東国武将興亡録  1564年-1566年 戻る

1564年 永禄7年 1月7日 小田原の北條氏康が下総国葛飾郡の国府台に於て安房国館山城主里見兵庫頭義弘、武藏国岩槻城主太田美濃守資正、江戸北郊の太田康資らの連合軍と戰って之れを破り上総山へ撃退す。
 〃    〃 1月8日 上総国正木城主正木大膳亮時綱、時忠兄弟は国府台合戰に於て敗北す。武藏国江戸城主遠山丹波守直景、同左ヱ門、同隼人正父子らは小田原方に属して討死する。北條氏康は里見領の下総、上総両国の大半を平定し、安房国館山城主里見義弘は安房一国と上総の一半を所領と成し上総国正木城主正木大膳亮時綱は上総国の大多喜城に移り居住する。
 〃    〃 1月中旬 北條氏康は下総国の制圧に力をそそぎ、上野国へ出陣が成らず。
 〃    〃 1月27日 上杉輝虎が小田領の常陸国真壁郡海老ヶ島城主平塚山城守入道自省を攻め、佐竹義昭や多賀谷政経らが平塚自省を討取って攻略する。
 〃    〃 1月 常陸国筑波郡小田城主小田氏治が西茨城郡岩槻の坂戸城を攻略し城主小宅三左ヱ門尚時は城を出て之れを高森原に於て迎撃したが敗北し坂戸城に籠城し、下野国河内郡宇都宮城主宇都宮廣綱に援兵を請うたので廣綱は直ちに芳賀左ヱ門尉を始め下野国塩谷郡川崎城主塩谷周防守朝定、仙波志摩守朝家らをして加勢に向わしめたが、小田方は部將信田鴨之亟頼範をを大將として坂戸城を攻め、宇都宮の援軍が到着前に坂戸城は攻略され、小宅尚時父子は小栗城に落ちのびる。
 〃    〃 1月29日 上杉輝虎は常陸国筑波郡小田城主小田左ヱ門督氏治を攻め破って攻略す。上杉輝虎が小田城を攻めたる際、小宅尚時らは坂戸城を攻め、信田鴨之亟を討取って坂戸城を取り戻し之れに移り居住す。また別記にわ、一月二十九日、上杉輝虎は佐竹義昭や宇都宮廣綱らの催促に応じて常陸国へ出陣し真壁郡の山王堂に於て小田氏治と戰い其の部將菅谷彦次郎政頼らを討取って破り、更に小田城を攻めて信太掃部助頼範を自害させて攻略し、小田氏治は新治郡の藤沢城に逃亡し、輝虎は小田領の三十余ヶ所を攻め取る。
 〃    〃 1月30日 上杉輝虎は佐竹の部將多賀谷、真壁らに小田城を渡し佐竹義昭に授けて上野国の平井に帰陣す。下野国の宇都宮尚綱の臣で西茨城郡小栗城主小宅三左ヱ門尚時が坂戸城を攻略し之れを取戻し居住す。
 〃    〃 2月 下野国安蘇郡佐野城主佐野昌綱が小田原の北條氏康に通じた爲めに、上杉輝虎は再び佐野城を攻略し、佐竹義昭や宇都宮尚綱らが仲介に入り、昌綱は長尾虎若丸を養子に迎へる事を約束して輝虎に降り攻略される。
 〃    〃 3月 上野国新田実城金山城主横瀬成繁が京都將軍足利義輝の台命に依って御供衆の列に加へられて由良刑部大輔と改名す。
 〃    〃 下総国結城郡結城城主結城七郎晴朝が北條氏政を叛きて手切れと成る。
 〃    〃 4月 上杉輝虎が関東より越後国に帰国する。
 〃    〃 5月 京都室町御所の將軍足利義輝は、越後国の上杉輝虎と相模国の北條氏康の請和を勧告す。
 〃    〃 5月 陸奥国合津城主葦名盛氏の軍勢が越後国の上杉領、菅名庄に侵入する。
 〃    〃 5月 常陸国筑波郡小田城主小田讃岐守氏治が入道して天菴と号す。
 〃    〃 6月4日 北條氏康、同氏政父子が下野国に出陣し、下都賀郡小山祇園城主小山下野守高朝、同彈正少弼秀綱(宗綱と有るは誤り)父子を攻め破って攻略し、武藏国滝山城主北條氏照をして之れを守らしめ、更に河内郡宇都宮城主宇都宮廣綱をも攻めて之れを降伏させて攻略し、尚お安蘇郡佐野城主佐野昌綱(昌継と有るは誤り)を攻め、下総国結城郡結城城主結城晴朝と対立す。
