東国武将興亡録  1533年-1549年 戻る

1533年 天文2年 小田治孝の娘婿たる常陸国鹿島郡鹿島城主鹿島大膳大夫が同国筑波郡三村郷小田城の筑城奉行として再建す。
 〃    〃 5月 武藏国の住人三田彈正が上京し三條西実隆を訪れ黄金一両を以て己れが入手の実隆筆の道信朝臣集に奥書を加えて貰う。
 〃    〃 7月 安房国の里見義豊は年二十才にして稲村城主里見實尭四十五才を攻め破って自殺させ攻略す。
1534年 天文3年 越後国上條城主越後守護職上杉定憲が再び乱を起し長尾爲景と争ふ。
 〃    〃 7月 上総国真里谷城主武田信保は下総国生実の小弓御所足利義明の行状を諌めかいって感気を蒙って愼懣のあまり病死す。
 〃    〃 安房国の里見義尭は里見義豊を攻め破って自殺させ、亡父実尭の仇を取って里見家の宗家を継いだ。
 〃    〃 越後国内に疫病が流行し、内乱が続く。
 〃    〃 常陸国真壁郡下妻城主多賀谷下総守家重は主家下総国結城郡結城城主結城七郎政朝を叛いて自立を計り、政朝は部將の山川尾張守(又は讃岐守)に多賀谷討伐を命ず、山川は平塚將監をして磯、松本、村貫の士兵を率いて岡田郡の大形原に陣を取り近辺なる多賀谷領の地、若郷の民家を却掠せしむ、多賀谷家重は粟野、鎌庭の住人人見右京らと力を合わせ岡田、豊田両郡の兵を率へて大形原の千本木に兵を発して結城勢の不意を襲い之れを破り結城の兵は敗走し部將平塚將監某は討死し、其の從兵或は降り或は斬られ、爾後、多賀谷は安静村一たいの地を所領に加へる。
1535年 天文4年 6月 下総国猿島郡古河城主関東公方足利高基が死亡し、其子晴氏が継ぐ。
 〃    〃 6月13日 朝廷が越後国の長尾爲景に旗を賜わる。
 〃    〃 7月 相模国小田原城主北條氏綱、駿河国府中城主今川氏輝、甲斐国甲府城主武田信虎、武藏国川越城主扇谷上杉朝興等の各氏が争ひ、北條氏綱は今川氏輝に加勢して甲斐国に出陣し武田信虎と戰って之れを破る。
 〃    〃 9月 小田原の北條氏綱が武藏国川越城主扇谷上杉朝興を攻める。
1536年 天文5年 8月8日 越後国春日山城主長尾爲景が嫡子晴景に家督を譲る。
 〃    〃 12月24日 春日山城主長尾信濃守爲景が死亡し嫡子晴景が継ぎ、三男の虎千代景虎は林泉寺に入る。
 〃    〃 相模国鎌倉の代官大道寺盛昌が快元僧都記に頻出す。
 〃    〃 駿河国府中城の今川家に相続争ひが起り、僧より還俗したる今川義元が勝って家督を相続す。
1537年 天文6年 1月下旬 常陸国筑波郡小田城主小田左京大夫政治、真壁郡下妻城主多賀谷下総守家重らが連合して下総国の結城を攻めんと発向す、結城城主結城左近將監政勝は下総国猿島郡古河城主関東公方足利晴氏の加勢を得て下野国小山の小山下野守高朝、常陸国下館の水谷伊勢守治持、同国真壁の真壁安芸守久幹、岩上但馬守らを大將として下妻へ発向し、途中結城郡山川領の尾崎に於て小田政治を破り、猿島郡の西関逆(逆井)川にて多賀谷家重を破って撃退し、結城政勝は勝利を得て帰陣す。また別記には、常陸郡筑波郡小田城主小田政治が古河公方足利晴氏の援を得て結城政勝に反抗すとも有り。
 〃    〃 2月 小田原の北條氏綱が駿河国に於て今川義元を攻め、武田信虎が今川に加勢して北條と戰う。
 〃    〃 4月27日 武藏国河越城主扇谷上杉匠作修理大夫朝興が年五十才にして死亡し、其子五郎朝定が十三才にして家督を継ぐ、朝定は同国深大寺の城を定めて小田原の北條氏に対抗せんと企つ。
