天使と悪魔の二重兵装
第二話『シュレディンガーの猫は量子ゆらぎの夢を見るか』
「カイ……カイ、起きてよ……カイ?」
「……うん……ああ……ユーリか……ええと、ここは?」
「何言ってるの、カイ。自分の家でしょ。寝ぼけてるの?」
肩を揺さぶられて目を覚ましたカイは、まだはっきりしない頭を振って眠気を覚ましながら周囲を見回して、状況を確認する。ここは確かにカイの家で、隣で寝ていた恋人のユーリに起こされたところだ。窓の外はまだ暗いから、夜中すぎ明け方前というところだろう。
「どうしたの? 随分うなされていたみたいだけど」
「いや、どうだろう。変な夢を見た……のかな? よく覚えてない」
「珍しいわね、カイがそんな言い方するなんて」
確かにカイはあまり中途半端な言い回しを好まない。良きにつけ悪しきにつけはっきりと断言するし、分からないなら「分からない」と断言する。曖昧な言動は相手に対して誠実でないと考えるタイプだ。
にもかかわらず、今は自分の記憶や感情をはっきりと断言することができない。何かおかしな夢でも見たのだろうか。それは全く記憶にも印象にも残っていないにもかかわらず、妙な違和感をカイの中に残していった。
(なんだろう、この違和感は? どこもおかしいところなどないのに)
確かにおかしいところなど何もない。ここはカイの家で、となりには将来を誓った優しい恋人がいて、壁には使い込んだ愛用の武具が飾ってある。伝説の魔法金属アロンダイトの長剣。魔法剣士として数々の武勲を立てたカイが国王から直々に賜った------
(なんだ? 何かがおかしい)
そこまで考えて、カイは違和感の正体に気づく。これだけ違和感を感じているのに、それを違和感と認識できない自分の感覚がおかしい。あるいは違和感を感じる能力そのものを麻痺させられている不快感というべきか。例えるなら喉元に鋭い剣の切っ先を押し付けられているのに、何の危機感も感じていないようなものだ。理性で危機感を制御することは可能だが、危機感そのものを消し去ることはできない。だが、今のカイは危機感も違和感も全く感じることはできなかった。
(危機感……?)
そう、今は危険なのだ。理屈ではなく、研ぎ澄ましたカイの直感がそう言っている。否、言おうとして封じられている状態だ。封じているのはもちろんカイ自身ではなく、そしてカイの味方でもない。
(ならば敵か!)
カイにとって不利な状況を作り出そうとしているなら、それだけで敵性存在と判断して構わないだろう。
しかし問題になるのは敵の正体、目的、そして何よりその力だ。今、カイは理解も知覚もできない力で干渉を受けている。
(精神操作系の魔法か? しかしこの家には防御結界と探知結界が張ってある。もともと射程や持続時間に限りのある精神操作系の術を、結界を掻い潜って効果を発揮するだけでも大変なのに、その上で僕のレジスト能力を突破して、しかもそれを自覚させないなんて常識では考えられない)
そもそもそれだけ強大な影響力を行使できるならば、もっと支配的な直接干渉をしてきてもいいはずだ。だが実際の影響はカイの直観を封じるだけというのでは、方法としてはあまりにも遠回り過ぎる。
「どうしたの、カイ? 疲れてる?」
「……そうなのかもしれない」
そうではないことを承知で、それでもカイは恋人に余計な心配をかけないように答える。仮に今の状態が正体不明の敵の攻撃の結果だとしても、あるいは単なる思い過ごしでカイ自身の不調だったとしても、どちらにせよ十分な説明ができない以上、軽々しく口にすべきではない。
「やっぱり具合悪いんじゃない? ちょっと水を持ってくるね」
恋人の顔色を目聡く見てとったのか、ユーリは素早く台所に水を取りに行く。その後ろ姿を茫洋と見送りながら、カイはさらに状況を分析する。直感が封じられ危機感を感じられないというのはかなり危険な状況だ。カイのように戦いに生きる者にとっては特に。
