
無限を読む者
応用解釈学ジャーナル
Number 3, Volume 1
ロサンゼルス, 1996年3月
筆
者の注:
考え方を配布することがこのジャーナルの唯一の目的である。ここで提案する考え方は、西洋人にとってかなり異質であるため、ジャーナルの様
式はそれらの考え方の性質に適応させなければならなかった。私が参照する考え方は、弟子に付いた13年の間、私を古代メキシコの呪術師の認識する世界に導
いたドン・ファン・マトゥスというメキシコ人インディアンの呪術師、つまりシャーマンによって提案されたものである。私は、これらの概念を、彼がしたのと
同じように、直接的で簡潔、そして使える限りの言語を使って紹介するつもりである。これは、ドン・ファンが彼の教えのあらゆる面を案内した方法だった。そ
れは、彼と交流しはじめた時から私の注意を引き付け、言語用法の明晰さと正確さにおいて私の人生の目標の一つとなった。
私がこのジャーナルの出版を企てたのは1971年にまでさかのぼる。私がこの様式を何人かの編集者に見せると、学術的なジャーナルの様式にも従っていな
かったし、雑誌や時事通信の様式にも従っていなかったので、すぐさま私に送り返されてきた。ジャーナルに含まれる考え方がそれらの3つの確立したジャンル
を融合した様式を要求するほど異質なのだと私は主張したが、彼らに出版することを納得させるほどに十分な力を持っていなかった。その時、私がジャーナルの
タイトルとして考えていたのは、民族的解釈学.ジャーナル(The Journal of
Ethno-Hermeneutics)だった。数年後、私は、実際にその名前の付いた出版物が出回っていることを知った。
現在、私はこのジャーナルを出版する立場にある。それは、商業化する試みではなく、何かに分類される弁証学の伝達手段としてである。私は、哲学的思索の
西洋人の世界と、見ること(seeing) − 古代メキシコのインディアン呪術師やその文化的後継者のドン・ファン・マトゥスとその集団の観察 − と
を結び付けることを思い描いている。
ドン・ファンの認識する世界に立ち入って以来、私は、彼が私に教えことについて誠実であり続けようと誓った。自慢ではないが、35年間、私はこの約束を
守り続けたと言える。今、それはこのジャーナルの概念と進展に影響している。それはドン・ファンの見ること − 観察 − の一つに従っている。彼はそれ
を無限を読むこと(reading infinity)と呼んだ。彼は言った。思考が空っぽになり、彼が「内的沈黙(inner
silence)」と呼ぶものを得た時、見る者の目に地平線は1枚のラベンダーのシートとして現れる。そのラベンダーのシート上の一点の色がザクロの実の
ようになる。そのザクロの実のような点が突然膨れ上がり、読むことのできる無限になる。私たちの歴史の中のこの瞬間、私たち人間は読む者であると言うこと
ができる。それは哲学的テーマや教育的マニュアルを読んだかどうかにかかわらない。ドン・ファンの考える価値ある挑戦は、そのような読む者が無限を読む者
(readers of
infinity)になることである。このジャーナルが、精神的にも実践的にも、そのような挑戦に適合していることを私はみなさんに保証する。それは内的
沈黙から生じる。それは、無限を読む者となるすべての人への招待状である。
こうした議論の観点から、私の集団全員の支持もあって、このジャーナルの名称を、長い間使ってきた「戦士の道(The Warriors'
Way)」という名称から、今まで使わなかった「無限を読む者(READERS OF INFINITY)」に変更することを決めた。

現
象学とは何か?
