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最後の青春








大阪びわ湖間を往復、
二日間のアドヴェンチャー・ストーリ

  (上の写真は当時のものでない。何度か行ったもので二枚の写真を貼り合わせたものである。)

 を出て内環状線を走り守口市に入った。自転車にドーム型テントを後ろの荷台に縛り付け、
バッグの中は弁当、予備ののり巻きにぎりめし、小型カメラ、タオルにパンクにパンク修理用品を
詰め込んでいた。滋賀県琵琶湖まで走るつもりで出発したが、女房にははっきり決行を伝えていな
かった。今まで何度も行ってくると出かけ、途中リタイアーして帰ってきたこと、数度あったから
だ。公衆電話から女房に電話する。
「今日は実行するで。琵琶湖のマイアミビーチのキャンプ場でテントを張って、一泊したら帰るつ
もりや。着いたら電話を入れるからな。」
「無理せんと、あかんと思ったらすぐ戻りや。」不安そうな声が返ってきた。
「今日は姉ちゃんの家に子供を連れて行って泊まるから、そっちに電話くれる。」
 ツ橋の女房の姉の所に泊まるらしい。電話番号を控え電話を切った。
豊里大橋の下をくぐり、淀川の堤防を枚方に向けて自転車のペダルを踏む。堤防の上はいつも風が吹
いている。風が向かい風か、追い風かで全然進む速度が違うし、足の疲れも違う。今日の行きは追い
風だ。自転車のギヤーをトップに入れてペダルを踏むと、すべる様に走り気分爽快。でも長旅、体力
を極力消耗しないで蓄えることに注意した。


1989年七月のある晴れた土曜日、もう今年の12月で50歳になろうとするおっさんが、どうし
てこんな冒険じみたことをするんだ。この年代の男性と話をするとゴルフの話や、仲間と麻雀をして
遊んだというような話ばかりで、一人で、自転車でどこそこまで走ったとか言おうものなら、異端視
されたものだ。
一年前の朝日新聞に『風と走れば』大阪―能登サイクリングと題する一週間のツアー記が載った。男
性記者はサイクリングや登山の経験者、三十代半ばとある。取材もしながら延べ562Km走ったこ
とになる。毎日の記事と一緒に、自転車の選び方、自転車の乗り方、パンクの修理法、等々載せてい
た。
 全部まねは出来ない。まず琵琶湖まで行ってみたい。それに挑戦するため一年かけた。大分使いこ
んだ近畿地方の地図を使用していたが、北部と南部に分かれていて、南部のほうに琵琶湖はあった。
地図上で道をたどるが、地図では自転車で走る道が、どれが最適か走ってみないとわからない。
枚方までは淀川の堤防の上の道が、自動車、単車が通行禁止で走りやすい。
 
交通量の多い国道一号線に入り、枚方バイパスを自転車で走るのは危険かもしれない。殆ど自動車専
用道路のように思えたから。でも自転車進入禁止の標識はない、登りのバイパスの側道を必死のパッ
チでペダルを踏み、何回も走った。
 そのうちに迂回して枚方市役所の前を通り、国道一号をまたぎ京田辺市へ向かう道を発見したが、
それまでにどれぐらいの時間、日数を掛けたことか。方向感覚が余りいいとは思っていない。で方向
を道路標識取ろうとすると、全く逆の方向だったりすることがある。
 たとえば、大阪方面は左折と標識が出ていたとする、その方向が大阪に向かう方向ではなく、大阪
に行く道路に入る道があるという道路標識だったりするのである。 地図をみて自分の現在地と方向
を認識すること、それが一番大切である。それを見失うと迷ったことになる。
 道に迷ったり、途中で雨に降られてずぶ濡れになり帰ってきたことなど一度や二度ではない。今日
は行けると七分ぐらいの自信はあった。