 〃    〃 6月 上杉輝虎が弥彦神社に祈願す。
 〃    〃 6月 北條氏政が下野国の佐野城を攻めんと進発したれば、下総国結城城主結城晴朝は之れを救はんと常陸国真壁郡下妻城主多賀谷匠作重政に参陣を求め、重政は其子政経に出陣を命したれど政経は命に応ぜずして参陣せず、依て結城晴朝と多賀谷政経が不和を正ず。
 〃    〃 7月上旬 北條氏政が小田原に帰陣し、佐竹義重と多賀谷政経ら連合して下野国小山城を攻め破り北條氏照を追拂って取り戻し、之れを小山高朝に返して居住せしめる。
 〃    〃 7月 越後国春日山城主上杉輝虎は部將宇佐美駿河守定満に命じて上田城主長尾越前守政景を信濃国上水内郡野尻の野尻池に川狩とて招いて二人とも組打ちを成して湖中に落ちて溺死し、上杉輝虎は政景の子喜平次景勝を養子と成す。                 
 〃    〃 7月15日 北條氏政は再び出陣し下総国結城城主結城晴朝を攻め破って攻略し之れを降伏させる
 〃    〃 7月20日 北條氏政が上総国の池和田城主多賀藏人、同右ヱ門尉兄弟を攻め里見方の正木大膳亮時綱らと戰って之れを破り多賀兄弟を討取って攻略する。
 〃    〃 7月23日 武藏国豊島郡岩槻城主太田美濃守資正は北條氏康の干渉によって嫡子太田源五郎氏資に家督を譲り、隠居して入道三楽斉道誉と号し、氏資は北條氏康の娘を娶り、太田三楽斉は庶長子太田源太左ヱ門資晴を伴ひて常陸、下野の両国に出張し佐竹義重や宇都宮国綱に加勢を乞へしに、其の留守に乗じて太田源五郎氏資は北條氏康に降り父三楽斉の帰城を許さずして岩槻城を乗取る。太田三楽斉は止む無く娘聟の武藏国埼玉郡忍城主成田下総守長泰を頼り寄愚す。
 〃    〃 8月4日 上杉輝虎が大館陸奥守に書を送り、小田城攻めの結果を知らせる。
 〃    〃 8月 上杉輝虎が信濃国の川中島に出陣して武田晴信と対陣す。
 〃    〃 8月 上杉輝虎は常陸国の佐竹義昭に書を送って信濃国を平定する可きの意をのべて、武藏や上野の両境に於て北條氏康を押える様に依頼する。
 〃    〃 8月 常陸国太田城主佐竹義昭は筑波郡小田氏の旧領である坂田、田中、本郷、高岡、磯部の五箇所を大山十郎に与へ、田村、前木、長高谷、萩島、明石の五箇所を安藤太郎左ヱ門、深谷外記、平沢藏人らに与え、狩口郷を石井和泉守に与えて守らしむ。
 〃    〃 10月 長尾輝虎が川中島の陣を拂って越後国へ帰国す。
 〃    〃 11月5日 佐竹義重は北條義則を部將として筑波郡の小田城に派遣して之れを守らしめ、更に真壁や行方の諸族に命じて小田城を修繕させた。
 〃    〃 11月 上杉謙信が関東に出陣してまた下野国の佐野城主佐野昌綱を攻めた。
 〃    〃 陸奥国合津城主葦名盛氏が武田晴信に通じて越後国に侵入する。
 〃    〃 常陸国久慈郡太田城主佐竹義昭入道源直は新治郡石岡府中城主大掾貞国を守る爲めに太田より府中城に入城して之れに居住し、新治郡の小田氏治と対抗す。
1565年 永禄8年 1月 上杉輝虎が病気に掛りて死亡すとのデマが飛ぶ。
 〃    〃 3月2日 北條氏政が下総国葛飾郡関宿城主簗田晴助を攻める。
 〃    〃 3月23日 將軍足利義輝が相模国の北條氏康や越後国の上杉輝虎らの講和を勧告す。
 〃    〃 3月9日 三好義継や松永久秀らが京都室町御所の將軍足利義輝を殺害す。
 〃    〃 5月 武田晴信が安中口より上野国に進軍す。
 〃    〃 6月25日 武田晴信は上野国の倉賀野城を陥し、更に同国箕輪城攻めを計画す。
