってきた。今回は天理から桜井
まで歩く予定、通過するしかなかった。

 角に古い道標を見つけた。「右 なら 左たつた みち」と読みと
れる。櫟本は上街道と竜田道との交差点にあたり、交通の要衝と
して発達した集落だった。この道標も元の場所から移されたもの
で、今では方向が合わなくなっている。

 そろそろ昼の時間が近付いてきた。天理駅前商店街のアーケイド
に着くはずだと前方を注意して歩いていると、高架状のものが見え
始めた。この辺りは背の高い集合住宅風の建物が目につくが、天
理教の宿舎であるらしい。
法被姿の人たちを見かけるようになってきた。

 先ほど見たア・ケードと思ったのは高架道路でしばらくして、天理
商店街に突き当たる。

 
楢大明神本殿
右なら・左たつた みち道標
従是東五町・道標

以下第6回へ続く

  

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第6回 天理~桜井

第6回 天理~桜井 伊勢参宮本街道

 ランチタイム
   天理駅前商店街は東西に延びているが、山の辺の道を歩いたとき通ったが、だいぶ長い距離だった。
  1㎞はあるはずだ。途中、天理教大本山などがある。西に向かえば、すぐJRと近鉄の天理駅である。
  駅の方に向って歩き、適当なお食事どころはないか探しながら歩いたが食堂らしきものはなく、喫茶店と
  お好み焼き屋が目に入った。もっと東に行けばあるかも知れないが、時間の無駄。ショウウインドウに
  飾られたメニューを見て一軒の喫茶店に入る。カウンターが奥に延び、左手にテーブル席があった。
  
   カウンターとテーブル席には何人かの客はいたが、テーブル席が開いていたので、そこに座りショー
  ウインドウにあった「とんかつ定食」を注文すると、「時間がかかりますが、よろしいでしょうか」と言われ
  別にこだわる注文でないので、「他に何が出来るの」と聞くと「日替わり定食があります。小エビのピラフ
  で、コーヒーが付いています」と言うからそれにした。
  量も味も程よく、食後の後にしては、たっぷりとしたコーヒーが飲めてありがたかった。ゆっくり休憩をして
  英気を養い出発した。1時を回っていた。

丹波市の石橋と造り酒屋 鍵の辻 丹波市」跡

丹波市
 商店街を戻って街道に出る。年配の男性と二人の女性が同じ方向に歩い
ていた。同じく街道歩きをしているのかも知れない。彼らが途中店先など見
ているうち、私は先に進んだ。街道は白壁の土蔵や常夜灯が出てきて、街
道の雰囲気が続いた。河原城村を通過しているが、何も確認するものがなく
通り過ぎたようだ。

 白壁の塀の横に石橋を越すと、古い造り酒屋が見越しの松が覗いていた。
直角に曲がった鍵の辻を過ぎると急に道幅が広くなり、道の中に屋根つきの
建物が現れた。あらかじめ本の写真で見ていたので、丹波市跡であることが
わかった。丹波市の名は夷社を丹波国より勧請したという伝承によるとあった。
 古い時代にはここで市が開かれ賑わっていたのだろう。当時の時代の賑わ
いを再現した時代祭が今も行われているのか、祭りの風景の写真がパネル
張りされていた。

 市座神社
 市座神社はおかげ参りをする人たちの接待所であったようだ。方々から群
衆が接待を受けたことだろう。信仰と一生一度の旅の娯楽も兼ねていたに違
いない。これについての古文書もあるが、抜粋は省略する。

 集落を離れると、田園風景となり空にびばりの鳴き声が聞こえてくるが、すぐ
には姿が見えない。鳴く方向に目を凝らすと、上下に舞っているのが確認出
来た。ひばりを見ることは、久しくなかったのでしばらく見てしまった。
 東には、龍王山が三輪山へと続き、古代からの信仰の山である。

 芭蕉句碑
 街道が右の曲がるところに芭蕉の句碑が立ち、小公園風に整備されて、藤
棚に藤の花が咲き誇っていた。
 「草臥れて宿かる比や藤の花」
 歩き草臥れて、そろそろ宿を借りなければと思っていたところある家
の門辺に、夕暮れの色にまぎれず紫色の藤の花が咲いている。それが
旅にあるものの侘びしい心に染入るばかりだった」と暮春の旅情が詠ま
れている。

 これはここに立っている説明文からの抜粋である。芭蕉の句碑は全国と言
っていいほど、私たちの目に触れるようだ。

 大和神社(おおやまとじんじゃ)
 雲行きが怪しくなってきた。天気予報では晴れ、降水確率は30%以下で
雨具の用意を忘れてきた。迂闊だったが今更仕方がない。小雨が顔にあたり
だしたが、少し速足になっていた。大和神社まで来た。ここの参道は奥に長く
続き、前回ここで昼食を取ったことを思い出していた。

 「戦中は世界最大を誇った「戦艦大和」の守護神として祀られました」と神社
の由緒に上がっている。命名したのもこの「おおやまと」から名づけられたのだ
ろうか。

 五智堂
 幸い雨は強くなることもなく歩くことができた。柳本の集落に入ると、山辺の
道にある長岳寺への道の辻に五智堂と呼ばれる珍しいお堂が建っている。
このお堂は直径63㎝もある太い心柱一本で宝形造の屋根を支えている。傘
を開いたような形から笠堂とも呼ばれ、また四方のいずれもが正面であること
から真面堂とも呼ばれている。
市座神社
雲雀がピーチク・パーチク
芭蕉翁塚・句碑
芭蕉句碑と藤棚