 川の土手の上を鳥飼大橋に向かっていた。河川敷で少年野球やテニスをしている。ロードレーサー
用の軽快な自転車が追い越していく。リックを背負ってウォーキングする人、ジョギングをする人、女
子マラソンランナー村本みのるさんもここを走っていたと新聞のサイクリング紀行で書かれていた。
 そして一人叫んでいた。「俺は青春をしているんだ!、青春の真っただ中―」声にはならなかったが、
風を切って後ろに飛んでいっていると感じていた。こんなもの冒険てなもんじゃない。もう三十年近く
なるか、大阪のヨットマン堀江謙一青年は、太平洋を単独で全長わずか6メートルのヨット(マーメイ
ド号)で渡っている。同じ年代だ。比べるべきもない。気持ちは、百分の一ぐらいは持っているつもり。
太平洋上では誰の力も、相談も出来ず、一人で解決するしかなかったはずだ。俺は人の中、陸の上を走
っている。何とかなるさ。心配はないと自分に言い聞かせ、またこんな事も考えていた。
 ヘミングウェイの『老人と海』、年老いた漁師が八十四日も一匹も釣れず、焼きが回ったと言われ、
漁を教え一緒に漁に出ていた少年も乗せて出ることも出来なくなり、一人漁に出て大きな魚、正体はカ
ジキマグロか、何かは知らないが、孤独な海での戦い。老人は冒険で海に出ているのではない、漁を生
業(なりわい)として海に出ているのだ。年老いた猟師の孤独な戦いと自分を重ね合わせているのだろ
うか。
 淀川の土手の上を鳥飼大橋に向かっていた。河川敷で少年野球やテニスをしている。ロードレーサー
用の軽快な自転車が追い越していく。リックを背負ってウォーキングする人、ジョギングをする人、女
子マラソンランナー村本みのるさんもここを走っていたと新聞のサイクリング紀行で書かれていた。
 そして一人叫んでいた。「俺は青春をしているんだ!、青春の真っただ中―」声にはならなかったが、
風を切って後ろに飛んでいっていると感じていた。こんなもの冒険てなもんじゃない。もう三十年近く
なるか、大阪のヨットマン堀江謙一青年は、太平洋を単独で全長わずか6メートルのヨット(マーメイ
ド号)で渡っている。同じ年代だ。比べるべきもない。気持ちは、百分の一ぐらいは持っているつもり。
 い風で、思っているより早く枚方大橋を通過することがで来た。枚方市役所前から国道一号線
に出るまでの道は上り坂になっている。ローギヤーで登るも脚に負担がかかる。これから何度もこのよ
うな難所が出てくることは覚悟せねばならない。


追憶

こで私と自転車の付き合いを話しておこう。自転車を乗るということを意識したのは、小学生の後半
頃と思う。自転車を持つということは、今で言えば車を持つというぐらいの高価なものだった。子供用自
転車など誰も持っているものはいなかった。丁度そのころ、近所に子供用自転車の貸し自転車屋が出来た。
それが子供の間で人気となり、借りて自転車乗りの練習をする子が見られるようになった。一時間借り
て三十円ぐらいだったと記憶するが、もしかしたら三十分だったかもしれない。三十円はそう簡単には
手に入る額ではなかった。親が借りて子供に自転車乗りの練習をさせると言うのが普通だった。

 親父のいない私の家庭ではそんなことを望むすべもなっかた。でも乗って見たかった。どうして三十円
を手に入れたかは思い出せないが、一度借りて乗った記憶がある。勿論私一人の練習だ。短い坂の上から
自転車のサドルにまたがり、両足を地面につけながら坂を転がすという練習。
 何度もこけながら走り、何とかバランスが取れるようになった。でも頻繁に乗ることは無理だった。