(何故こんな真似をしてきたのか。普通に考えればこれだけの力が有るなら直接精神支配した方が余程効率的だ。それをやってこないということは、僕の命や行動を掌握したいわけではなさそうだ)
ならば何が目的だというのか。直接危害を加えてくるわけでもなく、行動を制御してくるわけでもない。しかも結果論だが、カイに気付かれてしまっている。普通に考えているだけでは敵の目的が見えない。
「はい」
「……ああ、ありがとう」
台所から戻ってきたユーリが差し出したコップの冷たい水を飲み干すと、わずかだが果実の香りがした。咄嗟に果汁を少し絞ってくれたのだろう。その爽やかな香りがカイの不快感を和らげ、気持ちを落ち着かせる。
「やっぱり疲れてるんじゃないの? ここのとこ忙しかったし……それに私たちの式ももうすぐだし」
「ああ、そうだね……その通りだ」
はにかみながら囁くユーリに、わずかに照れ笑いを含ませながらカイも答える。付き合った当初はカイの出自を気にして渋い顔をしていたユーリの両親も、やがてカイが自分の手で武勲を積み重ね出世頭として頭角を現し始めると、手のひらを返してカイの求婚を喜んだものだ。
(それを現金と断じるのは一面的すぎるだろう。自分が逆の立場だったなら、やはり心配するだろうから。その杞憂を晴らすことができた自分を誇ればいい)
そう自分に言い聞かせるカイに、笑顔でユーリが語りかける。
「もうそろそろ友達にも招待状出さなきゃね。リストどうしようか」
「君に任せるよ。僕はもともと知り合いが少ないし。騎士団との付き合いもそれほど深くないから、わざわざ呼べるほどの知己もいないんだ」
「そんなこと言わないで考えてよ。でも彼は呼ばなきゃダメよね。だって私たち二人の友達だから。Sには絶対来てもらわなきゃ」
「------どんな魔法を使った、S?」
その瞬間、カイは刃物のような鋭い目つきで目の前の『ユーリ』を見据える。ユーリの一言でまるで霧が晴れたように、あるいは夢から覚めたように、違和感が正常に戻ってきた。この状態は異常だ。少なくとも自分は師の敵を討つべくSを追撃していた最中のはず。おかしな攻撃を受けて意識を失ったが、その間隙を突かれて精神操作系の魔法でも使われたか。だがそれならユーリが黙って見ていないはず。
「大規模な儀式魔術でも行使したか。あるいは精神操作系の術でユーリを操ったか。だが彼女のレジスト能力は僕以上だ。いや、そもそも目の前の『君』は本物か?」
「……どうしたの、カイ。怖い顔して。言ってることわからないんだけど」
「下手な猿芝居はよせ」
カイは油断なく身構え、近づこうとするユーリを牽制しながらゆっくりと壁に近づき、愛剣を手に取る。師父が残してくれた剛剣アロンダイトを。
(この剣の感触は本物だ……少なくとも本物と感じられる。ならば目の前のユーリはどうだ? あれからどこに移動した? 少なくとも僕の家ではないはずだ。ならば今目の前にある光景は何だ? 偽装した造りものか。それとも幻覚魔法か)
もはや余りに異常すぎる事態に、自分の記憶や感覚までもが怪しく思え始めてきたカイに対し、むしろ平静な調子でユーリが告げる。
「……どうして私が、この家が、今この状況が偽物だと思うの?」
「えっ」
「こっちも本物なのよ。本来なら実現しなかったはずの可能性。でも今は実現している可能性」
思いもよらなかったユーリの言葉にカイは混乱する。思いもよらなかった? 実現しなかったはずなのに実現した? 彼女は何を言ってるんだ? 彼女がとんでもないことを言ってるのが分かるが、同時にそれが『とんでもない』と理解できる自分自身にも戸惑わざるを得ない。ユーリの戯言がなぜ分かる? 僕はどこまで理解している?