大和神社の参道に続く大鳥居 五智堂のそばの道標と常夜燈 心柱一本で建つ五智堂

お堂の周りをぐるりと回り、上部の四方にある彫刻が珍しかった。説明文によると、東に阿閦(あしゅく)如来、
南に宝生如来、、西に阿弥陀如来、北に不空成就如来、とあり梵字であった。

巻向に入る集落 伊射奈岐神社の碑 寛政元年・常夜燈  街道の地蔵尊


箸墓古墳
 柳本から巻向まで来ると、JR巻向駅が右手に近づき、国道168号
線の高架の下をくぐることになった。くぐるとすぐ国道に沿って歩道橋
があり、少し迷ったが歩道橋は渡らず左手へと進んだ。

 あとでネットの地図で詳しく調べると、ここが方向を間違った起点
だった。南の方向が東へと向かっていた。箸墓古墳がもうあるころ
だとおもうが、なかなか行き当たらず、右手を見ると古墳らしき森が
見える。その森目指して道を探しようやく古墳のそばの道路に出た。
 迷い道は倍も草臥れるものだ。古墳は天皇家の墓ということで大
体宮内庁が管理している。周りはきれいに刈り込まれて整備されて
いた。ここに座り込み、疲れた足を休める。

箸墓の名前の由来が 『日本書紀・漢第五』崇神天皇十年九月の
記事にある。内容はそのまま写すのも面倒で、長ったらしくて読み
ずらい。以下省略。

 ここからが又迷い道の始まりとなった。どこをどうこの箸墓古墳
にたどりついたかよく解ってなかった。地図で見たが方向が間違っ
ていた。大三輪中学校の横を通るはずが、これもなかなか現れず。
南に進んでるはずが、西向きの道を歩いていたのである。

 初瀬川を渡り、二人の老婆がしゃがんで話しているのを見て、
「桜井駅はどう行けば良いですか」と尋ねると、えー!?と驚いた
様子、とんでもない処に来たと思った。「歩いて行くの、遠いですよ」
と言う。奈良から歩いてきたと言うと腰を抜かすかも知れない。
それでは悪いのでそれは言わず、方角を聞き丁重に礼を言って
別れた。
 
迷い道から見た箸墓古墳
箸墓古墳付近の常夜燈と石仏

実際、右足の親指の裏が痛くなり始めていた。お婆さん達が言ったよう
に確かに遠く感じられる。大神神社の大鳥居が見えたころは、ほっとし
た。
大きい建造物は近くに感じさせるものである。それも見る場所によって、
見えなくなるところがあり、また間違えたかと不安になったりする。

 芝運動公園まで来た。ここは桜井ウォーキング大会の会場になると
ころだ。大会の時は桜井駅からシャトルバスが出て送り迎えしてくれる。
後2㎞はあるだろう。

 これほど方向音痴だとは、今日の今日ほど思い知らされたことはな
い。絶対これからは、地図とシルバーコンパス(方位磁石)を持って歩
こうと思う。

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第7回三輪~初瀬

第7回 三輪~初瀬 伊勢参宮本街道

 今日の街道歩きは、前回歩いた7回(三輪~初瀬)と8回(初瀬~榛原)を予定していた。
従って、前回より寄り道を少なくして、また前回行けなかった処を探して行きたいと思う。

水の流れが見えない初瀬川 出口橋北詰の天保年間の燈籠 金屋の集落は左手に入る

 

6月に入り梅雨入り前にと決めたが、どんよりとした天気が続いた。
雨さえ降らなければ、こういう天気の方がいいかも知れない。近鉄桜井
駅を出発したのは9時10分、初瀬街道の出発地点は初瀬川に架かる
出口橋となる。10数分かけて出口橋に出て来た。川を渡るとき欄干か
ら覗くと水は見えず、高い草ぼうぼうと覆っていた。橋の北詰には常夜
灯が鎮座して、天保10年(1839)が刻まれている。

 前回はここから恵比須神社、大神(おおみわ)神社、平等寺など寄り
道したが、今回はこれらをパスしてその代り探しても分からずに通り過
ぎた金屋の石仏をぜひ見つけたいと思った。出口橋を北に200mほど
行って右に曲がるとJR桜井線の踏切を越えていくと、金屋の集落に入
ると地図で確認していた。
 
この200mが見誤りで、大分行き過ぎだった。地図を見ながら歩いて
いると、自転車に乗った来た小父さんが 「どこに行くの。山辺の道?」
とわざわざ自転車から降りて聞いてきた。「ああ、初瀬。次の辻左に曲
がって国道沿いに行けば良い、遠いから気をつけて」と言ってくれた。 
大分大周りをしてしまったようである。

 大きな天理教の建物を横に見て行くと、金屋のバス停の看板が見え、
左右に道は分かれていた。
 左に入る道が旧初瀬街道で狭くなって、集落の家並みが続いていた。
ここを左手に入ると「金屋の石仏」があるはず。
 注意して歩くと案内の小さな表柱があったが、ごみ出しの袋
で埋まりかけていた。

金屋の石仏

 この細い山の辺の道を登ってい行くと、石畳となり大きな祠がコンク
リート造りで建っていた。祠の階段を上がり、格子戸ごしに見ることが
出来た。薄肉彫りされた二体の像が見られた。

 立て看板の説明によると次のように書かれている。

 この中ににおさめられた二体の石仏は右が釈迦、弥勒と推定
されています。高さ2.2m幅約88㎝の二枚の粘板岩に浮彫りさ
れたこの仏像は、古くは貞観時代、新しくても鎌倉時代のものと
され、重要文化財に指定を受けています。

