牧野歴史懇話会資料
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〜縄文時代 |
約7000〜6000年前には、大阪平野の大半が河内湾と呼ばれる海になっており、淀川は渚から磯島にかけての辺りで河内湾に注いでいたと考えられる |
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弥生時代〜 |
招提中町遺跡から弥生時代前期(紀元前200年前後)から平安時代に至る遺構・遺物が発見されている |
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古墳時代 |
養父地区に比丘尼塚古墳・養父古墳、宇山地区に宇山1号墳・2号墳、阪地区に牧野阪古墳が築かれる |
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継体天皇元(507)年 |
樟葉宮で継体天皇が即位する |
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欽明天皇29(567)年 |
片埜神社の成立 |
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推古天皇29(621)年 |
この頃、聖徳太子が、7寺(四天王寺、法隆寺、法起寺、葛木寺、定林寺、橘寺、蜂岡寺)を建立⇒7寺の内、葛木寺だけが所在不明で諸説があり、牧野本町2丁目付近の九頭神(葛上)廃寺とする説がある(地名大辞典) |
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大化元(645)年 |
大化の改新で公地公民の原則に基づき国・評(こおり)・里による地方支配の方針が示される⇒枚方市域は茨田評に属する |
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2(646)年3月 |
薄葬令が出され、葬制の簡素化が促される(古墳時代の終焉) |
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持統天皇3(689)年 |
市史12巻142頁では、「この頃、九頭神廃寺が創建される」としている |
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大宝元(701)年 |
大宝律令により律令支配に基づく中央集権体制が確立⇒「評」が「郡」に改められ、国・郡・里制となる |
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大宝2(702)年 |
河内国茨田郡から交野郡が割置⇒牧野地区周辺は交野郡に属することになる |
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和銅4(711)年 |
前年の平城京遷都により山陽道に楠葉駅が新設される⇒その後の平安京遷都により楠葉駅は南海道の首駅(最初の駅)となる |
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霊亀元(715)年 |
「里」が「郷」に改められ、郷の下に里が置かれる⇒交野郡は、三宅、田宮、園田、岡本、山田、葛葉の6郷とされるが、この頃に牧野地区周辺がどの郷に属していたかは定かでない |
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延暦21(802)年8月 |
蝦夷の首長大墓公阿弖流為と盤具公母礼が河内国植山(杜山又は椙山とも)で処刑される⇒植山を交野郡上山村(後の宇山村)とする説があり、宇山東公園に説明板が設けられている |
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延長5(927)年 |
延喜式完成⇒延喜式神名帳に官幣の「小社」として片野神社(現在の片埜神社)と久須々美神社(九頭神神社)が記載される |
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永観2(984)年 |
文献に「楠葉御牧司」が初見、この頃までに摂関家領の河内楠葉牧が成立、最大期には天野川を越えて田宮郷にまで及ぶ広大な領域を持つ⇒平安末期には船橋川を境に河北牧と河南牧に分けられていたとされる(府史2巻1122頁-)ただし、穂谷川を境とする説もある(地名大辞典) |
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治安3(1023)年 |
文献に「養父」庄(荘)が初見、岩清水八幡宮の荘園の一つとされる⇒平安期には岩清水八幡の宿院の一つである極楽寺領、鎌倉期には弥勒寺領 |
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文和元(1352)年 |
文献に「牧郷」の名が初見⇒牧ノ郷、真木郷とも書き、牧野の名の起源とされる |
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長禄4(1460)年 |
文献に「真木ノ城」(牧城)の記述が見受けられる⇒御殿山に比定される(市史12巻60頁) |
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文亀2(1502)年 |
文献に河内国交野郡「さか」郷の名が初見 |
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天文12(1543)年 |
片岡正久と川端綱久が将軍足利義晴から河内国(河州)交野郡牧郷の無主荒地の下付を受け、本願寺第八世蓮如の六男である蓮淳(兼誉)を招いて「招提惣道場」を建立 |
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24(1555)年7月 |
片埜神社所蔵の牧一宮神田帳と一宮反銭納帳に「舟橋郷」の名があり、上山(現在の宇山)や養父、塚本(現在の南船橋)が属していたとされる |
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永禄10(1567)年11月 |
招提寺内町の禁制書に「河内国招提寺」や「河州招提寺」とある⇒禁制の内容は、「当手軍勢甲乙人等濫妨狼藉事」「剪採竹木事」「相懸矢銭兵粮米事」の3点 |
