維新前世代の墓

人物名
生年〜没年
経歴
生誕地・終焉地・墓所在地
写真
紫式部
979
1016
源氏物語の作者
京都市北区紫野西御所田町
   
 
 
今川義元
1519〜
1560
戦国大名。
駿河国の守護大名・今川氏の第7代
名古屋・桶狭間
 
名古屋にあるのは墓碑。墓に骨は埋まっていない。
 
墓は静岡。
 
 
織田信長
 
1534
1582
戦国時代の武将。
天下統一目前にして部下の
明智光秀に襲撃され絶命した。
京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町
本能寺
 
 
服部半蔵
1542
1596
三河国の武将。
徳川家で伊賀忍者の首領。
戦いで槍働きの戦功を重ね
「鬼半蔵」とあだ名された。
伊賀同心は江戸城西側の門外に
屋敷を与えられ警備を
担当したことから,
その門は半蔵門と呼ばれた。
 
新宿区若葉2−9
西念寺
 
寺は半蔵のために建てられたもの。
名も知らぬ寺の小さい墓
 
 
 
徳川家康
1543
1616
徳川幕府初代
日光東照宮
 
  
 
大久保彦左衛門
1560〜
1639
戦国時代の武将。
港区白金2
立行寺
 
大久保講ができていたらしい
今は訪問者は皆無
 
墓はガラスのケースの中に入っている
 
歴代大久保彦左衛門の墓が並んでいる
 
  
 
 
 
一心太助
 
大久保彦左衛門に愛された魚屋
伝説の人物
港区白金2
立行寺
 
  
 
細川ガラシャ
1563
1600
明智光秀の三女。
細川忠興の正室。
本能寺の変の後,幽閉され
キリシタンとなる。
関が原の乱直前に石田三成が
人質に取ろうとしたが,付き人に胸を
突かせて自害した。
京都市北区紫野大徳寺町53
京都大徳寺高桐院
 
 
森蘭丸
1565
1582
織田信長の小姓。
信長と共に本能寺で戦死。
京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町
本能寺
 
 
黒田長政
1568
1623
筑前国福岡藩主。
父は黒田考高(官兵衛,如水)
関ヶ原の戦い後,家康から
筑前52万3000石を与えられた。
渋谷区広尾5−1−21
祥雲寺
 
蜘蛛の巣多し
 
  
 
豊臣秀次
1568
1595
豊臣秀吉の姉の子。
秀吉の養子となり関白となったが,
秀吉に実子・秀頼が生まれたため切腹させられた。
三条河原に晒された首を入れた器が
墓石の中段に嵌め込まれている。
京都市中京区木屋町三条下ル 
瑞泉寺
 
 
森孫右衛門
15??
1661
徳川家康が江戸に入った時,家康に従うように
摂津国西成郡佃村の名主森孫右衛門が,
佃及び隣村大和田村の漁師三十四名と共に
江戸に出てきた。
江戸向島(佃島)を拝領し,
江戸近辺の海川の漁業権を与えられ,
徳川家の御膳魚を納める役を与えられた。
その後,納魚の余りを日本橋小田原河岸で販売した。
これが魚河岸のはじまりで,
森孫右衛門ら一族がその始祖。
築地本願寺
 
  
 
お岩さん
15??〜
1636
お岩さん没後田宮家では災いが続いた
墓は豊島区西巣鴨4−8妙行寺
 
寺の案内標識は親切
今も根強い人気
 
 
妙行寺
   
四谷・於岩稲荷田宮神社      四谷・陽運寺 井戸
 
 中央区新川・於岩稲荷田宮神社      同左百度石
 
柳生宗矩
1571〜
1646
徳川将軍家の剣術師範。
大和国柳生藩の初代藩主。
将軍家師範としての江戸柳生の
地位を確立した剣豪。
広徳寺
練馬区桜台6−20
 
拝観拒絶の札がある
良く整備された禅寺
 
右から宗矩,十兵衛,宗冬
 
  
 
 
 
沢庵和尚
1573〜
1646
臨済宗の
大徳寺住持。
但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。
紫衣事件で出羽国に流罪となり,
その後赦されて江戸に万松山東海寺を開いた。
書画・詩文に通じ,茶道にも親しみ,
多くの墨跡を残している。
沢庵漬けの考案者ではない。
品川区北品川4
東海禅寺
 
