維新後世代の墓
人物名 |
生年~没年 |
経歴 |
生誕地・終焉地・墓所在地 |
写真 |
角田秀松つのだ |
1850~1905 |
会津藩士・藩主松平容保守護役海軍中将連合艦隊司令長官 |
青山霊園1種ロ16号21側6番 |
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岸本辰雄 |
1851~1912 |
鳥取藩士の3男。戊辰戦争に従軍。 ボアソナードにフランス法を学ぶ。 明治大学を創立。 |
谷中霊園大隈重信と同様に鳥居が建っている |
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コンドル(ジョサイア・コンドル) |
1852~1920 |
ロンドン出身の建築家。 鹿鳴館,ニコライ堂,三菱一号館, 岩崎久弥邸(旧岩崎家庭園), 岩崎弥之助邸(三菱開東閣) , 三井倶楽部,諸戸邸(桑名市六華苑), 島津邸(清泉女子大学), 古河邸(旧古河庭園)を設計した。 |
護国寺 |
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北里柴三郎 |
1853~1931 |
熊本県出身の医学者,細菌学者。 ドイツでロベルト・コッホに師事。 ペストの病原菌を発見, 破傷風菌の純粋培養に成功, ジフテリアと炭疽菌に対する抗毒素を開発, ジフテリアの血清療法を発表。 私費を投じて北里研究所 (後の北里大学)を設立。 また慶応大学医学部が創立される時にも 尽力し初代学部長となった。 |
青山霊園1種イ19号2側1番以外な場所に静かに建つ長岡半太郎の墓の前 |
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山川健次郎 |
1854~1931 |
会津白虎隊の生き残り。物理学者。東大総長 |
青山霊園1種ロ 18号5側1番巨大な墓石会津戊辰戦争で生き残ったことによる,その後の本人の努力と会津人を受け入れることに寛容であった明治政府の所産 |
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中上川彦次郎なかみがわ |
1854~1901 |
福沢諭吉の甥三井家に入り三井財閥の基礎を築く |
青山霊園1種ロ20号7側6番三井家にしては狭い墓域 |
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小村寿太郎 |
1855~1911 |
外交官,外務大臣 1901年に第1次桂太郎内閣の外務大臣に就任。 1902年締結の日英同盟を積極的に主張した。 日露戦争における戦時外交を担当し, 1905年ポーツマス会議日本全権として ロシア側の全権ウィッテと交渉し, ポーツマス条約を調印。 1908年成立の第2次桂太郎内閣の外務大臣に再任。 幕末以来の不平等条約を解消するための 条約改正の交渉を行い, 1911年に日米通商航海条約を調印し 関税自主権の回復を果たした。 日露協約の締結や,韓国併合にも関り, 一貫して日本の大陸政策を進めた。 |
青山霊園鳥居付き |
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頭山満 |
1855~1944 |
アジア主義(あるいは「大アジア主義」とも)の 立場で運動をおこなった国家主義運動家。 息子は大学教授の頭山統一(1990年,頭山満の墓の前で拳銃自殺)。 対外論では,日本の海外進出を訴え,欧米列強諸国との不平等条約改正問題においては 対外硬の立場で主張をおこない,また,日露戦争開戦論を主張した。 援助をおこなった。玄洋社を設立した。 |
青山霊園1種ロ8号1~14側右翼の巨頭墓地は歴代首相と並ぶ一等地墓は至ってシンプル左隣の黒い墓は三男の秀三が眠る |
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後藤新平 |
1857~1929 |
東京市長満鉄総裁NHK総裁拓殖大学長ボーイスカウト連盟総長 |
青山霊園1種イ5号1側 |
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団琢磨 |
1858~1932 |
工学者,技術者,実業家。 アメリカで鉱山学を学び,三井三池炭鉱の経営を行う。 三井財閥の総帥。 福岡藩士・神尾家に生まれ,團家の養子。 旧藩主にあたる黒田長知の供をして 岩倉使節団について渡米し, そのまま留学する。マサチューセッツ工科大学鉱山学科卒業。 益田孝の後任として三井合名会社理事長に就任。 金融恐慌の時,三井がドルを買い占めたことを批判され,三井本館前で,右翼に狙撃された。 |
護国寺 |