「『貴男に師匠がいて、それを殺した仇のSを追っている世界』も正しいけれど、『貴男には師匠がいなくて、Sは仇じゃなく親友だった世界』も正しいの。ううん、どちらが正しいというよりはどちらもあり得る可能性だった。誰かが観測するまでは、どちらが現実になってもおかしくなかった。たまたま今はこっちの可能性が現実化しているだけ」
「……君は一体何を言ってるんだ。まるで分からないよ」
理解している。知らないはずの理論だが、それでもカイはなぜか理解することが出来た。この世界は未だ不定形で、だからこそその確率変数の海を誰かの手によって確定しなければならないということを。それができる人間が限られているということを。
「本来ならこんなことはありえない。だけど今、世界はもの凄く揺らいでいる。誰も、何物も、自分を保つことができないほどに」
「ならどうして僕は……以前の世界の記憶を持っているんだ? 世界が変わったのなら、それに合わせて僕も変わっていくのが当然なんじゃないのか?」
カイの疑問はもっともだ。もし目の前のユーリの意見が正しいなら、当然ながらカイ自身も世界に合わせて変化していかなければならない。カイもまた世界の一部なのだから。
(さっきから感じている違和感の正体はこれなのか? 変わってしまった世界に対する違和感、いや、変化した世界から弾き出される疎外感? なぜ僕だけが適合できない?)
「カイ、私を見て」
唐突なユーリの言葉に、思わずカイは恋人を見やる。可愛いユーリ。王立魔法学院の優等生で、実戦経験も十分。両親は良家の出でやっと結婚を認めてもらった。丁寧に整えた栗色のショートカット。淡いブルーの瞳は才知にあふれているが、若干桃色の頬が愛嬌をそそる。気が強くて、少し小生意気で、だけどとても一途で。彼女と共に過ごす未来はどれほど輝かしいだろう。
「だけど……ギャラック師匠は僕の……」
「駄目よ! カイ!!」
ユーリが悲鳴にも似た声を上げるが、その瞬間に目の前の恋人も含めた全ての光景がカイから遠ざかっていく。全てから遠ざかることなど物理的に不可能なのに、それでも遠くなっていくのが理屈抜きで実感できる。
「ユーリ!」
「カイ!!」
呼び合う二人の声さえも急速に遠ざかっていき、周りの光景がすべて水に溶かした絵具のように溶けて混ざって-----
「あいてっ」
快は居眠りをしていた拍子にデスクに頭をぶつけて、思わず飛び起きる。
「おいコラ新入り、居眠りしてんじゃないぞ」
「スンませんッス」
向こうのデスクから飛んできた叱責に反射的に答えると、快はあくびを噛み殺しながら自分のデスクに表示した記事の一覧を眺める。
(あんまり金になりそうな記事はねーなー)
内心でぼやくが、そんな愚痴ばかりを並べても始まらない。レベル1階層程度で眺めているだけではスクープになりそうなネタは見つからなそうだ。
「しゃーねー。潜るか。お仕事お仕事」
そうつぶやくと、快は項のサイバージャックとパーソナルターミナルを直結してネットダイヴする。レベル2程度ならともかく、3以下の階層に潜るつもりなら身体感覚はノイズになりかねない。それに深く潜る方が快の性に合う。
「さてさて。面白そうなネタは転がってないかねー」
新東京市に居を構える新聞社『東京ネットサービス』の駆け出し記者である快にしてみれば、少しでも記事になりそうなネタ、言い換えれば金になりそうなネタなら何でもいい。そしてその程度のネタなら、生身で歩き回るよりも、ネット世界を探索した方が余程早くて効率がいいのだ。
「キャップは自分の足がどーのこーのとうるせーけどな」
快のような世代にとってはネット環境をどれだけ有効活用できるかが一番の関心事だ。実際、一昔前のキャップの世代から見れば快たちのネットに対する親和性はもはや別次元(別人種)と言ってもいいくらいだろう。
「おっ、今日もお仕事がんばってるねー」
「ああ、悠里か。相変わらず暇そうでいいな」
最近知り合ったネット仲間の悠里に話しかけられて、快は面白くなさそうに応じる。二階堂悠里。18歳。女。重度のネット中毒で、リアルのお仕事はプログラマーらしい。第三次世界大戦でインフラごとネット環境や技術者を根こそぎ喪失して、そこからようやく再起を図ってきた人類にとって、腕の立つプログラマーは引く手数多の貴重な資産だ。実際、悠里もかなりいいとこに勤めているらしく、恵まれた条件で仕事をしているとの話。