所々空地の残る墓地
 
  
 
徳川秀忠
1579〜
1632
江戸幕府第二代将軍
港区芝公園4
増上寺
 
  
 
林羅山
1583〜
1657
朱子学(儒教)者
藤原惺窩(せいか)に師事し
師の推挙により家康に取り立てられ,
武家諸法度などを起草した。
方広寺の鐘銘問題では故意に
豊臣家を窮地に追い込む読み方をした。
以来林家は大学頭を世襲し
江戸幕府の学政を司った。
2世から6世までは羅山直系だが
7世は優秀な弟子が養子に入り,
8世は幕命により美濃岩村藩主の3男が
継ぎ以後8世の血筋が継いだ。
羅山の弟の家系は存続した。
新宿区市谷山伏町1−15
林家墓地
 
墓地は11月初旬に公開される
 
 
岡本玄治
1587〜
1645
三代将軍家光の痘瘡を治した
渋谷区広尾5−1−21
祥雲寺
 
 
 
  
 
千姫
1597〜
1666
徳川秀忠の長女。
政略結婚で豊臣秀頼と結婚。
文京区小石川3−23−6
伝通院
 
巨大な墓
 
  
 
伊皿子
いんべいす
?〜
1662
明国の内乱を避けて芝浦に漂着した
七人のうちの1人。
王三官。
長応寺内に住む
洒落者でエビス又はイビスと言われた。
帰化した際,伊皿子と名乗る。
死後長応寺の末寺の常詮寺に葬られたが
常詮寺が廃寺となり墓は行方不明となっていた。
1940年発行の「東京掃苔録」によると
正源寺の門前左手に伊皿子の墓があったという。
墓碑には「安珠院日種霊」「寛文2年10月19日」
と書かれていたという。
港区高輪2−1
正源寺
 
寺自体も誰の墓だか把握できていない
のであろう
 
碑文に「安珠院日種霊」と書かれている。
 
  
 
狩野探幽
1602〜
1674
江戸時代の絵師。京都生まれ。 狩野永徳の孫。
狩野派を代表する絵師。
11歳のとき,駿府で徳川家康に謁見。
15歳にして将軍の御用絵師となる。
江戸城二条城名古屋城などの公儀の
絵画制作に携わり,大徳寺妙心寺などの
有力寺院の障壁画も制作している。
山水,人物,花鳥など作域は幅広い。
また,自らが目にした古今の名画を縮図として
模写しており,それらは「探幽縮図」と呼ばれて,
膨大な量が残っている。
池上2−11−15 本門寺墓地 
 
ひょうたん型をしていて, 
都の有形文化財に指定されている。
 
しかし,大正3年に発行された写真集では,
墓は長方形の立派なものであった。
 
  
 
 
 
 
 
探幽の妻
 
徳川家光
1604
1651
徳川幕府第3代将軍
日光輪王寺
 
  
大猷院廟金閣殿(だいゆういん)
 
柳生十兵衛
1607〜
1650
剣豪。
柳生藩主の柳生宗矩(柳生但馬守宗矩)の長男。
徳川家光剣術指南役をつとめた。
後世,片目に眼帯をした姿で描かれることが多く,
これは,尾張の新陰流の伝承に,
幼い頃形の燕飛の月影を修行中に
父・宗矩の木剣が目に当たり失明した
という話や,鳥を虐げた十兵衛が宗矩の怒りに
触れた時に宗矩に挑戦し,
宗矩の投げた石を交わし損ねて
右目に当たった等の話が残っているが,
肖像画は両目があいている。
広徳寺
練馬区桜台6−20
 
真中が十兵衛
 
山鹿素行
1622〜
1685
儒学者兵学者
父は浪人の山鹿貞以。古学派の祖。
陸奥国会津(福島県会津若松市)に生まれる。
幕府大学頭を務めていた林羅山
門下に入り朱子学を,小幡景憲北条氏長の下で
兵学を,廣田坦斎らに神道を,
それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。
朱子学を批判し,播磨国赤穂藩
流罪となり,赤穂藩士の教育などを行う。
宗参寺
新宿区弁天町9
大きな寺
案内はあるが,どれが素行の墓か分かりにくい
 
大正3年発行の写真集に素行の墓前の
乃木大将の写真が載っていた。
素行を信奉していたらしい。
 
冲方 丁(うぶかた とう)の「天地明察」の中では
改暦に反対した人物として登場している。 
 
  
宗参寺
生誕地碑(福島県会津若松市山鹿町1−25)
 
