東国武将興亡録  1561年-1563年 戻る

1561年 永禄4年 1月 長尾景虎は上杉憲政と共に上野国の厩橋城に於て、盛大な新年の祝賀式を挙げる、関東の諸將らは皆御機嫌伺いに集る。
 〃    〃 2月 長尾景虎は相模国の小田原城攻撃の爲めに春日山城より直江山城守實綱、柿崎和泉守景家、斉藤下野守朝信、北條丹後守高廣等を増援軍として上野国の厩橋城へ呼び寄せ政務奉行人と成し着々と其の準備を整う、小田原の北條氏康も武藏国の川越や松山の両城及び隅田川、多摩川ぞいに陣をかまえて、長尾景虎の十万余騎を迎え撃たんとしたが、其の不利を覚りて足利義氏と倶に小田原城に退陣し、長期籠城戰の体制を強固にし、小田原方の太田資正や成田長泰らが長尾景虎に味方し之れに馳せ参ず、駿河国の今川氏直の部將小倉内藏助が小田原へ加勢として河越に籠り、甲斐国の武田晴信の援軍二百騎余り小田原に到着し、北條氏康は武藏国の松山城や下総国の古河城をすてて足利義氏を奉じて小田原城に楯籠り籠城作戰を取り、一向宗禁制を解除させる交換條件で石山本願寺顯如に援助を依頼し、関東諸將をして八千余騎にて相模の鎌倉に侵入せしむ。
 〃    〃 3月7日 長尾景虎は新公方関白近ヱ前嗣をかつきあげ、武藏国の岩槻城主太田美濃守資正、上野国甘楽郡国峯城主小幡憲重入道泉龍斉等を先陣として十一万五千の軍兵を率いて上野国の厩橋城より相模国の小田原に発向し、北條氏康は沿道諸將寨の兵を小田原に引きあげて防戰の用意を成す。
 〃    〃 3月10日 越軍の先陣は小磯に陣を取り、長尾景虎の二陣は大磯の東北なる高麗寺の山下に陣して軍の主隊を海道口に置き、支隊を厚木方面に置き、長尾景虎は自ら小田原に出馬して附近の民家を焼き拂う。
 〃    〃 3月13日 長尾景虎は相模国の小田原城総攻撃を開始し、太田美濃守資正を先陣とし宮の前や幸田口より進撃し、景虎も自ら柿崎和泉守景家、直江山城守憲綱らを左右にして城の四門の一つ蓮池口へ攻め寄せたが撃退され、軍を小磯や大磯に引きて遠攻めの策に出る。小田原軍は小磯の越軍の前衛と大磯の本営に夜襲をかけたが敗北し、時に越軍の武藏国忍城主成田下総守長泰、同国比企郡鷹巣城主小幡丹波守、上野国甘楽郡白倉城主白倉五郎左ヱ門、同国群馬郡白井城主長尾景英等が北條氏康に内通し長尾景虎を裏切って越軍の旗本を前後から狭撃せんと企てる由の風聞が傳わり、また武田晴信が信濃国を窺って北條氏康と共謀し、長尾景虎を牽制する爲めに、加賀、越中の一向宗徒を煽動し、越中の守護代神保良衡等をそそのかして越後国に攻め入らせんと計る。
 〃    〃 3月16日 大磯の長尾景虎は常陸国の佐竹義重、小田氏治、下野国の宇都宮廣綱等の勧めに寄り、小田原城攻めの包囲を解きて鎌倉に引揚げる。
 〃    〃 3月16日 常陸国の小田方の部將宍戸安芸守四郎道胤入道は下総国の結城方真壁郡海老ヶ島城主佐野出羽守を攻め破って攻略し、宍戸入道は更に真壁郡の下妻を攻め豊加美村の古沢に於て多賀谷政経と戰って敗北す。
 〃    〃 4月1日 長尾景虎は鎌倉に在って將士の苦労をねぎらう爲めに、宿所の寺院に於て宝生、金剛両座出演の觀能の宴を張り能楽を催す。
