ホーム ページ書籍関連のページ応用解釈学ジャーナル > 応用解釈学ジャーナル No. 4
トルテック・アーツU






無限を読む者

 

応用解釈学ジャーナル

 
Number 4, Volume 1
ロサンゼルス, 1996年4月

 



 
筆 者の注:

 
 新たに発行されるこの4月発行の《無限を読む者:応用解釈学ジャーナル》は、最初の3巻の発行物と併せて、オリジナルの4巻1セットに属する。つまり、 これは4という数字を秩序と永続の暗示とする呪術師の考えと調和していると思われる。
 どのような性格のものであったとしても、このジャーナルが一時的なもので終わらないことを著者は最も望んでいた。この場合、このジャーナルは書籍の形式 の出版物となることとなったように思われる。それはそれでよい。すでに4巻目の発行物は3月遅くに仕上がって印刷の用意ができたので、それを月刊誌として 出版する機会を捨てることができなくなった。





哲 学的探究の新しい領域

 
 このジャーナルのこれまでの発行物で、我々は、解釈の方法としての解釈学の考え方、現象学的方法の考え方、そして意図性の考え方について簡単に論じてき た。私は、今、哲学的探究の新しい領域の可能性を概説したい。この話題の解明は、古代メキシコの呪術師、つまりシャーマンによって展開されたある概念の定 義によっている。
 呪術師の活動と信念の基礎となる第1の概念は、見ること(seeing)と呼ばれる。見ることは、呪術師によれば、人間が宇宙の中の流れとしてエネル ギーを知覚する、彼らがそう信じる、能力を意味している。呪術師は、知覚のための乗り物として我々の有機体全体を使って、エネルギーを宇宙の中の流れとし て直接的に知覚できると主張する。それは彼らの実践によって実証されるものである。
呪術師は、我々が日常生活で認識する部分としての身体と、我々の認識システムの部分ではないエネルギー的なユニットとしての有機体全体を区別する。このエ ネルギー的なユニットは、内臓やそれらを流れるエネルギーなどの身体の不可視の部分が含まれる。彼らは、この部分を用いてエネルギーを直接的に知覚できる と断言する。
 我々が世界を知覚する習慣的な方法は、視覚が支配的であるので、呪術師はエネルギーを直接的に理解する行為を見ることと言った。呪術師にとって宇宙の中 の流れとしてエネルギーを知覚することは、エネルギーが一貫性をもって繰り返し現れる特異性のない明確な形状を取ることを意味する。そして、それは見る誰 にとっても同じ言葉で理解できるものである。
 エネルギーが一貫性を持った明確な形状を取る最も重要な例が、人間の身体をエネルギーとして直接に知覚した時である。呪術師は、全体的に輪郭のはっきり した発光する球という印象を与えるエネルギー場の集成体として人間を知覚する。この意味で、エネルギーはユニットとして凝集する結合力を持つ振動であると 呪術師は述べている。エネルギー形状で構成されている全宇宙は、見る呪術師にとって、もつれることなくあらゆる方向へ伸びる細糸、あるいは輝く繊維として 現われると彼らは述べている。これは直線的な考えでは理解できない主張である。それは解けない矛盾を含んでいる。どうしてその繊維はもつれることなくにあ らゆる方向に伸びているのか?
 呪術師は、現象学的方法の自然な実践者であり、事象を述べることができるだけである。もし説明する言葉が不十分で矛盾しているとしたら、それは統語法の 制限のためである。それでも、彼らの説明は何よりも厳格である。宇宙全体を成す輝くエネルギーの繊維はあらゆる方向へ無限に伸びて、それでも、それらはも つれないのである。それぞれの繊維はそれぞれ個別で、具体的な形状である。それぞれの繊維はそれ自身が無限である。
これらの現象をより適正に扱うためには、おそらく、それらの説明を全く違うやり方で組み立てることが適切である。呪術師によると、全く無理な考えではな い。なぜなら、エネルギーを直接的に知覚することはあらゆる人間に達成できることだからである。呪術師は、この状況が、進展的な同意、どのように宇宙を説 明するかという合意を通して、人間の到達しえる可能性と一致することを議論する。
 この解明について綿密に調査するに値する呪術師の別の概念は、彼らが意図(intent)と呼ぶものである。彼らは、それを、全宇宙に充満する永続的な 力と述べている。その力は呪術師の合図や命令に適切に応じるようそれ自身を意識している。彼らは意図を使う行為を意図すること(intending)と呼 ぶ。意図することによって、呪術師は、彼らが言うには、全ての人間の知覚の可能性だけでなく、全ての人間の行為の可能性を解き放つことができる。彼らは、 意図を通して、最もありそうにない記述を理解できると断言する。