 〃    〃 7月 北條氏綱が武藏国の江戸城より河越に発向し、上杉朝定は武藏国の深大寺の陣より河越に退き。
 〃    〃 7月11日 北條氏綱が武藏国の三木に於て扇谷上杉朝定を破り上杉朝成を生捕りにして河越城を攻略し、扇谷朝定は松山城に逃走し小田原軍は之れを追撃し松山城を攻め、北條左ヱ門大夫綱成をして河越城の城代と成して守らしめ小田原へ帰陣す。
 〃    〃 甲斐国の武田信虎の娘が今川義元に嫁す。
 〃    〃 越後守護職の上條城主上杉定実が越後国内の政務を再ひ執る。
 〃    〃 越後国春日山城主長尾晴景が長尾房長と結ぶ。
 〃    〃 常陸国那珂郡東海村の真崎城主真崎駿河守義直は佐竹義昭に從って陸奥国の寺山合戰に勲功有り。
1538年 天文7年 2月 北條氏綱が下総国の葛西城を攻略す。
 〃    〃 10月2日 相模国小田原城主北條氏綱、氏康父子が下総国生実の小弓城主足利義明と対戰の爲めに発向し、武藏国の江戸城に入る。
 〃    〃 10月5日 小弓御所足利義明が下総国葛飾郡の国府台に於て小田原軍の先鋒と戰って之れを破る。
 〃    〃 10月6日 北條氏綱が武藏国の江戸城より出陣す。
 〃    〃 10月7日 北條氏綱が下総国の国府台に於て足利義明、里見義尭の連合軍と戰って之れを破り、義明五十七才を討取り、里見を上総国へ撃退し小弓御所を滅す。下総国の將士は皆小田原の北條氏綱に降る。
 〃    〃 越後国の守護職上杉定実は出羽国米沢の伊達時宗丸を養子に定める。
 〃    〃 三條西実隆が年八十三才にて死亡す。
1539年 天文8年 3月17日 下総国結城郡結城城主結城政勝が武藏国の大串表に於て上杉憲政と戰い、結城方の常陸国真壁郡下館城主水谷蟠竜斉が高名す。
 〃    〃 伊達時宗丸が上杉家へ入嗣に付き、越後国の揚北に内乱が起る。
1540年 天文9年 3月14日 常陸国久慈郡太田城主佐竹義篤は其の弟で同国那珂郡大賀村(大宮也)部垂城主佐竹四郎義元に謀反の心が有りと誤解し之れを攻め、義元は其子竹寿丸と防戰したが遂に力及ばず父子倶に自害す。
 〃    〃 11月21日 相模国鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の再建が成りて諸堂舎のすべてが完備し、小田原の北條氏綱、氏康、長綱以下の大名并に京都の公郷等が参列して盛大なる遷宮式が行われた。
11月28日 下総国猿島郡古河公方足利晴氏が北條氏綱の三女を娶る。
1541年 天文10年 6月 甲斐国甲府城主武田信虎は嫡男晴信の嫡位を廃し末子信繁を立てんと企て、晴信の爲めに追放されて駿河国の今川義元を頼りて落行き、武田晴信が甲府城を乗取って自立す。
 〃    〃 7月19日 相模国小田原城主北條右京大夫氏綱が年五十五才にして死亡し、其子氏康が家督を継ぐ
 〃    〃 越後国の揚北衆が府内城の守護職上杉定実を叛いて命を聞かず。
1542年 天文11年 小田原の北條氏康が伊豆国に広汎の検地を実施し行う。
 〃    〃 越後国府内城主上杉定実が隠居を望み、時宗丸の上杉入嗣で伊達家は乱れる。
1543年 天文12年 9月 上野国平井城主関東管領山内上杉憲政が小田原方の属城武藏国川越城主北條綱成を攻める。
 〃    〃 北條氏康は相模国に広汎の検地を行う。
 〃    〃 北條氏康は佐藤藤左ヱ門に菜園田畑付置の朱印状を宛る。
 〃    〃 武藏国豊島郡岩槻城主太田美濃守資頼が死して資正が継ぐ。
