1336年 延元元年 |
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下野国足利城主足利左馬助義高が卒す。此の、足利尊氏が九州に敗走し、佐竹義篤は東国の経営を命ぜられて京都より常陸国に帰国す。 |
1338年 延元3年 |
7月 |
新田義貞の部将で常陸国岡見城主岡見中務信房が足利尊氏に降参す。 |
〃 〃 |
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千葉介貞胤が足利方に属し、奥州の国司北畠中納言顯家を防ぎて武蔵や相模の両国の間に於て戦う。 |
1341年 興国2年 |
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上杉憲顯が越後守護職に任ず。 |
1348年 正平3年 |
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千葉貞胤は四條畷の合戦に三陣の将たり。 |
1349年 正平4年 |
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足利左馬頭直義が高武蔵守師直と屡合戦す時に千葉貞胤は師直に味方す。 |
1351年 正平6年 |
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足利尊氏が弟足利直義と薩捶山に於て戦い、千葉貞胤は尊氏に属す。 |
〃 〃 |
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常陸国太田城主佐竹貞義の七男で久慈郡山入郷の山入師義が畠山国清の乱に奮戦して戦死す。 |
1352年 正平7年 |
3月 |
千葉貞胤が足利尊氏に属し碓井峠に於て新田義興と戦う。 |
1354年 正平9年 |
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斯波義重が管領と成る。 |
1356年 延文1年 |
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大石信重が上杉憲顯に仕えて功あり、武蔵国の目代職に補せられて入間や多摩の両郡の内で十三郷を給せらる。 |
1359年 正平14年 |
12月 |
千葉貞胤は畠山道誓入道に従て上洛し、則ち足利義詮の南方発向に供奉す。 |
1361年 康安1年 |
7月24日 |
摂津国の難波澳が数百町程半時許り乾あがり、阿波鳴戸も俄に潮が去り陸と成る。 |
1362年 正平17年 |
9月 |
常陸国小田城主従五位下小田常陸大掾治久が年七十八才にて卒す、孝知が継ぐ。 |
1363年 正平18年 |
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上杉憲顯が鎌倉の執事と成り越後守護に還補さる。 |
1364年 正平19年 |
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上杉憲春が鎌倉執事と成り、上杉朝房が越後守護職と成る。 |
〃 〃 |
8月29日 |
千葉新介氏胤が天龍寺の供養に供奉す。 |
1368年 正平23年 |
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金子範遠が常陸国真壁郡下妻城主下妻正員を攻め破り攻略して其の地を奪ふ。 |
1378年 天授4年 |
6月2日 |
相模国鎌倉扇谷の上杉顯定が死す。 |
1380年 天授6年 |
5月 |
下野国小山城主小山義政が挙兵す。 |
1386年 元中3年 |
5月 |
下野国小山城主小山若犬丸が挙兵す。 |
1387年 元中4年 |
7月 |
足利氏満が常陸国小田城主小田孝朝を攻めしむ。常陸国筑波郡の小田氏が反乱を起して失脚し勢力を失う。 |
1391年 元中8年 |
12月31日 |
常陸国岡見城主岡見信則は内野に於て山名時氏と合戦し功名有りて勲功として常陸国の足高、牛久を賜はる。 |
1396年 応永3年 |
2月 |
小山若犬丸が叛く。 |
1397年 応永4年 |
1月 |
小山若犬丸が自殺す。 |
1401年 応永8年 |
5月 |
足利義満が僧祖阿と肥富某を明国に遣わす。 |
1403年 応永10年 |
8月3日 |
明船が愽多に来る。 |
1407年 応永14年 |
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常陸国久慈郡太田城主佐竹義盛が死亡し、佐竹家の宿老で守護代たる小野崎通綱と江戸通景は佐竹一族の小田野自義と協議し、上杉憲定の次男竜保丸を後継者に選定して義盛の娘と娶はして佐竹義憲と名乗らせる。 |
1408年 応永15年 |
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佐竹義盛の一族山入与義、長倉義景、額田義亮らは国人らと倶に他姓の養子を反対し、佐竹義盛の弟である義有を立て様として、長倉城を拠点として之れに拠りて反乱を起し、佐竹一門の此の内訌に対して、関東公方足利持氏は佐竹義憲を支援する為めに、宇都宮や大掾氏らを動員し岩松持国を総大将として反乱軍を討伐させ、鎌倉府の干渉によって山入氏を中核とした反義憲派の反乱軍は一応降伏す。 |
1409年 応永16年 |
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関東管領足利満兼が卒して幸王丸が立て持氏と号す。 |
1412年 応永19年 |
12月 |
上杉憲定が年三十八才にて卒す。 |
1413年 応永20年 |
6月 |
常陸国小田城主従五位下小田讃岐守孝知が年七十九才にて卒し治知が継ぐ。 |
1416年 応永23年 |