 街道に戻り「つばいち観音」に入る道を探しながら歩く。石の古
い道標を見つけたが、字が摩耗してほとんど読みとれない。
「海拓榴市観音道」と刻まれているのであるが。


金屋の集落に入る
山辺の道を登るとお堂が見えた
金屋の石仏が二体並んでいた


海拓榴市(つばいち)
 つばいちとは最初は読めないのではないだろうか。「海拓榴市
の名は『日本書紀』の記述から、付近に椿(当時は山茶花をさして
いた)の木が多かったからと想像できると本にはあった。またここの
説明板の文も紹介するとこのようにある。

 ここ金屋のあたりは、古代の市場海拓榴市のあったところです。
そのころは、三輪・石上を経て奈良への山辺の道初瀬街道・飛
鳥地方への磐余(いわれ)の道・大阪河内和泉から竹の内街道
などの道がここに集まり、また大阪難波から船の便もあり大いに
にぎわいました。春や秋の頃には若い男女が集まって、互いに
歌を詠み交わし遊んだ歌垣は有名です。後には伊勢・長谷寺詣
が盛んになるにつれて宿場町として栄えました。

 案内板に従って街道の左手に入って行くと、奥まった所に観音堂が
建っていた。紫陽花の花が咲きお堂を慰めていた。お堂の前には小
さな座布団が敷かれた休憩所が作られていた。
 ここの説明板にもこのようにある。

 
海拓榴市は古代から栄えた交易場です。大陸の使節も大和川
の舟運を利用して、この地まで遡りました。この市は歌垣で有名
です


 紫草は炭さすものぞ海拓榴市の
 八十のちまたにあへる子や誰

 たらちねの母か呼ぶ名を申さめど
 道行く人を誰と知りてか

 王朝以来、ここはまた長谷寺詣で宿場町として栄え、「枕草子」
「源氏物語」「かげろう日記」などにも登場します


海拓榴市の野路に飛び交ふ虫や何   佐藤春夫

 
海拓榴市観音道と彫られてる
海拓榴市観音堂のアジサイ
河川敷の埴輪風木馬 河川敷の野菊の中を行 歩道のない県道

   初瀬街道は広い県道と交わるが、ここには車道と歩道の区別がない。この辺りは桜井ウォーキング
  フェスティバルに参加した時に来た覚えがある。しばらく県道と初瀬川が並行して走るので、河川敷の
  土手を歩くことにした。土手の下の河川敷に子供が遊べる木馬風の馬が並んでいたので、下を歩く。
  埴輪風に作られているのだろうか。しばらく白い野菊の咲く踏みわけ道を歩き県道に上がった。

 前回この辺りで早く左手に入り街道を外れてしまった。県道と国道165号
線と交わるところが慈恩寺北の交差点だ。この辺りが慈恩寺追分や佐野の
渡りとして本で紹介されていたが、それを示すもの何も見つけられず通過す
ることになった。街道の右手は近鉄大阪線が走り、近くに「大和朝倉駅」が
高台の上にある。


 今、持って歩いている地図はネットからプリントした地図である。その地図に
個人商店名や会社名があり、こんなちっぽけなものがなぜ載るのかと感心しな
がら歩いていた。田圃は水田となり田植えが見受けられる。
昔の菅傘に絣のもんぺ姿で田植えすなんてもう見ることは出来ない。小父さん
小型の田植え機に乗って田植えをしている。最近は苗床も田植え機に合うよう
に植えられているようだ。


出雲の流れ地蔵
 街道に見受けられる常夜灯は江戸時代からのものである。伊勢街道・白山
神社の鳥居の横を通るも、中には入らず通過する。街道はまた国道へと出て
しばらく歩くことになった。歩道が作られていない処もあるのでスペースの多い
所を選んで歩く。道脇に石碑か現れ、「流地蔵」と読めた。奥に地蔵堂とその前
に灯篭が建っていた。ここにも説明文があり、次に記す。


 本尊は室町時代の地蔵石仏(高さ1.4m幅63㎝仏身1.15m花崗岩)
上半身だけを地上に出し腰から下は地下に埋まっている風変りな地蔵さん
として有名である。
文化八年(1811)の大洪水で初瀬川上(長谷寺の桜の馬場)から現在地
まで流されてきたのを当時の出雲村の人たちが助けまつった、と言い継が
れている。
本がわらぶき宝形造りの立派な堂前に建つ石灯篭に天保11年(1840)
の年号が刻まれている
今では田植え機が活躍
流れ地蔵の石碑
流れ地蔵堂

     流れ地蔵を離れてすぐ、手に持っている地図を入れたポリケースが軽くなったのに気づき、中を見ると
    地形図の小冊子がないので何処かで落としたかと、どきりとする。これから先も必要なものである。少し
    戻ってみると、幸いなことにすぐ近くに落としていた。すぐ気付いてよかった。

  街道は国道を左にそれて集落へと入った。地図を見ると○○商店と
 あるのでどこかいなと、そればかり気にして歩いていた。自販機の置
 かれた家があり、商店名と同じ表札だったので、こんなとこが出てい
 るのかと感心して歩いていた。街道はまた国道へと出たが、出口に
 次に行く予定の十二柱神社の道しるべが今来た方になっていた。
 
  通り過ぎてしまったかと地図を広げていると、道の草を刈り機で刈っ
 ていた小父さんが「どこへ行くの」と聞いてくれた。道標を指して「ここ
 に行きたいけど」というと今来た道を指して、消防の倉庫の横が十二
 柱神社の入り口になっていると教えてくれた。地図にはちゃんと載っ
 ているのに、商店の表示に気を取られて通り過ぎていた。