現象学(Phenomenology)とは、ドイツの数学者であり哲学者でもあったエドマンド・グスタフ・フッサール(Edmund Gustav
Husserl)(1859-1938)によって提案された哲学的方法あるいは哲学的体系であり、1900年から1913年にかけて出版された「論理学研
究(Logical Investigations)」という3巻の記念碑的作品の中に示された。
現象学という用語はすでに1700年代から哲学のサークルで使用されていた。そして、それは、意図的な構成要素の領域から意識や体験を抽出することとそ
れらを哲学的枠組みの中で記述することを意味していた。つまり、それは、原初の感覚から理性的思考へと自己の意識の進展させていくことを歴史的に探求する
ことだった。
しかし、それに現代の様式を与えたのはフッサールである。彼は現象学を、本質を学習するための哲学的方法、つまりそれらの本質を人生経験の流れの中に置
く行為であると仮定した。彼は、それを、還元された後に残る残留物だけを扱う卓越した哲学とみなしていた。彼は、この還元することをエポケー
(epoché)、意味を除外すること(the bracketing of meaning)とか判断を一時休止すること(the
suspension of
judgment)、と呼んだ。どのような哲学的科学的探究を参照する時にも、「起源に帰れ」というのがフッサールのモットーだった。起源に帰ることはそ
のような還元を暗示していた。フッサールは、どのような与えられた哲学的探究の中にも、必須の部分、その存在が投影され始める前の世界として、それが注入
されることを期待した。彼は、現象学を、時間と空間の中で生じる流れて止まない経験にアプローチする方法にするつもりだった。それは、発端や原因説明を考
えることを休止することなく、起こったものとして経験を直接的に記述しようとする試みだった。
この仕事を達成するために、フッサールはエポケー(epoché)を提案した。それは、物それ自身からその意味へ、すなわち、客観的な意味の領域 −
科学の核心 − から身近な生活世界の中で経験されたこととしての意味の領域へ、と哲学者の態度を完全に移し変えた。
後に、他の西洋の哲学者は現象学を特定の詳述に適合するよう定義・再定義した。今日では、現象学は、そのままでは定義に反するような哲学的方法である。
それはまだそれ自身を定義する過程にあると言われていた。この流動性(fluidity)は、呪術師の関心事を保持するものである。
ドン・ファン・マトゥスや彼の系統の他の実践者と交流し始めてから、私は呪術的な実践の直接的な体験によって結論を出した。意味を取り除くこと、つまり
フッサールがあらゆる哲学的探究の本質的な還元として仮定した判断の一時休止、は単に哲学者の知性を働かせただけでは成し遂げることは不可能である。
フッサールの学生のマーティン・ハイデッガーと一緒に勉強したという人が私に話してくれたことがある。この還元がどのように成し遂げられたかという実際
的な印について尋ねられた時、フッサールは、「地獄がどのようであるかについて私は知るべきだろうか?
私は哲学者なのだ」と言った。現象学のパラメータを作り直して拡張しようとした同時代の哲学者たちは実際的な事柄を決して扱わなかった。彼らにとって、現
象学は純粋に哲学のテーマであり続けた。それゆえに、この意味を取り除くことは単なる哲学の課題にすぎなかった。
呪術師の世界では、判断の一時休止は、哲学の実用的な探究の望ましい始まりではないとしても、あらゆる呪術の実践に必要である。呪術師は、未知を系統立
てて適切に知覚できるよう自分の知覚できるもののパラメータを拡大する。この偉業を実現するために、彼らは自分の通常の解釈システムの効力を中断しなけれ
ばならない。この行為は好みの問題としてではなく生存の問題として成し遂げられた。この意味で、ドン・ファンの知の実践者は哲学者の知的な課題を越えた段