 呪術師の知覚能力の限界は、人の帯域(band of man)と呼ばれる。それは、人間の能力には人間の有機体によって規定される境界があることを意味している。これらの境界は、厳粛に考えられている単に伝 統的な境界ではなく、人間の有機体の中にしまい込まれた力量の総計の境界である。呪術師は、決してこれらの力量が使われず、限界についての我々の先入観に よって元の位置(in situ)に引き留められていると信じている。その限界は、我々の実際の潜在能力とは関係ない。
宇宙の中の流れとしてエネルギーを知覚することは独断的なことでも特異なことでもないので、見る者が目撃するのはそれ自身によって引き起こされるエネル ギーの公式化であり、我々の部分である解釈の産物ではない、というのが呪術師の記述する観点である。呪術師は、そのような公式化を知覚することは、それ自 体で機能するものであり、使われることなくしまい込まれた人間の潜在能力を解放する鍵であると言明する。エネルギーのそのような公式化は、当然、人の意思 作用とか介在と無関係に起こるので、新しい主観性を作り出しえる。これらのエネルギーの公式化は、見る全ての人間にとって接点があって同質であり、呪術師 にとって、新しい相互主観性の根拠となる。
 呪術師によると、日常生活の主観性は言語の統語法によって規定される。世界を知覚するには、生まれた瞬間から、時間の経過に従って成長していくことの産 物であると思われるような、上手い具合に配置された伝統的な命令を使って、直接的に教えていくガイドラインと教師を必要とする。呪術師は、この統語論のガ イドラインによるしつけに起因する相互主観性は、統語論の記述命令によって自然に支配される、と主張する。彼らは、「私は恋している」という陳述の、我々 の全てによって相互主観性を共有される感覚を例として上げた。そしてそれが、記述命令を聞くことによって解放されることを彼らは指摘した。
 一方、宇宙の中の流れとしてエネルギーを直接的に知覚することに起因する主観性は統語論に左右されないと呪術師は確信している。解説したり指図したりす るのにこれとかあれとか指摘することはガイドラインや教師を必要としない。呪術師の間の相互主観性の結果は、彼らが力(power)と呼ぶ、個人によって 呼び集められる全ての意図することの総計によって存在している。そのような相互主観性は、統語論の命令とか誘導の助けによって引き出されたものではないの で、この主観性は人間の有機体全体の、一つの目的に固着する作用、直接的なコミュニケーションを意図すること、の直接的な副産物である、と呪術師は主張す る。
 要約すると、意図性(intentionality)あるいは意図すること(intending)は、呪術師にとって、あらゆるものを促進する力である 意図(intent)を実際的に利用することである。彼らにとって、意図は達成のための実用的な水路であり、意図性はそれを使う方法である。それは、西洋 人の哲学的論説のような、基本的な感覚から知を生じえる複雑な過程へ人間の意識が発展していくという単なる知的な話ではない。呪術師が人生や生活にアプ ローチするのに徹底して実用本位であるとすれば、意図性は能動的な事柄である。それは、力の立ち止まり(stand of power)と彼らが記述する呪術師側の姿勢を必要とする。この立ち止まりから、彼らは実際に意図を呼ぶことができる。この意味で、意図性は意図すること という完全に意識的な行為になる。人間の有機体全体、その潜在能力の全部が、意図することという一つの総括的な目的に携わる時、この現象が実現すると呪術 師は説明する。
 エネルギーを直接的に知覚する呪術師の能力を一つの出発点とすると、哲学的論説の新しい領域を考え出すことが可能である。この可能性の実現を妨げていた のは、呪術の実践者の方が彼らの知識や実践を概念化することにこれまで興味がなかったことである。存在の他の領域への入口のような、知覚のある境界に到達 したら、実践者の興味はその知識の実用的な面にだけ向く、と呪術師は主張する。
 この実用主義への傾倒のため、呪術師は、人間の可能性のより包括的な見方を組み入れることによって、哲学や哲学的探究を実用的な分野に変えることを真面 目に考えることができる。エネルギーの直接的な知覚は、そういうわけで、統語論に縛られない新しい主観性へ我々を導く案内役であると彼らは考える。呪術師 は、意図性が活動している過程を通して、この新しい主観性が意図に到達する方法となることを提案している。