 〃    〃 6月 武田晴信が上野国倉賀野城主倉賀野直行を攻め破って攻略す。
 〃    〃 6月 上杉輝虎は安房国館山城主里見義弘に常陸や下野の諸將と倶に北條氏泰を攻撃する様に依頼しまた上野国厩橋城の北條高広や富岡重朝等に小幡や安中まで追撃せよと指示す。
 〃    〃 6月 上杉輝虎が上野国の倉賀野城を攻略す。
 〃    〃 6月 出羽国米沢城主伊達稙宗が年七十八才にして殺害さる。
 〃    〃 7月 上杉輝虎が信濃国へ出陣す。
 〃    〃 8月 常陸国久慈郡太田城主從四位少將佐竹右京大夫義昭が死亡し、其子次郎義重が継ぐ。
 〃    〃 11月 上杉輝虎が関東へ出陣す。
 〃    〃 11月 常陸国の太田城主佐竹義昭が死亡し、義重が継ぐ。
 〃    〃 12月 常陸国新治郡小田城主小田氏治が上杉輝虎に叛く。
 〃    〃 12月13日 小田氏治は藤原城を発して小田城の北條義則を夜襲して攻略し之れを取戻し更に木田余城も回復す。城代北條義則は逃れて真壁に走り次で久慈郡の太田に帰った。
 〃    〃 上杉輝虎が下総国の土気城を攻略す。
 〃    〃 佐竹義昭入道源直が府中城に於て病気で死す。
 〃    〃 上杉輝虎が関東に攻め入り下総国印旛郡の臼井城を攻め千葉胤富や原胤貞らと戰う。
 〃    〃 常陸国多珂郡南中郷村石岡城主大塚成舜法印空岸は佐竹軍の先鋒である多珂郡櫛形村友部山尾城主小野崎義昌の軍一千五百騎と松原の嶋名川に戰い、大塚空岸は進軍して松原の伊師瀧に於て佐竹、山尾の連合軍を破って撃退す。
1566年 永禄9年 2月16日 上杉輝虎は常陸国筑波郡小田城主小田氏治が小田城を取り戻したる事を怒り使をやって氏治を諌める。また別記にわ、上杉輝虎が再び小田城を攻略し、春中捕虜の人身売買が行われ、一人二十銭、三十銭程したと云ふ、また佐野昌綱以下の関東諸將の裏切りが甚しい爲めに統制を強化し、結城、小山、由良以下の関東諸將に百騎、二百騎と軍役をかける。
 〃    〃 2月 武田晴信が上野国箕輪城主長野右京進業盛を攻略し、大胡城主上泉伊勢守秀綱わ桐生城主桐生祐綱を頼って落ち行く、?。
 〃    〃 3月下旬 上杉輝虎は下総国印旛郡臼井城主原胤貞を攻め、千葉胤富らと戰ったが勝たず遂に退く
 〃    〃 下総国結城城主結城晴朝は水谷らを隨ひに臼井に赴き大いに勇戰して凱旋す、輝虎は依て之れを賞す。
 〃    〃 3月 足利義昭の使者が越後国へ来たり、次いて関東の上杉輝虎の許に到着す。
 〃    〃 5月 足利義昭が関東出陣中の上杉輝虎に北條氏康との和睦を勧め上杉輝虎は部下の北條高広や由良成繁らに講和の仕事を命じ、関東より越後国に帰国する。時に太田美濃守資正は武藏国忍城の成田長康の許に寄愚して居たが、輝虎が越後国に帰陣するに際し、庶長子太田源太左ヱ門資晴を引連れ、輝虎と倶に越後国に赴き越軍の麾下に加わり、輝虎は三楽斉の子資晴を梟帽子と成し長尾家は梶原氏の出なればとて資晴に梶原の姓を与へ尚お輝虎の前名政と景の字を与へて梶原美濃守政景と名乗らす。
 〃    〃 5月 相模国小田原城主北條氏康が隠居す。
 〃    〃 5月  太田三楽斉は越後国に居住して居たが幾ばくも無く、梶原源太左ヱ門政景を引連れて常陸、下野両国の間を流離し、常陸国筑波郡小田城主小田氏治の麾下で新治郡上幡城主上曽兵部大輔氏俊を通じて小田氏治に仕へん事を乞い、小田氏治は太田父子を召出して之れに一千貫の釆地を与へ三楽斉に新治郡の片野城を守らせ、政景に柿岡城を守らしめ政景を景国と改名させ父子倶に佐竹義重の来攻に備えさせ、信田和泉守重成、菅谷左ヱ門尉政貞らと共に小田家の執權と成す。
