水前寺公園は東海道をイメージされて作られた庭園だった
夕食は部屋食だと言うことで、これはゆっくり出来るなと喜んでいたが、女房は料理に
不満だった。食事の前に外に出てコンビニで缶ビールを買ってきて部屋の冷蔵庫は使わ
ないと言う節約。おかげで少し飲み過ぎたか、寝てしまえば終わりと言うものだ。

    ホーム

この道はいつか来た道

                 別府・阿蘇・長崎の旅 紀行            ‘03.4.30

 

目を覚ますと外は風雨で荒れ模様だった。

天気は回復に向かうとの予報だったので問題はないとは思った。

それにしても天気は気になったが仕方がない。新大阪発の新幹線7時30分集合になっていた。旅支度は昨夜済ませていたが,朝飯は新幹線車内でするつもりだったので女房、にぎり飯をこしらえた。地下鉄新深江駅まで直子に車で送ってもらった。新大阪駅の集合場所には早めに着いた。旅行会社の阪急交通社トラッピクスの添乗員が待っていた。直子ぐらいの若い女性だった。8時発のヒカリ博多行き、添乗員がホームまで誘導、座席につく。座席は三列席になったが女房と並んで座れた。くじで前後に席を分かれたカップルもいた。小倉まで乗ることになっている。2時間半弱で着く予定。早速朝飯の弁当を食べる。

――― 初日 ―――

女房も私も今回の旅先は学生の修学旅行以来と言うことだった。私にとっては実に50年振りと言うことになる。昭和26年(1951年)と言えば日本もまだ貧しい時代であった。小学6年生別府行きだった。福岡県宇美町神武原小学校 博多駅から鹿児島本線そして日豊本線と蒸気機関車の旅、今風に言えばSL列車、旅館に泊まるのもお米持参だった。朝食まで空腹をがまんしないといけなかったことが忘れられない。女房などはまだ時代も後で高校生の修学旅行だったとのこと。そんな思いを乗せて新幹線、ヒカリは小倉駅についた。

これも昔、博多駅から夜行列車に乗り大阪駅に行ったことを思えば隔世の感である。今の時代を誰が想像出来ただろうか。
 天気は回復に向かっていた。ツワー客は40数名、バスで門司港のレトロの街並みと入って行った。また私の頭は昔へと向かう。高校を卒業して博多の会社に就職していた。

当時北九州は5市あった。八幡市、戸畑市,若松市、小倉市そして門司市の5市だった。そんな北九州の各市を営業エリアとしていた。八幡市には八幡製鉄と言う大工場があり,その工場の煙突からは46時中煙が立ち昇り、空はいつも灰色に曇っていた。洗濯物を外に干すことも出来なかった。会社を退職するに当たり引継ぎのため後輩と一緒に北九州市に出張していた。そのとき門司港から関門海峡トンネルを歩いて渡ったことを今でも覚えている。今来ている観光スポット、レトロの門司港の街並みなど勿論なかった。

当時北九州は5市あった。八幡市、戸畑市,若松市、小倉市そして門司市の5市だった。そんな北九州の各市を営業エリアとしていた。八幡市には八幡製鉄と言う大工場があり,その工場の煙突からは46時中煙が立ち昇り、空はいつも灰色に曇っていた。洗濯物を外に干すことも出来なかった。会社を退職するに当たり引継ぎのため後輩と一緒に北九州市に出張していた。そのとき門司港から関門海峡トンネルを歩いて渡ったことを今でも覚えている。今来ている観光スポット、レトロの門司港の街並みなど勿論なかった。

バスは旧門司三井倶楽部前の駐車場に止まった。この建物の中のレストランでの昼食はオプションだった。メニューはバナナ入りのハヤシライスだったが、私たちはこのオプションには申し込まず、街並みを歩き昼食場所を探した。クラシックなジャズか街並みに流れ雰囲気を盛り上げていた。街角の小さなお土産とレストランをもった店に入った。ふぐ料理が名物だから私はふぐのから揚げ定食を注文し、女房はふぐ雑炊を頼んだ。時間に余裕があったのでゆっくりと窓の外の街並みを見ながら食事をとった。