(だからこんな我が儘な性格なんだろうなァ)
「……今、君、不穏なこと考えてない?」
実際のところ、リアルの悠里がいくつだろうが、何をしてようが、仮に男だろうが、快にとってはどうでもいいことだ。今このネットの海で出会っているペルソナが彼と馬が合う個性ならば、それ以上を追求しようとは思わない。
「ね、ね、なんか面白い話ない?」
「そりゃこっちのセリフだよ。ネタくれ、ネタ。こちとら明日の飯にも困ってる身だ」
「またまた。それじゃナマポでももらえば」
さすがに明日にも餓死するようなことはないが、駆け出しの使いっ走りとくれば稼げる額など知れている。快はそれほど贅沢には興味がないし、浪費癖があるわけでもないのだが、ネット環境や設備を整えようとすればそれなりに金がかかるし、最近ではサイバーウェアも高価になる一方だ。
「しかしおっかしいよなァ」
「何が?」
「俺は結構金をはたいて電脳系に力を入れてサイバー化してるつもりなんだけど、みょーな違和感を感じるんだよなー」
「例えばどんな?」
「上手く言えね。だけど何か違う気がする。もっと速かったような……いやでもサイバーデッキは最速のやつにブースター目一杯付けてんだけどな。何の事だろ?」
悠里の問いに答える快の表情はどこか曖昧で、自分でも違和感の正体が分かっていないようだった。
「じゃあ、こんなネタはどう? この世界は実はコンピュータ内に再現された仮想世界で、私たちも同じく再現された疑似人格。オリジナルの私たちは第三次世界大戦で全滅してるって話」
「……そんな記事を持ちこんだら、其の場でクビだな」
もはや手垢が付きすぎて擦り切れてしまってるような陳腐なネタを持ち出されて快は鼻白むが、悠里はめげずに話を膨らませる。
「そしてその電脳世界を構築する量子コンピュータの支配者が、自分にとって都合のいい世界を作り出そうとするんだけど、それに立ち向かう正義の味方が現れるわけよ。たとえ疑似人格といえども人間であり、命だ。自由に生きる権利はある、って」
「はいはい。で、その正義の味方のお名前は?」
「じゃーん、その名も勇者S!」
「プレデター!!」
叫ぶと同時にその手に現れた愛用の50口径リボルバーの巨大な銃口を、快は強化反射神経特有の超スピードで悠里にポイントすると、2連射を叩き込む。
「どうやってこの疑似世界を構築したのかは知らねーが、詰めを誤ったな、S」
「……ちょっとくらい躊躇ってくれると思ったのにー」
「ありゃ、すまんすまん、本人だったか。てっきりクラッキングソフトのデコイイメージかと思っちまった。とりあえず無事か?」
「んなわけないでしょ」
悪びれずにいけしゃあしゃあと問いかける快の声に応える悠里の声はちょっと涙ぐんでる。まあ、50口径弾で撃たれてその程度なら幸運だったというべきなのか。相棒に誤射されることを幸運だというならば。
「快は特異点だからいいけど、私はまた一から作り直しなんだからね。元通りにならなかったらどうしてくれるのよ」
「お前のタヌキ顔はそれ以上変にはならねーよ……って、特異点ってなんだ? またおかしなラノベにでも嵌ったか?」
「タヌキ顔って言うなーーっ! 密かに気にしてるのに!! 特異点は特異点よ。特異な点。つまりおかしな奴って意味よ。快にピッタリじゃん」
「……まだ3発ほど弾が残ってたよナ」
割と真顔でリボルバーを確認する快に、あわてて悠里は説明を付け足す。
「ちょちょちょっと待った。特異点ってことはね、快は特殊なのよ。私たちみたいに『この世界に影響される者』じゃなくて『この世界に影響を及ぼす者』なの」
「なんじゃそりゃ、とんちか」
もともと電脳世界には物理的な距離など関係がないので、イメージで作られたノードが漂う海のような環境なのだが、プレデターを実体化させて身体改造レベル5のサイバーマーセナリーの体を取り戻した快の周囲でも世界そのものが歪み、混ざり始めている。まるで水に溶かした絵具のように。それに合わせるかのように遠ざかっていく悠里の声は、最後にこう告げた。
「快は『観測者』なんだよ------」
次へ