哲 学実用的な方法論としての戦士の道

エネルギー体

 戦士の道の4つ目のユニットは「エネルギー体」である。各個人に属する特別なエネルギー形状に、太古から呪術師が、エネルギー体(energy body)という名を付けていたことをドン・ファン・マトゥスは説明した。彼はこの形状を夢見の体(dreaming body)とかダブル(double)とか他の者(other)とも呼んだ。彼は、抽象的な概念を強調する呪術師の約束事に従って、それをエネルギー体と 呼ぶことを好んだ。しかし、彼はエネルギー体の秘密のふざけた名前も私に話した。彼は、婉曲語、ニックネーム、愛称、親愛な関係ある不可解でベールに覆わ れたものとして、ケ・ニ・テ・ホダン(que ni te jodan) − 英語では、「エネルギー体でなければ、あなたは悩まされるべきではない」を意味する − を使った。
 エネルギー体は、エネルギー場の集成体であり、人間をエネルギーとして直接的に見た時には人間の体を作るエネルギー場の鏡像であるとドン・ファンは形式 的に説明した。ドン・ファンは、呪術師にとって、肉体とエネルギー体は1つのユニットであると言った。さらに彼は、肉体は我々が知る体と心の両方に影響を 及ぼし、肉体とエネルギー体が我々人間の領域の中で唯一釣り合いのとれたエネルギー形状であると呪術師が信じていることを説明した。体と心という二元性は ないので、唯一存在し得る二元性は、肉体とエネルギー体である。
 知覚は感覚データを解釈するプロセスであるが、エネルギーを直接的に、つまり解釈システムを通さずに知覚する能力をあらゆる人間が持っているというのが 呪術師の主張である。すでに述べたように、人間をこの仕方で知覚した時には、彼らは輝く球の外観を持っている。呪術師は、この輝く球が、不可思議な結合力 によって一つに保持されたエネルギー場の集成体であると断言する。
 「エネルギー場の集成体って何を意味しているの?」私はドン・ファンが初めてこのことを話した時に尋ねた。
 「奇妙な接合力によってひと塊に圧縮したエネルギー場のことだ」と彼は答えた。「呪術師の技法の一つは、通常は片割れの肉体から遠く離れているエネル ギー体を招き寄せることであり、より近くに連れてくるにつれてそれは肉体が為すあらゆることをエネルギー的に主宰するようになる」。
 「もしお前が厳密に言いたければ」とドン・ファンは続けた。「エネルギー体が肉体のすぐ近くにいる時には、ほとんど重なり合った2つの輝く球を呪術師は 見ると言ってもいいだろう。すぐそばにエネルギーの双子を持つことはわしらの自然な状態だが、まさにわしらの誕生の瞬間から何かがわしらのエネルギー体を 肉体から押し出す」
ドン・ファンの系統の呪術師は、エネルギー体をより肉体の近くに連れてくるための修練に大きな重点を置いている。各個人によって異なるが、ひとたびエネル ギー体があるエネルギー的な範囲内に入れば、その接近によって呪術師はエネルギー体を他の者あるいはダブル、自分に全くそっくりな、固体状の三次元的なも う一人の存在、に鍛え上げるチャンスを得られるとドン・ファンは説明した。
 同じ実践に従うことによって、呪術師は、自分の固体状の三次元的な肉体をエネルギー体の完全な複製に変えることができる。それはつまり、普通の目には見 えない純粋なエネルギー場の集成体であり、全てエネルギーなので、エネルギーの霊妙さに満たされて、例えば、壁を通り抜けるような活動ができる。
 「体をそんなふうに変えることができるのかい、ドン・ファン? それとも単に神話的なことを話しているのかい?」この話を聞いた時、私はびっくりして当 惑しながら尋ねた。