ビールとソフトクリーム レトロな門司駅   メルヘンチックな建物





 少しみやげ物を買ってそこを出た。カメラ用リックと三脚を担ぎデジカメも持っていた。
幸いにも天気は回復に向かい、少し暑いぐらいだった。港街並みを撮影しながら歩く、地
ビールの売り声に誘われて近づくと店の前にテーブルを置いて若い兄ちゃんが売っている。
プラスチックで中ジョッキーぐらいのを1つ買った。「お客さん、
1番目だよ!」と言う。
今売り始めたのか、売れてなかったのか…と女房と笑いながら歩き、通りに並べられたテー
ブルに座った。アイスクリームをもう一つ買い、二人で飲み、食った。

 面白い撮影スポットいくつか見つけることが出来た。港に停泊した客船の前にたたずむ、
外人女性と中折れ帽かぶった男性が写真撮影用に立てられていた。その女性?の肩に手を
かけ写真を
1枚、いろいろと数枚撮った。JR門司港駅もレトロな建物で観光案内所も
ある。時間もせまりバスに戻った。

    映画のワンシーンに入ったよう





 バスは青の洞門へと向かう。バスの中でガイドがよく聞く青の洞門の話をする。洞門の手前でバスは止まり、ツアー客は一緒に洞門へと入る。和尚がのみと槌で洞門を掘っている石像が、明り取りに切った洞窟の窓の光に浮かぶ。ここは小休憩で別府へと向う。

 行き先は湯の里(湯の華見学)。着いたところで湯の華作りの室の前で湯の華の効能
を一席聞かされる。
観光コースによくあるパターン。分かっていながら買ってしまう面
白さ。それを糧に何人もの人が生活しているのだ。 “これも人助けばい。”

 今夜の宿泊先別府市内のホテル“別府富士観ホテル”入る。5階の1和室、窓の
外は海岸線と大通りが見られた。イメージしていた旅館とは少し違うし、部屋も上等と
はいかない。ツアー料金が格安だからと納得。夕飯前に先ずは温泉へと階下の大浴場へ
浴衣に着替え二人で行った。脱衣場から階段を下りて浴槽が並ぶ、がらがらに空いてい
る。硫黄の匂いはあまり感じなかった。湯船に足腰伸ばしゆっくりつかる。露天風呂に
入るが別府に来たという感じがもう一つだった。

      青の洞門の禅海和尚の像の前で

                                    

――― 二日目 ――― 

           別府地獄めぐり


今朝は6時に起床、今日のオプショナルツアーは不参加。7時からの朝食を済ませると午後2時までフリータイム、私は別府に来たのだから温泉三昧と行きたかった。でもこのホテルではその風情もないし、女房は地獄めぐりに行きたがっていたので、そちらへ行くことに決めた。
 ホテルのフロントで観光地図とバスの時刻表をもらってきて出発。路線バスを利用して先ずは血の池地獄前までバスに乗
る。天気はビフティフル!バス停を下りると目の前の山は色とりどりのサツキの花で彩られ、少し感動。血の池地獄の入り口の木戸銭前で案内する年配の女性は、各地獄に入る共通券を勧める。私たちは少し戸惑う。

私たちの記憶では一度入ったら全部回れたはずと思っていた。各地獄ごとに木戸銭を取られるとは、まさしく「地獄のさたも金次第?」か、ちょっと違うか。女房も以前来たときは、一度に回れたのに“いつから変わったの?”と訊くが、答えは
「…??」なし。

 以前とは何十年も昔のこと、話にもならない。あきらめてとにかく、共通券は止めて個々の入場券で入る。5箇所以上入
ると得になると言うがそんなに回る時間がない。

 中に入ると赤茶っぽい温泉池があり、池の説明をして土産物を売っている。もっと奥に進もうとすると立ち入り禁止の標
識があり、もう進めない。こんなに狭いのかとだまされた気分。