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11(1568)年4月 |
河州牧郷一宮禁制⇒禁制の内容は、「当手軍勢甲乙人等乱妨狼藉事」「剪採山林竹木事付荒作毛事」「壊取家事并放火事」の3点 |
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元亀元(1570)年8月 |
織田信長が招提に陣を構え、招提寺内町に安堵状を下す |
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元正11(1583)年6月 |
豊臣秀吉が明智方についた招提村の自治権を剥奪して検地を実施(寺内町の崩壊) |
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11(1583)年 |
豊臣秀吉が大坂城の築城に際して、片埜神社を鬼門鎮護の社と定め修築 |
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文禄3(1594)年11月 |
検地帳に「川嶋村」の地名が見えることから、上島村と下島村はこの頃までは川嶋(島)あるいは河島という一つの村であったと考えられる |
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5(1596)年 |
豊臣秀吉が文禄堤を整備して京街道が開通 |
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慶長元(1596)年 |
招提村に招提今池(桜今池)がつくられる(まんだ17号39頁、市史3巻160頁) |
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7(1602)年 |
豊臣秀頼が片桐且元 を総奉行として、片埜神社の本殿、拝殿、築地、経堂、別当などを再建 |
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15(1610)年 |
上山家先祖の又右衛門が上山姓を受ける |
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元和元(1615)年 |
上山村を宇山村に改称する |
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7(1621)年 |
「招提惣道場」の寺号を「敬応寺」と定める |
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寛永年間(1624-44) |
この頃までに、京街道が東海道の延長として整備され、枚方宿が成立 |
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12(1644)年 |
文献に「下嶋」の地名が見えることから、この頃までに上島と下島が分かれたと考えられる |
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12(1644)年 |
宇山村に溜池がつくられる、花池か(市史3巻160頁) |
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元禄4(1691)年 |
坂村と渚村が領域の悪水をめぐって水論になる(市史3巻394頁) |
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7(1694)年3月 |
坂村が枚方宿の助郷に加えられる⇒幕末までに下島村と宇山村も加えられる |
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16(1703)年3月1日 |
招提村で大火、村中7割方焼失(市史7巻733頁) |
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宝永2(1705)年10月 |
下島村が坂村、渚村を相手に村境侵害訴訟を起こす(市史8巻37頁) |
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寛保3(1743)年 |
楠葉村の悪水抜きを目的として、下島村に新井路がつくられることになる(市史3巻170頁) |
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寛延3(1750)年 |
渚村から下流の岡新町、岡、三矢の3村に対して悪水井路掘削の交渉が開始される(市史3巻170頁) |
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宝暦7(1757)年 |
渚村からの悪水井路が完成し、楠葉、養父、上島、下島、宇山、坂方面からの悪水を枚方表で淀川へ落とすことになる(市史3巻171頁) |
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安永4(1775)年5月 |
河内交野郡招提村の淀川堤が決壊(府史6巻258頁) |
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寛政年間(1789-1801) |
この頃、坂村に岡田本房や小磯逸、三浦蘭阪らの文化人が輩出(市史3巻799頁-) |
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享和元(1801)年9月 |
坂村の京街道沿いに一ノ宮(片埜神社)の鳥居と御神灯が建てられる⇒現在の黄金野一丁目で、鳥居は倒壊しているが、御神灯一対は現存 |
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文政4(1821)年 |
穂谷川の水争い⇒穂谷川上流の津田村から中宮村への分水について下流の村と7年に及ぶ水争いとなる |
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慶応4(1868)年5月 |
4月末からの豪雨により、淀川右岸が決壊、左岸でも内水が溢れ、牧野付近でも7尺(約2.1m)に達する。さらに下島村古樋の堤防が決壊、坂村の土橋が流失、下島村の穂谷川も決壊 |