 〃    〃 4月3日 長尾景虎は上杉憲政や佐竹、宇都宮、小山、那須等を始め関東諸將の申出により、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に参詣し、其の社前に於て正式に管領襲職披露の拜賀式を行い、関東管領上杉憲政の養子と成り上杉家を継ぎて上杉姓を名乗り、一字を貰って政虎と改名し、其の譲りを受けて関東管領に就任し、関八州の成敗を許され関東の経営を引き受け関東武士の棟梁と成り之れを定めて関東公方を補佐して行く事を誓い、関東の武將らも上杉政虎の命令に從う可く誓書を差し出し、上杉政虎の鎌倉八幡宮拜賀并び関東管領就任即位が正式に大典成る。政虎は関白近ヱ前嗣の嫡子尚丸十三才をして関東公方に推挙せんとしたが、簗田政信、晴助父子は足利藤氏を支持し、小山秀綱らは足利藤政を立てんと成し、敵方の北條氏康は足利義氏を立てて居るので、諸將らと協議し足利藤氏を関東公方として立てる事に決り、近ヱ前嗣を越後公方と成して、自分は其の補佐と成る。政景は新関東公方足利藤氏、越後公方近ヱ前嗣、尚丸、前関東管領上杉憲政等を下総国猿島郡の古河城に置きて、同国葛飾郡の関宿城主簗田中務大輔政信、同晴助父子に其の守護を命じ、更に政虎の目代として北條丹後守高広、同景広父子を上野国の厩橋城に留め置きて諸將の指図や政務を行ひ、古河と厩橋が東西相応じて関東の鎮めを成し、箕輪の長野業政、岩槻の太田資正らと和衷し協同の上で公事、成敗、軽営などを命ず。
 〃    〃 4月末旬 武田晴信は北條氏康と結び、上杉氏の後方を撹乱する爲めに嫡子義信と共に二万の勢を率いて西上州に入り箕輪の城下に迫り、長野業政は之れを迎い撃って破り撃退する。
 〃    〃 5月1日 上杉政虎は鎌倉に於てまた宝生、金剛の能楽を催す。
 〃    〃 6月20日 上杉政虎は病ひに懸り、小田原勢に其のすきを襲はれて攻め崩されて鎌倉より上野国へ退陣す。
 〃    〃 6月21日 政虎は上野国の厩橋城に到着した。
 〃    〃 6月21日 上野国の国峯城主小幡図書助は上杉政虎の援を得て、同国小幡城主小幡尾張守信定が養療の爲め草津に湯治中の留守に乗じて不意に之れを襲い攻略し、小幡信定は城に帰る事能わずして止む無く甲斐国へ落行きて武田晴信を頼り其の麾下に属す。
 〃    〃 6月28日 上杉政虎は上野国の厩橋城より越後国の直江津春日山城に帰国する。
 〃    〃 9月 上杉政虎が信濃国の川中島に於て武田晴信と戰う。
 〃    〃 10月 北條氏康は武藏国の松山城を攻め、岩槻城主太田資正を幕府の相伴衆に推挙するの條件にて味方に誘ったが、資正は其の誘いに応ぜず。
 〃    〃 11月 武田晴信は小幡尾張守信定を嚮導として余地峠を越して上野国に侵入し、山峰ついで国峯、小幡の両城主小幡図書助を急襲して破り之れを攻略し小幡図書助を自殺させ近傍の諸砦などを悉く降し、此の戰いで上野国の甘楽、多野の二郡は完全に武田の制圧するところと成った。
 〃    〃 11月 上杉政虎は下総国の古河城に居る越後公方近ヱ前嗣の求めに応じて、再び関東へ出陣す
 〃    〃 11月27日 北條氏康が武田晴信に応じて、武藏国の松山城を攻め、生山に於て松山城主上杉憲勝と前哨戰を行う。
 〃    〃 12月15日 武田晴信が北條氏康と倶に上野国の倉賀野城を攻め、越軍の成田長康、佐野昌綱、小山高朝、小田氏治等が上杉政虎を叛いて北條氏康に応ず、
 〃    〃 12月 上杉政虎は將軍足利義輝より管領職を認証され、名の一字を貰って輝虎と改名する。
 〃    〃 西毛四郡の盟主、上野国箕輪城主長野信濃守業政が年七十一才にして死亡す。
 〃    〃 佐竹氏の部將である勝倉四郎俊幹が常陸国那珂郡勝田勝倉不二山の勝倉城に居住す。
 〃    〃 貝原塚將監氏胤が常陸国信太郡龍ヶ崎の貝原塚高井城に居住す。
 〃    〃 下総国葛飾郡関宿城主関東公方足利義氏が同国猿島郡の古河城に移ったが越軍に追われ小田原に籠城した。