 縁日で見世物小屋の呼び込みにつられて入ったとたんに、“お帰りはこちら!”と言われたみたい。とにかく写真だけは
しっかり撮っておく。

血の池地獄へと来る 皐月の屋並みは見事だった 外国人、おばちゃんと

出口近くに足湯につかる場所があった。女房早速靴と靴下をとって 添え付けの“血の池地獄”と書かれた番傘を持って、赤い湯の中へ足を入れていた。竹のベンチには他の観光客に混じって外国人の女性も3人ほど並んで足を湯の中に入れて座っていた。私がカメラを向けると女房が外人女性たちも一緒にどうぞと言うとカメラに収まることを了解した。どこから来たかは訊かなかったがロシア人ぽかった。そのうちの一人は日本語を話せた。観光客のカップルからカメラのシャッターを押して欲しいと頼まれたり、お返しに二人の写真を撮ってもらったりした。

 そこを出るとすぐ近くに“龍巻地獄”がある。こんなに近いなら一緒にすればと思うがそうはいかない。とにかく近くに迫る山の色とりどりの景色がすばらしい。山全体の写真を撮ろうと思うも、イメージした写真になりにくい。三脚を立て数カット、シャッターを切り、“龍巻地獄”に入る。
 大体の観光地の入り口は土産物売り場になっていて、そこを通らなければ入場できないシステムになっている。入場した
すぐ近くに井戸のようなものがあり、そこから三十分おきに温泉が吹き上がり、龍巻のようになるところから“龍巻地獄と”言われているらしい。その近くには噴き上がる温泉を観る段々になった観覧席が設けられていた。観光客は少なくゆっくり観ることが出来てよかった。

 まだ温泉の噴き上がりまで時間があったので、女房にデジカメで噴きあがったら写真を撮るように言って、私はカメラと
三脚を担いでサツキが咲く山手へ上がっていった。



            かまど地獄二丁目の前



         地獄のかまどを手で受ける
                 右は竜巻地獄

 三脚を立て花の写真を撮っていると女房の私を呼ぶ声がした。何事かと下りてくると、デジカメのメディアの容量がいっぱいで“空き容量がありません”とカメラに表示されると言う。見てみると確かにそうなっている。フイルム切れの状態、電池の充電器は持ってきたがメディアの予備はない。しまった!出かける前に以前に撮った写真はCDに落としておくべき
だったと悔やまれるが後の祭。用心していてもポカがでる。女房にさんざんいやみを言われる。

 私の一眼レフカメラのフイルムは充分持ってきたから大丈夫と思う。そこを出ると次の地獄までは遠くて、
バスを利用しなければならない。バスは時間より大分遅れて来た。
観光マップで場所を探しながら歩く、
“カマド地獄”に入ることにした。ここは1丁目から5丁目までと見るコース、2丁目に大きなカマドの蓋に
赤鬼が如意棒をにぎって座っている、観光客の写真スポット そこで三脚を立てて記念写真を撮る。

 ここでミニ地獄めぐりが出来たと思いながらそこを出るともう昼前、昼飯を食ってホテルに戻らないといけ
ない時間になっていた。レストランでゆっくりしているひまもない。バス停の前にあるコンビニで昼の弁当を
買いバスに乗りホテルの近くのバス停で下りる。

天気はいいし、海岸で弁当を食べることにした。少し風があったが、別府航路の客船が入ってくるコースに
なっていて景色もよい。近くに人影もなく二人並んで弁当を食べた。この方が時間的にも余裕ができホテルの
ロビーでゆっくりすることが出来た。

                                      湯布院へバスは行く

 オプションツアーのバスが戻ってきて、そのバスに乗り込む。バスは湯布院の駐車場に着き下り立った。道路を挟んで向かいの建物が湯布院に入るゲートになっていて、階段を下りていくと映画のオープンセットのような街並みに出た。一瞬にして別世界に掘り込まれたような気分になる。

湯布院を散策できるような絵地図をもらっていた。観光用に作られたみやげ物を売る店が並び特異な雰囲気を出している通りを歩いた。大きな犬の風船を膨らませた看板のペットショップの前で写真を撮ったりしながら、木製品を売る店に入った。大きな製品は高価でJUST LOOKING見てるだけ。女房は木製の箸置きを土産に買っていた。

絵地図を見ながら金鱗湖を探しながら歩く。絵地図では距離感が分からず少し迷いながら目的地に着いた。小さな湖と言うよりも、池と言ったほうが正解か〜?『探してまで来るような所でも』と少しがっかりの様子だった。私は写真になるようなロケーションを探しながら湖のほとりを歩き、写真を撮った。

