ホーム ページ書籍関連のページ時間の車輪 >  《力の話》からの引用文

トルテック・アーツU



時間の車輪





《力の話》からの引用文





 戦士の自信は普通の人の自信とは違う。普通の人は傍観者の目に確実だと見えるものを捜して、それを自信と呼ぶ。戦士は自分の目で無欠であることを捜し て、それを謙虚さと呼ぶ。普通の人は自分の仲間にとらわれるが、戦士は無限にのみとらわれる。




 戦士には、何年か前にはすることができなかったが、ある時にはすることのできることがたくさんある。それら自体は変わらなかった。変わったのは、自分自 身についての考えだった。




 戦士がとりうる唯一の道は、ためらうことなく首尾一貫して行動することである。ある瞬間には、彼は、戦士の道に応じて行動することを十分に知っている が、古い習慣や決まりきった仕事が彼の道に立ちはだかるかもしれない。




 戦士が何かに成功するとしたら、その成功は大変な努力を重ねたとしても精神的重圧や脅迫観念なしで、穏やかにもたらされなければならない。




 内的対話は人々に日常の世界を根拠付けているものである。世界がかくかくしかじかであるというのは、我々が自分自身にそれがかくかくしかじかであると話 しているからにすぎない。呪術師の世界への道は、戦士が内的対話を遮断することを学んではじめて開ける。




 世界についての考えを変えることは、シャーマニズムの核心である。そして、内的対話を止めることは、それをやり遂げるための唯一の方法である。




 戦士が、内的対話を止めるのを学べば、あらゆることが可能になる。最も途方もない計画が達成可能になる。




 戦士は、運命であるかもしれないどんなことでも、自分の運命としてとらえ、最高の謙虚さをもってそれを受け入れる。彼は自分を受け入れ、後悔の基とはせ ず、生きるための挑戦とする。




 戦士の謙虚さは乞食の謙虚さではない。戦士は誰に対しても頭を下げないが、同時に、誰にも自分に頭を下げさせない。それに対して、乞食は自分より上の者 だと思えば誰にでもすぐにひざまずいてへいこらする。しかし同時に、自分より下の者には頭を下げろと要求する。

 


 慰め、避難所、恐怖はいずれも、その本当の価値を問いただすことなく人が受け入れることを学んだ気分を作り出す言葉である。




 我々の仲間は黒魔術師である。そして、彼らといっしょにいる者は誰でも即黒魔術師である。ちょっと考てみろ。彼らがあなたに用意した道からあなたは外れ ることができるか? そして、もしあなたが彼らと残るならば、あなたの思考と行動は永遠に彼らとの関係で決められる。それは奴隷制度である。それに対し て、戦士はそのすべてから自由である。自由は高価であるが、支払えない価格ではない。だから、あなたを捕らえる者、あなたを支配する者を恐れろ。自由を恐 れてあなたの時間と力を無駄にしてはいけない。




 言葉の欠点は、それらが我々をいつもわかったような気にさせることである。しかし、振り返って世界と直面する時、それらはいつも我々の役に立たず、結 局、世界と面と向かってみると、我々はいつもと同じで、何もわかっていない。このために、戦士は話すよりも行動しようとする。その結果、彼は世界について の新しい記述 − 話すことは重要ではなく、新しい行動には新しい反映があるという新しい記述を得る。




 戦士は自分がすでに死んだと考えているのだから、もはや失うものは何もない。すでに最悪のことは起こってしまったのである。だから、彼は明晰で冷静であ る。彼の行動や言葉から判断して、彼があらゆるものを目撃したと思う人はいないだろう。




 知は、とりわけ戦士にとっては、最も特異なものである。戦士にとって、知は、やって来て、彼を飲み込むものであると同時に、過ぎ去っていくものである。




 知は、蛾の羽根を覆う金粉と同じで、金粉のように、ふわふわ漂って戦士にやって来る。だから、戦士にとって、知はシャワーを浴びること、つまり暗い金粉 の雨に降られることに似ている。




 我々自身の内的対話が止まれば、世界は崩壊する。そして、自分自身の驚くべき断面は、あたかも自分の言葉によって厳重に守られていたかのようである。




 世界は計り難い。そして、我々もそうであり、この世界に存在するあらゆるものがそうである。




 戦士は壁に頭をぶつけて勝つのではなく、壁を乗り越えて勝つ。戦士は壁を跳び越える。彼らは壁を壊さない。


 

 戦士は、人生という途方もない旅に必要なあらゆるものを持っているという感覚を養わなければならない。戦士にとって大切なことは生きているということで ある。人生はそれ自体が充足したものであり、自明で、完全なものである。
 従って、経験の中の経験は生きているということであると誇張なしに言える。




 普通の人は、疑いや苦しみにふけることが敏感さ、精神性のしるしであると考えている。実際には、普通の人は、敏感であることから想像を絶するほどかけ離 れている。そのちっぽけな理性は慎重に怪物とか聖人を作り上げても、それは怪物とか聖人という大きな型には本当に小さすぎるのである。




 戦士であることは単にそうでありたいと望むことではない。むしろ、それは、生涯のまさに最後の瞬間まで続く終わりのない苦闘である。普通の人として生ま れる人がいないのと同じように、戦士として生まれる人はいない。我々が自分自身をそのどちらかにするのである。




