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《イーグルの贈り物》からの引用文





 夢見の技法とは、普通の夢を利用する能力であり、それらを夢見の注意力と呼ばれる特殊な注意力によってコントロールされた意識に変えるのである。




 忍び寄りの技法とは、戦士が考えうるあらゆる状況から最良のものを引き出すことを可能にする手順と態度である。




 戦士に推薦されることは、自分の力を物質的な物に集中させることではなく、それを精神に、つまらないことにではなく、未知への真の飛翔に集中させること である。
 戦士の歩むべき道に従うことを望む者は誰でも、物を所有したり、物にしがみついたりしたいという衝動を取り除かなければならない。




 見ることは身体の知識である。我々の視覚の優位性がこの身体の知識に影響を及ぼし、目に関係があるように思わせる。




 人間の形を失うことはらせん状進行過程のようである。それが戦士に正しいエネルギー場としての自分を思い出す自由を与え、それがさらに彼を自由にする。




 戦士は自分が待っていることを知っていて、自分が何を待っているかを知っている。そして、待っている間に世界を眺めて楽しむ。戦士の究極的な成果は無限 の喜びを楽しむことである。




 戦士の運命の流れは変えることができない。挑戦とは、そうした融通の利かない範囲の中で、どこまで遠くへ行けるか、どこまで無欠であることができるかと いうことである。




 どのような期待も持たない時、人々の行為はもはや戦士に影響しない。奇妙な穏やかさが彼の生活を支配する力となる。彼は戦士の生活の構想の1つ、超然と していることを身につけたのである。




 超然としていることが即賢いということを意味するわけではないが、状況を評価し直したり、位置を考え直したりするために、戦士がほんの一瞬でも立ち止ま ることを可能にするので、やはり1つの強みである。しかし、その一瞬の時間を首尾一貫して正しく使うために、戦士は生命が続く限りくじけることなく奮闘し なければならない。





 私は自分の運命を支配する力に身を任せている。

 そして、何にもしがみつかないので、私は何も守らない。

 考えを持っていないので、私は見る。

 何も恐れないので、私は自分を思い出す。

 超然と、そして気楽に、私はイーグルを飛び越えて自由になる。





 戦士にとって、普通の状況下で無欠であるより、最大のストレスをかかえてうまくやっていく方がはるかに容易である。




 人間には2つの面がある。右側は知性が考えうるあらゆるものを包含している。左側は筆舌に尽くし難い領域であり、言葉で扱うことのできない領域である。 左側は、理解されることがあるとすれば、おそらく身体全体で理解されるものであり、このために概念化を拒むのである。




 ごく単純なものから最も仰天させるようなものまで、呪術の能力、可能性、そして遂行の全ては、人間の身体そのものの中にある。




 全ての生物の運命を支配する力はイーグルと呼ばれる。それは、それが鷲だからでも鷲に関わっているからではなく、それが計り知れない漆黒のイーグルとし て見る者に姿を現わすからである。鷲のように真っ直ぐに立ち、その高さは無限に伸びている。




 イーグルは、一瞬前には地上に生きてこの瞬間には死んだ全ての生き物の意識をむさぼり食う。そうした生き物は、自分の存在理由であった自分の主に会い に、群れをなす蛍のようにイーグルのくちばしへ漂って来る。イーグルはこうしたちっぽけな炎を解き、なめし工が皮革をなめすようにそれらを打ち倒して平ら にし、それからそれらを食い尽くす。意識はイーグルの食物なのである。




 全ての生物の運命を支配する力であるイーグルは、そうした全ての生物を等しく同時に考える。従って、人間がイーグルに懇願したり、好意を願ったり、恵み を望んだりする方法はない。全体を動かすにはイーグルの中に占める人間の部分はあまりにも小さすぎる。