 「呪術師にとって神話的なものは何もない」と彼は返答した。「呪術師は実用本位の存在であり、彼らの話す事柄はいつも全くありのままで現実的なことなの だ。わしらの不利な点はわしらの直線性からはぐれることを好まないことだ。これはわしらを、人が想像しえる途方もないことを信じるために自分を殺して信じ ることを拒否する者にしてしまう」。
 「こんな話をする時は、ドン・ファン、いつもぼくのことを言ってるけど」と私は言った。「ぼくが何を信じるために自分を殺しているんだい?」
 「例えば、人類学は有意義であるとかそれが存在することを信じるためにお前は自分を殺している。ちょうど、神が天国に住まう者であり、悪魔が地獄に住ま う広大無辺に悪を為す者であると信じるために、自分を殺している信心深い人のようにな」。
 世界の中の私という人間について痛烈ではあるが度肝を抜くほど的確な意見を言うのがドン・ファンのスタイルだった。より痛烈で直接的であればあるほど、 私にはよくこたえたし、それを聞く私のくやしさはより大きくなった。彼の教えるためのもう一つの工夫は、気楽であるが、彼に直線的な説明をさせさいという 私の衝動にひどく批判的な気分の中で呪術師の概念について極めて適切な情報を与えることだった。エネルギー体の話題を議論している時、私にとって複雑な難 問の一つを彼に質問したことがあった。
 「どんなプロセスを通して」私は言った。「呪術師は、自分の空気みたいなエネルギー体を固体状の三次元的な体に変えたり、自分の肉体を、壁を通り抜ける ことができるような、空気みたいなエネルギーに変えることができるんだい?」。
 ドン・ファンは、教授のように真剣に、指を持ち上げて言った。「意志(volitional)によってだ − いつもの意識ではないが − 完全にわし らの能力の範囲内にあるものだが、肉体とエネルギー体を2つのエネルギー場の集成体に束ねる結合力をじかに使うわしらの能力の範囲内ではない」。
 からかうように言ったが、それにもかかわらず、彼の説明は、直線的な理性では想像も及ばないが、我々の隠されたエネルギー的な資源によって頻繁に起こり えるプロセスを極めて的確に現象学的に描写していた。肉体とエネルギー体を結び付けているものは、我々が気づかずに絶え間なく使っている神秘的な接合力で あると呪術師は主張する。
 呪術師が輝くエネルギー場の集成体として体を知覚する時、幅が両手を横に広げたぐらいで高さが手を上へ伸ばしたぐらいの大きさの球を彼らが知覚すること を述べた。彼らは、また、この球に集合点(assemblage point)と呼ばれるものが存在するのを知覚する。それは、より強く輝く場所で、テニスボールぐらいの大きさがあり、肩甲骨の高さの腕一本分の長さ後ろ に離れた位置にある。
 集合点は、直接的なエネルギーの流れが感覚データに変えられて日常生活の世界として解釈される場所であると呪術師は考えている。ドン・ファンは、集合点 にはこれとは別に最も重要な第二の機能があると言った。それは、肉体とエネルギー体の集合点をつなぐ連結である。彼は、この連結を2つの磁気を帯びた円形 に似たものとして説明した。それぞれテニスボールの大きさのものが、互いにやって来て、意図(intent)の力によって引き付けられるのである。
 彼はまた、肉体とエネルギー体が結合されていない時には、それらの間の連結は希薄なひもであり、時にはあまりに希薄なので存在していないかのように思わ れるとも言った。ドン・ファンは、人が老いるにつれてエネルギー体はより遠くへ遠くへ押し出され、希薄な連結が切断された結果として死が訪れると確信して いた。