 十二柱神社
  後戻りして、商店を過ぎたところに十二柱神社の石柱が建っている
 のに通過してしまっていた。参道を通って石段の上の鳥居の両側に
 狛犬が台座の上に座っている。その台座を支えているのが四人の力
 士であった。どの力士の表情もみな違う個性を持っている。何の予備
 知識のないウォーキング大会で歩いてきたときは気付かずにいた。

  「野見宿禰(のみのすくね)」さんと親しくよば得ている人が、「出雲
 ムラ」の伝誦(でんしょう)として書かれていた。
 「野見宿禰」さんは古墳時代に殉死の悪習をやめて埴輪に改革
 したアイデアマンで知徳の神様でもあった。出雲ムラの土人形に
 ついても、ルーツはこの埴輪に遡るとの言われる出雲人形は古
 くからお伊勢参りや長谷詣で賑わう伊勢街道筋のみやげ物とし
 て親しまれて来ました。

 本格的に休憩をとるのはここに来て初めてである。境内の片隅に
 腰掛け、 歩数計を見る。11261歩 8.45㎞と出ていた。初瀬の
 かかりまで来ていた。

 先ほどの国道までまた来ると、国道の信号を跨ぎ街道は進み、もう
 一度国道へ出てくる。左手の高台に初瀬小学校が見えた。暫く行く
 と観光バスの駐車場となってずらりと並んでいた。ここから、西国三
 十三ヶ寺の巡拝者がお参りに行くのだ。「長谷寺へようこそ」の赤い
 ゲートをくぐるり、初瀬へと入って行った。

 初瀬に入ったのは昼前の11時半ごろだった。
 7回の三輪~初瀬はここまでとして、8回へと続く

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十二柱神社の石柱
十二柱神社本殿
十二柱神社狛犬の台座を支える力士たち






第8回初瀬~榛原

第8回 初瀬~榛原 伊勢参宮本街道
 長谷寺に続く街道街道  花水館・旅館  右 いせみち 道標・草もち看板に隠れる 
 
「長谷寺へようこそ」の門をくぐると街道は古い家並みへと変わった。
長谷寺詣での参道で、バスで乗り付けたお遍路さんが白い法被姿の
団体によく出くわすようになった。私も四国八十八ヶ寺をバスで遍路し
たことがあったので、その光景を懐かしんでいた。女性の先達が付い
て案内しているのも同じ光景だ。

 緩やかな坂道が続き、近鉄長谷寺駅は右手の急坂を上った所にあ
る。駅から降りてきた道と街道が交わる角に、「花水館」という旅館が
あり、昔からの旅籠から続いていたと思われる。街並みを歩くだけで
飽きない。自然石に「右いせみち」の道標が建っているが「元祖草もち」
の看板が目立ち過ぎ、つい見落としてしまいそうだ



 法起院(番外札所)
 左に大きく曲がると長谷寺となるが、曲り角の手前右手に法起院が
ある。番外札所とあってお遍路さんの団体が大勢出てきた。山門をく
ぐって入ると、納経帳に墨書きして朱印を忙しく押している光景があ
った。「仏足石」なるものがあり、御釈迦さんが亡くなって、仏足を拝
むという信仰から始まったという。

長谷寺
 左へ曲がって長谷寺につく参道は、おみやげ売りの店が軒を連ねて
賑やかである。長谷寺は牡丹の花の名所である。西国第八番札所で
古文書にも「北へ登る廊の左右には牡丹、さつきを植えつらねたれば、
花の頃の美なること言語に絶す。」とある。
 見ごろであればと、重い一眼レフカメラを持参したが、5月の中ごろに
もう終っているらしかった。

 大きな仁王門の前まで来ると、拝観料を収めて入ることになるが、なん
と千円となっているのに驚いた。確か前回は五百円たったのに。牡丹も
だめとあらば入る気になれなかった。不信心者のなせる業である。
初瀬・街道筋
西国三十三所番外・法起院
長谷寺の仁王門

素盞雄(すさのお)神社
 参道の前の車道を少し北へ登ると、右手に初瀬川が流れ赤い欄干の橋が
架かっていた。地形図を見ると素盞雄(すさのお)神社があった。名前からし
て相当古い、神代の時代からの神社ではないかと思われる。
 境内はさほど広くはなくひっそりと人影もない。ただ大きな銀杏の木がしめ
縄で祀られ、天然記念物となっていた。両手を広げて周囲を測ってみると、
5周りぐらいはした。横にある説明文も7. 15mとある。
 お昼の弁当はここで取ることにした。

上化粧坂(かみけわいざか)
 弁当を終えて、地形図にシルバーコンパスを合わせて、上化粧坂(けわい
ざか)の方向を出すと、今登って来た急な石段をさらに登ることになる。その
先に道があるとは思えなかったが行くしかない。
 石段を登り切ると左右に道らしきものがあるが、めったに人が通らないの
か草ぼうぼうである。コンパスを信じて歩くと、また石段へと突き当たる。こ
の石段を登ると天満宮に至る。これは前回登って天満宮まで行ったところ
だ。石段を下ると左右に道が走り、左手が東になる。誰かに確認して進み
たかった。

 石段の下の道を箒で掃除しているお姉さん(私より若そうなのでそう呼ぶ
ことにする)に訊いてみる。「こちらに行けば、榛原に行く道に出ますか」 
「行けますよ。『NPO法人泊瀬門前町再興フォラム』の案内板を最近作った
のがあるから、分かると思います」、そういえば今来た道にNPO法人という
立札を見かけた。
私の持っている地形図で丁寧に教えてくれた。「どこから来たのですか」と
聞かれ、桜井から歩きてきたと言って、大阪からとまでは言わなかった。
「榛原まで遠いですよ。桜井からよりは近いですけど」と言うので「6キロ
ほどですから、2時間足らずで行けると思います」というと「元気ですね」と
返ってきた。