階へ進む。このジャーナルのこの節で提案することは、哲学者により出された陳述に続くものであり、そしてそれらに関連する呪術師たちの実用的な成果であ
る。彼らが従事した実践は、奇妙なことに、多くの場合、見かけ上、西洋の哲学者たちの提案と同じラインに沿っているのである。

哲
学実用的な方法論としての戦士の道
戦士の道の3つ目の前提は、「知覚はその完全性において意図されな
ければならない」ということである。ドン・ファンは、知覚は知覚であり、それに善し悪しはない、と言った。彼は、全ての呪術師が身を委ねる不可欠の取り決
めである戦士の道の最も重要な構成要素の一つとしてこの前提を提示した。戦士の道の基本的な前提は、我々は知覚する者(perceivers)であるとい
うことなので、私たちが知覚したものは何であっても、ポジティブであるとかネガティブであるとかいうような価値を付加することなく、何にもよらない知覚と
して分類されなければならない、と彼は論じた。
私には、善と悪が宇宙の固有の条件であり、それらは本質であって属性ではない、と主張する自然な傾向があった。無意識の反対陳述であっても、私が彼に論
争をするといつでも、彼は、私の議論には視野が欠けていて、それらは私の気まぐれな知性や私に所属する一定の統語的な整理によって単に規定されているにす
ぎないことを指摘した。
「お前が言っているのは言葉にすぎない」と彼は言った。「言葉は心地よい序列に整頓する。序列はお前の時代の見方による。わしがお前に言っているのは単
に言葉ではなく、わしの航海の書(book of navigation)からの正確な論及なのだ」。
彼がはじめて航海の書について言及した時、私は隠喩だろうと考え、それについてもっと知りたいと思った。私は、そのころ、ドン・ファンが私に言ったすべ
てを隠喩と取っていた。私は彼の隠喩が極めて詩的であることに気付き、それらについて意見を言う機会を決して逃さなかった。
「航海の書か! なんて素敵な隠喩だ、ドン・ファン」その機会に私は彼に言った。
「隠喩、とんでもない!」彼は言った。「呪術師の航海の書はお前のどんな言葉の取り合わせにも似ていない」。
「じゃあ、それは何なんだい、ドン・ファン?」
「それは日誌だ。それは呪術師たちが無限への旅で知覚する全てのものの記録だ」。
「それは、あなたの系統の呪術師全員が知覚したものの記録なのかい、ドン・ファン?」
「もちろん!それ以外に何でありえるのだ?」
「あなたはそれを一人で覚えているかい?」
私がその質問をした時、私は、口述の歴史、つまり人々、特に字で書く言語が生まれる前の時代に生きていた人々、あるいは近代文明の辺境で生きる人々、が
物語の形で記述できるもの、を自然に考えていた。ドン・ファンの場合、私は、その記録の性質が記録的な長さであるはずだと思った。
ドン・ファンは、私の推論に気付いているようだった。彼が私に答える前に、彼はほくそ笑んだ。「それは百科辞典ではない!」と彼は言った。「それは正確
で短い日誌だ。わしはお前にその全てのポイントを伝えるつもりだ。お前はお前やほかの者が何であってもほとんど追加できるところがないことがわかるだろ
う」。
「それがあなたの系統の全ての知の蓄積物だとしたら、ドン・ファン、ぼくにはどうしてそれが短いものなのか想像できないよ」と私は強く主張した。
「無限の中で、呪術師は、ほんのわずかな本質的要点を見つけ出す。そうした本質的要点は無限に並べ替えられるが、わしはいつかお前が見つけ出すことを望
むが、そうした並べ替えは重要ではないのだ。エネルギーは極めて正確だ」。
「でも、呪術師はどうやって本質的要点を並べ替えと区別できるんだい、ドン・ファン?」
「呪術師は並べ替えに焦点を合わせない。彼らが無限への旅の準備ができるまでには、彼らはエネルギーを宇宙の中の流れとして知覚する準備ができている
し、何よりも重要だが、彼らは心の介在なしにエネルギーの流れを再解釈することが可能だ」。