戦 士の道についての質問


 
 異なる人々から提出された同じ話題についての一連の質問があった。この事柄は、「何が私に起ころうとしているか?」という言葉で一般的に分類できた。人 々はこの疑問を個人的に私に尋ねたり、私に手紙を書いたりした。あるいは、第三者を通して私はこの心配事を耳にした。
 この流れの中で次のような質問がなされた。「呪術師としての本来の計画が失敗したので、あなたは多くの人々を集めようとしているのだと私は解釈していま す。私はあなたのすることに引っ掛かってしまいました。あなたは私と何をしようとしているのでしょうか?」
 これは、精神的な教師、グルに質問されるべき疑問である。私は、自分がグルとか精神的な教師ではなく、ドン・ファンの定義に適合しようとする者であると 考えている。彼は、彼の弟子、私の集団の残った者に関する私の役割について言及した時、次のように言った。
 「お前がなりたいと望めるものは助言者だ。もしお前が人を見たら、お前は誤りを指摘しなければならない。お前は何かをするための適切な方法について助言 しなければならない。なぜなら、お前は完全な沈黙という有利な点からすべてを見るだろうからな。呪術師はこれを橋からの眺めと呼んでいる。呪術師は、水  − 生 − を橋の下の急流として見る。彼らの目が正しいのは、いわば、水が橋の下を流れる地点なのだ。彼らは前を見ることができない。彼らは後ろを見る ことができない。彼らが見ることができるのは今だけだ」。
 私はこの役割を果たそうと最大限の努力をしてきたし、それを続けるつもりである。人に興味を持たれ、そして「私は引っ掛けられた」と言われても、私はそ の人が私に引っ掛けられたのだと信じる勇気がない。教師との個人的なきずなを持つことは、我々全てが学び実践してきた反応ある。母親とか父親、あるいは両 方、あるいは家族の中とかサークルの友人の中でその役割を果たす誰かには、疑うことなしに、個人的に愛着を覚える。
 もし私の本が、ドン・ファンが私と個人的な関係を持っているという印象を与えたとしたら、それは私自身の無意識的な誤解だった。私が彼と会った瞬間か ら、彼は私のこの衝動を根絶させようと絶え間なく働きかけた。彼はそれを貧乏(neediness)と呼び、それが社会秩序によって発展し後押しされるこ と、そして貧乏が奴隷の精神性を生み出して助長する最も卑猥な方法であることを説明した。彼は、もし私が「引っ掛けられた」と信じているとしたら、私は彼 に個人的に引っ掛けられたのではなく、呪術師が何世代も費やして明確に述べてきた考え、自由という考えに引っ掛けられているのだと言った。
 本来の計画の失敗について私に言えることは、実際、ドン・ファンの系統は私と他の3人の弟子たちで終結するということである。しかし、これはどのような 計画の失敗のしるしでもない。それは、単に、呪術師が、「どんな秩序にも終わりがやって来るのは自然な状態だ」と言って説明する状況である。
 できる限り多くの人々に広げて一つの総意を作りたいと私が言ったのは、自分たちが最も興味深い思想と行動のラインの終わりであることを悟ったからであ る。我々は自分たちが膨大な仕事、呪術師の世界が幻覚でも願望的思考でもないことを説明する仕事、を請け負うには値しないと本当に感じている。
 もう一つの質問は次のようなものである。「あなたには先生がいた。それがいないのに私はどうやって上達できるのでしょうか? 私にはドン・ファンがいな いので心配です」。
 心配することは我々の社会環境の中で相互に影響し合う誠実なやり方であり、だから、我々はあらゆることで心配する。「心配」は、統語論的なカテゴリーで は「私にはわからない」と言うのと同じである。心配することは何かに夢中になっていることではない。それは、単に、我々にとって重要な話題にアンダーライ ンを引くやり方である。会ってもらえるドン・ファンがいないことが心配だと言っていることは、すでに打破する可能性を宣言している。その陳述は、いつでも 利用可能な残された出口をあたかも開くようである。
 ドン・ファンが私を導いた力はすべて呪術師の伝統によって設定された義務的な手順であると彼自身が私に言った。彼は私が彼の系統を継続する準備をしなけ ればならなかった。何年にもわたって、ドン・ファンを捜すためにメキシコを旅した多くの人々がいた。彼らは、私の本の物語を開かれた可能性の記述と取って いた。それもまた私の誤りだった。それは私が注意深くなかったことではなく、むしろ、私がとにかく特別であると大袈裟に主張することを控えなければならな かったことである。