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片山潜 |
1859~1933 |
日本の労働運動家,社会主義者,マルクス主義者,思想家。 モスクワで死去遺骨はクレムリンに眠る |
青山霊園1種ロ14号13側16番 |
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牧野伸顕のぶあき |
1861~1949 |
政治家。大久保利通の次男。 牧野家に養子入り。福井県知事,茨城県知事,オーストリア大使, イタリア大使,文部大臣,農商務大臣, 外務大臣,宮内大臣を歴任。穏健な英米協調派。 二・二六事件では親英米派の代表として 湯河原の別荘を襲撃され,近親者の機転によって一命をとりとめた。吉田茂の妻は実娘。 |
青山霊園1種ロ8号1~14側父よりも小振り |
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岡倉天心 |
1863~1913 |
福井藩士の子。横浜出身。父親が貿易商であったため,英語が得意だったことから,フェノロサの助手となり,フェノロサの美術品収集を手伝った。美術家,美術評論家,美術教育者 |
染井霊園1種イ4号14側天心の墓は盛土墓か |
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古在由直こざいよしなお |
1864~1934 |
東大総長足尾鉱毒調査委員として土壌分析を行い,農民の主張の正しさを立証。 |
青山霊園1種ロ20号40側5番カラスが多い真実は一つ |
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長岡半太郎 |
1865~1950 |
原子物理学者 |
青山霊園1種イ12号1側2番忘れられた存在 |
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広瀬武夫 |
1868~1904 |
海軍軍人日露戦争時,行方不明になった杉野孫七を捜索中に敵弾を受けて戦死。初の軍神となる。 |
青山霊園1種イ21号9側11番軍神とは言え,鳥居は無し軍神となった以上は子孫に軍人多し。子孫が絶えている様子は無い本人は中佐。子孫に少将 |
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井上準之助 |
1869~1932 |
大分県出身。 日本銀行総裁。 蔵相。 浜口内閣で行った金輸出解禁(金本位制への復帰)や 緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き,血盟団事件で暗殺された。 |
青山霊園1種ロ8号1~14側歴代首相と変わらないほどの墓域 |
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下村宏 |
1875~1957 |
戦中の鈴木内閣国務大臣兼情報局総裁としてポツダム宣言受諾の実現に尽力 |
青山霊園1種ロ20号6側1番一族一緒の墓クール |
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野口英世 |
1876~1928 |
貧農出身でありながら自らの努力と周囲の理解により医学者となった。ガーナで黄熱病の研究中,黄熱病に感染し死去。 |
長照寺福島県耶麻郡猪苗代町三ツ和三城潟 |
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野間清治 |
1878~1938 |
講談社創立者 |
護国寺広い |
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松岡洋右ようすけ |
1880~1946 |
外交官・政治家。山口県出身。 アメリカオレゴン大学に留学し,苦学の末外務省に入省。 退官後は南満州鉄道(満鉄)副総裁。 国際連盟特別総会に首席全権として出席し,脱退。 A級戦犯 |
青山霊園1種イ3号1側5番A級戦犯であったためクリスチャンであるのが以外だが,外交官という出自を考えれば納得すべきか |
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東郷茂徳しげのり |
1882~1950 |
外交官。外務大臣。 外務大臣として日米交渉にあたるが,日米開戦を回避する事は出来なかった。だが,早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後,大東亜省の設立に反対し,東条首相と対立したため外務大臣を辞職。外務大臣兼大東亜大臣として入閣。終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入を回避する。A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁固20年の判決を受け, 巣鴨拘置所に服役中に病没。 |
