歴史コラム「その時歴史が動いた」
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「その時歴史が動いた」と言えば、BK(NHK大阪放送局)製作の人気番組ですが、この番組のために毎回、東京から通ってきているという松平キャスターの弁を借りて、今回のコラムは、「殿山第二」という校名ができるきっかけになった悲劇と、校区住民の悲願であった新しい校地への新築移転、この2つのできごとに注目していきたいと思います。 今回、最初の「その時」は、昭和9年9月21日に来襲した「室戸台風」による悲劇です。 この日は金曜日で、ちょうど学童の通学時間帯にあたっていたため、多くの子どもたちが通学途中にこの暴風に晒され、何とか学校に逃げ込むような状況でした。しかし、この台風は、それまでの経験や常識では計り知れない被害をもたらすことになります。大阪湾では高潮が発生、1万トン級の大型船舶が桟橋に叩きつけられて沈没、歴史を刻んだ四天王寺の五重塔、仁王門(中門)、住吉神社絵馬堂などが倒壊、電車が転覆、煙突や電柱がへし折られるなど、被害が拡大、家屋や建物も次々に倒壊していきました。 牧野村の高台に建つ牧野尋常高等小学校にも、午前8時頃には既に多くの学童が登校してきていました。しかし、まだその時点では、この後に起こる惨事を想像した者は誰一人としていません。始業時間までまだ30分もあることから、職員室では炭火を起して濡れた衣服を乾かしていたといいます。子どもたちも校舎の揺れをむしろ面白がって騒いでいました。そうこうしている内にも校舎に吹き付ける暴風がさらに強さを増し、木造の校舎はあちこちで軋み歪みはじめます。明治末期に建てられた南棟の窓枠が外れ始めるに及んで、ようやく危機が迫っていることを悟った教頭が、この老朽化した平屋校舎から、3年前に新築されたばかりの2階建の新校舎(東西棟)への避難を指示します。結果的にはこれが裏目に出るのですが、その時点では最善と思われる判断でした。 若手の訓導(教諭)である松田武行先生たちが教頭の指示を受けて、子どもたちの誘導にあたりました。校舎を一歩出ると風速60mを超える暴風が吹き荒れ、瓦が木の葉のように飛び舞っています。その中を松田先生を先頭に子どもたちは一目散に新校舎へと逃げ込みます。ようやく子どもたちが新校舎に入り、一安心かと思われましたが、風雨は収まるどころが短時間の内にさらに強さを増していき、新校舎の壁も歪んで崩れはじめます。やむなく、今度は校舎の外へ脱出させるという苦渋の決断がなされます。既に崩れかけた教室から紙が燕のように飛び散り、その中をトタン板が独楽のように回りながら舞っていたといいます。子どもたちは、校舎を出ることを躊躇し、避難が一向に進みません。特にたった今、南校舎から逃げてきた子どもたちは、すっかり怯えてしまっていました。 松田先生と同僚の伊東綾子先生は、校舎内に戻って渋る子どもたちを順に外に送り出していきました。一人、また一人と送り出しているその最中、とうとう新校舎が倒壊してしまいます。暴風の中で大音響と土煙をあげて、2階建ての東西棟が完全に倒壊、逃げ遅れた子どもたちと先生を呑み込みました。校舎の下から悲鳴が響き、辺りは修羅場と化しました。既に電話線はずたずたに切れており、救いを求めようにも連絡の手段がありません。 それでも、校舎の倒壊した地響きに急を悟った周辺の住民が駆けつけ、間もなく消防団による救助活動がはじまりました。追って、高槻にあった陸軍の工兵隊が救援に到着、本格的な救援作業が行われましたが、悪天候の中で完全に倒壊した校舎からの救出は困難を極め、結局、松田、伊東両訓導と15名の学童が圧死した状態で運び出される最悪の事態となります。他にも、職員9名と学童71名が重軽傷を負いました。 松田訓導、享年三十四。伊東訓導、享年三十。亡くなった15名の学童の中には、後に殿山第二校の校区となる牧野村北部の大字(上島、下島、阪、宇山、養父の旧五村)の子どもが7名含まれていました。牧野村の北部からは、直線でも2kmを超える距離があり、朝早くに家を出て通ってきた子どもたちでした。皮肉なことに、最初に危険な状態に陥ったはずの旧校舎(南棟)は、大破したものの倒壊は免れていました。 この間の経緯を、生き残った学童の一人である上山昭則さんが書き残しています。上山家研究6号に掲載された一文を引用させていただきます。
