東国武将興亡録  1558年-1560年 戻る

1558年 永録1年 常陸国小田城主小田讃岐守氏治の領で小田藏人氏廣が代官として守る新治郡石岡府中の農民と同国太田城主佐竹修理大夫義重の領で戸村十大夫義則が目代として守る東茨城郡小川の農民が境を論じて争ひを起し、府中の農民等が小田氏治に訴へる。氏治は小田氏廣に下知して小川の百姓を十余人打殺す。佐竹義重は家老車丹波守忠次が申に依って騎二十騎を添へて遣わし府中の百姓を悉く討取る、依て小田氏廣は之れと戰いしが敗北して稲石に退き、將に小田と佐竹の両將が合戰に及ばんとする処に新治郡土浦城主信田和泉守重成の知行地にて、新治郡岩田の法泉寺亮俊上人が扱ひに入って和談と成り佐竹、小田両氏の確執は止む、と有るがまた別記には、佐竹義重と小田氏治の確執が起り、小田方の菅谷左ヱ門宗光、北條出雲守治高らが二百余騎にて府中に出張し佐竹勢を攻め破り、佐竹方の車丹波守忠次、太田十郎氏房、白井全洞らが三百余騎を率いて小田方の山根岸城を攻め破って攻略し、時に宍戸平大夫友仲は佐竹方の下妻城主多賀谷政経に降服して之れに属し、多賀谷政経が山根岸城を攻略す、とも有る。
 〃    〃 長尾景虎が上野国に進出し、佐竹義昭や多賀谷政経に筑波郡の小田城主小田氏治を攻めさせ、佐竹義重は真壁郡海老ヶ島城主平塚山城守入道自省を攻め破って討取り攻略し、宍戸壹岐守をして之れを守らしめ、佐竹義重、多賀谷政経らは筑波郡の小田城主小田氏治を攻め破って攻略し、氏治は新治郡の土浦城に逃走す。
 〃    〃 3月10日 太田美濃守資正が筑波郡の小田城を攻めて小田氏治と戰い、小田方の菅谷範政の嫡子菅谷彦次郎政頼が年三十二才にして討死し、新治郡土浦の神龍寺に葬り、法名を昌安義繁居士と号す。
 〃    〃 3月 上野国箕輪城主長野信濃守業正が同国の大戸城を攻略す。
 〃    〃 4月 小田原の北條氏康が下総国葛飾郡関宿城主簗田晴助を猿島郡古河に移し、鎌倉葛西ヶ谷の関東公方足利晴氏、義氏父子を関宿城に移す。
 〃    〃 4月11日 足利義氏が鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に参詣し、下総国の関宿城に移る。
 〃    〃 5月 上野国平井城主上杉憲政は再び北條氏康に敗れ居城を捨てて越後国に逃走し、春日山城主長尾景虎を頼り、景虎に管領職、天賜の御旗、上杉家の系図、家宝天国の太刀と行平の脇差を譲らうとしたが之れを固辞して受けず。
 〃    〃 10月 越後国の長尾景虎が関東に出陣し上野国前橋の厩橋に着陣し、箕輪城主長野信濃守業政が初めて景虎に対面し之れに属す。
 〃    〃 小田原の北條氏康が領内の伝馬制度の整備を成す。
 〃    〃 武田晴信がしばしば上野国に侵入し箕輪城の長野業政を攻める。
 〃    〃 京都の將軍足利義輝が長尾景虎に上洛を求める。
 〃    〃 武田晴信が上野国に侵入し、松井田城攻撃の態勢を整え夜営を成し、箕輪城主長野業政は之れを迎撃たんと地藏峠を越して碓氷口に出て武田晴信と戰い之れを破る。
1559年 永禄2年 1月下旬 相模国小田原城主北條氏康、氏政父子が下野国佐野唐沢山城主佐野周防守昌綱を攻めて包囲す、時に長尾景虎は八千余騎を率へて上野国の平井より出陣し、後詰加勢として佐野昌綱に迎いられ佐野城に入城し、北條氏康の率いる三万五千余騎の大軍を防戰して之れを撃退する。
 〃    〃 2月 北條氏康の北條所領役帳が成る。                         
 〃    〃 4月 常陸国土浦城主菅谷摂津守左ヱ門大夫政貞が小田城を攻めて佐竹勢を追拂って攻略し之れを回復する。
 〃    〃 4月27日 越後国春日山城主長尾景虎が京都の上る。
 〃    〃 4月 長尾景虎が室町御所征夷大將軍足利義輝に謁見し、関東管領職を許され、上杉憲政を補佐して関東平定の命を受け、更に武田晴信に当る様に命ぜらる。
 〃    〃 5月1日 長尾景虎が宮中に参内す。
 〃    〃 5月中旬 常陸国太田城主佐竹義重は部將車丹波守忠次、太田十郎氏房等をして小田方の属城新治郡片野城を太田資正入道三楽、梶原景国、北條治高らを攻める。?