 それからは大人の自転車の三角乗り、これは大人の自転車のサドルは高いので、サドルの下の三角にな
ったフレームに足を入れてペダルを漕ぐ乗り方。そんなことをちょくちょくやって覚えた様に思う。
 それから高校を出て就職した。はじめの仕事は荒縄で荷造りしたり、自転車で配達するのが主な仕事だっ
た。この会社の製品は鉄製でとても重い。鉄製の製品を木箱に入れ自転車の荷台に括り付け走ると、重心
が後になりハンドルがふらつきとても怖かった。まだまだ自転車乗りには充分慣れていないのだろう。乗
れないといったら仕事にならないから乗った。
 昼時ともなると、更科と書かれた半被を着た兄ちゃんが片手にそば桶を担ぎ、威勢良くベルを鳴らし、
朴歯の下駄を履き、片手運転の自転車で出前してくる。
 今では余り見られない風景だった。その時はそんなに自転車が好きになれなかった。むしろ、原動機で
動く単車や自動車に乗りたかった。仕事が楽に格好よく出来ると思ったから。
 二十五歳になったころモータリジェション(自動車時代の造語か)がきっと来ると予感し、運転免許を
取った。予想にたがわず仕事で車を利用するようになり、十年足らずでマイカー時代へと入っていく。
でもマイカー族にはならなかった。会社のライトバンを私用で使わしてもらえたし、その方が経済的
負担もなかった。

R片町線(学研都市線)の踏切を超え京田辺に向かう線に入っていった。これからの道は初めて走る道だ。
道路標識と地図だけが頼りだ。道が狭いダンプカーに追い越されるのが怖い。対向車がないときは反対車線に
入って追い越してくれるが、対向車が続くときは自転車を降り、ダンプカーを追い越させるしかなかった。
 
 歩道があっても自転車が走れるような道ではなく車道を走るしかない。汗がシャツを濡らし、走る風がシ
ャツを乾かす。給水を体が要求してくる。歩道沿いに店屋があるが、無人だ。自販機で飲み物を売っている。
そこに自転車を止めて一服だ。小銭を入れスポーツドリンクを買う。缶入りを買ったので一気に飲むしかな
かった。そのころはまだペットボトルの販売はなかった。飲んだスポーツドリンクは、たちまち体に吸収さ
れていく様に感じられた。
 少し涼を取り地図で現在地を確認する。もう少しいくと京田辺に行く道は左折する様になっている。
氷室と地図には書かれているそこを左折すると道は上り坂となり舗装もでこぼこになっていた。
重いトラックや、ダンプが通る道だと思われた。自転車のギャーをローにして坂道を登る。
長く続くと脚より先に息が上がってしまう。
大阪府とも別れ京都府に入っている。高速道路の下を潜ってから下り坂となる。道は上りがあれば必ず下り
が待っている。行く道で、上りばかりの道なんてありっこない。また逆も真なり。
 人生の道も同じなのか。上りのときは下りの楽しさを考え、下りの楽しいときは、上りの辛さを考えて走る。

 贅沢を言えば、下りはあまり急であってほしくない。ブレーキを掛けて降りなければならないのは、なん
といっても、もったいない。苦労して稼いだ坂道を楽しみもせず浪費しなければならないから。
 思うようにばかり行かないのが人生でもある。ここのダウンヒルは楽しませた。一気に京田辺市市街地に
入る。市街地と言っても狭い道のひなびた街、JRと近鉄線の踏みきりを続けてまたぐと、もう街を抜けてし
まっていた。
 ひたすらペダルを踏む。夏の陽は容赦なく顔や手足を焼く。自転車乗りは短パンで乗るのが楽だ。
でも膝を出して走るとまともに膝を焼き、パンツの裾でこすれ痛くて走れなかったことがある。とかくに体の
鍛え方が違うと言われれば、その通りと言うほかはない。

 しばらくすると一級河川の大きな川の橋へと出た。「木津川 一級河川」と書かれた看板が土手に立てられ
ていた。 土手の上は舗装され、サイクリングロードになっていた。この土手で少し休憩にする。
 ここに掛けられた橋はそんなに大きい橋ではない、片側に人と自転車が一緒に渡れる道が作られていた。
車の通行もそこそこ走っている。土手の川縁に座り込み風景を眺めていた。サイクリングロードは京都まで
続いていた。いつかこの道も走ってみたいなと、軽快にこの道を走っている自転車を眺めながらぼんやり考
えていた。昼までにはもう少しある、もう一走りして昼飯にしようと考え自転車にまたがった。