桂昌院
1624〜
1705
徳川家光側室
5代将軍徳川綱吉の生母
名はお玉。
小間使いとして家光の側室の
お万の方に仕えることになり,
大奥で家光に見初められて
家光の側室となる。
綱吉を産み,家光が死ぬと
落飾して大奥を離れ,
筑波山知足院に入る。
4代将軍徳川家綱の死後,
綱吉が将軍職に就くと江戸城三の丸へ入り,
権勢を振るう。
男子の生まれない綱吉に対し,
帰依していた亮賢に僧の隆光を紹介され,
類憐みの令発令に関わったとされる。
女性最高位の従一位の官位を賜った。
 「玉の輿」という言葉はこの桂昌院の
成り上がりによって生まれたもの。
芝・増上寺
法受寺
足立区伊興町狭間935
増上寺は合祀墓
法受寺の方が手厚く葬られている
 
何故法受寺に葬られているかは不明
 
 
増上寺
法受寺
 
北村季吟
1625〜
1705
国文学研究者
源氏物語湖月抄等を著す
歌学方として幕府に仕えた。
以後北村家が歌学方を世襲した。
国文学は後に古代精神の研究に進み
国学へと発展していく。
 
門人に松尾芭蕉がいた。
台東区池之端2−4−22
正慶寺
 
背後に古池がある
 
 
渋川春海
1639〜
1715
日本最初の天文学者
幕府の囲碁打ち安井算哲。
改暦を成し遂げた。 
品川区北品川3
東海禅寺
 
冲方 丁(うぶかた とう)が書いた「天地明察」の主人公。
渋谷の川から渋川と名前変えしたのでしょうか。
関孝和と親交があったことになっている。
 
春海の子孫の末路は「天保の改革の世界」へ
 
 
渋川春海の墓
金王八幡神社
金王八幡神社の算額絵馬
 
吉良上野介
1641〜
1703
旗本。
高家肝煎を勤めた。
中野区上高田4
功運寺
寺は昔千代田区永田町にあったが移転したとのこと
吉良家4代の墓が並ぶ
 
一番左が義央
 
  
 
徳川家綱
1641〜
1680
江戸幕府の第四代将軍
台東区上野桜木1
非公開
 
  
 
 
 
 
 
関孝和
1642〜
1708
和算家(数学者)
上野国群馬県)生まれ。
そろばん算木から抜け出し,
独自の和算の世界を創始する。
甲斐国甲府藩(山梨県甲府市)の徳川綱重
徳川綱豊(徳川家宣)に仕え,
綱豊が6代将軍となると直参となり
江戸へ出る。 
『発微算法』を著す。
ニュートンライプニッツとほぼ同時期に
微分・積分にたどり着いた。
ヨーロッパでライプニッツが行列式
概念に到達する以前に独自に
同じ概念を研究していた。
またヤコブ・ベルヌーイに先駆けて
ベルヌーイ数を発見していた。
関はそれ以前の中国,日本の数学を
吸収した上で,そのレベルを
飛躍的に向上させ,
後の和算の伝統を作った。
新宿区弁天町95
浄輪寺
道案内が丁寧
 
冲方 丁(うぶかた とう)の「天地明察」では
渋川春海と親交があったことになっている。
 
  
徳川綱吉
1646〜
1709
幕府第5代将軍
3代将軍家光の4男
台東区上野桜木1
寛永寺
非公開
 
 
  
 
新井白石
1657
政治家,儒学者,詩人。
江戸生まれ。「火の子」
大老・堀田正俊に仕えたが,
正俊が若年寄・稲葉正休に暗殺された後,失業
後,甲府藩藩主徳川家宣に仕える。
家宣が6代将軍となると正徳の治と呼ばれる改革をはじめる。
元禄金銀を回収し,良質の宝永金銀,
正徳金銀を鋳造して,インフレの沈静につとめた。
又,金・銀の流失を防ぐため長崎貿易縮小政策を取った。
8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し,
公的な政治活動から退いた。
その後は著作活動に入り,「西洋記聞」などを著した。
墓は台東区浅草の報恩寺,
後に中野区の高徳寺に移転される。
中野区上高田1
 建て看板は立っているが分かりにくい
 