牧野尋常高等小学校の倒壊校舎(市史4巻537頁147図) 亡くなった15名の子どもたちの名前は、小倉町の長安寺に建てられた遭難供養塔に記載されており、また、殿二誌には、「当時の殿一校の資料による」として子どもたちの学年と地区、保護者の名前が残されています。それらを組み合わせると次のようになります。
台風がようやく通り過ぎたとき、牧野尋常高等小学校の校庭は瓦礫の山と化していました。牧野村北東に位置する招提村の招提尋常高等小学校でも、倒壊こそ免れたものの、改築を迫られるほどの大きな被害を受けていました。招提村の村内では、招提小学校の創立の地である敬応寺の本堂が倒壊するなど、両村の被害は村の財政を大きく圧迫することになります。 牧野、招提の両村は、当初、それぞれで小学校の再建計画を立案します。その過程で、牧野村の北部大字から、北部に分校を設置するようにとの強い要望が出されます。実は、明治維新直後、枚方市域で初めて小学校が設置されたのは、牧野村北部大字の中核を成す坂(阪)村でした。しかし、その後の学校統廃合の中で、北部大字は自前の小学校を持たない時代が長く続いており、特に、明治22(1889)年の町村制施行を受けて、明治26(1893)年以降、30年以上にわたって北部大字全域の子どもたちが遠路はるばる渚まで毎日通うという状態が続いていました。 牧野村の北部大字にとっては、自分たちの小学校を持つことが悲願であり、かねてから村当局に要望を繰り返していたところに、室戸台風の悲劇が襲ったのです。死亡学童のほぼ半数を北部大字出身者が占めていました。朝早くに学校へ向かった子どもたち、通学路で暴風に遭いながら、学校こそが安全地帯と信じて登校を続けた子どもたち、彼らの貴重な命が失われたことから、北部大字住民の運動を一層激しいものに変えていきます。しかし、牧野村の財政状況では、牧野尋常高等小学校の再建だけでも起債に頼らざるを得ず、その上に分校の開校などは考えられる状況ではありません。 招提村も厳しい状況に変わりはありませんでした。中世の寺内町を起源に持つこの集落は、江戸時代に至っても石高、人口ともに周辺の村々を凌駕して、地域の中心であり続けてきました。明治維新以降、行政区画が変遷する中でも、招提だけは単独で区画されることが多く、招提尋常高等小学校はその中心にあったのです。しかし、明治末期に京阪電鉄が開通すると、利便性の向上した牧野村には、大阪女子高等医学専門学校(後の関西医科大学)や大阪歯科医学校(後の大阪歯科大学)が開校し、住宅開発も進むなど、まちの勢いが逆転されるに至っていました。 このため、牧野村と招提村では、牧野、招提の両校を倒壊以前の形に復旧することと、両村が合併して、牧野校は通学区域および学校規模を縮小し、一方招提校は牧野村北部をも通学区域として学区を拡大するために牧野村寄りに新たに校地を移すことの損失が検討されることとなりました。その結果、主として財政面と通学区域の面を利点として両村の合併が合意されることとなります。そして、翌昭和10(1935)年2月11日、殿山町が誕生することとなるのです。 この間の経緯を伝える新聞が残されています。(朝日新聞昭和9年12月16日付)
現在の常識では考えられないことですが、小学校を再建するために、村と村が合併を選択したのです。合併後の役場が渚院跡の旧牧野村役場に置かれたこともあって、役場に近い旧牧野校を第一校、旧招提校を第二校と呼ぶこととなります。 殿二校は、校舎建設費57,330円、設備費2,691円、校地買収費9,000円、合計69,021円と予算が立てられて建設が進められます。学校の建設場所は、旧牧野村養父の丘の上。旧の字名は「養父山」。幕末の寺子屋以来、初めて養父の地に小学校が建つこととなりました。地理的に見て、阪、宇山、養父、上島、下島の旧牧野村北部5村と旧招提村とのちょうど中間に位置することからこの地が選ばれたのです。 今日、養父会館の建つ交差点から丘に向けて一本の直線道路が走ります。