 〃    〃 6月 將軍足利義輝は長尾景虎に塗輿、裏書などを許可す。
 〃    〃 6月 長尾景虎の鉄放薬之方并調合之次第の奥書が成る。
 〃    〃 7月下旬 佐竹勢車丹波守忠次等が片野城を攻略す。
 〃    〃 8月1日 下総国結城城主結城左ヱ門督政勝が年五十六才にして病死し、其子中務大夫明朝が家督相続するに疱瘡を患ひて甚だ重病なり。
 〃    〃 8月 長尾景虎が京都より越後国に帰国し、関東管領職に内定し其の践祚が成りて祝儀を催す。
 〃    〃 9月6日 常陸国小田城主小田氏治は結城氏に侵略されたる旧地を回復せんと、飯塚美濃守、赤松疑渕斉、岡見主殿助、只越尾張守らを率い下総国の結城晴朝を攻める。下野国小山城主小山下野守高朝、常陸国下館城主水谷伊勢守治持、同兵部大輔正村、同国真壁城主真壁左ヱ門尉久幹、羽石内藏助盛長等が結城城に籠って之れを迎撃って防戰して破り遂に撃退しし、結城左金吾晴朝は水谷兵部大夫を先陣として筑波郡の小田に向い、小田方の属城である北條の地を取って凱旋す、佐竹義重、多賀谷政経らは此の虚に乗して小田方の真壁郡海老ヶ島城主平塚山城守入道自省を攻めて討取り攻略して、宍戸外記を城代として之れを守らしむ。
 〃    〃 9月 武田晴信が再び碓氷を越して上野国の西部に侵入し、小宮山昌行に安中城を攻めさせ、自ら箕輪城を攻めんと向い、箕輪城主長野業政は之れを迎撃せんと若田ヶ原に進み、武田晴信の前面を渡りて挑戰をいどみ対陣し、若田ヶ原の武田晴信の陣営を襲撃して雉郷砦に入ったが、武田晴信も雉郷砦を攻略し長野業政は箕輪城に退陣す。
 〃    〃 常陸国行方郡小高城主小高治部少輔が其の一族である玉造城主玉造宗幹や手賀城主手賀景幹らと争ひを起し、小高治部少輔は菅谷貞次を通じて筑波郡の小田氏治に加勢を求め、小田氏治は後詰加勢として行方郡に発向し小高の南方に出陣したが、新治郡石岡府中城主大掾貞国は玉造や手賀らに加勢して出兵し、小田方の属城二城を攻略し、また山田治広、武田通信、江戸忠通らも大掾貞国に質子を送って好みを通じた爲めに小田氏治は北部を通って退陣したが、途中、青柳に於て追撃されて敗北す。
 〃    〃 小田城主小田氏治は長尾景虎に降参し、景虎の斡旄によって佐竹義昭と和を講ず。
 〃    〃 常陸国太田城主佐竹義昭の夫人が死亡す。
1560年 永禄3年 長尾景虎が小田原の北條氏康を攻めんとの風聞有り、北條氏康は下総国関宿城主関東公方足利晴氏が重病なりせば依田大膳亮、南條山城守、川村修理亮、結城六郎晴朝、長沼左ヱ門尉宗信、相馬小三郎親胤等をして関宿城に遣わして之れを守らしむ、氏康は更に太田大膳大夫を遣わし同じく関宿城に籠らしむ、時に下妻城主多賀谷修理亮重政が又結城氏を叛き、佐竹次郎義重、小田左ヱ門尉氏治、宇都宮三郎左ヱ門尉広綱、多賀谷下総守政経、茂木上総介、那須五郎資胤、小山下野守高朝、及び陸奥国岩城の兵を導き下総国の結城城を攻めんと企て、北條氏康は壬生中務大夫をして結城晴朝に帰城を命ず。