青山霊園1種イ3号4側5番東郷家の墓には花が手向けられていたが,茂徳の墓には無し。 |
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北一輝 |
1883~1937 |
思想家・社会運動家。 国家社会主義の立場で国家改造運動をすすめた。 佐渡に生まれ,弟が早稲田大学に入学すると上京し, 同大学の聴講生となる。『国体論及び純正社会主義』において,天皇神聖視を名目とする藩閥官僚政治への 厳しい批判を行ったため,発禁処分を受ける。北一輝の代名詞ともいえる『国家改造案原理大綱』を書き上げると大川周明や満川亀太郎らによって 上海に招かれ,国家改造運動にかかわるようになる。『日本改造法案大綱』は,二・二六事件の首謀者である 青年将校に影響を与えたとされ理論的首謀者として,弟子の西田税とともに刑死。 |
目黒不動林試の森公園に隣接する墓地命日直後に行ったため,新しい卒塔婆が立っていた |
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藤村操 |
1886~1903 |
華厳の滝で自殺した旧制一高の学生。 日光の華厳滝において, 傍らの木に巌頭之感を書き残して自殺。 厭世観によるエリート学生の死は社会に大きな影響を与えた。高等学校で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石は自殺直前の授業中, 予習をしていなかった藤村を叱っていた。この事件は漱石が後年,鬱病となった一因とも言われる。 |
青山霊園1種イ1号4側7番巌頭之感の碑が建っている墓域は青山霊園に一等地にある。裕福な家庭だったためか?世論を巻き起こしたためか? |
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大川周明 |
1886~1957 |
右翼思想家。 山形県酒田市出身。 東京帝国大学印度哲学専攻。 北一輝らと親交があり, 五・一五事件では有罪判決を受け服役。 太平洋戦争終戦後, A級戦犯の容疑で逮捕される。 東京裁判に水色のパジャマを着, 素足に下駄を履いて出廷した。 休廷中に前に座っている東条英機の頭を 後ろからペタリと叩いたり,奇声を発するなど,常軌を逸した行動を取ったことにより裁判長は精神異常と判断し,入院させられた。のち精神鑑定で異常なしとされたが,東京裁判終了後まもなく釈放された。 |
目黒不動林試の森公園に隣接する墓地北一輝の墓に向かって建つ北一輝の墓が良く手入れされているのに比べて訪れる人がいない雰囲気 |
手前の白い墓が北一輝,左奥が大川周明 |
牛島満 |
1887~1945 |
鹿児島県出身。歩兵第一連隊長で,2・26事件の処理に当たる。歩兵旅団長として南京攻略戦に参加。軍司令官として沖縄赴任。米軍沖縄上陸以降,戦闘を展開。自決。 |
青山霊園1種イ1号25側8番墓誌に牛島満の名あり |
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大野伴睦 |
1890~1964 |
「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが,代議士は選挙に落ちればただの人だ」「酒は飲む以上わけがわからなくなるまで飲むべきだ」の名言を残した。地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致した。 |
本門寺 |
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山口多聞 |
1892~1942 |
東京市小石川表町出身 海軍軍人 空母を護衛艦で囲む隊形を発想するが 上官に拒否される。真珠湾攻撃で第三次攻撃を進言したが 受け入れられなかった。ミッドウェー海戦で空母らしき物を含む 敵艦隊発見の報告を受けて,陸上攻撃用装備の部隊をそのまま敵空母戦力の無効化のために差し向けるよう進言したが,受け入れられなかった。自空母沈没時,総員退避後に艦長と共に艦に残り戦死した。 |
青山霊園1種ロ8号1~14側墓地は一等地兼ねてから認められていた証拠 |
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弘田龍太郎 |
1892~1952 |
作曲家。 高知県安芸市生まれ。 『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『雀の学校』『春よこい』『靴が鳴る』『千曲川旅情のうた』等,多くの童謡を作曲した。 |