 ドン・ファンは、彼の知を教えることではなく、彼の系統を永続させることに興味があった。私はすでにこの点について述べたが、それを繰り返し強調するこ とは重要である。ドン・ファンは全く先生ではなかった。彼は、彼の系統を継続させるためだけに彼の知を弟子たちに伝える呪術師だった。
 彼の系統が私と他の3人の弟子で終わるので、私が彼の知について書くことを彼自身が提案した。そして、彼の系統がまさに終わりに来ているので、彼の弟子 たちは、呪術師の世界への閉ざされた別のドアを開き、呪術とは何か、そして呪術師は何を為すのかを説明することに、今、努力している。
 呪術師は、我々の持ちえる唯一の先生あるいは案内役は精霊(spirit)であると言う。それは、宇宙の中にあってそれ自身を意識して存在している抽象 的で非個人的な力である。それは、あるいは、自覚する者(awareness)、意識する者(consciousness)、認識する者 (cognition)、生命力(life force)といった別の名前で呼ぶことができるかもしれない。それが宇宙全体に充満していて呪術師たちを導くこと、そして、この力に到達するために必要 なものは内的沈黙(inner silence)であることを呪術師たちは信じている。従って、我々にとって唯一価値のある関係は人との関係ではなく、この力との関係であるというのが彼 らの主張である。
 よく質問されるもう一つの質問が次のようなものである。「どうしてあなたはあなたの本の中でテンセグリティ(Tensegrity)について書かなかっ たのか? そして、なぜ今それについて話すのか?」
 私はこれまでテンセグリティについて一度も話したことはなかった。なぜなら、テンセグリティは、ドン・ファンの系統を創始した古代メキシコの呪術師が発 展させたマジカル・パス(magical passes)と呼ばれる動作を、ドン・ファンの弟子たちが改変したものだからである。テンセグリティは、マジカル・パスを基にして、ドン・ファン・マ トゥスの4人の弟子が、各個人の肉体的・精神的形態に適合するよう教えられた4つの異なる系統の動作を融合したものである。
 ドン・ファンの要望に従って、私はこれまでマジカル・パスに言及することを控えてきた。高度に秘密主義的なやり方でそれらを私に教えられたので、私に関 するそれらの部分についても同じように秘密にしておく必要があった。それらについての最も近い言及は、ドン・ファンが「関節を鳴らした」と書いた時であ る。絶え間なく彼が実践したマジカル・パスを、「彼が関節を鳴らして」と私が言及することを彼は冗談のように提案した。彼がパスを行なうたびに、彼の関節 はパチンと鳴ったものだった。私の興味をそそり、彼がしていたことの本当の重要性を隠すために彼はこの方策を使った。
 それらが本当は何であるか彼が説明して私にマジカル・パスを意識させた時には、私は止むに止まれず彼の関節の音を真似ようとしていた。一連の動作を学ば せるために、私の競争心をあおって、言わば、彼は「私を引っ掛けた」のである。私は決してパチンと音を鳴らすことはできなかったが、それは不幸というより 幸いなことだった。なぜなら、腕や背中の筋肉や腱には決して重圧を掛けてはならないからである。指関節を鳴らす才能のある人がいるように、ドン・ファンは 腕や背中の関節を鳴らす才能を持って生まれたのである。
 ドン・ファンや他の仲間の呪術師たちが、正式にマジカル・パスを私に教えたり、それらの形状や効果について議論する時には、最も厳密な手順に従ってい た。その手順は最大限の集中力を要求し、完全な秘密と儀式的なふるまいに守られていた。それらの教えの儀式的な部分は、ドン・ファンによってすぐに投げ捨 てられたが、秘密主義的な部分はいっそう強くなった。
 前に述べたように、テンセグリティは、4つの系統のマジカル・パスを融合し、特定の個人に適合した非常に特殊な動作を誰にでも適した一般的な形に変えた ものである。古代のマジカル・パスの現代版であるテンセグリティが今教えられている理由は、呪術師のドン・ファンの系統はもはや存続しないので、自分たち の役割の責務は軽くなったのだから、自分たちの幸福にとって比較しようがないほど価値のあったものから秘密を取り除こうとドン・ファンの4人の弟子たちが 合意したからである。