 あらゆる生物は、そう望めば、自由への突破口を探し、そこを通り抜ける力を与えられた。その突破口を見る見る者や、そこを通り抜ける生き物にとって、 イーグルが意識を永続させるためにその贈り物を認めたことは明白である。




 自由へ渡ることは、一般に理解されているような永遠に生き続けるという意味での永遠の生命を意味しているのではない。むしろ、戦士が通常は死ぬ瞬間に放 棄される意識を保持することができるということである。渡る瞬間、身体はことごとく知で輝く。あらゆる細胞がそれ自身を意識すると同時に身体の全体性を意 識するようになる。




 自由というイーグルの贈り物は贈られるものではなく、チャンスをつかむためのチャンスである。




 戦士は決して包囲攻撃されない。包囲攻撃されるということは、封鎖されうる個人的な占有物を持っていることを暗示している。戦士は、世界の中に自分の無 欠さ以外に何も持っていない。無欠さは脅かされることのないものである。




 忍び寄りの技術の第1の原則は、戦士は自分の戦場を選ぶということである。戦士は周囲の状況も知らずに決して戦いに入らない。




 不必要なものを全て捨てることが忍び寄りの技術の第2の原則である。戦士は物事を複雑にしない。彼は単純であることを目差す。どんな戦いも自分の生命が 懸かっているので、彼は戦いに入るかどうか決断することに全神経を集中させる。これが忍び寄りの技術の第3の原則である。戦士は前向きで、今ここが自分の 最後の場所であるように準備ができていなければならない。しかし、でたらめなやり方ではいけない。




 戦士は、楽にして自分を捨て、何も恐れない。そうなった時だけ、人間を導く力が戦士のために道を開き手助けしてくれるだろう。ただそうなった時だけであ る。それが忍び寄りの技術の第4の原則である。




 手に負えないことに直面した時、戦士はしばらく退却する。彼らは心をあてもなくさまよわせる。彼らは他のことに時間を使う。何をしてもよいだろう。それ が忍び寄りの技術の第5の原則である。




 戦士は時間を圧縮する。これが忍び寄りの技術の第6の原則である。たとえ一瞬でも大切である。生命の懸かった戦いの中では、1秒は永遠、結果を決めるか もしれない永遠である。戦士は成功を目差すゆえに時間を圧縮する。戦士は一瞬も無駄にしない。




 忍び寄りの技術の第7の原則を用いるためには、他の6つの原則を用いなければならない。忍び寄る者は決して自ら前面に出ない。彼はいつも陰から現場を傍 観している。




 これらの原則を用いると、だいたい3つの結果が出てくる。第1に、忍び寄る者は決して自分自身を深刻に考えたりしないことを学ぶ。自分を笑うことを学ぶ のである。もし自分がばかであることを恐れなければ、誰でもだますことができる。第2に、忍び寄る者は限りない忍耐力を持つことを学ぶ。忍び寄る者は決し て急いだりしない。決していらだったりしないのである。そして、第3に、忍び寄る者は即興で何かをする限りない能力を持つことを学ぶ。




 戦士はやって来る時間と向き合う。普通は、我々は自分たちから去って行くものとして時間と向き合っている。戦士だけがそれを変え、自分たちに進んで来る ものとして時間と向き合うことができる。




 戦士が唯一心に留めていることは、自分たちの自由だけである。死んでイーグルに食べられることは挑戦ではない。一方、イーグルのまわりをうろうろして自 由でいることは、最高に大胆なことである。

 


 戦士が時間について話す時、彼らは時計の動きによって測られるもののことを言っているのではない。時間は注意力の本質である。イーグルの放射物は時間で 作られている。そして厳密に言えば、戦士が自分の他の側面に入る時、彼は時間に精通するようになっている。




 戦士はもはや泣くことができない。苦悩の唯一の表現は宇宙の深淵から生じる震えだけである。あたかもイーグルの放射物の1つが純粋な苦悩で作られている かのようであって、それが戦士を打つ時、戦士の震えは計り知れない





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