 〃    〃 5月 北條氏康、武田晴信、今川氏直らが連合して上杉謙信に対抗し、小田氏治も北條方に参加す。
 〃    〃 6月7日 常陸国の小田氏治は上杉輝虎の圧迫を恐れて小田城を出て武藏国の松山城に入る。
 〃    〃 6月 常陸国新治郡片野城主太田資正入道三楽斉道誉、梶原美濃守景国父子が佐竹義重の誘ひに応じて小田氏治を裏切り、佐竹義重に降って味方に応ず。佐竹義重は太田父子を利用し小田地を経営せんとし、殊に懇情を施して真壁右ヱ門尉氏幹の娘を媒して梶原源太左ヱ門景国に娶せ、自ら太田三楽の娘を妾に迎へる。
 〃    〃 6月18日 上杉輝虎は上野国厩橋城より越後国に帰国す。
 〃    〃 6月 上杉輝虎が越中国の増田城を攻める。
 〃    〃 7月 上杉輝虎が越中国より帰国す。
 〃    〃 8月4日 常陸国那珂郡勝見沢の一矢場城主古内兵部大輔義重入道一湲済が死亡す。
 〃    〃 8月15日 武藏国埼玉郡忍城主成田下総守長泰は長子氏長を癈嫡し次子泰喬を嫡位に立てんとしたが、氏長の反逆により、泰喬の継嗣は阻止された。
 〃    〃 8月23日 常陸国真壁郡下妻城主從五位多賀谷匠作修理大夫重政が年六十五才にして死亡し、嫡子下総守政経が継ぐ。
 〃    〃 8月23日 武藏国埼玉郡岩槻城主太田源五郎氏資が上総国に渡り三船城を攻めて、其の城外に於て里見勢と戰ったが討死し、北條氏康は氏政の次男十郎氏房を以て氏資の娘小少將と娶わせて太田家の名跡を継がしめ太田十郎氏房と名乗らせ岩槻城を守らしむ。
 〃    〃 8月24日 常陸国の佐竹義重は大関高増に加勢として東中務少輔政義を陣代として、下総国へ派遣し那須方の属城である那須郡南那須の森田城、烏山の滝田城、南那須の神長、高瀬等の諸城を攻略したが、烏山城主那須資胤は之れを高瀬に於て迎撃して破り治部内山に撃退し、更に追撃して千束ノ台に包囲し佐竹方の部將東政義を降伏させる。
 〃    〃 8月 足利義秋が越後国の上杉輝虎、甲斐国の武田晴信、相模国の北條氏康らに講和を勧告し、輝虎は上野国厩橋城將の北條高広、上野家成、金山城主由良成繁らに命じて北條氏康との講和の交渉をさせたが遂に的まらなかった。
 〃    〃 9月5日 上杉輝虎は上野国金山城主由良成繁に越相講和の失敗を問責した爲めに、由良成繁、同国繁父子は輝虎を叛き北條氏康の味方と成り、上野家成、北條輔広、同高広らに密使を送って味方に誘う。
 〃    〃 9月29日 武田晴信は二万の大軍を以て上野国の箕輪城を攻め、城主長野右京進業盛十九才以下千五百余騎の者共が之れを迎へて防戰したが力及ばず、遂に敗北して業盛は自害して攻略さる。
 〃    〃 9月下旬 北條氏政は下野国の皆川長沼城主長沼信鉄斉、皆川山城守廣照や上野国館林城主大畑佐渡守らを攻める。
 〃    〃 11月21日 毛利元就が出雲国の尼子義久を降す。
 〃    〃 12月 上杉輝虎が上野国の金山城主由良成繁討伐の爲めに関東に出陣す。
 〃    〃 関東公方足利藤氏が死亡す。
 〃    〃 上杉、武田、北條らの三氏が西上州に於て争う。
 〃    〃 上杉輝虎が大軍を率いて、上野国の和田城を攻め破って攻略す。
 〃    〃 上杉輝虎が朝廷に馬、鎧、越後上布などを献上す。
 〃    〃 尾張国中島城主安西右京幸盛は織田信長に追われて常陸国へ落ち来たる。

東国武将興亡録  1564年-1566年 戻る