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明治2(1869)年1月 |
明治維新により河内国の政府直轄地に「河内県」設置 |
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2(1869)年8月2日 |
「河内県」が「堺県」に編入される |
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4(1871)年7月14日 |
廃藩置県(新暦では8月29日)⇒律令制以来の「国」と「郡」が制度上、廃止される |
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4(1871)年11月22日 |
第一次府県統合により河内国と和泉国の全域が「堺県」に編入される⇒堺県の区分として、河内国(河州)・和泉国(泉州)の名称が引き続き使用される |
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5(1871)年2月 |
区画制実施、堺県では河内国(河州)を29区、和泉国(泉州)を25区に分ける⇒坂村、宇山村、養父村、招提村、上島村、下島村は、渚村、船橋村、楠葉村、中宮村、禁野村とともに堺県河内国第七区とされる(計11か村、人口約8,700人) |
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5(1872)年3月 |
堺県では、学制に先立って各区毎に「郷学校」を1校と、必要に応じて分校を設置することとする |
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5(1872)年5月 |
堺県河内国第七区郷学校が片埜神社に設けられる⇒枚方市域で最初の学校 |
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5(1871)年8月 |
「学制」公布(新暦では9月5日) |
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5(1872)年9月1日 |
堺県河内国第七区郷学校の出張所(分校)が招提村敬応寺に設けられる(校区は招提村のみ) |
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5(1872)年12月3日 |
旧暦(太陰太陽暦)を廃止して新暦(太陽暦)を採用、明治6年1月1日となる |
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6(1873)年4月1日 |
8大学区が7大学区に改められ第四大区は第三大学区となる |
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6(1873)年4月13日 |
堺県において学制が実施され、第七区郷学校招提出張所を堺県河州(河内国)第六十五番小学校に改称するとともに、校区に坂村、宇山村、養父村、上島村、下島村を加える⇒中宮出張所が第六十四番、楠葉出張所が第六十六番になっており、坂村の本校はこの時までに廃校になったと考えられる |
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6(1873)年4月 |
坂村の片埜神社が河内国第七区の郷社に指定 |
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6(1873)年7月 |
堺県で小学校が50校増設⇒第百五十五番小学校が開校、その後、宇山小学校も開校したと思われる |
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7(1874)年1月22日 |
堺県において大小区制実施、河内国を3大区15小区、和泉国を3大区14小区に区画する⇒牧野地区周辺は堺県河内国第三大区四小区となる |
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7(1874)年4月 |
堺県の小区内の数村を合わせて石高1500石内外を目途として「組合村」を定め番号を付ける⇒坂村、宇山村、養父村と上島村、下島村は堺県河内国第三大区四小区三番組となり、楠葉村と船橋村は四番組、招提村は単独で五番組とされる |
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8(1875)年5月25日 |
堺県布達により番号校名を所在地名に改めることとされ第六十五番小学校を招提小学校、第百五十五番小学校を渚小学校に改称⇒この時までに招提小学校の校区は招提村のみになっている |
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9(1876)年4月18日 |
堺県に奈良県(大和国)を編入 |
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9(1876)年10月 |
河内、和泉、大和の区画を見直し、堺県全管内を10大区に改める |
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10(1877)年 |
大阪でコレラの流行⇒コレラは明治時代に最も恐れられた伝染病で、12年、14年、19年、23年、24年、28年にも大流行する。明治19年にはチフス、天然痘も大流行したほか、赤痢の流行もある |
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9(1876)年12月28日 |
番組の廃止、小区に属する町村名を発布 |
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11(1878)年5月15日 |
デレーケらによる淀川修築工事の一環として、穂谷川流末の付け替え工事に着手 |
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11(1878)年12月23日 |
穂谷川流末の付け替え工事が竣工(坂村地内に幅約10間、長さ200間余の新川が開削される) |
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12(1879)年12月 |