そこからは帰りのコースで散策。人工的に作られた池に鯉が群れをつくっているテラス風の店の中に入って地ビールを買い、テーブルにつく。同じツアー客と出会うこともあったが混み合っていることもなくゆっくりと時間を過ごすことが出来た。板で出来た通路沿いにある池に鯉が群れ、人が覗けばえさを求めて鯉が群れをなして集まってきた。戻る時間に合わせ、映画のオープンセットみたいと最初に思った場所まで戻ってきた。民芸村の出発点だった。民芸店のたたずまいをカメラに収めバスに戻る。



       金鱗湖、湖は青く澄んでいた


              地ビールを楽しむ

宝泉寺温泉宿泊



 二日目の宿泊地、宝泉寺温泉へと向かった。秘境の温泉地とうたっていたが、たがわず山の奥深く入って行く。ツアー客は二手に分かれ別々のホテルとなった。私たちは少し上の方にある和風のホテルとなり、二人の部屋としてはゆったりとしていた。

早めにホテルには入れたしのんびり温泉を楽しめると喜んで、温泉へと飛び込んだ。時間帯で男女入れ替えとなっている。岩風呂の中に洞窟があり、両側に洞穴があったのでこれはひとつの穴から入れば別の穴から出られると思って入った。人は少なく数人が入っている程度。誰もいない裸電球がぶら下がっているような薄暗い洞窟の中に湯に浸かりながら進む。探検をしている気分になったが、そこまでで終わりだった。その先はなく行き止まり。別の洞穴とはつながっていなかったのだ。探検はそこで終わった。ついでに別の穴にも入ってみたがすぐ行き止まりとなっていた。次は露天風呂に行くが狭くて、数人入っている中に割り込まないといけない状態。しかも露天風呂の一番よい自然とのふれあいがないのには失望した。

勝手な高望をしながら風呂から出て部屋に戻った。夕食はツアー客が集まり宴会場の部屋で会食。女房など別府で食べた料理よりずっとましだと言う。私がこれは何をつけて食べるのかと女房にきくと「味噌をつけて」と言う。味噌がどこか分からない。
「手前にあるのが」と女房 「ああ、そうかー 『手前味噌だ』」と言うのを聞き隣のおかみさん、くすっと笑った。
ビールを二人で一本飲み近所の人たちとしゃべっていると、みな三々五々に部屋に戻り始め、私たちが最後になり部屋
に戻った。


 テレビでプロ野球中継『阪神VS巨人戦』ワイワイ騒ぎながら観戦。『こんな所まで来て』と言わないでほしい。阪神タイガース好調なのだ。今日も勝った。『六甲颪』でルンルン気分で寝た。

――― 三日目 ―――

阿蘇ファームランド

 朝も温泉に入る。男女入れ替えで、昨日の女湯が男湯になっていた。洞窟はなく、外の露天風呂たるや誰
も入っていないなぁと思いながら入ると湯はぬるく、回りは塀がめぐらされ、天上のない湯に入っているみ
たい。屋根がないのが露天風呂じゃないってんだ。露天風呂の湯がこんなにぬるくちゃ風邪を引いちまうぞ。
ぶつくさ文句を言いながら部屋に戻り朝食に行く。旅館のありふれた献立。ご馳走様でした。

 今日のコースは阿蘇高原を経て熊本から長崎へと取る。天気は良好。バスはすいすい快調に走った。バス
ガイドは、いつもはこんな風ではない、観光バスも多く霧など出ると見えない景色のガイドをすることになり
『お客様には』申し訳ないがどうしようもありません、と言う。そううだった、富士山を見る観光ツァーに行
ったときはあいにくの天気で、富士山は全く見えずただバスガイドは「ここから見る富士山は絶景でございま
す」ただ想像するしかなかったことを思い出す。万ものだ。

 バスは九重連山を望む美しい瀬の本高原を走り、阿蘇の火口が見える草千里ヶ浜に着いた。ここで火口を
背景にツアー客全員の集合写真を撮る。高原の牧場では馬の背に観光客を乗せてたずなを引き一周回ってい
るのが見えた。乗って回るには時間がない。馬をつないでいるとこまで行って、馬と一緒に写真を撮ってい
る若者たちと同じように私たちも撮った。ここでの時間は少なく高原をぶらつき風景写真を数枚撮ってバス
に戻る。次は阿蘇ファームランドに着いたが、ゴールデンウイークとはいえ平日のためかガラガラに空いて
いた。昼にはまだ大分早かったが、オプションのランチタイムとなる。