 〃    〃 12月 上杉輝虎が上野国の館林や下野国の佐野城を攻めたが、下総国の古河城に居る近ヱ前嗣、足利藤氏、上杉憲政らが不和を生ず。
1562年 永禄5年 2月 上杉輝虎が上野国の館林城を攻める。
 〃    〃 3月 上杉輝虎は下野国の佐野城を攻め、関宿城主簗田政信に古河城の関東公方足利藤氏を任かせ、近ヱ前嗣や上杉憲政らを倶に厩橋より帰国の準備をする。
 〃    〃 6月 上杉輝虎が近ヱ前嗣や上杉憲政らを伴ひて関東より越後国に帰国する。
 〃    〃 7月 上杉輝虎が五智如来堂を再建す。
 〃    〃 7月 武田晴信は上野国の西部にある信濃国境に近い南牧に侵出してそこに砦を築き前線拠点として小幡尾張守信定を守將として籠らしむ。
 〃    〃 8月24日 上杉輝虎は関東への出陣を計画して、上野国小泉城主富岡重朝に其の準備を命ず。
 〃    〃 8月 常陸国那珂郡勝倉城主勝倉四郎俊幹は佐竹勢に加わり多賀の孫沢原合戰に功名あり。
 〃    〃 9月 武藏国滝山城主北條氏照は下総国猿島郡古河城を攻め破り、関東公方足利藤氏を追拂って攻略し、藤氏は安房国に逃走し里見義尭を頼り身を寄せる。
 〃    〃 9月 武田晴信は再び上野国西部に攻め入り、北條氏康としめし合せて箕輪城や武藏国の松山城に発向し、箕輪城以下を攻めたて之れと共同して北條氏照も下総国の古河城に迫り城主関東公方足利藤氏は安房国の里見義尭を頼りて身を寄せて古河城は攻略され、武田晴信は更に松山城を攻める。
 〃    〃 10月10日 武藏国鉢形城主北條氏邦が逸見藏人の忠節を賞して所領を宛行う。
 〃    〃 11月24日 武田晴信は北條氏康と倶に武藏国の松山城を包囲し、岩槻城主太田資正は越後国の上杉輝虎に援を乞い、上杉輝虎が関東へ出陣の準備を成す。
 〃    〃 12月 北條氏康の娘が武藏国蒔田城主吉良氏朝に嫁す。
 〃    〃 12月 上杉輝虎がまた関東へ出陣する。
 〃    〃 上杉政虎が足利義輝より正式に関東管領職を授けられ輝の一字を貰って  輝虎と改名す。
 〃    〃 上杉輝虎は越中国の椎名氏の反乱を鎮定の爲めに越中国に出陣したが、本庄繁長が武田晴信に通したとの報により越中国より引き返す。
 〃    〃 小田原の北條氏康が虎の印判状を行方与次郎と羽田の百姓中に宛る。
 〃    〃 北條氏康の娘崎姫が武藏国荏原郡世田谷城主吉良頼康の子氏朝に嫁す。
 〃    〃 北條氏康の嫡子氏政の子氏直が生れた。
 〃    〃 上杉輝虎は上野国厩橋城代長尾賢忠に逆心有りとして、賢忠を始め其の一族多数を殺害し、北條高広を厩橋の城代として入れ置く。
 〃    〃 常陸国久慈郡の佐竹義重が家督を相続する。
 〃    〃 常陸国信太郡江戸崎城主土岐治英が木原城を築く。
 〃    〃 陸奥国中村相馬城主相馬盛胤が常陸国の北部に在る諸城砦を撃破して兵を久慈郡の石名坂に進めて太田の佐竹城近くに迫る、久慈郡板本村南高野城主赤須雅楽之介は地の利を得て坂上に居住して居る三十六人の士らと倶に自ら三番組の隊長として出陣し、相馬軍を迎撃って之れを僞りて多珂郡国分村の下孫にある桜川に追落した。
 〃    〃 大塚隆成(通成とも稱す)は常陸国の多珂郡松岡手綱の竜子山城主と成る。
 〃    〃 大塚大藏成舜極楽寺春慶法印空岸は多珂郡南中郷村に石岡城を築く。
 〃    〃 常陸国那珂郡勝倉城主勝倉四郎俊幹は茨城郡水戸城主江戸但馬守重通に從って真壁郡の山王堂に於て小田氏治と戰う。