 まだどこまで目的地に近づいたかなど考える余裕はなかった。行けるとこまで行けと自分に言い聞かせ走
っていた。
 もう少し行けば宇治田原町に出る手前で、信号のある交叉点の外れに昔の木造の校舎のような建物が
見え、周りの木々が陰を作っていた。
私は道端に自転車をお置き、少し高くなった草むらの木下に席を作った。
ここを昼食の場所と決めたのだ。蝉の鳴き声の聞こえるこの場所は、何か郷愁を覚えさせる様に感じた。
今にもオルガンの音が聞こえそうに思われた。食後の休憩と、少し横になって目を閉じ、まどろんでみた。
食事と休憩が体にすごく力を与えてくれた。燃料を与えた車の様に、軽快にペダルを踏むことができた。
まもなく上りの坂道に入る。ここはそんなに車の量は多くはなかった。時たま大型のトラックが追い越し
ていく。もう少し、もう少し、と峠を目指しベダルを漕ぐ。峠には、お食事処と縦に書かれた大きな看板
が立っていた。ドライヴ・インの駐車場横を過ぎたら、ダウンヒル。風を受け、今、上りでかいた汗が、吹き
    飛んでいく。下り道を下りきった所の交叉点を左に曲がれば、大津市と道路標識が上がっていた。



 長距離を走ると、いつも膝や脚の付け根に痛みがでることが多かった。今回はまだいけそうだ。最初の
長距離のサイクリングで、四条畷を通って清滝峠超えて奈良公園まで行ったとき、左膝が痛くなり、ペダル
を踏むのが痛くてどうすることも出来なくたった。でも帰らなければならない。右足一本で漕いでいると、
右脚も痛み始める。清滝峠の帰りの坂道は自転車を押して歩くしかなかった。時は一月、粉雪が舞い始め、
俺は何でこんなことをしているんだと思いつつ、痛い脚を引きずり自転車を押していた。峠を越してからは
自転車を転がして下り、四苦八苦して帰り着いたことがあった。今回も、それが出ることを恐れていた。
初回と違って、脚も大分鍛えたから、大丈夫と思いつつ、全く不安がなかった訳ではない。

 右手下に深くなった渓流が流れ始めた。宇治川の支流だった。もうすぐ、宇治ラインと呼ばれる宇治川に出
るんだ。一年前に載った朝日新聞の「サイクリング記」では、吊橋の上で自転車に乗った記者の写真を思い出
していた。いよいよ来たなと思っていると 、左手に瀬戸物市のような、信楽焼きの狸の焼き物や、食器類が
山積みされ、車を止めて買い物をする客があった。私には、その市を覗いてみる時間的余裕も、気持ち的余裕
もなかった。 そして、宇治ラインへと出てきた。右に行けば大津市、左に行けば宇治市、目指すは大津市にあ
る琵琶湖である。でも私の心はまだ決心が着いていなかった。「行くべきか、戻るべきか」ここが最後の決着
のしどころだと思った。
 地図を広げる、左を取れば、天瀬ダムを通り宇治市の中心地。平等院もある。まだ一度も行ったことが
ない。そこまで行って考えよう。

                 宇治神社鳥居                宇治川に架かる橋

 天瀬ダムを右手に見て下り坂を走らせると宇治市街に入って来た。でもどこに行く当てもない。自転車を降
りてぼんやりしていると、修学旅行生と思われる男の子のグループに道を尋ねられる。「すみません、平等院は
どちらですか?」分かるうわけない。俺が訊きたいよ。「始めてきた所だから分からない」と言うと別な人を捜
しながら離れていった。時計を見ると二時を回っている。今から家に戻るより行った方が早いと思った。帰るの
も大変だ。行くしかない。橋を渡り向こうの対岸を天瀬ダムに向かって引き返した。こちらの道は坂道でない。
 