丘を登り終えたところで進路を変え、まっすぐに東に向かうこの道路の途中に殿山第二小学校が建っています。この東西の道はそのまま、旧招提寺内町に入っていきます。それとは別に、学校の正門前から出た道路は、短いながらも南北にまっすぐ走って府道(バスの走る幹線道路)に接続しています。これらの道も、この地に小学校ができることに合わせて造られたものだと考えられます。 そして、いよいよ今回の「その時」を迎えます。その時、昭和11(1936)年1月28日。この日は火曜日でした。殿山町の誕生を受けて、前年の4月から10か月近く壊れかけた旧校舎や仮校舎で勉強を続けてきた旧牧野村北部大字と旧招提村の子どもたちが、真新しい「殿二」の校舎に入る日がやってきました。この日の模様を伝える資料は伝わっていませんが、67年前の今日、1月28日に、北部大字の長年の悲願が叶ったのです。 戦後、「殿二」から牧野小学校や招提小学校、平野小学校が独立していって、現在の校区は、旧牧野村北部大字の阪、宇山、養父とその周辺だけになりました。地域の中心に位置するように定められた校地も今となっては、校区の東に偏った位置になっています。しかし、住民たちにとって、悲願だった「自分たちの学校」への想いは今も脈々と受け継がれているのです。地理的には校区の端にあっても、心理的には住民の心の真中にある学校、それが「殿二」なのです。 最後に、殿山町の行方と、殿二校の兄弟校である殿一校のその後を紹介しながら、区切りとしたいと思います。今回もお読みいただき、ありがとうございました。 |
| 昭和10年2月11日に発足した殿山町では、厳しい財政状況の下で、殿一、殿二両校の再建を最重要課題として取組みを始めました。旧牧野村北部大字にとって悲願であった殿二校の建設が順調に進んでいたのに比して、現地建替えを目指していた殿一校の再建は、思わぬ反対から立ち往生することになります。殿一校に通うことになる渚、禁野、磯島の各大字の内、南部にあたる禁野、磯島の保護者から、殿一校も南へ移転させるようにとの運動が起こったからです。町議会でも議論はまとまらず、打開策が見つからないまま、殿一校の再建は中断してしまいました。
さらに、追い討ちをかけるような事態が起こります。室戸台風から1年も経たない、昭和10年8月10日、今度は豪雨が北河内一帯を襲います。殿山町内でも北部の船橋川、穂谷川、南部の天の川と主要河川すべての堤防が決壊、大きな被害をもたらしました。特に、穂谷川左岸の決壊は酷く、京阪国道(当時の国道2号線)と京阪電車の線路が完全に不通となってしまいます。相次ぐ災害でただでさえ厳しい財政状況はさらに逼迫していきます。 殿二校が竣工する頃になっても殿一校は未だ建設に着手できずにいました。そこへ今度は流感(インフルエンザ)禍が襲います。この間の状況を伝える記事が残されています。
数々の苦難を経て、ようやく殿一校も竣工、昭和11年10月25日に殿一、殿二両校の竣工式がそれぞれの校地で行われます。殿一校の竣工式には、室戸台風で命を失った教導、学童の遺族も列席したと記録されています。 その後、殿山町は、昭和13年11月3日に枚方町、川越村、山田村、樟葉村、蹉だ村と合併することとなり、4年足らずの間に消滅することとなります。 しかし、殿一校の苦難はこれだけには終わりませんでした。戦争の色が濃くなる中、昭和14年3月1日午後2時40分過ぎ、学校にほど近いところにあった禁野火薬庫が爆発を起こします。最初の小爆発から連鎖的に爆発が拡大、大爆発で飛び散った弾丸は半径2kmもの広範囲に飛散、淀川を越えて高槻方面や穂谷川の北側までも届いたといいます。この中で、殿一校の校舎が全焼します。幸い、この火災では教職員や学童に死傷者が出ることはありませんでしたが、再建から僅か3年半で、またしても学校を失うことのショックは大変なものでした。しかも、今回は近隣の大阪美術学校も被害を受けたため、間借りすることもできず、子どもたちは他の小学校や校区外の寺院まで通うことになってしまいます。 |
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(平成15年1月28日「その時」から67年目に初稿、3月3日最終修正) |