 〃    〃 1月4日 結城六郎晴朝は関宿の陣を引拂って結城に帰城せんとするを、味方の古河城主簗田中務太輔政信は素より結城晴朝と善からず、晴朝の帰陣を心変りと威違ひを成して其の途中をまち受けて柳橋に於て兵五百余騎を以て晴朝を襲撃す結城の先陣水谷兵部大輔政村は之れを防戰して追ひ散らして進む、簗田勢は尚も之れを追撃し、結城の後陣山川中務大夫讃岐守勝範は馬を返して之れを防ぎ、晴朝も戻りて奮戰し二百余人を討取り簗田勢を破って撃退し、晴朝は無事に結城城に帰陣す。
 〃    〃 1月6日 結城晴朝は結城城の諸門を修理し寺院を焼棄し益々本城を固めて、富谷、小栗、大島、海老島等の諸城を棄てて其の兵を結城城に集合せしめて本陣と成し、鑓一万余本を兵共に配分し各所の隊列を堅固にして備い越軍常陸勢の至るをまち、越軍は小川台に来り陣を取る。
 〃    〃 1月7日 下妻の多賀谷重政、政経父子は青谷瀬々より攻め、小田氏治、佐竹義重らは北門より攻め、宇都宮広綱は南門より、榎本の兵は西ノ宮口より結城城を攻め、結城晴朝は城内より兵を出し結城の部將岩上但馬守や小山の部將高井豊前守らが勇戰し越軍を撃退し六百十五人を討取り、結城方にても百六十二人が討死す。佐竹義重が大兵をもって結城を攻めたて、結城晴朝は属城を悉く放棄し、西茨城郡岩瀬の坂戸城もまた空虚と成り、下野国の宇都宮氏の部將小宅三左ヱ門尚時は岩瀬の坂戸城に帰って之れを定め居住する。
 〃    〃 1月 武田晴信は上野国の箕輪城下に迫り間も無く甲府に帰陣す。
 〃    〃 小田原の北條氏康は上野国の多野と甘楽の二郡を窺って侵入し、小幡城主小幡信定や国峯城主小幡図書助らを攻めたが抜く事成らず退く。
 〃    〃 1月20日 安房国館山城主里見義尭が北條氏康に攻められて長尾景虎に援兵を請う。
 〃    〃 3月15日 常陸国太田城主佐竹義昭は越後国春日山城主長尾景虎の許に使者を派遣し秩父、三浦、千葉、佐野、大胡、宇都宮、結城、横山、小山、鹿島大宮司、太田等を始め関東八ヶ所の国人や大名衆が景虎に太刀を献上して其の幕下に結集す。
 〃    〃 3月26日 越中国の神保良春が甲斐国の武田晴信に内応し、長尾景虎が越中国に出陣す。
 〃    〃 4月 上杉憲政は長尾景虎に関東出馬を依頼し、長尾政景に其のとりなしを希望し、関東よりも常陸国の佐竹義昭が長尾景虎に関東征伐を要請す。
 〃    〃 4月 上杉憲政が長尾景虎の出征を望んで長尾景虎の部將長尾政景に斡旋を依頼す。
 〃    〃 5月27日 下総国葛飾郡関宿城主東公方足利晴氏が死亡し、其子四人有りて藤氏、藤政、家国、義氏と云う、藤氏と藤政は古河城主簗田政信の娘との子にして、義氏は北條氏康の娘との子なるべし、北條氏康は義氏を公方として擁立す。
 〃    〃 5月 上野国箕輪城主長野業政は同国国峯城主小幡重定を攻め破って攻略し、重定は甲斐国に落行きて武田晴信を頼る。
 〃    〃 5月 常陸国久慈郡太田城主佐竹義昭が越後国の長尾景虎に出馬を請う。
 〃    〃 8月25日 長尾景虎は関東出陣を決意し、関東の諸將に部署に就くを命じ、留守の法度を定める。