テ ンセグリティ・ログ

テンセグリティのやり方

 マジカル・パス(magical passes)は、最初から独特なものとして古代メキシコの呪術師に扱われ、決して筋肉組織あるいは敏捷さを開発するための運動として使われなかった。そ れらは最初の瞬間からマジカル・パスとみなされてまとめ上げられたとドン・ファンは言った。彼は、動作の「魔法(magic)」を、それを実行することで 実践者が体験する微妙な変化、つかの間ではあるが動作が肉体的・精神的状態にある種の輝き、目の中の光をもたらす性質であると言い表した。彼はこの微妙な 変化を、あたかも実践者を養う生命力との未使用の連結を動作によって回復するかのような「精霊の接触(touch of the spirit)」であると言った。さらに彼は、それらの動作がマジカル・パスと呼ばれるのは、その実践によって、呪術師が、知覚に関して、言葉で言い表せ ない方法で世界を感じることができるような存在の別の状態へ運ばれるからであると説明した。
 「この性質のために、この魔法のために」ドン・ファンは私に言った。「パスは、運動としてではなく、力を招く方法として実践されなければならない」。
 「でも、それらは肉体的な動作と取れるけど、それでもそのように取ってはいけないのかい?」私は尋ねた。
 私はドン・ファンが教えてくれたすべての動作を忠実に実践し、非常に気分よく感じていた。この幸福感に私は満足していた。
 「お前が望むように、それらを実践すればよい」ドン・ファンは答えた。「お前がそれらをどのように取ろうと、マジカル・パスは意識を高める。知的な考え ではそれであるものとしてそれを取るだろう。マジカル・パスは、実践するとすぐに実践者に社会化の仮面を落とさせる」。
 「社会化の仮面って、何だい?」私は尋ねた。
 「わしらみんなが守り、死ぬほど欲しがっている虚飾だ」彼は言った。「わしらは世界の中で虚飾を身につける。それはわしらのすべての可能性への到達を妨 げる。それはわしらが不滅であると信じ込ませる」。
 マジカル・パスを現代風に改変したテンセグリティはこれまで動作の体系として教えられてきた。なぜなら、それが、マジカル・パスというこの神秘的で広大 な題材について現代の環境設定に向き合わせる唯一のやり方だからである。今、テンセグリティを実践している人々は呪術の実践者ではない。それゆえに、マジ カル・パスの持つ動作としての価値を強調しなければならない。
 この場合に採った観点は、マジカル・パスの肉体的な効果が実践者のエネルギー的な基礎を固めるための最も重要な点であるということである。古代メキシコ の呪術師たちはマジカル・パスの他の効果に興味があったので、長い一連の動作を一つの単位ごとにばらして、個別の区分としてそれぞれの断片を実践した。テ ンセグリティの中では、断片は本来の長い形(long forms)に再び組み立てられた。このやり方で、動作の体系、動作それ自体が全てにおいて強調される体系が獲得された。
 マジカル・パスを行なうには、テンセグリティに見るように、特定の空間とか決められた時間を必要とするが、理想的には、動作は一人で時のはずみか必要性 があって行なうべきである。しかし、都会生活の環境設定は集団を作ることを助長するものであり、こうした状況の下では、テンセグリティは実践者の集団に教 えるしかなかった。集団で実践には有益な面もたくさんあるが一方で有害な面もある。動作についての総意や考察したり比較しながら学ぶ機会を作れるのでそれ は有益である。統語論的な抑制力が現れたり組織階層的な関係を作ることを助長するのでそれは有害であるが、呪術師は統語論的な抑制力に由来する主観性から 逃げ出すことを望んでいるのである。あいにく、菓子は食べたらなくなる。だから、テンセグリティは、集団でも一人でもあるいは両方でも、どのような形で あってもやりやすいように実践するべきである。
 他のあらゆる点で、テンセグリティの教え方は、ドン・ファンが弟子たちにマジカル・パスを教えた方法を忠実に再現したものである。彼は細かいことで彼ら を攻めたて、動作の数と多様さ、そしてそれらの各々が無限への個々の小道だという言外の意味によって彼らの心を当惑させた。
 彼の弟子たちは圧倒されて、困惑し、とりわけ落胆して何年も過ごした。なぜなら、そのようなやり方で攻めたてられることは不当な攻撃であると彼らは感じ たからである。実践者の直線的な見方を曇らせる呪術師の伝統的な方策に従って、ドン・ファンは弟子たちの運動感覚の記憶を飽和させた。もし困惑しているに もかかわらず動作の実践を続ければ、彼らの何人かあるいは全員が内的沈黙を成し遂げるだろうというのが彼の主張だった。内的沈黙の中で、あらゆることが要 を得て明白になり、忘れていたマジカル・パスを誰にも教えられたり導かれたりしなくても完全に正確に思い出せるだけでなく、それらで何をするか、あるいは それらに何が期待できるかということも知ることができると彼は言った。