新井白石記念ホールが出来ている
 
  
 
 
 
大石内蔵助
1659〜
1703
赤穂浅野家筆頭家老一千五百石。
元禄十四年(1701)三月十四日, 
殿中において吉良上野介義央を相手に
刃傷事件を起こし, 即日切腹した
主君・浅野内匠頭長矩の仇を報ずるため
元禄十五年十二月十四日,四十六人の
元赤穂藩士と共に吉良邸に討ち入り, 
吉良上野介の首級を
内匠頭の墓前に捧げ,翌年二月四日切腹。 
終焉地:都営高輪1丁目アパート奥 細川家下屋敷
 
墓地:泉岳寺
 
   
 
徳川家宣
1662〜
1712
江戸幕府第6代将軍
甲府城主徳川綱重の長男
港区芝公園4
増上寺
 
  
 
浅野長矩
(ながのり)
1665〜
1701
播磨赤穂藩主。内匠頭。
1701年,勅使江戸下向にあたり
接待役になったが,礼式指南の吉良義央に
屈辱を受け3/13江戸城中で義央に
切りつけ,即日除封。
切腹。
終焉地:新橋4丁目交差点に
「浅野内匠守自刃の地」の石碑あり
碑銘が車道側に向いている
 
墓地:泉岳寺
 
 
 
 
 
荻生徂徠
1666〜
1728
儒学者思想家文献学者。
父は幕府将軍徳川綱吉の侍医荻生景明。
綱吉の側用人の柳沢吉保に仕える。
柳沢家を離れて私塾を開き,
やがて徂徠派を形成する。
朱子学に立脚した古典解釈を批判し,
古代中国古典を読む解く方法論としての
古文辞学を確立した。
柳沢吉保や8代将軍徳川吉宗への
政治的助言者でもあった。
吉宗に提出した政治改革論『政談』には,
徂徠の政治思想が具体的に示されている。
 
港区三田四丁目
魚藍坂下長松寺
 
荻生家の墓がいっぱい
 
  
 
八百屋お七
1668〜
1683
1682年暮れの大火で非難した際,
寺小姓の吉三郎と恋に落ち,
恋慕のあまり再会を願って翌年放火した。
火炙りの刑。
文京区白山1丁目
円乗寺
 
円乗寺:手厚く葬られているが,
墓石を欠いて持っていかれている。
 
八千代市萱田町640
長妙寺
 
千葉・長妙寺:実家の菩提寺。
母親が遺髪を貰い受け,
葬ったと言われている
 
  
 
 
紀伊国屋文左衛門
1669〜
1734
紀州みかんや塩で富を築いた話が伝えられる。
元禄年間には江戸八丁堀へ住み,
江戸幕府の側用人柳沢吉保
勘定奉行の荻原重秀
老中の阿部正武らに賄賂を贈り接近する。
上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て
御用達の材木商人となる
深川木場を火災で焼失,材木屋は廃業
江東区三好1
成等院
 
左側の小さいのが墓石
 
  
 
間新六
1681〜
1703
赤穂浪士
築地本願寺
 
  
 
服部南郭
1683〜
1759
儒者,詩人。
京都の人。
柳沢吉保に仕えた。
また荻生徂徠の門下となり古文辞学を修めた。
34歳の時,職を辞して私塾を開いた。
私塾は南郭の深い教養と人柄よって文芸の士達に
評判を呼んだ。
現在でいう入学金は年に150両にも及び
たいへん裕福であったらしい。
 荻生徂徠亡き後,
その教義は二つの方向に枝分かれしていく。
 徂徠の高弟の一人,
太宰春台は経義(儒教の最も基本的な
教えを記した経書の説く道)を推し進め,
一方,服部南郭は詩文に重きを置いた。
品川区北品川3
東海禅寺
 
  
賀茂真淵
1697〜
1769
国学者,歌人。
門下生に本居宣長
品川区北品川3
東海禅寺
 
墓域が広い
鳥居が立っている(神格化されている)
 
  
 
 
 
青木昆陽
1698〜
1769
儒者・蘭学者
大岡忠相の知遇を得る。
徳川吉宗の命により蘭学を学ぶ。
救荒食物として甘藷の栽培を勧める。
目黒区下目黒3
目黒不動尊 滝泉寺墓地
 
墓銘は「甘藷先生の墓」となっている。
 
  
 