 もらったパンフには『阿蘇ファームランドは「人、自然、元気」を考える、大自然テーマパークです』
とある。限られた時間で全部回るのは無理、バスが止まっている駐車場に向かってテーマ館、みやげ物の専
門店といったとこを見て歩き、またまた地ビールを売っている所ではビールを買って飲む。ここではみやげ
物は買わず自分らで食べたりほしいものを買っていた。レジャー施設を使って遊ぶ時間がないからバスに戻
った。

水前寺公園

 次に着いた所は熊本市内の水前寺公園、ここも昔、昔、いつ頃か五十年は経つ。半世紀以上前なのだから
昔と言っていいだろう。社員旅行で来たが、その時の印象ははっきりしたものは残っていない。今回の入園
でもらったパンフには肥後細川藩初代忠利公が鷹狩の際、この地を御茶屋として作ったのが始まりとある。

 日本の名庭園と言われるものは大体、藩主とか皇室、富豪らが作ったものが、一般に公開されている。日
本に限ったことではないかも。そんなことはともかくこの庭園は東海道を模して作られていると言う。真中
の築山は富士山をイメージしていて裾野には白砂と松が配置されていた。園内のガイドは最初だけで、庭内
を各自見て回っていた。私たちも池の鯉の見える風景写真など撮りながら回った。兼六公園などと比べると
ずいぶんとこじんまりしていた。ここをもう一つ有名にしたのが演歌歌手『水前寺清子』、この地名を取っ
て芸名にしたと言い、この園内にある神社で結婚式を上げたとガイドしていた。






  



    長崎の夜            

 これから先は長崎へと向かうコース、バスは島原港からフェリーに乗せられ乗客は全員船室に入った。
船室は豪華なランジェリー風な部屋になっていた。私たちは船のデッキに上がり風を受けながら有明海の
景色を楽しんだ。島原港に着くのに一時間あまり、後半は船室でくつろいだ。

 島原港に着いてバスは私たちを長崎カステラセンターへと連れて行く。おそらくここは旅行業者と契約
したみやげ物専門店だろう。ここで九州土産を揃えるつもりだったので、カステラの手ごろなものを見繕
う。あちこちとあげるところを考えていると結構な量になってしまった。傷むものでないからバスのトラ
ンクに積んでおけば世話ない。そしてバスは長崎市内へと入って来た。この町も昔、会社の出張で時
々来た思い出の場所である。と言っても半世紀前のことではっきりした記憶はないが、断片的な記憶は二
三残っている。具沢山の長崎チャンポン、小さな店で一人で食べたあの頃のこと。会社の出張で工場のエ
ンジニアと旅館に泊まり、買ってきた安いウイスキーを湯のみに入れがぶ飲みし、その勢いを買って二人
で夜の丸山辺りへと出かけた。今風に言えばスナック、カウンターとボックス席がある小さな店。ボック
ス席で今思えば年増の女性横に座り、悪ふざけをしながら飲み、会計と言うことにってみると金が足りな
い。タクシーで旅館に戻り、ついてきた付け馬に金を渡すと言う体たらく。二人の出張費飲んでしまった。
仕方なく長崎の代理店で金を借り、しのいだ苦い経験。三菱長崎造船所に入って納入した機械の手直しを
していたが不調に終わり帰ってきた。その先は定かでない。