ドン・ファンが、心の助けなしに感覚データを解釈する可能性を初めて言い表した時、私はそれを想像することが不可能であることに気付いた。ドン・ファン
は私の一連の考えにはっきり気付いていた。
「お前はお前の理屈の見地でこれを全て理解しようとしている」と彼は言った。「それはできることではない。知覚は知覚であって、複雑さも矛盾するものも
まったくないという前提を単に受け入れるんだ。わしがお前に話している航海の書は、呪術師が完全な内的沈黙(internal
silence)の状態にある時に知覚したものから成っている」。
「完全な沈黙の状態で呪術師が知覚するものは見ること(seeing)だろ?」私は尋ねた。
「違う」彼は堅い調子で言い、真っ直ぐ私を見た。「見ることはエネルギーを宇宙の中の流れとして知覚することだ。それは確かに呪術の始まりであるが、労
力を費やす事項として呪術師が関心を持っているのは知覚することだ。すでにわしがお前に話していたように、知覚することは、呪術師にとって、心の干渉なし
にエネルギーの直接的な流れを解釈することだ。これが航海の書がそんなに薄い理由だ」。
たとえ私がそれの言葉を理解しなくても、ドン・ファンは、その時、呪術の完全な成り立ちを概説していた。その時彼が私に言ったことに私は生涯取り組むこ
とになった。
「心から自由である時」と彼は言った − 私に理解できない以上のものだった − 「感覚データの解釈はもはや当たり前のことではなくなる。人の完全な
体、エネルギー場の集成体としての体、がそれに役立つ。エネルギーに関して肉体の双子であるエネルギー体(energy
body)、輝く球としての体の鏡像であるエネルギー形状、の寄与が、この解釈の最も重要な部分だ。2つの体の相互作用の結果、善いとか悪いとか、正しい
とか誤りとかとすることができない、無限の中へ旅する者にのみ価値のある不可分の単位として、解釈される。
「なぜぼくたちの日常生活ではそれに価値がないんだい、ドン・ファン?」私は尋ねた。
「なぜなら、人の2つの側面、肉体とエネルギー体、が互いに結合する時、自由の奇跡が起こるからさ。その瞬間、わしらにとって無関係な理由で、わしらの意
識の旅が足止めされていたことをはっきり理解するのだと呪術師は言う。この中断されている旅が結合の瞬間から再び始まる。
戦士の道の欠くことのできない前提が、それゆえに、知覚はその完全性において意図されるであるべきだということなのだ。つまり、宇宙の中の流れとしての
直接的なエネルギーの再解釈は、人の持つ肉体とエネルギー体の2つの本質的な部分によってなされなければならない。この再解釈は、呪術師にとって、完全で
あり、いつかお前が理解ように、意図されていなければならない」。

戦
士の道についての質問
▼
テンセグリティ、反復を行なったり、あなた方の提案することを行なう時のポイントは何でしょうか? 何が得られるのでしょうか? 私は大学になる3人の子
供を持つ中年女性です。私の結婚生活は安定したものではありませんし、肥満度もかなり高い。私は何をやればよいかわかりません。 ▲
|
以前、他のケースで私が話したのとまた同じで、これは私にとっては新しい質問ではない。私は何回も私の言い方でそれをドン・ファン・マトゥスに言い表し
た。私や他の弟子が持ち出すこのような質問に彼が答える時にはいつも彼が言及した2つのレベルの抽象概念がある。私は、絶望、落胆、そして無駄といった同
じような気分の中で、同じことをある時あるいはまた別の時にすべて質問したことを知っている。
1つ目のレベル、実用性のレベルで、ドン・ファンは、マジカル・パスを行うことで実践者が自然に無上の幸福感へ導かれることを指摘した。
「マジカル・パスを計画立てて行ったことに起因する肉体的・精神的な武勇は、」彼は言ったものだった。「明白で、その効果についての議論の余地はない。
その全ての利益や無駄の可能性を考えることをやめずに実践することが必要かどうかはどうでもよいことだ」。