招提小学校が招提村1398番地の2ほかの新校舎に移転、校区に宇山村、養父村を附属⇒宇山小学校が廃校になるとともに、阪村小学校が設けられたと考えられる |
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13(1880)年4月14日 |
郡区制実施、堺県に1区9郡が置かれる(郡の復活)⇒交野、茨田、讃良の3郡を管轄する枚方郡役所(後に茨田・交野・讃良郡役所に改称)が置かれる |
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13(1880)年4月23日 |
堺県の大小区制を廃止、聯合町村制を採用⇒区画制による旧七区の全域に加えて、第六区(津田村や穂谷村から小倉村)の大半(春日村を除く)と磯島村が交野郡第五聯合とされる |
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14(1881)年2月7日 |
堺県が大阪府に編入される |
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14(1881)年11月26日 |
大阪府が小学区を制定、河内を33学区、摂津41、和泉30、大和114の計218学区制とし、招提小学校、阪小学校、渚小学校は他校とともに河内国交野郡第二学区に属することになる |
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17(1884)年7月1日 |
大阪府が戸長役場管理区域を設定⇒坂村は禁野村、磯島村、渚村、小倉村とともに第27戸長役場、宇山村と養父村は招提村、上島村、下島村とともに第28戸長役場の管内となる |
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18(1885)年2月24日 |
内務省が國道(国道)表を告示⇒壹號(一号)は「東京ヨリ横濱ニ達スル路線」、貳號(二号)は壹號の「~奈川」から分岐して「大阪港ニ達スル路線」とされ、京街道は貳號の一部となる |
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18(1885)年4月 |
招提小学校の校区に上島村と下島村が加わる⇒学区併合促進を受けて、阪小学校が廃止されて招提小学校と渚小学校に吸収されたと考えられる |
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18(1885)年7月 |
梅雨の長雨により6月18日に淀川の伊加賀堤防が決壊、7月に再度決壊するとともに船橋川、穂谷川、天野川などの支川も決壊 |
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20(1887)年4月 |
坂、宇山、養父、招提、上島、下島の各村と楠葉、船橋、田口、片鉾、甲斐田、中宮、渚、禁野、小倉、磯島の計16か村の組合により、坂村の片埜神社に交北高等小学校が設立 |
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20(1887)年11月4日 |
大阪府から大和地方を分離して奈良県を再置 |
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21(1888)年1月 |
津田高等小学校と平松高等小学校が廃校になり、交北高等小学校に統合され、校地を同じ坂村の清岸寺に移転 |
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21(1888)年5月 |
交北高等小学校が出口村に新築移転する |
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22(1889)年4月1日 |
町村制施行⇒招提村は単独で交野郡招提村となり、招提村を除く第27、28戸長役場の区域(坂、宇山、養父、上島、下島、渚、禁野、小倉、磯島の計9か村)が交野郡牧野村となる。招提村役場は当初、招提小学校内に置かれ、牧野村役場は渚院跡に置かれる⇒また、「楠」葉村と船橋村が合併して「樟」葉村となる |
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22(1889)年8月 |
豪雨により淀川の渚堤防決壊するなど各地で洪水となり、牧野村でも人家などが流失(市史4巻189頁-) |
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26(1893)年4月 |
招提尋常小学校の校区が招提村のみとなる⇒町村制を受けて宇山、養父、上島、下島が牧野尋常小学校の校区になったと考えられる |
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29(1896)年4月 |
交野郡と茨田郡、讃良郡が合併して北河内郡となる |
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29(1896)年5月 |
政府が前年に成立した河川法により淀川改良工事に着手 |
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29(1896)年9月11日 |
淀川の渚堤防が決壊、牧野村渚、磯島、阪、養父、禁野で浸水被害、牧野村では、湛水を天野川に排出するために天野川北岸の堤防5箇所を切って放水するが、その影響で南岸4箇所の堤防が決壊し、牧野村禁野や枚方町の田畑や人家が浸水、争いとなる(市史4巻300頁-) |
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30(1897)年頃 |
この頃から「一ノ宮」を「片埜神社」と改める |
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31(1898)年6月1日 |
郡制施行、北河内郡が行政区画から地方自治体となる |
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32(1899)年7月1日 |
府県制施行、大阪府が行政区画から地方自治体となる |
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34(1901)年9月 |
