昭和34年の浅草三社祭。ミョン6歳の頃
| おばさんのプロフィール 1953年12月20日 射手座のO型 ☆出身地は台東区浅草馬道。在日韓国人二世です。当時、浅草番外地と呼ばれ、青線が実在していました。私の家も娼婦たちに部屋を貸していました。記憶の中で、利用していた人たちは日本人でした。朝鮮人とさげすまられ、人種差別が堂々と大人、子供にかかわらずに恒常的に行われていました。小学生の頃に葛飾区に転居。そこでも差別からのイジメが横行し、登校拒否になったこともありました。でも苦労は物心がついたときからで、今、話題になっている幼児虐待を父から受けていました。私の姉妹も同じ気持ちで、一昨年に父が召天しましたが、まだトラウマとして心に傷を持ち、私のリウマチの発症の要因のひとつだと思っています。高校を卒業してからは「恋に落ちて・・・」苦労人生の始まりです。18、19歳で二子を授かりましたが、経済的に子育ては大変でした。長男の出産の時は夫の会社から前借をして、費用に当てました。長女の出産費用は生活保護で当時、7千円の扶助を受けました。怠け者の夫とは3年しか続かず、長男を連れて離婚しました。息子が5歳の時に叔母に養子に出しました。養父母が親身でなかったのか、息子は中学在学中に不良になり、荒んだ生活の様子でした。3年前にその息子に子供が生まれました。 この写真が孫の虎之介です。かわいいでしょう!!今はとても幸せです。☆両親の話を少ししましょう。父は17歳で強制連行され日本に通称名を持たされ、日本の軍事工場を転々としていたそうです。広島で被爆した父は雷の嫌いな小心者だった。飲む・打つ・買うの三拍子揃った、遊び人でした。母は小学生の時に将校さんの家に女中奉公に出され、勝気でしっかりしたかわいい人でした。看護婦になり、陸軍中野学校で兵隊さん達のアイドルだったと聞いています。ドクターとその頃流行った社交ダンスにかなりハマっていました。その後両親は結婚に至るのだが母方の両親の猛反対に遭い、『朝鮮人と一緒になるなら、二度とこの家の敷居はまたぐな!』と絶縁状もので泣く泣く、故郷を後にした。母の苦労は絶叫に近いものがあった。 子供を5人生み、その他にも7人妊娠した。でも育てていけずに堕胎を父に告げずに行った。このことは父は知る由も無かった。DVに遭っていた、母はアルコール依存症、喘息、心臓弁膜症、子宮筋腫の手術の時は盲腸が腐って、一緒に切除したそうです。病弱な母は1999/3/11天に召されました。68歳でした。その2年後父も肺がん、肺炎で・・・今は仲良く教会の墓地に遺骨は収まっています。 ☆リウマチ罹患暦24年、頚椎から足の指まで手術すること37回を数えました。 人工関節やら固定術、サイボーグ人間のようです。これからも手術の必要があると思います。少し視点を変えれば「こんなに手厚い治療が受けられること、なんて幸せでしょう!!」 バリバリのポジティブ人生を送っています。 人生って自分で一生懸命、生きてるのではなく、生かされているのです。私はクリスチャンだからノー天気でいられるのかな?。 ☆電動車イス運転暦4年の暴走族です。もちろん自動車運転免許も取得していますが、右肘にMRSAのばい菌が入り、肘の中は骨ナシ、関節ナシで2〜3年経ち、近日中には車の運転も再開したいと思っています。重度の重複障害者だけど、毎日がとてもハッピーです。 ☆肩書きは一応、《ピアカウンセラー》 簿記やパソコンの家庭教師etc 小中学校の総合学習の時間に講師で呼ばれ、『私の人生観』等、お話します。 それと親しい友人はもちろん、私に声を掛けてくれた方には、カウンセリングを行います。カウンセリングといっても難しいことではなく、悩みのある人たちの話を良く聴くことです。傾聴するってことかな? ☆月の第1、 3 水曜日に社会福祉協議会東部ボランティアセンターで、PCヘルパー(パソコン教室)で講師としてボランティアをしています。 |