 確かにNPO法人の立札があり、「上化粧坂」と書かれた札が立っていた。
急な山道だったが、下化粧坂と合流して、庚申辻となっているのが、分か
らず進んでいった。浄水場のあるところで国道に合流するはずだったが、
上手の分かれ道に出てしまい遠回りして国道に出た。

 峠道の国道365号線
 国道は西峠まで上り坂が続くことになる。旧街道はところどころ右手に入
り、また国道に出ると言うことを繰り返していた。吉隠は、(よなばり)と読む。
よき隠れ場所から吉隠が出来て、吉隠村となった。
 この街道に入ったとき、菅傘の旅人と出会う。 「こんにちは」と言ってすれ
違ったが、何ともよき出会いに感じられて、後姿を一枚拝借してしまった。

素盞雄(すさのお)神社大銀杏
菅傘の街道歩きの人
天保年間の 石ぶみ

吉隠(よなばり)コミュニティ・バス停 峠越えの街道花 奈良交通・角柄バス停


 前回歩いた時は冬の天気の良い日で、田圃の中に入って弁当を食べた事を思い出していた。国道沿いに
確か「札幌ラーメン」の看板があったような気がする。国道を走るドライバー向けと思われる。
 地蔵尊の祠や、自然石の道標「右いせ 文化四年」の文字が読める」

犬の襲撃

 バス停の看板がこの地名を確認できる唯一の印となった。「角柄」バス停の看板で地名を確認して旧街道
はまた右手に逸れていく。国道はどんどん上へと離れていく。人気のない道を進むと、突然、前方より二匹の
犬がけたたましく吠えながら、私に向って突進してくるではないか。犬にほえられた経験はいくらでもあるが。
野放しの犬に出会うのは初めてである。

 街道歩きでは初めてだが、山歩きをしていた時、前方彼方に犬が寝そべっているのが見えた。あまり犬に
かかわりたくないと思い、後ろを向いた瞬間、脱兎の如く私に向かってきた。このまま後ろを向いて逃げるよう
なことをすれば、ますます危害を加えられくかもしれないと思い、犬に向って対面し、持っていたストックを構え
て対峙した。 すると犬たちは1m以内には近づくことはなかった。

 
それで私は臆することなく犬に向かって歩いた。やはり1mぐらいで犬は止まった。犬の鳴き声で出てきた
飼い主の女性が犬の名を呼んで止めようとした。「すみません、噛むようなことはしませんから。テリトリーか
ら離れると追いかけることありませんから」という。
 もうここを通ることもないだるうから、あえて咎めだてはせず笑って通り過ぎたが、後で考えると、天下の公
道だ。犬は放し飼いでなく、きっちり繋いでおくように注意すべきだったと反省していた。

萩原宿

 旧街道を歩いたのは良いが、手荒な犬のお迎えがあっただけで、国道へと
急坂を上って帰ってきただけである。前回歩いた時、私は旧街道を歩かず国
道をそのまま進んでいたのだが、後ろから来た街道歩きの人が旧街道から上
がって来て、しばらく一緒に歩いたところだった。
 その人の歩くペースが私より速いようだったので先に行ってもらった。ところ
が西峠の信号待ちでまた一緒になり結局、榛原の追分まで一緒した。私は史
跡や道標を訪ね歩き、写真に収めたりの旅であるが、少し趣旨が違うので歩
き辛いところがあった。

 旅籠「あぶらや」が西峠から少し下った所にあり、軒先に「あぶらや」の看板
で確認出来た。格子戸に「本居宣長公宿泊」の木札が掛かっていた。
 国学者本居宣長は明和9年(1772)伊勢国松坂から大和国へ旅に出た。
時に宣長43歳であった。

 旧旅籠油屋の前は丁字路たなっており、ここに大きな道標が建っている。
後ろの洋館風建物は、旧南都銀行である。
  道標には、右 「いせ本かい道」(西面)   左 「あをこ江みち」(北面) 
文政十一戌子年三月 (東面)
 今の表記の仕方と違い、なんだか読みずらい。

 前回同行した街道歩きの人は、ここで 左 あをこ江みち の方へ、私は 
右 いせ本かい道 へと別れたところだった。「あをこ江みち」とはこの辻で
本街道と分かれ、名張・青山峠を越えて松坂から伊勢に続く道であった。

 伊勢本街道の表示板と大きな常夜灯を過ぎ、近鉄線ガードをくぐって右手
に行くと榛原駅である。

 午後2時20分、思ったより早い到着だった。 歩数計は26023歩、
19.51㎞となっていたが、キロ数は峠道が長かった分、そんなに距離
はないかも知れない。

 2時19分の上本町行きの急行に乗ったが、電車は榛原駅~桜井駅間
を10分間で走った。
右・旅籠あぶらや 左・旧南都銀行
道標・伊勢街道は二手に分かれる
大神宮常夜灯

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9回 榛原~高井宿

第9回 榛原~高井宿
 
平成21年6月29日
伊勢参宮本街道

      梅雨の季節に入って、ようやく梅雨らしき天気に変わりだした時の出発日となった。
     と云うのは梅雨明けを待つと、夏本番のカンカン照りが待っているからだ。今の内との気から
     今日の出発となった。