交北小学校を設置する組合から牧野村が離脱し、牧野尋常小学校に高等部を設置し、牧野尋常高等小学校となる |
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41(1908)年9月1日 |
修業年限の延長に伴い、招提尋常小学校が招提村日置1329番地ほかの新校舎に移転⇒現在の招提公民館所在地付近 |
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42(1909)年4月25日 |
久須々美神社や粟倉神社など10社が片埜神社に合祀される |
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43(1910)年4月15日 |
京阪電鉄開通、牧野停留所(駅)開業 |
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45(1912)年4月1日 |
交北高等小学校の廃止に伴い招提尋常小学校に高等部を設置し、招提尋常高等小学校となる |
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大正6(1917)年10月1日 |
暴風雨で牧野村上島の船橋川が決壊、牧野村では200戸が浸水(市史4巻482頁)⇒10日夜に再浸水して上島、下島、養父の数十戸が浸水、京阪電車は18日まで枚方〜三条が不通に |
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7(1918)年11月3日 |
スペイン風邪(急性インフルエンザ)の大流行により、招提尋常高等小学校でも教員3名、生徒73名が罹患、3日から5日間休校(朝日新聞大正7年11月4日) |
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9(1920)年4月1日 |
内務省が「國道ノ路線」を告示⇒一號は「東京市ヨリ~宮(伊勢神宮)ニ達スル路線」、二號は一號の「三重県三重郡日永村(現在の四日市市)」から分岐して「鹿兒島縣廳(鹿児島県庁)所在地ニ達スル路線」とされ、京街道は二號の一部となる |
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12(1923)年4月 |
郡制廃止法施行、郡は行政区画に戻る(郡役所は大正15(1926)年6月30日まで存続) |
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12(1923)年 |
京阪自動車株式会社(現在の京阪バス)が設立され、営業を開始 |
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昭和3(1928)年6月30日 |
牧野村大字阪12番地(現在の宇山東町)に大阪女子高等医学専門学校(現在の関西医科大学)開校 |
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4(1929)年9月 |
牧野村大字阪に大阪歯科医学校(現在の大阪歯科大学)が移転、開校 |
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7(1932)年10月5日 |
府道長尾高槻線(現在の枚方高槻線)の招提付近の新道が開通(幅5m・全長1562m)⇒現在の招提平野町西側から大谷橋(国道一号線の招提交差点付近)との間と思われる |
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8(1933)年5月 |
京阪国道(国道二号線の新道)が開通⇒現在の府道京都守口線 |
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9(1934)年9月21日 |
室戸台風の襲来⇒招提尋常高等小学校校舎が被害を受け、開校当初の校舎だった敬応寺の本堂が倒壊。牧野村渚の牧野尋常高等小学校では校舎が完全に倒壊して教員2名、児童15名の死者が出る(児童の内、7名は牧野村北部(阪、上島、下島)地区の子どもたち) |
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10(1935)年2月11日 |
招提村と牧野村が合併して大阪府北河内郡殿山町が発足、町役場は旧牧野村役場(渚院跡)に設置(人口5,733人、戸数1,208戸)。殿山町発足に伴い、招提尋常高等小学校を北河内郡殿山第二尋常高等小学校、牧野尋常高等小学校を北河内郡殿山第一尋常高等小学校と改称 |
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10(1935)年4月1日 |
北河内郡殿山第二尋常高等小学校の校区に旧牧野村北部を加える⇒従来の旧招提村に、阪、宇山、養父、上島、下島の各大字が加わり、戦後の殿山第二小学校と同じ校区となる |
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10(1935)年8月10日 |
豪雨により、殿山町大字阪の穂谷川左岸堤防が決壊、氾濫したため、京阪国道と京阪電車が不通に |
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11(1936)年1月28日 |
北河内郡殿山第二尋常高等小学校が旧牧野村養父の現在の校地に新築移転 |
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11(1936)年10月25日 |
北河内郡殿山第一尋常高等小学校が、旧校地で規模を縮小して再建し、殿山第一、第二両校の竣工式が各校地で行われる |
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11(1936)年10月30日 |
室戸台風による教職員の殉職と生徒児童の死亡が契機となって、帝国教育会が「教育塔」を大阪城公園内に建立⇒学制発布以来の殉職教職員と学習時間中に不慮の災害で死亡した全国の児童生徒、学生の霊を合祀 |
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13(1938)年11月3日 |