谷中5-4-7全生庵初めて知る弘田龍太郎 |
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芹沢銈介 |
1895~1984 |
型絵染めの人間国宝 |
大崎1最上寺82歳のときに最上寺檀家になる |
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榎本健一 |
1904~1970 |
俳優,歌手,コメディアン。 当初は浅草を基点としていたが, 「エノケン」の愛称で広く全国に知られていた。日本で喜劇王とも呼ばれた。 第二次世界大戦期前後の日本で大活躍した。 |
長谷寺港区西麻布2-21小さな墓 |
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古賀政男 |
1904~1978 |
作曲家。多くの流行歌をヒットさせた。 福岡県三潴郡田口村出身。 朝鮮に渡り苦学して明治大学に入学する。 明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で『影を慕いて』を発表。酒は涙か溜息か東京ラプソディ 誰か故郷を想わざる 無法松の一生 柔 悲しい酒 |
築地本願寺和田堀廟所一時代を築いた人間であるが,余り馴染みは無い |
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天津乙女 |
1905~1980 |
宝塚歌劇団で最初の東京都出身の 劇団員で日本舞踊に優れた名手であり,芸名は小倉百人一首の一句によりちなんでいる。 |
谷中霊園甲1号1側本名 鳥居栄子 |
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長谷川一夫 |
1908~1984 |
映画俳優 |
谷中霊園甲9号2側長谷川一夫的墓石 |
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児玉誉士夫 |
1911~1984 |
右翼。A級戦犯に指名されたが釈放。 ロッキード事件の被告。政財界の黒幕,フィクサーと呼ばれた。 福島県安達郡本宮町の没落した旧家に生まれた。 玄洋社の頭山満に私淑し,昭和天皇に直訴しようとして捕まり, 半年投獄された後,首相や閣僚の暗殺を計画して,3年半の懲役刑を受けた。日中戦争が始まると,外務省情報部にスパイとして採用され, 中国全土に日本のスパイ網を築き上げた。上海で中国人を脅して,タングステンなどの戦略物資を略奪し, 海軍に売り飛ばし,1億7500万ドル相当の資金を作った。旧海軍の資金を自由党へ無償で提供し, 政党に大きな影響力を持つようになった。また,暴力団の連合を目論み,大物フィクサーにのし上がった。ロッキード社の秘密代理人となり, 日本政府や韓国政府に同社の航空機を選定させる工作をし,小佐野賢治を通じて買収を行ったことがアメリカで発覚し, 脱税と外為法違反で起訴された。その後病没。 |
本門寺 |
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忠犬ハチ公 |
1923~1935 |
秋田県大館市出身の秋田犬 東京帝国大学農学部教授・上野英三郎に飼われる。 上野の存命中は,玄関先や門の前で上野を見送り,時には最寄駅である渋谷駅まで送り迎えした。 上野急死後も,毎日渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けた。 フィラリアにより死去。 剥製は国立科学博物館に保存されている。 |
青山霊園1種ロ6号12側上野教授よりもハチ公の方が大事 |
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力道山 |
1924~1963 |
プロレスラー。元力士。本名:出生時は金信洛後に長崎県大村市の農家の養子となり百田 光浩関脇に昇進するが,に自ら廃業,プロレスに転向。渡米し,日本プロレス協会を設立する。赤坂のキャバレーで暴力団員に刺されて入院し死亡。 |
大田区池上1本門寺本門寺で墓の案内看板が建っているのは力道山だけ |
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坂本九 |
1941~1985 |
本名:大島 九俳優・歌手。 神奈川県川崎市川崎区出身 |
長谷寺港区西麻布2-21入口の球が印象的 |
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沖雅也 |
1952~1983 |
本名:日景城児俳優大分県別府市出身 |
長谷寺港区西麻布2-21花束が多いのは偶然かファンがいるためか |