      初回に歩いた9回と10回を今日は一度で歩き、このおかげ街道の完成を目指すことにした。
     9回の榛原から高井宿下での区間は、わずか5㎞足らずの短い区間である。なぜこんな区切り
     にしないといけなかったかというと、交通機関の精である。榛原から伊勢本街道に入ると交通
     手段は、奈良交通の路線バスを利用するしかない。しかも高井宿を出ると、国道369号線に交
     わる山粕宿にある「高石」バス停となったわけである。

宇陀川を渡って墨坂神社が続く 墨坂神社拝殿 国道369号を行く

      今回は二度目ということで、ある程度の要領は分かったが初回はいろいろ苦難の連続だった。
     苦労話は街道を進む過程で、話を入れていきたいと思う。
      近鉄榛原駅を朝、8時30分の出発、予定では山粕宿バス停「高石」16:33の帰りのバスを
     考えていた。これを外すと次は18:14の最終便となる。二時間にい本ぐらいの間隔であるが、
     これでもまだいい方である。

黒坂神社
 前回の街道の終点は旧旅籠「あぶら屋」の辻だった。そこから近鉄ガードから出
てきた処から始まる。保存の対象となっている民家を通り、宇陀川に突き当たると
右手に朱塗りの橋が見る。
これは、墨坂神社に続く橋となっていて、前方に鳥居が見える。石段を登って境内
に上がると正面に丹塗りの鮮やかな春日造りの本殿があり、左右に狛犬が鎮座し
ていた。

 社伝が掲げられていたが、それには、日本書紀によれば、宗神天皇御代春三月
(380)中国に疫病が蔓延したため天皇がいたく悩まれた時、或夜御夢に神人が現
れて「赤盾八枚、赤予八竿をもって赤墨の神を祀れ・・・」とのお告げにより御祭勅祭
されたとある。
 ことほど左様に、4世紀のこととあらば神代に時代、そういう逸話は作られてもよか
ろう。

弘法大師の岩清水
 これから暫く国道(369)沿いに歩くことになる。宇陀川から分岐した内牧川も国道
沿いを流れている。歩道が完全にある訳でなく、右手にあったり左手になったりで、
その都度道路を横断しないといけない。弘法大師の岩清水と書かれた朱塗りの小さ
な建物が現れてきた。前回歩いた時はここに多数の車が止まって、水を汲んでる光
景を見たが、今は誰もいない。

河原の案山子
 牧内川の河原に案山子が竿を出して立っていた。河原に案山子とは初めてのこと、
一体だけかと思いきや、上流にも同じものがあり、竿に先に銀色と赤の紐がひらひら
舞っている。はてさて何を追い払っているのだろうか。想像できない。軒先によくCD
ディスクをぶら下げたのを見たが、鳩など巣作りをさせないためをというが、この案山
子は何のためかな。

 御井神社
 地名はバス停の看板で確認することになる。「檜牧(ひのまき)」と{檜牧市場」を過ぎ
ると、奈良県最古の道標があるはずだったが、おしくも見落としてしまったらしい。
 その先に「御井神社」の大きな鳥居が立ち、長い参道が続いていた。祭神は御井神・
天照皇大神・天児屋根命・水分神で式内社である。


弘法大師・岩清水
牧内川の河原の案山子
街道筋にある御井神社

 民家の下に道標
 御井神社を出てすぐ、「新西国十二番 はしょうじ道」と記された文政六年の道標があった。
ここには寄らず、民家の軒にかかった看板の字が崩した字で分からない。看板の裏に「刻
煙草」とあったので「きざみたばこ」とでも書かれているのだろう。たばこ屋さんだったの、こ
こは。大きな木の根っこが、でんと門番の如く置かれていた。ポストと郵便の看板があるが
商っている様子はない。

弘法大師爪書き地蔵尊
 街道は国道沿を右手に離れて、しばらく山沿いの道に入るが、手前に弘法大師爪書き地
蔵尊の苔むした灯篭が並んでいた。鎌倉時代以前のものと推定され、街道を行く人たちや、
地元の人達の信仰の対象になっていると書かれていた



 「右いせ街道」の新しい道標に従って右手に道は上がって行く。国道と違って草深い山道
となる。笹藪の中を踏み分けてて進むと、露が足に絡まって来る。杉の林道を過ぎるとまた
国道に出た。

自明寺バス停・集落(民家)
きざみたばこの古びた看板
大師爪書き不動尊を過ぎ街道は山道へ 笹藪を踏み分けて進む 高井宿入口のおかげ街道・道標

高井宿
 国道に出てすぐ、左手と街道は入り高井宿へと入って行くが、入口に「おかげ街道」
、「伊勢本街道」、仏隆寺ー>の道案内が立ち、高井宿に入ったと確認する。宿場の
面影が残る家並みだった。
 高井のバス停の横に道標が三つ並んで立っている。左から古いもの順の石の道標
と、板で作られた道案内、仏隆寺1.9㎞、伊勢本街道(高井千本杉・石割峠)となって
いる。
 ここから先はバス路線から暫く離れてしまう。途中、血原橋というバス停があった
が、そこを中継点とすれば良いのだが、今は、このバス停が廃止され、室生寺の先
で終点となっていた。

 仏隆寺
 前回は、ここ高井宿までを歩き、その次に道筋を確認できるぐらい歩きたかった
のである。ここで少し前回の話に入るが、ここまで来たとき、丁度、高井のバス停
にバスが着き、大勢のハイカーが降りてきた。もしかして同じ街道歩きをする人
たちに違いないと勝手に思って、その人たちの群れの中を歩いてしまった。