11月 |
関東管領上杉氏憲が鎌倉の関東公方足利持氏に叛き、千葉氏胤、満胤、兼胤ら将軍の命を受け鎌倉に入り上杉氏憲と戦う。 |
〃 〃 |
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扇谷上杉氏の重臣で武蔵国松山城主上田上野介が六本松の戦いに於て討死す。 |
〃 〃 |
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上杉禪秀の乱が起り、常陸国の山入与義が禪秀に応じて反乱を起す。 |
1417年 応永24年 |
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武蔵国多摩郡の南一揆が上杉禪秀の乱などに活動する。 |
〃 〃 |
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常陸国の稲木、長倉、山県らが、山入与義に味方をして夫々の居城に於て太田城主佐竹義憲に反抗す。 |
1417年 応永24年 |
5月 |
上野国の岩松持国が幕府を叛き、依って之れを斬る。 |
1418年 応永25年 |
12月 |
常陸国小田城主小田常陸介治知が年四十一才にて卒し知久が継ぐ。 |
1421年 応永28年 |
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常陸国の山入与義が、太田城の佐竹義憲の家督相続に賛成したる、弟の小田野自義を殺す。 |
〃 〃 |
6月 |
山入与義の子息および一族らが額田義亮の居城である額田城に籠って幕府に叛き、佐竹義憲に反抗す。 |
1422年 応永29年 |
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足利持氏が上杉憲直をして山入与義父子を鎌倉の比企谷法華堂に討たす。 |
〃 〃 |
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足利持氏は上杉定頼をして額田城を攻撃せしめる。 |
〃 〃 |
8月 |
常陸国の小栗満重が叛き幕府に反抗す。 |
1423年 応永30年 |
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佐竹義憲が鹿島や行方の諸氏らの応援により額田城を陥落させる。 |
〃 〃 |
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幕府は山入祐義を常陸国の守護職に補任する。 |
1425年 応永32年 |
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幕府は山入祐義を常陸国の守護職とするに及び此の為めに佐竹義憲と山入祐義が対立す。 |
1426年 応永33年 |
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江戸氏が大掾満幹の居城であった常陸国の水戸城に移り、那珂、吉田の両郡を支配す。 |
1428年 正長1年 |
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依上宗義が山入祐義に応じて依上城に挙兵し佐竹氏に対抗す。高久義久、檜沢助次郎らが山入祐義に応じて茨城郡の野口に挙兵して佐竹氏に抗す。 |
1429年 永享1年 |
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山入祐義の余党らが久慈郡の小里に挙兵し佐竹氏に抗す。 |
1430年 永享2年 |
6月17日 |
下総国千葉城主千葉兼胤が年三十九才にして卒し弟胤直が継ぐ。 |
1435年 永享7年 |
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常陸国の長倉義成が長倉城に拠って足利持氏に反抗す。 |
1437年 永享9年 |
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佐竹義憲は家督を嫡子義従(義俊)に譲って隠居したが、次男の実定は上杉憲実の養子と成り、しかも実父の愛情が深かったので義従を陥れて佐竹の家督相続を計ろうとし、上杉憲実、山入祐義、江戸道房らが実定を支援して義従と対立す。 |
1438年 永享10年 |
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永享の乱が起り、佐竹義憲は足利持氏方に付いて、山入祐義は幕府軍に加わる。 |
1439年 永享11年 |
2月10日 |
鎌倉の関東公方足利持氏が京都将軍足利義教に叛いて乱を起し、室町幕府は上杉持朝、千葉胤直らをして安楽寺に持氏を攻め破り、持氏父子を自害させて減す、其子春王、安王兄弟は脱出して逃走す。 |
1440年 永享12年 |
3月 |
下総国結城城主結城氏朝は足利春王、安王兄弟を迎へて挙兵す。佐竹義憲は結城籠城軍に、山入祐義は幕府の攻撃軍に加わる。上野国本居の里見家基も結城に同心す。 |
1441年 嘉吉1年 |
4月 |
幕府軍は下総国の結城城を攻略し、結城氏朝や里見家基らは自害す。時に結城氏の部将多賀谷彦太郎氏家は結城氏朝の季子を守護し佐竹氏を頼りて身を潜ましめ、其の児を養ふて時機の到るを待つ。幕府は山入祐義に内書を送りて佐竹義憲の討伐を命ず。 |
1452年 享徳1年 |
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山入祐義が江戸氏と協力して太田城主佐竹義従を追放し、其の弟実定をして相続させる。 |
1454年 享徳3年 |
10月 |
常陸国小田城主小田中務大輔知久が年五十六才にして卒し、持家が継ぐ。 |
1455年 康正1年 |
