東国武将興亡録  1567年-1569年 戻る

1567年 永禄10年 2月 下野国佐野城主佐野昌綱が再び上杉謙信を叛き、また常陸国太田城主佐竹義重も上杉輝虎より参陣の命を受けたが応ぜずして武田晴信に通じて上杉輝虎を叛く。
 〃    〃 2月 上杉輝虎はまた下野国佐野城主佐野昌綱を攻めて之れを攻略した。
 〃    〃 4月6日 上野国群馬郡前橋の厩橋城主北條丹後守高広が上杉輝虎を叛き北條氏政に通じたので、輝虎は上野国沼田城主松木景繁をして之れを攻めさせる。
 〃    〃 4月 上杉輝虎が関東より帰国する。
 〃    〃 5月 上野国厩橋城主北條高広が上杉輝虎と絶ちて北條氏康と結び之れに味方す。
 〃    〃 5月 常陸国筑波郡小田城主小田氏治は稲川輝正忠をして武田晴信の許に遣わし始めて信を通じ佐竹討伐の援助を願い、信玄も甘利左ヱ門尉をして接待せしめたが、其の願いを断わる。
 〃    〃 10月6日 北條氏康と武田晴信は上野国の厩橋城に上杉輝虎を攻める。
 〃    〃 10月19日 甲斐国甲府城主武田晴信が長子義信を自殺させる。
 〃    〃 11月21日 武田晴信の娘が織田信長の嫡子信忠と婚約が成る。
 〃    〃 12月 甲斐国の武田晴信、相模国の北條氏康、駿河国の今川義元らの三国同盟が破れる。
 〃    〃 北條氏政は上杉憲政の家臣で武藏国児玉郡の本庄宮内少輔を攻め破って攻略す。
 〃    〃 12月 甲駿相の三国同盟が分烈し、駿河国府中城主今川氏真は越後国の上杉輝虎に援助を求める。
 〃    〃 常陸国の佐竹義重は大関高増の要請で部將長倉遠江守義当、武茂左馬介、川井甲斐守、助川周防守らを陣代として下野国に派遣し、烏山近辺の大河井山に出張したが、下野国烏山城主那須資胤は那珂川を渡って佐竹、大関の連合軍を襲い之れを撃破する。
 〃    〃 北條氏政が常陸国真壁郡下妻城主多賀谷政経を攻める。
 〃    〃 常陸国信太郡、信太庄の地頭で江戸崎城主土岐左ヱ門尉頼貞が河内郡の龍ヶ崎城を築く。
1568年 永禄11年 3月 上杉輝虎が越中国金山城に椎名康胤を攻める。
 〃    〃 5月7日 上杉輝虎の生母が死亡す。
 〃    〃 9月11日 下野国烏山城主那須資胤の嫡子資晴は年十三才にして十七騎を從いて自ら黒羽城に出向いて大関高増と会見し和睦が成立す。
 〃    〃 11月 上杉輝虎が越後国本庄城主本庄繁長を攻める。
 〃    〃 12月24日 相模国小田原城主北條氏康が上杉輝虎に和親を求める。
 〃    〃 12月27日 常陸国の佐竹義重が越後国の上杉輝虎に関東出陣を勧める。
 〃    〃 常陸国河内郡江戸崎城主土岐氏の一族土岐胤倫が龍ヶ崎城に移る。
 〃    〃 常陸国の小田氏治は上杉輝虎に敵する事能わず、下総国の結城晴朝によって城壁の修復をしない事を誓って上杉輝虎に降服する。
 〃    〃 武田晴信は駿河国を侵し府中城主今川氏真を追へ拂う。
1569年 永禄12年 1月 北條氏康が駿河国に進撃して武田晴信と対戰す。
 〃    〃 1月 北條氏康が越後国の上杉輝虎に和睦を申し出る。
 〃    〃 1月 武藏国滝山城主北條氏照の使僧が越相両国の講和の爲めに越後国に入る。
 〃    〃 1月17日 常陸国久慈郡太田城主佐竹義重は部將太田資正、真壁久幹、多賀谷祥聯らを率いて小田氏の属城真壁郡海老ヶ島城主平塚刑部大輔を攻めて降伏させ之れを攻略す。
 〃    〃 1月21日 佐竹義重は筑波郡に侵入して三村に陣し小田城の小田氏治を攻め、城外に放火して小田領の郷村を残らず打ち散らし、数日後に帰陣す。
 〃    〃 2月 北條氏康の講和の使節が誓書を持って上野国の沼田城に来り、沼田城主松本章繁が越後国の本庄城を攻囲中の上杉輝虎に北條氏康よりの和睦の申し出を伝い、片野城主太田資正らの諸將は小田原との講和に疑念を持って居たが、遠山康光や由良成繁らが越相講和に努力し和睦の交渉は進められた。
 〃    〃 3月8日 徳川家康が使ひを遣わして今川氏真に和を講じた。
 〃    〃 3月 越後国の上杉輝虎と相模国の北條氏康が講和す。
 〃    〃 3月 北條氏康が駿河国の薩捶山に於て武田晴信を破る。