殿山町と枚方町、川越村、山田村、樟葉村、蹉だ村が合併して(新)枚方町が発足(人口26,581人、戸数5,178戸、面積40.62平方km)⇒旧殿山町の大字の内、宇山、養父、上島、下島は合併して大字牧野となる。また、旧樟葉村は楠葉と船橋が分離、地名としての「樟」葉が消滅する |
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14(1939)年3月1日 |
禁野火薬庫の大爆発⇒殿山第一尋常高等小学校の校舎が全焼 |
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15(1940)年 |
京阪自動車株式会社(現在の京阪バス)の京阪国道牧野〜招提(大谷橋)間の路線が営業を開始 |
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16(1941)年4月1日 |
国民学校令により殿山第二尋常高等小学校を「北河内郡殿山第二国民学校」と改称 |
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22(1947)年4月1日 |
学校教育法施行により殿山第二国民学校を「北河内郡枚方町立殿山第二小学校」と改称、旧枚方製造所青年学校養正校跡に枚方町立中学校(現在の枚方市立第一中学校)が開校 |
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26(1951)年7月2日 |
枚方市で2番目の保育所として市立阪保育所が開所(収容定員60人) |
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26(1951)年7月12日 |
豪雨により各地で堤防や道路が決壊、路面が流失するなどの被害⇒殿二校区でも浸水家屋23戸(110名) |
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27(1952)年12月4日 |
道路法が改正され、一般国道の路線を指定する政令が公布・施行される⇒京阪国道は国道一号線の一部に |
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27(1952)年8月1日 |
枚方市が区長設置要綱を制定し、市内64地区に区長を置くことになる⇒牧野地区は、阪、阪住宅地、招提、東牧野、西牧野の5地区 |
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28(1953)年9月25日 |
台風13号による豪雨のため、枚方市域で死者7人をはじめとする大きな被害、京阪電車の船橋川鉄橋では橋台が洗い掘られ、牧野・楠葉間が不通に(市史別巻569頁) |
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30(1955)年7月15日 |
殿山第二小学校上水道誘致に関する請願書の提出(飲料水、給食炊事・清掃用水の全てに井戸水を使用し、消火栓も無かった) |
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30(1955)年9月6日 |
東牧野・船橋区内八幡街道補修に関する請願書の提出 |
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30(1955)年11月 |
殿二小で上水道設備工事が完了 |
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35(1960)年4月1日 |
枚方市立第三中学校開校(第一中学校から分離) |
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36(1961)年9月16日 |
第二室戸台風の暴風により、枚方市域で死者2人、負傷者18人、全壊44戸、半壊146戸、水稲251ha、果樹21ha、蔬菜40haの被害(市史別巻619頁) |
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40(1965)年頃 |
府道枚方交野寝屋川線(水道みち)が開通⇒楠葉中之芝の楠葉取水場から寝屋川市太秦の豊野浄水場へ向かう大阪市水道局の水道管を埋設 |
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41(1966)年4月1日 |
殿一、殿二の両校区で住居表示が実施され、15の大字が42の新町名に変更される |
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41(1966)年3月10日 |
国道一号線の新道として枚方バイパスが全面開通⇒旧道は府道京都守口線となる |
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42(1967)年7月 |
9日、20日の2度にわたって集中豪雨があり、牧野地区でも浸水被害が出る(市史別巻619頁) |
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44(1969)年4月 |
牧野小学校開校 |
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47(1972)年4月 |
招提小学校、樟葉南小学校、北牧野小学校開校 |
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50(1975)年4月 |
西牧野小学校開校 |
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51(1976)年4月 |
府立牧野高校開校 |
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56(1981)年6月1日 |
平野小学校開校 |
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63(1988)年4月 |
牧野公民館、牧野図書館開設 |
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平成12(2000)年4月 |
北牧野小学校閉校(牧野小学校に再統合) |
編:山田 昇(養父丘二丁目)