 ダムの水力発電所をらせん状に登っていくと来た道に出る。ここは急な坂になるので降りて、自転車を押して
上がった。先ほど大津市方面との分かれ道に出る、琵琶湖に向かって走らせる。宇治ラインを左手に道は蛇行し
て走っている。車も併走、路肩は余りない。気を付けながら走る。
 先のほうを見て走ると、この道は下っているのか、上っているのか判断出来ない状態になった。左手になった
宇治ラインは道路よりずっと下を流れている。右手はすぐ山となり、左手の木立が川を隠す。すると、赤い吊橋
が目に飛び込んできた。これが朝日新聞に載った写真の橋か。渡って通る道ではないが、橋の中ほどで自転車を
降り、ラインの流れを見る。山と山との谷をくぐって流れる風景は、絵になるように思えた。谷間から流れる涼
風に、しばし一時の安らぎの時間と空間の中に、自分をを埋没させていた。この橋を渡る人は殆どなかった。
時計を見ると、もう三時を回っていた。もう後戻りは出来ない。谷間を流れるライン沿いに自転車を走らせてい
た。
赤い吊り橋の上で 自転車にキャンプ用品を積んでいた 宇治ラインを渡り瀬田へと入る

 相変わらず道は狭かったが、車の量はそれほど多くなく、追い越していく車は対向車線に入って追い越してい
くので、それほど気を使うことはなかった。急な上り下りはなく、道は蛇行しながら続く。そして間もなく対岸
へと渡る橋へと出てくる。それからは、ラインを右に見て走ることとなった。対向車せん側に、少し切り開いた
小広くなった場所があり、無人の自販機が並んでいた。そこでスポーツドリンク買い、水分補給をする。汗が出
るので水分補給は大事だ。水筒の量は限界があり、飲み物の自販機は何処でもあり助かる。また走っていると対
向車線側から、若い男のサイクリストが手を振って、挨拶してくれた。同じサイクリストと思ってくれたんだと、
少し嬉しくなって手を挙げて挨拶を返した。地図を広げて見ると、琵琶湖はもうすぐだ。
 ラインの名前もいつしか瀬田川となっていた。左手に石山寺があり、石山温泉と地図に温線マークが付いてい
る。そして人里に出てきたんだと感じた。京都から京阪石山坂本線が、ここ石山寺まで入ってきて終点となって
いる。石山寺に行く参拝客で賑わうのか、駐車場を持ったレストランなどが建ち並んでいた。東海道新幹線のガ
ード下を潜ると瀬田の唐橋へと出た。
 瀬田の唐橋といえば、和歌に出てくる場所ではなかったか、何か懐かしさを感じながら、国道一号線となって
いるこの橋を渡った。しばらく行くとJR東海道本線(琵琶湖線)瀬田駅の少し手前で左へと北へ進路を取る。
ここからは琵琶湖の東側を北上することになる。もう五時近くになっていた。この当たりで何処か食事をすると
こがないか捜した。
 道路の角にラーメンの看板を出した店を見つけ、そこに入ることにした。ここまで走ってきた体は汗と埃にま
みれていたと思う。気を使わずにすむラーメン店、カウンターに腰掛けてラーメンと飯を注文。 見かけぬ風体
の客に少し興味を持たれたかもしれない。でも大阪から単独でサイクリングして来たなどとは話さず、出てきた
ラーメンと飯をひたすら腹に流し込んだ。 実を言うとラーメンの味や、話しをしている心の余裕がなかっただ
けだ。日暮れまでに目的地に着かねばという思いだけが、頭を駆け巡っていた。ラーメン店を出ると進路を北に
取る。 今度は干拓地のような平坦で真っ直ぐな道が続く。湖沿いのこの土地は、きっと干拓された土地と思う。
日が沈むのと目的地に着くのと、どちらが早いか競争となった。
 道路標識は近江八幡方向に向かっていた。方向は間違っていない。地図で草津市を通り守山市に入ったこと
を確認した。左に折れると琵琶湖大橋に出る標識になっていた。七時に入ると日がかげり出した。少しあせり出
した。本通を右手に入り、川の土手の上を走った。
 小さな四辻に差し掛かったとき、角が交番になっていた。迷わず交番に入って行き、「マイアミビーチに行く