 ドン・ファンの弟子たちはそのような主張をほとんど信じなかった。しかし、ある瞬間、彼ら全員が困惑したり落胆したりしなくなった。マジカル・パスは、 マジカルなので、最も神秘的な方法で、それ自身を何もかも整頓して驚くべき連続性を持ったものに整理した。
 今日、テンセグリティを実践する人々の関心事は、まさにドン・ファンの弟子たちの関心事と一致する。テンセグリティのセミナーやワークショップに参加し た人々は、動作の多さに当惑する。彼らは、実践したり教えたりできるような区分に動作を統合した体系を強く求めている。
 私は、最初から強調していることを再び強調しなければならない。テンセグリティは身体を発達させる標準的な動作の体系ではない。確かに身体を発達させる が、それはさらに卓越した目的の副産物にすぎない。古代メキシコの呪術師は、マジカル・パスが、知覚のパラメータが拡大することによって、正常な、因襲的 な知覚のパラメータが相殺される意識のレベルに実践者を導くことを確信した。そのために、実践者は想像もできない世界に立ち入ることができる。その世界は 我々が生きる世界と同じようにすべてを含み完全である。
 「でも、どうしてぼくがその世界に立ち入りたいと思うんだい?」私は、ある時、ドン・ファンに尋ねた。
「なぜなら、お前は、ほかの人間と同じように、旅人だからだ」彼は、私の質問に多少いらついて言った。「困難な力によってほんのしばらく中断されている が、人間は意識の旅をしているのだ。わしを信じろ。わしらは旅人なのだ。もし旅をしないとしたら、わしらには何もない」。
 彼の答えは少しも私を満足させなかった。彼はさらに、人間が旅を止めた瞬間から道徳的、肉体的そして理知的に衰退したこと、そして、渦巻きに捕らえら れ、時勢に動かされているような印象を受けるが、いわば、堂々巡りして、静止し続けていることを説明した。
 30年に及ぶ激しい修練によって、私は、ドン・ファンの言ったことが理解しえることであり、疑いなく妥当であると強く認識するようになった。人間は確か に旅人である。もしそうでなかったとしたら、我々には何もない。
 テンセグリティは、その動作自体によってその効能が顕れるという考えを持って実践されなければならない。この考えは必ず強調されなければならない。初心 者の段階では、マジカル・パスの効果を指導する方法はないし、どこそこの器官に有益でありえる可能性もない。我々が修練を積み重ね、意図することが明瞭に なるにつれて、各個人だけに関係する特定の目的のために、我々各個人が、個人的に、個別に、マジカル・パスの効果を選ぶことができるようになる。
 現在、最も重要なことは、覚えている一続きのテンセグリティとか、心に思い浮かぶひとそろいの動作とかを何であっても実践することである。続けることに よってもたらされる飽和状態は、ついには、古代メキシコの呪術師が捜し求めた結果、内的沈黙へ立ち入り、そして内的沈黙から次の段階が何であるかを決める という結果をもたらすだろう。
 もちろん、同じような言葉で、心を飽和させて内的沈黙に入るという呪術師の策略を告げられた時、私は、今日、テンセグリティに興味を持つ人と同じよう に、「あなたを信じないわけではないが、それは非常に信じがたいことだ」と応じた。
 私のもっともな疑問や他の3人の弟子たちの疑問に対しするドン・ファンの唯一の答えは、「わしの言葉を受け入れろ。なぜなら、わしは独断で言っているの ではないのだから。わしの言葉は、古代メキシコの呪術師が見つけ出したこと、わしら人間は不思議な存在だということを、自分自身で確証した結果なのだ」と 言うものだった。
ドン・ファンから受け継いだものには、人間は使われることのないあふれんばかりの力量に満たされた自分自身を知らない存在であると、私が繰り返し言ってき た、そして繰り返し言い続けるであろうことが含まれている。
 動作で弟子たちを飽和することによって、ドン・ファンは2つの恐るべき偉業を成し遂げた。彼はそうした隠された力量を表面に引き出し、そして我々の直線 的な解釈のやり方への強迫観念を穏やかに打ち砕いた。内的沈黙に達することを弟子たちに強制することによって、彼は彼らの中断された意識の旅を再開させ た。こういうふうに、テンセグリティの動作に関するテンセグリティの実践者の理想的な状態は、マジカル・パスの実行に関する呪術の実践者の理想的な状態と 同じである。どちらも動作それ自身によって内的沈黙という空前の頂点に導かれる。
 内的沈黙から、テンセグリティの実践者は、自分自身で、自分でふさわしいとわかるどんな効果のためでも、外部からの指導なしに、彼らを飽和させた動作の 大部分からどのような動作でも行なうことができるだろう。彼らは、歩いたり、食べたり、休んだり、何かをするように、それらを正確に迅速に行なうことがで きるだろう。


訳注:「菓子は食べたらなくなる(You cannot have your cake and eat it, too)」は、同時に両方よいことはできないという意味のことわざ。




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