徳川家継
1709〜
1716
幕府第7代将軍
第6代将軍家宣の四男。
港区芝公園4
増上寺
 
  
 
徳川家重
1712〜
1761
幕府の第九代将軍
八代将軍吉宗の長男。
港区芝公園4
増上寺
 
 
 
田沼意次
1719〜
1788
旗本の息子。
8代将軍吉宗に登用され,第9代将軍家重の小姓。
家重没後,大奥の支持を得て大名。
第10代将軍家治時代は側用人・老中。
重商主義政策に基づく幕政改革を手がけた。
町人・役人の生活が金銭中心のものとなり,
贈収賄が横行,農民が田畑を放棄し農村が荒廃,
印旛沼干拓工事失敗,明暦の大火・浅間山の大噴火,
天明の飢饉,治安の悪化,一揆・打ちこわしが激化した。
外国との貿易により国内の金保有量を高め,
蘭学を手厚く保護し,
実力主義に基づく人材登用も試みたが,
保守的な幕府閣僚の反発を買い,
息子の意知が江戸城内で佐野政言に
暗殺された事を契機とし,
将軍家治の死後失脚した。
失脚後は蟄居を命じられ,領地も没収された。
豊島区駒込7−4−14
勝林寺
 
墓地に案内板無し
勝林寺は田沼意次によって再建された
 
 
 
山県大弐
1725〜
1767
兵学者・尊王論者
甲斐国出身。
江戸で家塾を開き吉田松陰ら多くの門下生がいた。
幕政批判を行い,捕らえられ,翌年死亡した。
新宿区舟町11
全勝寺
 
左から2番目が大弐の墓
 
  
 
平賀源内
1728〜
1780
高松藩出身
長崎で医学・本草学を学び江戸に出て
物産会開催で名を上げる。
エレキテルを復元製作。
火浣布,寒暖計を発明。
幕府に仕えようとしたが成らず。
 
台東区橋場2丁目
八重樫製作所脇入る
 
  
 
杉田玄白
1733〜
1817
蘭学医。若狭国小浜藩医。
江戸に生まれ,西玄哲や宮瀬竜門に医学を学ぶ。
前野良沢,中川淳庵,桂川甫周らとともに
小塚原刑場で死体の腑分け(解剖)を実見し,
オランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を和訳し,
『解体新書』として刊行した。
回想録として『蘭学事始』を執筆し,
後に福沢諭吉により公刊される。
港区虎ノ門3 栄閑院 愛宕山の西側麓
 
訪れる人も無し
 
 
 
 
伊能忠敬
1745〜
1818
測量家。
台東区東上野6
源空寺
 
寺とは道路ひとつ隔てた墓地にある。
他の墓石と比べて少し大振り。
 
 
塙 保己一
1746〜
1821
盲目の国学者。
5歳のときに肝臓を患い7歳で盲目になった。
国学を究め正編666冊から成る群書類従を編纂した。
和学講談所で教えた。
 
保己一の四男・次郎も和学講談所で教えたが,
老中の命により廃帝の前例を調べている
との噂により伊藤博文らに暗殺された。
 
新宿区若葉2−8
愛染院
 
 
喜多川歌麿
1753〜
1806
浮世絵師。
世田谷区北烏山4
専光寺
 
蝉の声が似合う田舎の寺
墓石には「北川」と書かれている
墓石の上部左側が欠けているのは
関東大震災で被災したためか
 
  
 
佐野政言
1756〜
1784
田沼意次の息子の意知に斬りつけ殺害した。
後切腹。
これをきっかけに意次は失脚。
 
刃傷に及んだ翌日に米価が下落したことから,
多くの庶民から「世直し大明神」として墓参を受けた。
 
動機は私怨とも言われている。
 
台東区西浅草1−3−11
徳本寺
 
安物の墓石であったのであろう,
ぼろぼろに欠けている。
幕府からは発狂者扱いであったため,
田沼意次の立派な墓石と比較して哀れ。
 
 
  
 
松平定信
1759〜
1829
在職中は祖父吉宗の享保の改革を手本に
寛政の改革を行う。
前の為政者である田沼意次時代の,
重商主義政策と役人と商人による利権賄賂政治から,
朱子学に基いた重農主義による飢饉対策や,
厳しい倹約政策,
役人の賄賂人事の廃止,旗
本への文武奨励などに方針転換した
江東区白河1
霊厳寺
 