島原港から長崎への船旅 長崎の夜百万ドルの夜景


 そんな思い出のある長崎、町をぶらつきたかった。女房はオプションの「百萬ドルの長崎夜景見学と船上
ディナー」を望んだ。山の上にある「ホテル矢太楼」からの町に出る道も不案内だったので女房の方に決め
た。バスは一旦オプショナルツアーに参加しない人をホテルまで送り、ツアー参加者を長崎湾に停泊されて
いる客船まで連れてきた。この船はここに繋留されホテルとして利用されている。エレベーターで三階まで
上がったところが食堂で、めいめいが個々のテーブルに案内され席についた。ウエイターが飲み物の注文を
訊きに来る。
 ワイン、ビール、ウイスキー、
ETC. ワインといきたいがあまり飲み慣れないので生ビールを注文した。
料理が運ばれて来る。フランス料理かな、大きな皿に少しの量を真中に置いた料理。船長が出てきてこの船
について説明し始める。「どうぞ料理を召し上がりながらお聞きください」お礼の言葉の後にこう続けた。
この船は青森と函館を結ぶ青函連絡船として活躍していたが、青函トンネルが出来、退役してこの港に来て
 今はホテルとして活躍していること、船内の案内や船の性能も話したがそれは良く覚えていない。

「どうぞごゆっくりお楽しみください」と船長は退席。とばりの降りた港を眺めながら運ばれてくる料理
にビールを傾けながら取る。会話とムードを楽しむ時間となった。食事が終わるころはすっかり日も暮れ、
港の明かりが映え始めていた。船のデッキに上がり夜景を楽しもうと私たち二人が最初に席を立った。港
に停泊している船は殆どライトアップされきれいな夜景を演出していた。夜景の写真を撮っていると同じ
ツアーの人たちもデッキに上がって来て、私が使っているカメラを見て感心している。仕方ない、見てい
る夫婦のカメラで夜景を背景に写真を撮ってあげると喜んでいた。

     百万弗の夜景         

 長崎湾が一望に見渡せる百万ドルの夜景、稲佐山山頂の展望台下までバスで移動した。そこから展望台まで
ロープウエイに乗り、降りたところから少し歩くと塔の下につく。エレベータで上まで上がるか、ラセン階段
を上がって行くかである。歩いて上がった。薄暗い展望台の上は若いアベックが多かった。

 ここはデートスポットになっているらしい。夜景を撮るべく三脚の上にカメラを据えスローシャッターで切
る。白川郷のライトアップの夜景を撮ったときは、三脚の脚が壊れカメラぶれを起こし失敗した。その轍を踏
みたくなかった。きれいな夜景をどう焼き付けたらいいか。そんなことばかり考えていては夜景を楽しんでい
ることになるのだろうかと自分で苦笑する。誰もがきれいだ思うところを撮るより、誰も気付かないとこをき
れいに表現するのも醍醐味である。観光に来て撮る写真は作品にはならない。半分諦めかげんで帰りのロープ
ウエイに乗った。帰ってからのお楽しみと来たもんだ。


 ホテルに戻ったら十時半ごろ、風呂に入って寝るしかなかった。

                                          スライドショー

 

――― 最終日(四日目) ―――

 昨夜は遅くにホテルに戻ったので部屋の様子をみてみよう。ホテルは長崎湾が一望される山の上にあり、
部屋の窓からは手前に住宅の彩りのある瓦(いらか)が並び、狭い湾に白い船が浮かんで、岸壁には白い
大きな客船が停泊していた。向こう岸には住宅地に続きすぐ山が迫って来ていた。部屋は洋風の和室であ
った。朝食は和洋食のバイキング形式のメニューで、洋食コースを選び席につく。長崎湾が一望されるグ
ッド・ビューだたが、残念ながら良い席を取ることが出来なかった。

 今日は長崎市内の観光コースになっている。最初は大浦天主堂から始まる。バスの駐車場からかなり
急な坂を歩きながら見上げるととんがり屋根に十字架のある建物、それが大浦天主堂であることはすぐ分
かった。階段の上り口には、国宝大浦天主堂と彫られた大きな石と言うか、岩と言った方がいいのか、そ
んな記念碑があり中へと入る。観光コースの通過点にしか過ぎないのでここでどんなミサや説教が行われ
ているのか見る事は出来ない。めいめいが並んで長椅子に座り、テープで流れる説明や案内を聞くことに
なった。中に入るときから喫煙、写真撮影は禁止と言われていたが、女房曰く「ヨーロッパ旅行では教会
の中も美術館の中も写真撮影は自由だった」と。喫煙はともかくマナーを守ればいいのにと少し残念。で
も規則は守った。