 〃    〃 陸奥国岩木領田中山尾根の鯨岡城主鯨岡十郎忠基は相馬盛胤の先鋒として常陸国多珂郡に侵入して佐竹氏と戰い孫沢原に於て戰傷を蒙り、付近の諏訪村の農家に隠る。
 〃    〃 上野国金山城主由良成繁が隠居して嫡子の国繁が嗣ぐ。
1563年 永禄6年 1月13日 小田原城主北條氏政が下総国の船橋大神宮に対して禁制を掲げる。
 〃    〃 2月 武田晴信が上野国の国峯城主小幡図書助景純、松井田城主安中越前守春綱、安中城主安中左近大夫廣盛らを攻め破って攻略す。
 〃    〃 2月 武田晴信、北條氏康らは武藏国の松山城を攻略し、城主上杉藏人憲勝を降す。
 〃    〃 2月 常陸国真壁郡下妻城主多賀谷政経が下総国豊田郡豊加美村の肘谷城を亡ぼす。
 〃    〃 2月 武田晴信は余地峠を越して上野国に侵入し、松井田、安中、鷹留の諸城を攻略して箕輪の孤塁を襲う。
 〃    〃 2月22日 武田晴信は上野国箕輪城主長野右京進業盛を破って攻略し、業盛は年二十才にして自殺す。
 〃    〃 2月 上杉輝虎が関東に出陣す。
 〃    〃 3月 上杉輝虎が騎西城を攻める。
 〃    〃 3月 下野国那須郡烏山城主那須資胤は那須上庄黒羽城主大関高増を暗殺せんとして那須の家中に内訌を生じ、大関高増は佐竹義重に内通し、佐竹義昭の次男義尚を那須家に迎い、資胤に代え様と企て、那須資胤と大関高増らが戰う。
 〃    〃 4月 上杉輝虎は下野国の小山城主小山高朝や佐野城主佐野昌綱等を攻め破って之れを降し攻略す。
 〃    〃 4月 上杉輝虎は相模国の厚木金光山最勝寺の阿弥陀三尊を再建す。
 〃    〃 4月 上杉輝虎は下総国の古河城を取り戻して回復し足利藤氏を帰住せしめる。
 〃    〃 4月 上杉輝虎が関東より越後国に帰国す。
 〃    〃 4月 武田信元と北條氏康は連合して上野国の上杉方属城を攻め、北條氏康は更に下総国古河城を攻めて足利藤氏を捕えて之れを伊豆国に幽閉し、足利藤氏を立てて猿島郡の古河公方と成す。
 〃    〃 6月25日 武田晴信は上野国の倉賀野城を攻略し、更に同国箕輪城攻めの計画を成す。
 〃    〃 6月下旬 上野国金山城主由良信濃守成繁が年六十一才にして死亡す。
 〃    〃 6月 小田原城主北條氏康は常陸国小田城主小田氏治の許に密使の僧を送りて味方に誘い小田氏治は上杉輝虎を叛いて北條氏康に内通す。
 〃    〃 7月 小田氏治は下野国烏山城主那須資胤に使者を派遣し北條氏康へ相応援する事を約束する
 〃    〃 7月 上杉輝虎が飯塚八幡宮い祈願す。
 〃    〃 9月 小田城主小田氏治は上杉輝虎との約を変じて謀を北條氏康、那須資長、結城晴朝らに通じ、互いに相応援する事を図り、下総国結城城主結城晴朝と北條方に味方をする事を約束し、北條、小田、那須、結城が連合して上杉謙信に対抗せんと図る。
 〃    〃 12月5日 武田晴信が上野国い侵入し上杉方の部將で倉賀野城主倉賀野直行を攻める。
 〃    〃 12月19日 上杉輝虎は倉賀野城を救う爲めに関東へ出陣し、上野国の厩橋城へ主張す。
 〃    〃 12月 武藏国豊島郡江戸北郊の太田康資が北條氏康を叛く。
 〃    〃 武田晴信が上野国箕輪城主長野業盛を攻略して滅亡させる。
 〃    〃 小田原の北條氏康が諸役人衆付を制定す。
 〃    〃 江戸北郊の太田康資が江戸城主遠山丹波守直景と対立して北條氏康を叛く。

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