 〃    〃 越後国の長尾虎千代景虎が中郡に赴き、三條本成寺の寺領を安堵す。
 〃    〃 常陸国真壁郡下館城が焼失する。
 〃    〃 常陸国行方郡長山城主長山勘解由政幹は佐竹軍の部將として陸奥国の窪田に出陣して軍功有り。
1544年 天文13年 4月 下総国古河御所足利晴氏が密かに上杉憲政と結ぶ。
 〃    〃 越後国の長尾景虎が栃尾に居住す。
 〃    〃 宗牧が武藏国橘樹郡の小机城を訪れ城衆の出迎へを受ける。
1545年 天文14年 4月9日 常陸国久慈郡太田城主佐竹義篤の室で小田成治の娘が年三十九才にして死亡し、法名を心伝妙安月光湲女と稱す。
 〃    〃 8月10日 駿河国の今川義元が甲斐国の武田晴信と結び北條氏康を攻め、北條氏康は駿河国に於て今川義元と対戰す。
 〃    〃 9月 上野国平井城主関東管領山内上杉修理大夫憲政が八万余騎を率いて武藏 国の川越城主北綱成以下三千騎の城兵を攻める。
 〃    〃 10月20日 常陸国真壁郡下館城主水谷出羽守正村入道蟠竜斉は、嫡子勝俊に下館城を与えて自ら下野国の久下田(又は結城郡川西村久下田とも云う)に城を築き、下館領有五万石の支城として移り居住す。
 〃    〃 10月 上杉憲政は扇谷上杉朝定と倶に再び川越城を攻めて包囲す。
 〃    〃 10月 下野国久下田城主水谷蟠竜斉は結城政勝の援を得て上総国庁南城主武田信熈の来攻を防戰し之れを破って撃退する。
 〃    〃 10月27日 下総国古河城主関東公方足利晴氏は小田原の北條氏康と交りを絶ちて上杉憲政と結び川越に出陣して河越城を攻め之れを包囲す。
 〃    〃 常陸国久慈郡久米城主小野崎入道道宝は先祖伝来の巻物滑川文書を其子筑前守に与へる
 〃    〃 常陸国久慈郡太田城主佐竹義篤は末弟の佐竹義康を常陸国東茨城郡古内郷の地頭として隣国よりの侵略に備へ、義康は勝見沢の清音寺山門の南側台地に館を築き一矢場城と名付け之れに居住し、古内孫三郎義康入道湲済と号す。
 〃    〃 越後国黒滝城主黒田秀忠が春日山城主長尾晴景を叛く。
 〃    〃 常陸国筑波郡小田城主小田左京大夫政治の譜代の家臣東茨城郡小川城主園部宮内一輔が敵方である新治郡石岡の府中城主大掾慶幹の子次郎に娘を給仕せしめ、小田政治は園部一輔に二心有りと疑い、園部は領内の松岳寺に入り数通の書翰を差し出して赦免を請うたが政治は夫れを許さずして菖蒲沢辺の寺に追ひ拂って攻略し弟の小田左ヱ門尉をして小川城を守らしむ。
1546年 天文15年 4月 北條氏康は上杉憲政に使者を送って講和を申し込んだが憲政は夫れを許さず。
 〃    〃 4月20日 北條氏康は武藏国の入間ヶ原に於いて上杉憲政を夜襲して破り、更に河越に殺到し山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、足利晴氏の連合軍を奇襲して破り、扇谷朝定を討取って晴氏、憲政らを撃退す。其後、武藏国多摩郡滝山城主大石定久、同国秩父郡鉢形城主藤田康邦らが北條氏康に降伏し、大石は氏康の次男北條源三氏照を聟に迎へて滝山城を与へ自ら五日市の戸倉に隠居し、藤田も氏康の三男北條虎寿丸氏邦を養子に迎いて鉢形城に居住せしむる。北條氏康は下総国の古河公方足利晴氏を圧迫し、扇谷上杉朝定二十二才を討取って之れを滅す。
 〃    〃 越後国栃尾城主長尾平三景虎は上郡に於て黒滝城主黒田秀忠を攻めて戰う。