 次はグラバー園、まず入ってびっくりしていたのがエスカレーターが付いていた事。私も女房も遠い
昔の記憶と重ね合わせ、浦島太郎的な驚きを見せていた。


 帰ってきてから気付いたのが、昔来たのはグラバー邸、今のグラバー園は、その昔、外国人の居留地だっ
た所で、園内には、当時からの洋館や、市中から移築復元された由緒ある洋館が点在し、ありし日のおもか
げを今に伝えております。と入園時にもらったパンフに書かかれてた。園内をコースにしたがって進む。写
真を撮りながら園内を歩き、建物の中に入って見学。異国の国に入った気分を味わって進むうち旧グラバー
住宅に出てくる。ああ!これが昔私たちが見たグラバー邸と思い出が重なった。ここに来て思うのは、プッ
チーニ作オペラ蝶々夫人(
Madam Butterfly)『ある晴れた日』の歌。ここから長崎湾に入ってくる外国船を
見つけようと毎日毎日ここに立ち、愛しのピンカートンを待つせつなさ。悲劇に終わる結末。しばしの感傷。
少し勉強不足、今度来ることがあればもう少し違う見方が出来るかも知れない。


 長崎平和公園へとバスで移動。初夏のきつい太陽の光が照り付けていた。原子爆弾投下された爆心地に平和
記念像が立っている。私が中学生の修学旅行で来たときはまだ何にも出来てなく、ただ木製の標識が一本立ち、
松山町爆心地と書かれていた。千羽鶴も、平和の鐘、噴水もなく、ずいぶんと殺風景な記憶が残っている。
ここに来れば長崎の鐘、長井博士のことがガイドされる。私達はこの歌をよく聞き、よく歌ったものだ。『こ
よなく晴れた青空を悲しいと思うせつなさよ…』ほんとにせつない気分にさせられた歌だった。絶対使っては
いけない原爆が『核廃絶の願い』もむなしく世界中に広がろうとしている。原爆は落ちなくても原発事故の放
射能で被爆したり、核実験で被爆した人は世界中大勢いる。『広島、長崎の願いが世界中に届きます様に』と
願いつつ。

          柳川めぐり

 続いて『園田真珠』と言う所に連れて行かれたが殆ど買い物をしている人を見かけなっかた。そこで休憩だけ
してバスは嬉野陶彩館へ向かうも、高速道路出口インターですごく込み、目的地をパス。

柳川へと向かった。ついた所は『御花』と呼ばれていた。旧藩主 立花邸 柳川の人々は立花家のことを『御花』
と呼び親しんできた。と立花家資料館の入館チケットの裏に書かれていた。全く予備知識がないままここで名物
『鰻のセイロ蒸し』を食べることとなた。長いテーブルを挟んで対面に並んで座った。女房は前の席につく。目
当てのセイロを開くと、蒸された餅米が出し汁で真っ黒くなった上に鰻の蒲焼が乗っていた。
 今までに食べたことのない味、辛くてひつ濃い味、しかも量が多かった。女房は食べきれず残していたし、他
の客も残している。関西からのこのツァー客もこの味には馴染めなかったようだ。

 柳川と言えば地名からして例の『柳川鍋』を連想していた。違っていた。『鰌なべ』もしこれが出ていたら俺
はだめだっただろうと思う。食事が終わって資料館の中を回る。明治初期に建てられた『西洋館に大広間』とい
う明治建築を代表するものと書かれていた。庭園は食事をした建物のベランダから見ると全体を一望することが
出来た。庭園は松涛園といい、山石、海石を配し二百年以上経た松は池の周りを囲っていた。庭園のそのすぐ横
を堀が流れ、これから私達が乗ることになっている柳川川下りの船が、赤い毛氈を乗客の間から見せながら通り過ぎるのを松の間から見ることが出来た。


 一艘には十数人が乗ることが出来た。私達の船にも同じツアー客と一緒に乗船し、船頭の長い竿に操られ岸を
離れた。堀は地上を走る道路と殆ど差はなく橋をくぐる時は、立っている船頭はもとより私達乗客も頭を低くし
た。行き交う船は私達の横を通り抜け、船頭の声も聞こえてくる。船からの風景や、乗船風景を写真に収めてい
たら、フイルムをまき戻し始め出した。しまった! またやってしまった。カメラリックは邪魔になると思いバ
スの中に置いてきた。その中にフイルムが入っていたのだ。後の祭、撮りたいポイントもじっと我慢しないと行
けない。女房もあきれていた。落ち込むことはない。          