6月16日 |
下総国馬加城主千葉康胤が異母弟の千葉次郎惟胤と家督を争ひ、惟胤は敗北して武蔵国の石浜城に移り、千葉家は二派に分裂す。また一説には、八月十二日、下総国千葉城主千葉宣胤が十二才にし卒し世継なし、馬加城主千葉満胤が庶長子である千葉陸奥守康胤と異母弟なる千葉惟胤が本家を継がんと争い合戦したが惟胤は打負けて武蔵国江戸城主太田備中守持資入道道灌を頼り、武蔵国豊島郡の石浜城を預かり、千葉氏の家臣等二つに分れて戦う。 |
〃 〃 |
8月15日 |
千葉氏の家法は大いに乱れ、千葉胤直は土橋の弥阿堂に於て終に自害し、上総国武射郡の長子胤政を呼びて陸奥守と稱し家督を継がしむ。 |
〃 〃 |
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結城成朝の臣多賀谷彦太郎氏家が常陸国真壁郡下妻城主堀戸荘司道光を破りて攻略す。 |
1456年 康正2年 |
春 |
太田持資入道道灌が武蔵国豊島郡の江戸、川越、岩槻、鉢形を始め九ヶ所の城の築城を開始す。 |
〃 〃 |
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武田信保は上総国の庁南と真里谷とに城を持って真里谷三河守と稱し、真里谷(千葉県君津郡富来田町)城に居住し、上総国の守護代と成る。 |
〃 〃 |
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千葉城主千葉陸奥守胤政は上総、下総両国の堺なる埼川に於て戦死し弟の宣胤を世継となす、宣胤は十二才にて卒し、馬加城主千葉康胤を以て家督と定むる。 |
〃 〃 |
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多賀谷氏家が下妻の多賀谷城の築城を開始す。 |
1457年 長禄1年 |
3月1日 |
太田道灌が豊島郡の江戸城築城が完成す。又は、四月八日、江戸城立 完成とも有り。 |
〃 〃 |
12月 |
足利政知が関東へ下向し、伊豆国の堀越に移る。 |
1458年 長禄2年 |
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太田資長(道灌の名)が出家して備中入道道灌と号す。 |
1463年 寛正4年 |
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山内上杉家の家宰長尾昌賢が死し、其子長尾景春は主君上杉顯定と争ひを生じて、武蔵国の鉢形に拠って反抗す。 |
〃 〃 |
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多賀谷氏家が下妻多賀谷城を完成す。 |
1466年 文正1年 |
2月6日 |
下総国国原村城主原光胤が病死す。 |
1471年 文明3年 |
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下総国古河公方足利成氏は千葉城主千葉胤時をして上杉顯定と戦う。 |
〃 〃 |
6月 |
下総国の古河城が攻略されて関東公方足利成氏は千葉へ去り、千葉胤時は市原備前直常と倶に上総国の八幡に於て戦死す。 |
〃 〃 |
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伊勢盛頼が備中国の荏原庄に制札を残す。 |
〃 〃 |
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山入義知が佐竹義俊(義従)に対して、佐竹の家督引渡しを要求する。 |
1473年 文明5年 |
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扇谷上杉政直が武蔵国の五十子に於て関東公方足利成氏と対陣中に戦死し、弟の定正が跡を承けて家督を相続す。 |
1476年 文明8年 |
4月6日 |
駿河国の今川義忠が遠江国の塩見坂で戦死し、遺児の氏親が幼い為めに今川家に内紛が生じ、伊勢新九郎長氏は関東より派遣された上杉政憲や太田道灌を相手に調停策を提案して両人の賛成を得て、やがて調停に成功す。 |
1477年 文明9年 |
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武蔵国鉢形城主長尾景春は太田道灌と屡々戦ったが遂に扇谷上杉側に降伏した。 |
1478年 文明10年 |
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山入義知が那須資持の援軍を求めて、久米城を攻略し更に太田城を攻める。 |
1479年 文明11年 |
1月18日 |
太田道灌が下総国印幡郡の臼井城に原一揆を攻める。 |
〃 〃 |
7月5日 |
太田道灌は臼井城を攻略す。 |
1482年 文明14年 |
11月 |
足利成氏が伊豆国を足利政知に譲る。 |
1485年 文明17年 |
10月2日 |
太田道灌、上杉定正ら江戸城に万里集九を招く。 |
〃 〃 |
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常陸国の佐竹の乱が起り、佐竹氏は岩城常隆の侵入を受けて多珂郡の車(北茨城市)や竜子山(高萩市)の二城を攻略された。 |
1486年 文明18年 |
7月26日 |
武蔵国江戸城主太田備中守持資入道道灌が殺害さる。 |
〃 〃 |
10月 |
下総国千葉城主千葉胤朝が年五十一才にして卒す。 |
〃 〃 |
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成田氏が武蔵国埼玉郡忍(埼玉県行田)に城を築く。武蔵国の芝に浄土宗の法音寺を建立す。多賀谷左近大夫家植入道祥潜が下総国の岡田郡に出張す。 |