道、ちょっと教えてもらえませんか」若いお巡りさんに訊ねた。よく分かっているのか、すぐ簡単に教えてくれ
た。余りにも簡単だったので、すぐ分かるわと、詳しくも訊かず言われた方向へと進んだ。
 ところが、何処でどう間違えたか、田んぼの中を走っている。あたりは薄暗くなり始めていた。これ以上うろ
ついたら、ますます迷い込む様に思えた。目的地のキャンプ場行きはあきらめていた。テントを張って一夜を過
ごせるところを捜していた。 稲を刈り取った後の田んぼになんか、テントを張るわけにはいかないし、田んぼ
の持ち主に咎められてもかなわない。 湖のほとりに出てきた。これは偶然で運がよかった。公園らしく、芝生
より長く生えた草むらがあり、テントを張るのに丁度よさそうに思い、ここでテントを張ることにした。
 キャンプ場でもないこの場所に、テントを張るのは抵抗を感じていたが、そんなことは言っていられない。自
転車の荷台からテントを下ろし、草むらにテントを広げ、プラスチック製の細いパイプを通して組み立てた。
テントの四方を楔で固定して出来あがり。この組み立て方は、家の座敷で何度か練習してきたのでスムーズに出
来た。とばりの下りた湖で、二、三人の学生くらいの男の子が夜釣りをしていた。人影も少ない。少し安心でき
た。すると今度は、家に連絡を入れないと心配するなあ、と思ったが、公衆電話は近くにありそうもない。
 勿論、携帯電話など当時はまだない時代、この場所を離れて、公衆電話を探しにいくことも少しは考えたが、
それは思いとどまった。と言うのは、何処に公衆電話があるか分からぬまま捜していると、きっとこの場所も分
からなくなるに違いない。そうなるともうお終いだ。自分の現在地もはっきり確認していないのに、人に訊くこ
とも出来ない。 そんな経験を以前したことがあった。車で田舎道の小さな細い道に入り、目的の家を捜してい
た。家のある方向は分かるのだが、そこに行く道がどうしても見つからず、道はますます細くなる。 車を道路の
端に止め、車から降りて歩いて道を捜したことがあった。そうこうしていると、自分が止めた車に場所が分から
なくなり、慌てた事があった。その二の舞を恐れたのだった。


 

A テントの中

 ントの中でバッグを広げ持ち物を出す。今使うもの、懐中電灯、ラジオ、地図、など広げ、残りのおにぎり
二個は明日の朝飯にしようと考えた。近くに琵琶湖大橋が湖を渡っていると思われる。バイクの出す排気音が遠く
から聞こえてくる。少し不気味な感じを受けていた。暴走族に襲われたらどうしよう。ここでは助けを呼ぶことも
出来ない。ふと、こんな新聞の記事が頭に浮かぶ。世界の各地を回っていたサイクリストが日本に帰り、四国高知
県を、自転車旅行をしている時に、夜のキャンプ中に襲われ殺されたと。げに恐ろしきかは、人の子なり。
 人がいないのが寂しいのと、人が近づくのが恐ろしいのとが入り混じった変な気分だった。変にちょこちょこ、
小便がしたくなり、テントの外に出て暗くなった夜空を見上げながら、小便を飛ばす。
 星は出ていない。天気は大丈夫だろうか。夜中に降られたりしたら最悪だ。公園の向こう側で子供を連れた親
子で、花火遊びをしている。そんな光景を見て、ここは大丈夫なんだと、安心な気持ちになった。テントに戻っ
ても今から眠れるわけでもない。ラジオを聞きながら時間をつぶす。また、家では心配していないかと、心をよ
ぎる。考えてもしようのないことは考えないことにした。
 十二時を回り日付が変わったが、眠気は襲ってはこない。相変わらずバイクの音が遠くに聞こえる。敢えて眠
ろうとはしなかった。ひたすら深夜番組のDJ・ラジオ放送に耳を傾けていた。DJの音楽と眠気が入り混じり、
いつしか眠ってしまったようだ。
マイアミ・ビーチキャンプ場に行けずなぎさ公園にテントを張った この時の人相が良くなかったので、次回から笑顔で撮ることにした