 〃    〃 8月29日 北條氏康が下総国の久留里城主里見義尭を攻め、義尭は北條高広を通じて長尾景虎に関東出陣を催促し、関東諸將も景虎の出陣を促す。依て長尾景虎は上杉憲政や佐竹義昭らの頼みに応じて再び関東へ出陣する事を決意し北信の豪族である高梨政頼を以て信濃国を守らせ、長尾小四郎、桃井右馬助、柿崎和泉守、村上義清の嫡子村上国清を留めて春日山の本城に留守居と成し越中国に備へ、藏田五郎左ヱ門に府内や春日山の城下の取締りを厳重に命じ、自ら八千七百余騎を率へて管領上杉憲政の関東入国のお供と云う名義で三国峠を越して関東に進撃し、上野国に入り明間、岩下、沼田を始め沿道の諸城砦を攻略し前橋の厩橋城に入城して付近の城主らを次々に降伏させ四方に檄を飛ばし、此の時長尾景虎は厩橋城に逗留し沼田城主沼田三郎顯泰入道葛鬼斉が来りて降服し、箕輪城主長野業政と其の一門、白井、総社、下野国の宇都宮、結城、那須、武藏国の成田、藤田等を諸將らが長尾景虎に応じた。
 〃    〃 9月上旬 京都の近ヱ前嗣が長尾景虎を頼りて越後国に下向し更に関東の上野国に来たる。長尾景虎は上野国の厩橋城に関白近ヱ前嗣と將軍義輝よりの上使大和治部少輔孝宗を迎へ入れ、近ヱ前嗣を関東公方と成す。景虎は利根川畔の那波の名和、伊勢崎の両城を攻略し、沼田城に入城し、下総国関宿城主足利義氏は長尾景虎の勢いに驚き、相模国の小田原に逃走し、北條氏康は武藏国の河越城に出馬し松山迄進撃したが越軍の鋭鋒に恐れて戰わずして小田原に退陣し、甲斐国の武田晴信と呼応して武田の姻威に当る摂津国石山の本願寺光佐に頼み、加賀、越中両国の一向宗徒を動かして越後国をつかせる。上野国の箕輪城主長野信濃守業政、金山城主由良信濃守成繁、小幡城主小幡憲重、下野国の宇都宮城主宇都宮廣綱らは長尾景虎の関東出陣に参陣す。景虎は更に先陣を以て相模国に進撃す。
 〃    〃 11月 越軍の武藏国忍城主成田下総守長康が鎌倉の妙本寺に禁制を掲げる。
 〃    〃 12月 長尾景虎は上野国の厩橋城を本拠として其の先鋒をして奈波城を攻略し相模国の鎌倉に迫る。
 〃    〃 常陸国太田城主佐竹義昭が陸奥国の白河城主白河晴綱や合津城主葦名盛氏らと戰って之れを破り、陸奥国の南郷を攻略す。
 〃    〃 太田城主佐竹義昭が年三十二才にして隠居し、剃髪を成して入進し源真と号し、嫡子義重十六才に家督を譲り、佐竹入道源真は新治郡石岡府中城主大掾憲幹の娘と再娘す。
 〃    〃 長尾景虎関東出陣に際し、常陸国の佐竹義昭、安房国の里見義尭、上野国館林の長尾顯長、武藏国岩槻の太田資正らは越軍に参陣し、下総国古河の足利義氏、下野国の那須資胤、同国の真壁氏成、奥陸国白河の結城晴綱らは小田原の北條氏康に属す。
 〃    〃 12月 下総国印旛郡佐倉城主千葉介頼胤の一族千葉采女佐は印旛沼畔の臼井城主原式部大輔と争ひ、原式部大輔は相模国の小田原に一味する。
 〃    〃 上野国国峯城主小幡尾張守信定は北條氏康に降伏を誓い、上野国に侵入の場合には内応する旨の密書を、小幡城主小幡図書助が手に入れて長野業政に訴へ出る。
 〃    〃 結城、壬生の両氏は北條氏康に通じ、多賀谷重政は欸を長尾景虎に送る。

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