 
葛飾北斎
1760〜
1849
浮世絵師。
フランス印象派に影響を与えた。
代表作は「富嶽三十六景」「北斎漫画」。
は「画狂人」「卍」など。
台東区元浅草4−6
誓教寺
 
寺の中では北斎の墓は別格の扱い
 
  
 
酒井抱一
1761〜
1829
絵師。
播州姫路五十万石の藩主・酒井忠以(ただざね)の弟。
尾形光琳の下で琳派の画風を受け継ぎ発展させた。
風雨草花図は光琳の風神雷神図の裏面に描かれたもの。
築地本願寺
中央区築地3−15−1
 
 
 
土生玄碩
はぶげんせき
1768
or
1762〜
 
1853
or
1848
ドイツ人医師シーボルトから眼病治療法を学んだが,
彼の帰国に際し将軍下賜の紋服を贈った
ことからシーボルト事件に連座させられた。
築地本願寺和田掘廟所
杉並区永福1−8
 
目玉の形を想起させる墓石がすばらしい
 
築地本願寺
中央区築地3−15−1
 
 
和田堀廟所
築地本願寺
 
め組の辰五郎
?〜?
1805年に芝明神社でめ組と相撲取りとの大喧嘩があった。
め組の富士松と相撲取りが小競り合いになり,
長治郎が半鐘を叩いたため,大勢の火消し・力士が集結。
富士松は3日後に亡くなった。
この裁きについて南町奉行・根岸肥前守鎮衛は
芝明神の半鐘がかってに鳴り出したのが
喧嘩の原因であると断罪,
この半鐘に遠島を申しつけるという粋な計らいをした。
力士・九頭竜,め組・辰五郎・長治郎の3人が
江戸払いになった。
遠島にされた半鐘は明治になってから
芝明神に帰ってきた。
港区高輪2−14
正覚寺
 
  
 
四つ車大八
1771〜
1809
め組の喧嘩で大活躍した力士。最高位は前頭3枚目。
江東区東砂1−4−10
因速寺
 
墓石の左肩が欠け,年代を感じさせる
 
 
間宮林蔵
1775〜
1844
冒険家。
常陸国筑波郡の農民の子。
北樺太を探索し,間宮海峡を発見した。
シーボルト事件を幕府に密告した。
江東区平野2−7−8
 
本立院(平野1−14−7)からは離れた場所にある。
 
  
 
二宮尊徳
1787〜
1856
農村復興運動を指導した篤農家・思想家。
文京区本駒込3
吉祥寺
 
目立つところにあるが,墓石だけの模様
 
  
 
徳川家慶
1793〜
1853
江戸幕府の第12代将軍
港区芝公園4
増上寺
 
  
 
千葉周作
1793〜
1856
北辰一刀流の創始者。
 
北辰一刀流の門下からは幕
末の剣客が多数輩出されている。
豊島区巣鴨5−35−6
本妙寺
 
本妙寺は案内板が完備されている。
 
  
 
遠山金四郎
1793〜
1855
旗本。
江戸北町奉行,南町奉行を勤めた。
豊島区巣鴨5−35−6
本妙寺
 
訪れる人が多い
 
  
 
渡辺崋山
1793〜
1841
蘭学者・画家
三河国田原藩家老
幕府の保守的海防方針を批判したため
蛮社の獄に連座し,国元で蟄居中に自殺。
貧しさをしのぐ目的で谷文晁南画学び,
西洋画の手法を取り入れた
肖像画「鷹見泉石像」などの名作品を残す。
生誕地は現在最高裁のある場所
 
  
 
水野忠邦
1794〜
1851
幕府老中となり,天保の改革を実施したが
時代に逆らえず失敗
世田谷区北烏山6−23−1
妙高寺
 
 
鳥居耀蔵
1796〜
1874
南町奉行
水野忠邦の三羽烏
文京区本駒込3
吉祥寺
 
 
鼠小僧次郎吉
1797〜
1832
大名屋敷を専門に荒らしたため,
庶民に人気があった。
本業は鳶職市中引き回しの上,
鈴ヶ森にて磔串刺となった。
墨田区両国2−8−10
回向院
 
荒川区南千住5
回向院
 
どちらの回向院でも古い墓石は
お守り代わりに削り取られている。
半ば公認。
 
 
   
南千住・回向院         両国・回向院

 

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