B 帰り旅

 し暑さと喉の渇きで目がさめた。日は大分高くなっていた。テントの中は熱気が充満している。テント
の出入り口を開けて、外の空気を入れた。残りのにぎりめしとお茶で朝食とする。
 後は帰りの旅、一度通った道をたどるだけ、気分は楽だった。少し横になって体を休める。充分睡眠を取っ
た。とは言えないが、体が不調だとは思えなかった。
 昨夜はなにもトラブルもなく、朝を迎えられたことだけで大満足だった。テントをたたむ前に、ここで自分の
写真を取っておこうと思い、カメラを三脚に固定し、テントに向けてセルフタイマーをセットした。シャッター
を押すとテントの前に片ひざ付き、レンズをにらんだ。

 後日談だが、この写真出来あがったのを見てびっくり、なんと切羽詰った悲壮な顔をしているんだと、それ以

来自分で自分の写真を撮るときも、にっこり笑ってポーズを取ることにした。残念なことに、この写真を捜すも、未だに見つからない。

 テントをたたんで、さあ、出発だ。来た道と方向を漠然と考え走った。ところが、一向に自分の来た道に出ら
れない。道を曲がれば、曲がるほど迷路に入っていく様だった。これではだめだと思い、一軒の店屋に飛び込ん
だ。「すみません、瀬戸の唐橋に行く道は、どう行けばいいのですか」これも簡単に教えてくれた。
 言われたように行けば、すぐにその道に出られた。俺は何をしていたんだ。大したロスタイムだ。目的地のマ
イアミビーチも近くにあったに違いない。いまさら考えてもしょうがない。琵琶湖大橋から来た道に入りしばら
く進むと、瀬田の唐橋方面の道路標識に出会う。そこを右折れすれば、一直線。天気は下り坂か、どんよりとし
た曇り空だった。
 雨にならなければいいがと思いながら、ペダルに力を入れて漕いだ。JRの踏みきりを渡れば瀬田の唐橋はす
ぐ、石山寺までは昼頃着く予定だった。家に電話も入れなければと思いながら、走っていると、雨がぽとぽと顔
にかかり始めていた。本降りにならなければいいが、取り敢えず、ビニールのポンチョをかぶって走る。
 石山寺に着いたには十二時前だった。女房の姉の家に電話を入れる。そんなに大騒ぎにはなっていなかった。
女房の姉が何かの事情で電話できないのではと、冷静に他人事の様に言ったので、電話を待っていたと言う。
一報を入れたことで、私も一安心した。