私には、ドン・ファンの残された弟子にも、私にこの質問を持ち出す人にも決して違いはない。私の欠点は途方もなかったので、私は自分が戦士の道に適して
いないと感じ、信じていた。ドン・ファンが私に自分の欠点が何か尋ねた時、私をそれほど深く苦しませていた欠点について説明することができず、私はぼそぼ
そ言っていた。私は、自分の生涯の全てに印されているように思われた挫折感を彼に言うことによって全てを解決した。私は、私自身が捕らえどころのない大ば
か者を完璧に演じるチャンピオンであると考えた。この感覚は疑念や苦難の中に、そして私が為す全てを正当化する終わりなき必要性の中に表れた。私は、ド
ン・ファンが不可欠なものとして数え上げた領域の中で、自分が弱くて訓練されていないことを知っていた。一方では、私は、彼にとって全く興味のない領域で
非常に訓練されていた。私の敗北主義的な感覚はこの矛盾の最も自然な成り行きだった。私が彼に対する疑念を力説し、再び主張した時、自分自身について執拗
に考えることは彼の知る中で最も疲れるものの一つであることを指摘した。
「自分自身についてだけ考えることは」とかって彼は私に言った。「奇妙な疲労、のみこんで溺れ死にさせるような疲労、を生み出す」。
年が過ぎ、私はドン・ファンの主張を理解し、十分に受け入れるようになった。私の結論は、彼の全ての弟子の結論と同じように、人が最初にやらなければな
らないことは、自分に関する執着に気付くようになることだということである。私たちの出したもう一つの結論は、この関心事から離れること − 知的には成
し遂げることができない何か − のために十分なエネルギーを持つための唯一の方法がマジカル・パスを実践することであるということである。その実践はエ
ネルギーをもたらし、そしてエネルギーは驚くべきことを成し遂げる。
もしマジカル・パスを行うことと、呪術師が反復(recapitulation)と呼ぶ、綿密に人生経験を眺め再検討することとを結びつけたとしたら、
人が内省の支えから抜け出すチャンスは何倍にもなる。
これは全て実用性のレベルについてである。ドン・ファンが言及したもう一つのレベルは、彼が不思議な領域(magical
realm)と呼ぶものである。我々は実に不思議な存在であり、我々が死にゆくという事実が我々を強くし確固たる者にするというのが呪術師の信念である。
もし我々が戦士の進む道(warriors' path)に厳格に従うとすれば、死にゆく存在(beings that are going to
die)になるように自分の死を導く力として使うことができると固く信じている。死にゆく存在であるからには不思議であり、彼らは疲れや擦り切れや破れに
よって死がもたらされて死ぬのではなく、彼らは意識の旅を続けるのである、と彼らは信じている。疲れや擦り切れや破れによって彼らが死にゆくのを意識する
力は、もし彼らが自分の不思議な性質を矯正しなければ、彼らを独特で機知に富んだものにする。
「わしらの生の与えられている時に、もしわしらが強く望むなら」ドン・ファンはかって私に言った。「その不思議な独自性と力は、まるで恥ずかしがり屋の
ように、非常に穏やかにわしらの生へやって来る」。
ブルー・スカウトは、かって、私にとって、我々の不思議な面の回復を最も適切に描写をしていると思える詩を書いた。
天使の飛翔
ブルー・スカウト作
運命づけられた天使がいる
暗い霧の中へ下方へ飛ぶように。
しばしば、彼らはそこに捕らえられ、
そして、ある期間、彼らは翼を失い
そして、彼らは迷わされた、
時にはほとんど一生の間。
それは本当は問題ではなく、彼らはまだ天使である。
天使は決して死なない。
彼らはいつの日か霧が晴れることを知っている、
ほんの一瞬であったとしても。
そしてその時、自分が回帰されることを彼らは知っている、
最後には、
黄金色の空のそばで。

テ
ンセグリティ・ログ
エネルギーの場として我々を保持する力
テンセグリティの元となったマジカル・パスを発見・発展させた古代メキシコの呪術師たちは、ドン・ファンの説明によれば、それらのパスを行うことは卓越