 戦士は苦労しながら死ぬ。彼の死は彼を捕らえようと奮闘しなければならない。戦士は自分自身を簡単に死に委ねない。




 人間は物体ではなく、固体でもない。丸い、光を発する存在であり、無限である。物体や固体の世界は、地上で過ごすのに便利なように、人間を助けるために 作られた記述にすぎない。




 彼らの理性は、説明が単なる説明にすぎないことを忘れさせる。そして、彼らがそれを悟る前に、人間は、自分自身の全体性を、生涯でほとんど抜け出せない ような悪循環に陥れる。




 人間は知覚する者であるが、その知覚する世界は幻想、生まれた瞬間から話し掛けられてきた記述によって作り上げられた幻想である。
 だから、本質的には、彼らの理性が維持しようとしている世界は、記述と、理性が受け入れて守ることを学んだその独断的で不可侵の規則によって作り上げら れた世界である。




 発光する存在の隠された優位性は、決して使われることのなかった、彼らの意図である。呪術師の策略は普通の策略と同じである。どちらも世界についての記 述を持っている。普通の人は理性によってそれを支持する。呪術師は意図によってそれを支持する。どちらの説明もそれなりの規則を持っている。しかし、呪術 師の優位性は、理性より意図が圧倒していることである。




 戦士としてのみ、人は知への道に耐えることができる。戦士は何についても不平を言ったり後悔したりできない。その人生は終わりなき挑戦であり、挑戦に善 悪はありえない。挑戦は単に挑戦にすぎない。




 普通の人と戦士の基本的な違いは、戦士があらゆることを挑戦としてとらえるが、一方、普通の人はあらゆることを恩恵とかのろいとしてとらえることであ る。




 戦士の奥の手は、信じることなく信じることである。しかし、言うまでもなく、戦士は、ただ信じるとだけ言ってすますわけにはいかない。それは安直すぎ る。努力もせずにただ信じることは、状況の検討を怠ることであろう。信じることに関わらなければならない時、戦士はいつもそれを一つの選択として行なう。 戦士は信じるのではない。戦士は信じなければならないのである。




 死は信じなければならない不可欠な要素である。死を意識しなければ、すべては平凡でつまらないものである。戦士が、世界が計り知れない神秘であると信じ なければならないのは、ひとえに死が彼に忍び寄っているからである。そのような仕方で信じることは、戦士の最も好む表現である。




 力はいつも小さなチャンスを戦士にもたらす。戦士の技は、それをつかみ取るためにつねに流動的であることである。




 普通の人があらゆるものを意識するのは、彼がそうすべきだと思った時だけである。しかし、戦士の状態は、いつでもあらゆるものを意識している。




 我々自身の全体性は非常に神秘的な事柄である。人生の中で最も複雑な仕事を果たすのに、我々はその非常に小さい部分しか必要としない。ところが、我々が 死ぬ時には、我々自身の全体性とともに死ぬ。




 戦士の大雑把なやり方は、非常に慎重に決断するので結果として何が起こっても驚かないし、ましてや自分の力を消耗したりしない。




 戦士が、行動することを決断する時には、彼は死ぬ覚悟でいるべきである。もし死ぬ覚悟ができているならば、どのような落とし穴も、どのようなありがたく ない不意打ちも、どのような不必要な行動もあるはずがない。何も期待していないので、あらゆることがすんなりといく。




 師としての戦士は、信じず、報酬を期待せずに行動すること − 面白半分に行動すること − の可能性についてまず第一に教えなければならない。師とし て成功するかどうかは、その教えられている者を、この点についてどれだけうまく、どれだけ調和を取って指導するかにかかっている。




 教えられている者が履歴を消すことを助けするために、師としての戦士は3つのテクニックを教える。自尊心をなくすこと、行動に責任を持つこと、そして、 助言者として死を使うことである。この3つのテクニックの有益な効力がなければ、履歴を消すことが、不誠実で、あいまいで、必要以上に自分自身やその行動 をいかがわしくすることになる。




 自己憐憫を永久に捨て去ることはできない。それは我々の生活の中に明確な場所と性質、それと見分けられる明確な外見を持っている。だから、機会あるごと に、自己憐憫の外見が活動的になる。それにはいわくつきの履歴が  人は、外見自体の構成要素を移し変えることによって外見を変える。自己憐憫が使用者に とって役立つのは、彼が重要で、よりよい状態、よりよい待遇を受けて当然と感じるからであり、あるいは、自己憐憫を引き出す状態に彼を導く行動に責任を取 ることを好まないからである。




 自己憐憫の外見を変えることは、以前は重要だった要素に第2位の場所を割り当てたということを意味するにすぎない。 自己憐憫は、依然として目立った特徴である。しかし、今にも死ぬかもしれないという考えや、戦士の謙虚さ、あるいは自分の行動に責任を持つという考えが、 戦士になる瞬間まで使われることなく、かっては戦士にとって、表面に出て来ないものであったのと同じように、今やそれは表面には出てこない。




 戦士は苦痛を認めても、それにおぼれない。未知に立ち入る戦士の気分は、悲しみではない。それどころか、素晴らしい幸運によって謙虚になり、自分の精神 が無欠だと確信し、何よりも、自分の有能さに完全に気付いていることを感じるので、彼は喜ぶにあふれる。戦士の喜びは、自分の運命を受け入れ、そして自分 の前に横たわるものを正しく評価することから生まれる。





Top
時間の車輪の目次

書籍関連 のページ

ト ルテック・アーツUのホームページ