 上り坂がどんどん続くばかり。どうも街道を歩いているとは思えなかった。前を歩
いていた老夫婦に声をかけてみた。
「こんにちは、どこまで行かれるんですか」と訊くと、仏隆寺までと返事が返ってき
て、歩きながら話していると 仏隆寺から室生寺までハイクするらしい。割と近所
に住む人らしかった。

 もう、私も仏隆寺に行くしかなかった。「何とかに引かれて仏隆寺参り」といった
ところとなった。
 時は春、街中では桜の花も散り始めたころだった。案内板に1.9㎞とあったが、
上り坂が続く道、だいぶ遠くに感じられた。老夫婦とは歩調が違うので、お先に失
礼した。ところどころに菜の花が田の一面を彩るようになってくると、アマカメたちが
三脚を立てカメラの砲列を作っていた。先には菜の花と桜の景色があった。
 こんなところに撮影ポイントがあるとは思いの寄らなかった。今日はコンパクトカ
メラしか持ち合わせがないが方々回って、シャッターを切った。 予定外の面白き
道の発見だった。

 今日のここまでの歩数-- 6826歩 5.11㎞ --




 第9回の旅はここまでとして、以下は第10回へと 「つづく」・・・

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高井宿・街道風景
新旧三つの道標が立つ
伊勢本街道と仏隆寺への分かれ道




10回 高井宿~山粕宿

第10回 高井宿~
     山粕宿
伊勢参宮本街道
旧旅籠・松本家住宅 高井の千本杉 諸木野関所跡


 高井の三つの新旧の道標に従って行くと、矢谷川に架かる頭矢橋を渡ると、
「伊勢本街道・高井千本杉、石割峠」と「室生古道 仏隆寺・室生寺」の道標
が左手にあり、分かれ道となっている。前回ここで、仏隆寺に行く一団にまぎ
れ、道標を見落として仏隆寺まで行ってしまったのである。帰り道再度この道
を通り、この分かれ道を確認しておいた。

 分かれ道を右手に取ると急坂がしばらく続いた。アジサイの花が咲き、季節
感十分である。坂道を登りきった所に「旧旅籠・松本家住宅」があり、登録古
民家の札が上がっていた。江戸中期のものとあった。

 高井の千本杉
 山間の中に棚田が広がり、遠方に山波を見ながら進むと、杉並みの先に「高井
の千本杉」があった。
何本かの杉が束ねられた如く立ち、周囲にしめ縄のロープが巻かれていた。横に
は祠が祀られて信仰の対象になっているのだろう。 


諸木野関所
 街道は杉木立に入ると、一瞬暗くなる。その少し明るくなった空間に「諸
木野関所跡」が出てきた。ここを休憩場所と考えて来たので、ハイカーの
ために作られたベンチに腰掛け、まずは水分補給とした。
 伊勢本街道、角柄から石割峠まで12㎞の間に6つもの関所があり、伊
勢参りの旅人の取って、かなりの経済的負担を強いられていたらしい。入
り組んだ多くの荘園の財政を賄うためだった。

諸木野関所跡抜け諸木野集落へ
石割峠へ向かう街道の道標



諸野木から石割峠に向かう街道に咲く花々
 津越辻
 高井宿で一度、大阪の自宅に携帯電話で話したが、
大坂は雨が降り出しているという。
ネットの天気予報を見たときも、こちらは昼から小雨
程度の雨となっていたが、たいした降りにはならない
と思っている。

今のところ、街道を歩いていることに何も不安がなく、
街道の花々を撮りながら歩いた。アジサイのシーズン
で軒先や、道端に多く見かけた。

高井の千本杉を過ぎて、急な坂を上がると、旧旅籠・
大津屋の津越家がある。一段と風格がありカメラに
収める。ここにある辻はこの家から付けたものと思
われる。

 「諸木野弥三郎の墓」が観光案内地図に出ていたが、
途中出会わなかったのか、見落としたのか分からない。
弥三郎は弓の達人であったらしい。
 


 石割峠
 集落の中を歩いても人との出会いはあまりない。時たま家の庭先に繋がれた犬
に吠えられ、招かざる客となっているのか。伊勢本街道は幾つもの峠越えが出て
くる。その峠のイメージが入り混じったらしい。目指す石割峠はもう山道に入っても
いいのにと思いながら歩くと、なかなか現れない。また道を間違えていないかと不
安になったりする。 ところどころに「伊勢本街道」の道標に安心して進む。

 いよいよ山道の石ころ道を登る。登り始めると峠で休憩しようと峠を見ざす。
大概の峠は表示板が上がっている。そこで小休憩したかったが、峠と思われると
ころに表示板はなく、いつしか越えてしまっていた。峠を下ってくると物騒な看板が
足もとにあった。「注意 この付近に クマ 出没 注意必要 」とある。

 迷い道
 峠を越えて間もなく集落の懸かりに入ろうとしたところに道案内表示が出ていた。
「田口<-->諸野木 伊勢街道」とあり、直進か右手に入るかという分かれ道だ。
ここがはじめて通る道だったら、確実に間違えただろう。

 前回の間違えた話に入る。何の疑いもなく直進していた。集落に入ると農作業
に出るトラクターに乗った人や遠くに田畑で働く人が見え、楽しくルンルン気分で
歩いて行く。もう街道の道案内が出てきてもよさそうなものに、なかなか出く合わ
さない。だんだん不安がつのる。峠からの下り道だったので大分歩いただろう。