 木登りの名人が木から下りてきた人に、もうすぐ地上に下り立てる時になって「気を付けなさい」と言ったこ

と思いだし、最後まで慎重に。冒険は危険と隣り合わせと言っても、無謀はいけない。
 朝日新聞のサイクリング記の最終回に、大学生のツーリングで仲間のリーダーが、道路工事の道を、仲間を先
に通し、「気を付けろよ」と言って最後を走っていた時、追い越していった大型トラックに巻き込まれ、病院に
運ばれたが助からなかった。そんなに若い子の悲惨さを思うと、胸が張り裂ける。登山家だって同じだ。
苦闘して辿りついた峰から、帰り道で遭難に会う事も希ではない。
 帰り道
 トイレも借りたいし、石山寺のドライブインで昼食にすることにした。店内はまだ空いていた。注文はカツ
カレー、子供達に「お父さんはいつもカツカレーやね」と冷やかされている。手軽で安くて、ボリュームもそ
こそこあり、よく注文していたメニューではあった。
 そのレストランを出ると、雨は少し残っていたが本降りにはならなさそうだった。ビニールのポンチョを被
ると暑いし、走りづらい。濡れて走ることにした。宇治ラインの谷道へと入っていく。帰りは行きと逆で、楽
に走れた道が難所となり、苦闘した所が楽な道となった。もう私には、一週間ツーリングを続けるのは無理か
なあ。時間とチャンスが与えられるなら、考えもするが、思ってもならぬこと。そこまでやる気もなかった。

 宇治ラインに架かる赤い吊橋まで戻ってきた。雨はもう上がっていたし、これ以上降りそうになかった。

吊橋から谷間を流れるラインの流れは、白い波を発して流れる水と、深い水色とが同時に見られた。谷間の風
にあたり、暫しの休憩。
 宇治市と京田辺市に向かう分かれ道に、宇治ラインから分かれ、支流となって流れる川に架かっている橋を、
宵待橋という。意味ありげな名前の付いた橋だが、詮索する術もない。
 その橋を渡り、宇治田原市を抜け京田辺市に入るまでに、一つの峠がありその峠を超えると一気に木津川
まで走って休憩。道端の自販機で給水しながら、空の水筒にも買ったドリンクを入れ、少しずつ給水した。帰
りの峠の上り坂はきつく思われ、自転車を下りて押して歩くことしばしばだった。京田辺市の狭い道路では、
来た道と違う道を走って通り抜けた。ここから大阪枚方市に入るまでに、大きな峠に、京都府と大阪府の
境がある。最後の力を振り絞って上る。大分、脚にも来ている。帰りまで持ってくれ。汗が眼に染み、しばし
ば自転車を下り、汗を拭き取らないと前が見えなくなった。

 その橋を渡り、宇治田原市を抜け京田辺市に入るまでに、一つの峠がありその峠を超えると一気に木津川ま
で走って休憩。道端の自販機で給水しながら、空の水筒にも買ったドリンクを入れ、少しずつ給水した。
帰りの峠の上り坂はきつく思われ、自転車を下りて押して歩くことしばしばだった。 京田辺市の狭い道路では、
来た道と違う道を走って通り抜けた。ここから大阪枚方市に入るまでに、大きな峠に、京都府と大阪府の境
がある。最後の力を振り絞って上る。大分、脚にも来ている。帰りまで持ってくれ。汗が眼に染み、しばしば
自転車を下り、汗を拭き取らないと前が見えなくなった。
峠を越してからは、もう難所はないはずだ。わりと急な坂道を下り、国道307号線に入って右折すると枚方
市までは一直線のゆるい下り坂だ。信号のある交差点が多くなる。自転車は殆ど漕ぐことなく、転がして進め
た。 
だんだん我が家のゴールに近づき始めたんだと実感してきた。そしてついに、淀川の堤防の道に入ったとき、
大阪に帰ってきたと、一遍に安堵の気持ちが広がった。まだ十五キロ以上走らないといけないのに。先に行け
ば行くほど、自分がいつも走っているエリアにドンドン入っていく。
 鳥飼大橋まで来たとき、河川敷に下り、芝生の草むらに倒れこむ様に転がった。長く伸びた草の枝が私の顔
を覗き、私は草の枝の向こうに流れる雲を追っていた。これで俺の最後の青春は完結したんだ。おそらく、同
じコースを走ることはないだろう。私にとっては、晩生の青春の最後の一ページを閉じた。

                      

                        --−− 完 −−−−


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