 〃    〃 4月 常陸国の園部宮内一輔は五百余騎を率いて小田方の東茨城郡小川城の小田左ヱ門尉を攻め破って攻略し、小田氏と絶ちて茨城郡水戸城主江戸忠通に降る。
 〃    〃 武田晴信が村上義清と戰い之れを破る。
 〃    〃 上野国平井城主上杉憲政が信濃国の東部に出陣し、武田晴信は群馬と長野の国境なる碓氷峠笛吹嶺に於て上杉憲政を迎撃って之れを破る。
1547年 天文16年 2月16日 常陸国久慈郡太田城主佐竹義昭と岩城重隆の娘との間に徳寿丸次郎義重が生れる。
 〃    〃 7月13年 下総国結城郡結城城主結城左ヱ門督政朝が年六十九才にして死亡し、其子政勝が継ぐ。
 〃    〃 8月6日 武田晴信が信濃国佐久郡の小田井原に於て上杉憲政の軍を迎撃って撃破す。
 〃    〃 9月1日 下野国河内郡宇都宮城主宇都宮尚綱が兵を発して同国下都賀郡小山城主小山下野守高朝を攻めたが高朝は防戰し之れを破って撃退する。
 〃    〃 12月 小田原の北條氏康が武藏国豊島郡岩槻城主太田美濃守資正を攻めて包囲す。
 〃    〃 越後国の長尾景虎が黒滝城主黒田秀忠を殺す。
1548年 天文17年 1月 北條氏康が岩槻城主太田資正を降して和す。
 〃    〃 1月13日 常陸国小田城主小田政治の嫡子小太郎氏治と家臣芳賀喜兵ヱ貞利の娘との間に庶長子喜太郎友治が生れる。
 〃    〃 2月22日 常陸国筑波郡小田城主從五位下小田左京大夫政治入道長伊(別名顯家とも云う)が年五十六才にして死亡し、同郷太田村の善光寺に葬り、法名を巣月院殿州山長伊大禪定門、授光院殿冷意徳崇政治大居士、南山明意楽宝院等と三稱す。其子小太郎氏治が継ぎ常陸介に任じ、後に左ヱ門督兼讃岐守に任ず。小田氏治は庶長子喜太郎友治を寵し、芳賀喜兵ヱ貞利、菅谷伊織政勝、伊江新右ヱ門盛之等に友治を立てて嫡位に成す事を約束す。
 〃    〃 下総国結城城主結城左金吾政勝は政治の死に乗じて小田を攻めんと水谷、真壁等を先陣として出陣し先ず真壁郡下妻城を攻める。
 〃    〃 8月8日 結城政勝の生母玉隣が死亡し之れを葬らんと乗国寺に出張の折、下妻城主多賀谷下総守入道禪善の子秀太郎が結城氏に仕へんとして乗国寺に来たりて降参を乞ふ、政勝は忌中なりしを以て之れを許す。
 〃    〃 12月31日 長尾晴景が弟栃尾城を長尾景虎を攻める。
 〃    〃 12月31日 越後国の栃尾城主長尾景虎が兄春日山城主長尾晴景の養子と成り長尾家の家督を譲られ相続して春日山に入る。
1549年 天文18年 4月下旬 下野国河内郡宇都宮城主宇都宮尚綱は下総国古河御所足利晴氏の命によりて芳賀高綱を陣代として下野国喜連川の五月女坂に出陣し下野国那須郡烏山城の那須高資や大関高増らと戰ったが敗北す。
 〃    〃 9月27日 宇都宮尚綱が再び五月女坂に於て那須党と戰い射殺されて敗北し、其の子資胤が継ぐ。
 〃    〃 常陸国西茨城郡岩瀬の坂戸城主小宅三左ヱ門尉尚時は下野国河内郡宇都宮城主宇都宮下野守尚綱に從って下野国の五月女坂に於て常陸国久慈郡太田城主佐竹義重と戰ったが大敗北を成し小宅尚時は此の地に於て討死す。
 〃    〃 下総国結城城主結城政勝は其のすきに乗じて西茨城郡の坂戸と小栗の両城を攻略買いて之れを守らしむ。
 〃    〃 常陸国東茨城郡桂村の阿波山大山城主大山義在が死亡す。
 〃    〃 越後国三條城主長尾政景が春日山城主長尾景虎の命に服さず。

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