 右手にお寺の山門が見えたので、一休みしようと山門の前に来ると老婆が出て
きた。丁度良い、道を尋ねてみようと聞いてみた。
「伊勢本街道を歩いてるんですが、この道で良いですか」、老婆は少し怪訝な顔に
なる。するとなんと、今来た道を引き返す方向だという。そんな馬鹿な、道案内板通
り歩いて来たのに。失礼にもお婆さんを疑ってしまった。
 どうしても引き返す気になれず、地図を広げて教えてもらった。やはり以前、道に
迷ったハイカーは、タクシーを呼んで帰った話など聞く。
石割峠道
石割峠を降りて上田口へ分かれ道

 私が進んできた道をそのまま行くと、室生寺へ行く道と分岐しているところに出るから左手に行くと良いと教えてくれた。
室生寺には全然行く気はなかったが、この先伊勢本街道に出る道があるように思え、分からなかったら室生寺へ行きま
すとそのまま進むことにした。そこからは急な下り坂となって、教えてもらった三叉路に突き当たった。でも伊勢本街道の
道路標識はどこにもなかった。室生寺へ向かうか、引き返すかの決断を迫られた。

 引き返すということは、急な坂道を登らなくてはいけなくなる。やっと引き返すことに決めた。お婆さんは山菜取りをしてい
たからまた出くわすかも知れない。引き返して来ると、きっちりお婆さんと出くわし「引き返してきましたね」と言われてしまった。
 今度は、めったに会えないが、出会った人には皆聞きながら歩いた。最後に聞いたのは遠くで野良仕事してる人だった。
戻ってきたのは、この「田口<-->諸木野」の標識のあるところだった。迷ったら、最初の標識まで戻るが、鉄則だった。
4㎞はうろついただろう。

田口から黒岩へ

 
前回の失敗で今回は迷わず上田口へ向かって下りて行く。ところどころに「伊勢
本街道の」道標があり心強い。しばらくは下りの山道だ。前に歩いた距離感と一致
しないが、間違いないだろう。山道を抜け出て集落へと出て来ると前回家の前に
椅子を出して腰掛けているお爺さんに、確認のため聞いたことを思い出した。その
椅子が今でも出ていたが、お爺さんはいなかった。そのまま進むと広い県道へと
出た。ここが元血原橋バス停があったところだ。

血原橋バス停跡


 また前回の話だが、このバス停だっただろうバス停の前の家で道を聞いた。
今は家の戸はしまっていたが、その時は開いていたので声をかけると、奥さんが
出てきて、わざわざ表に出てきて丁寧に教えて貰った。

 時間を見ると12時少し前、帰りのバスの時間を16時33分を予定していたが、
14時12分に間に合うかもしれない。二時間に一本あればいい方だ。頑張って
歩くことにした。

黒岩
 犬に吠えられて、血原橋を後にする。街道は地図を見ると血原橋の北寄りを
通り、專明寺の前を行く近道となっていた。たいした違いがないが、それに気づ
かず前回と同じコースで来た。伊勢街道は左へ黒岩川沿いに県道を離れた。
 前回、昼食弁当をこの先で取ったのを思い出し、探してみたが少し手前の丸
太の転がった上に腰掛け弁当にした。

 小雨が顔にかかるようになってきたが、薄日も指している天気となった。山粕
峠を越えると山粕宿に入る。14時のバスに乗ればだいぶ早く帰れるなと思いな
がら歩いた。伊勢本街道の道標が処どこのにあるが、分かれ道のような処に立
った道標に惑わされてしまった。左に入るのか、真直ぐ進むのか道標の向きは迷
えば、迷うほど分からなくなる。通常はまっすぐ進むしかないと思うのであるが、
迷いながら進むと不安が膨らみ、もう進めなくなり早めに道標まで戻って来た。
左手に入って確認すると街道でないようだ。シルバーコンパスで方角を出し、
それに従って進むことにした。


山粕峠
 するとだんだん、以前歩いた風景が重なり始め安心して進む。10分ほどの
ロスタイム、バスの時間はまだ大丈夫だろう。
黒岩川は上流で別れ細くなって来ると、街道は田圃の中の道へと進む。前回は
蛙の鳴き声の大合唱だったが、今は聞くことはなかった。ほどなく山粕峠に向か
う山道へと道標に従って入って行った。杉林の中に入ると分かれ道に、案内板
があり迷わずに済んだ。峠まで来ると「伊勢本街道」と「山粕峠」の表示板が出
ていて、腰をおろして休憩とした。

田口にある血原橋バス停のあった処
 黒岩・伊勢街道 山粕峠への分かれ道
黒岩から山粕峠へと向かう

山間の田園を街道は続く 丸田橋を渡って山粕峠へ 山粕峠で一休み


 峠を下ると山粕宿だ。2時(午後)のバスに間に合いそうだ。リックの上にカメラを乗せて記念撮影、自分撮りをする。
峠道を下って来ると、国道369号に出る手前に「細田神社」という字が、大きな丸太を縦に半分にした面に書かれていた。
少し上の岩盤の裂け目にしめ縄が掛り、不動尊が祀られていた。

山粕峠から下りたところに細田神社 ようこそ伊勢本街道 山粕宿 榛原行奈良交通のバス

山粕宿ゴール

 国道に出ると、「ようこそ山粕宿へ」の木な看板に迎えられる。今回はバス停の場所も分かり、迷わずゴールする。
最初は些細なことでも時間を取られたものである。

 2時(午後)5分前、歩数計を見る。  28160歩  21.12㎞ だった。 キロ数は山道なので割り引かねばなら
ないだろう。

 雨にも合わず、こんなに早くゴールできるとは予想外だった。
バスは2時15分頃来て乗ったが、乗客は私一人、とうとう終点榛原駅まで乗客はなく、貸し切りみたいなもの。
時間的なものもあるだろうが、こんなことは常態なのかもしれない。

  


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