『愛きょ あいきょ』と自分を慰めていた。岸の上から写真屋さんが船の観光客を撮っている。それに答えて手
を振った。これからは観光に力を入れるぞ。柳川は北原白秋を生んだ地。子供の時分からどれだけ多くの歌を覚
えたことだろう。その歌が白秋の歌であることも知らず。「この道はいつか来た道…」題名『この道』。そうだ
決めた。この紀行文の題名「いつか来た道」にしよう。今決めた。ふうてんの寅さんならず、ふうてんの時さん、
勝手な思い頭を駆け巡る。まるで昔観た映画、ダニィケイ主演「虹をつかむ男」… 話は脱線したが元に戻す。
この船は堀を右回りに回っていた。高校野球の福岡代表でよく出る柳川高校を右手に船は進む。船頭と乗船客と
の掛け合いでにぎやかになっている。終盤近くになってやっと船頭は歌声を披露してくれた。

 この旅の観光はこれで最後となる。西鉄観光バスのガイド嬢は博多出身で福岡ドームの近くに家があると言
う。“福岡ダイエーホークス”は博多に来たがあまり好かんと言う。ダイエーは西鉄の商売敵とも言う。そう
なのか西鉄ライオンズであればきっと彼女も『寅きち』ならぬ『獅子(ライオン)きち』になっていただろう
に。私の若い当時は獅子きちだらけで、西鉄ライオンズの黄金時代『神様仏様稲尾様』と言われ日本シリーズ
で三連敗の後、鉄腕稲尾が連投し四連勝。おまけに最後稲尾のさよならホームランと来ては、大の大人がぼろ
ぼろ涙を流して喜び感激していたのを今でもはっきり思い出す。ちなみに私が大阪に出てきてライオンズの監
督が中西太のとき、南海ホークスに十一ゲームも離されていた。絶頂期を過ぎた稲尾が好投手となり、頑張っ
ていた。ライオンズの追い上げ急となり、ラジオで聞いていた私は大阪に遠征に来ていたライオンズの応援に
『ライオンズの追っかけ』をしていた。対近鉄戦、対南海戦、対阪急、パリーグの在阪球場は方々にある。対
近鉄戦のとき藤井寺球場での試合、大阪に出てきたばかりの私は地理に不案内、隠れライオンズファンとして
誰にも言えず、バスを乗り継いで球場に行ったものだった。そして奇跡の逆転優勝。日本シリーズはジャイア
ンツと戦うこととなった。三勝三敗四戦目が決勝戦、私はラジオにかじり付いていた。中西太の奥さんの父親、
ライオンズの元監督であった三原がラジオの解説をしていた。三原の解説はライオンズ贔屓に思えたが、救援
の稲尾も連投には耐えられず、往年の球威も今はなく打たれて敗退。アンチ巨人は今も続く。ライオンズは最
終的に西武が買い取り、いまの所沢で西武ライオンズとなた。私のライオンズファンは終わり、いまは寅きち
となり、甲子園通い。

 バスの中ではガイド嬢博多弁の会話を披露、「とっとうと?」「とっとうと!」鶏の鳴き声ではない。私に
は解った。解説はしない。今は博多の街はドンタクで混んでいるので市内には入らないと言う。

 バスで一路小倉駅へと向かうのであるが、途中休憩で博多観光物産店に止まる。ここで最後の買い物をして
小倉駅につく。バスガイド嬢は乗客が駅に消えるまで手を振って見送ってくれ、お返しの手を振って別れた。
新幹線新大阪行きレールスターの出発まで一時間ほどあり添乗員が集合時間を指定して解散。階下のレストラ
ンで夕食にする。中華料理で皿うどんとチャンポン餃子ビールで最後の食事。四日間好天で旅行としては最高
によかったと話し合っていた。

 今回の旅は今まで行った旅行とは一味違う気がした。きっと回想のひとときを持てたことにあると思う。

             別府・阿蘇・長崎の旅
     
                      
いつか来た道  おわり


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