したものを実感するよう身体を準備し導くと主張した。エネルギー場の集成体として、人間は個々のエネルギー場が互いに振動・接合する力(a
vibratory, agglutinating force)によって簡潔で凝集した単体に保持されていることを実感するのである。
ドン・ファン・マトゥスは、古代の呪術師の提案を私に告げる中で、マジカル・パスを行うことは、彼の知る限りでは、振動する結合力に完全に気付くように
なるための基礎を固める唯一の手段であることを非常に強調した。それは戦士の道の全ての前提を自分のものにして実践に入った時に起こるものだった。
それらの前提を具体化した題目にすることが教師としての彼にできることだった。言い換えると、それらを我々の日常生活の編成単位に変え、私や彼の他の弟
子たちにとってもっともらしい仕方で彼は戦士の道の前提を扱ったのである。
彼の論点は、エネルギー場の集団を互いに保持するこの振動・接合する力だった。それは現代の天文学者が宇宙の全銀河系の核に生じているに違いないと信じ
るものと同じであるように思われる。彼らは、それらの核で、計り知れない強い力が銀河系の星々を所定の位置に保持していると信じている。ブラックホールと
呼ばれるこの力は、なぜ星々がその回転運動によって飛び去ってしまわないのかを最も合理的に説明すると思える理論構成である。
現代人は、科学者の研究を通じて、原子の構成要素を互いに保持する結合力(binding
force)があることを見出した。同じように、細胞の構成要素は、具体的な特定の組織や器官の結合を強制する同じような力によって互いに保持されてい
る。ドン・ファンは、古代メキシコの呪術師が、エネルギー場の集成体として考えられる人間は、エネルギーの包み紙とかエネルギーの靭帯によってではなく、
あらゆるものを生かし適切にするある種類の振動によって互いに保持されていることを知っていたと言った。あるエネルギー、ある振動する力、ある力がそうし
たエネルギー場を単一のエネルギー的ユニットに結合しているのである。
それらの呪術師は、いったんそれに気付いてしまうと、実践と修練によって、その振動する力を操ることができるようになったとドン・ファンは説明した。そ
れを扱う彼らの専門技術は、とても並外れていて、彼らの行為は、寓話だけに存在するような伝説、神話的出来事に変えられた。例えば、ドン・ファンが古代の
呪術師について話した物語の1つが、彼らが自分の意識を最高にしてその力に集中するだけで、彼らの物質的肉体を分解することだできたというものだった。
ドン・ファンは、もし必要であると考えたならば、彼らは、実際に針穴を通り抜けることもできたが、彼らは肉体を分解するというこの操作の結果に決して満
足していなかったと述べた。彼らの不満の理由は、肉体を分解された時の彼らの行動能力だった。彼らには、自分の参加できない出来事を目撃するという選択し
か残されていなかった。行動することができないという結果に続く彼らの失望は、ドン・ファンによると、彼らの破壊的な傷となった。彼らはその振動する力の
性質を暴くことに取り付かれた。具象化することに取り付かれ、彼らはその力を保持し支配することを望んだ。彼らは肉体のない幽霊のような状態から抜け出す
ことを強く望んだが、それは決して成し遂げることができなかったとドン・ファンは言った。
古い呪術師の文化的な継承者である現代の実践者は、その振動の力を具体的で実用的なものにすることはできないことを悟り、唯一理性的な選択肢を選択し
た。知による気品と幸福以外に目に見える目的としてその力を意識しなくなった。
唯一この振動・接合する力の利用をドン・ファンに許される場合が、呪術師がこの世界から去る時、呪術師が内から燃えることである。呪術師が燃えることを
意図して自分の全意識を結合力に置くことは簡単なことであり、そして彼らは消えてしまう、ひと吹きの風のように、とドン・ファンは言った。

Top