 〃    〃 3月 上杉輝虎が越後国本庄城主本庄繁長を攻め破って降伏させる。
 〃    〃 4月6日 武田晴信は常陸国の佐竹義重に書状を送りて武田と佐竹が両家にて和を結び協力して越後と相模の両国の和平を妨害し北條氏の背後を衝かん事を依頼し、佐竹義重も江間重氏を使者として甲斐国に派遣して武田晴信と結び両家の交際が始まる。
 〃    〃 4月21日 上杉輝虎は武田晴信との対抗上北條氏康と和議を計ろうとし、佐竹義重や太田資正らは始め講和の不利を説きて輝虎に関東出陣を求めたが、輝虎は味方の関東諸將に講和の可否を尋ね、佐竹義重は小貫頼安を派遣して意見を答へ申し、また太田資正も梶原景国と倶に講和の條件等について意見を申し入れた。
 〃    〃 4月 上杉輝虎が北條氏康と北條左ヱ門佐氏邦の守る上野国新田城に於て和睦の会議を開き上杉輝虎は小田原の足利藤政を古河へ返して上野と武藏の両国を上杉領と成し、北條氏政の子を人質として出す事を挙げ、北條氏康は足利藤氏を関東公方として伊豆と相模の両国に加へて上野国の半分を北條方の所領とする事を越軍は直ちに武田軍と決戰の爲めに信濃国へ出兵する事と、北條方に寝返った北條高廣の罪を許す事の諸條件を主張した。
 〃    〃 4月 上野国の上杉輝虎は関東より越後国に帰国する。
 〃    〃 5月 北條氏康の使僧が越後国の上杉輝虎の許に来る。
 〃    〃 5月3日 越後国春日山城主上杉輝虎と相模国小田原城主北條氏康が盟約を結びて                                                                                                                           和睦す。
 〃    〃 5月10日 佐竹義重は上杉輝虎に越後と相模の両国の和議に賛成する旨を答える。
 〃    〃 5月15日 三河国の徳川家康が遠江国の掛川城を奪ひ、今川氏真は相模国の小田原城主北條氏康を頼りて落行き、家康が遠江国を攻略す。
 〃    〃 5月15日  佐竹義重は筑波郡の小田城主小田氏治を攻撃し、近辺の若森で麦作を残らず荒したが、小田氏治は之れを迎撃って破り撃したが、佐竹義重は部將北恵悟を派遣し密かに小田城の地景を調べさせ小田城攻略の時をねらう。別記に、佐竹義重が小田城を攻めたが、小田氏治は之れを城外に迎へ撃って多大なる損害を与へて撃退する。
 〃    〃 6月9日 越後国春日山城主上杉輝虎が廣泰寺昌派、進藤家清らに誓書を持たせて相模国の小田原の遣わし、北條氏康、氏政父子の誓書と北條氏政の次子国増丸を人質養子として差し出す事を求め、氏康父子は其の申し入れを承諾して上野一国と武藏国の一部岩槻城迄を上杉領と成し、甲斐国の武田晴信を協力して攻撃する約束を成して越相両国の攻守同盟が成立す。
 〃    〃 6月 北條高広が上杉輝虎に許されて帰参す。
 〃    〃 8月 武田晴信が上野国や武藏国の西部に於て小田原軍と戰う。
 〃    〃 8月 安房国館山城主里見兵庫頭義弘が上杉輝虎を叛く。
 〃    〃 9月 武田晴信が上野、武藏の西部に於て小田原軍と戰う。
 〃    〃 9月23日 武田晴信が安房国館山城主里見義弘を誘い西上野に攻め入り、武藏国鉢形城主北條左ヱ門佐氏邦を攻め、小山田信有をして武藏国滝山城主北條陸奥守氏照を攻める。
 〃    〃 9月 上杉輝虎が越中国に出陣す。
 〃    〃 10月 紀伊国根来寺の僧が常陸国に来て砲術を伝いる。
 〃    〃 10月2日 武田晴信は上野国や武藏国の両国を経て相模国の小田原城主北條氏康を攻めて城下に放火した。
 〃    〃 10月 北條氏政は国増丸の上杉家養子を堪えられず、上野国金山城主由良成繁に頼んで上杉輝虎へ人質の変更を申し入れ、其の結果として北條氏康の七男の三郎氏秀が上杉家の養子に行く事に決り、北條氏康は越中国に出陣中の上杉輝虎に背後よりの援軍を頼んだが、北條氏政が自分の子を人質養子に取られる事を嫌って上杉輝虎との誓書の約束を果さずして不誠実な態度を取り続けた爲めに、約束が履行される迄は輝虎も援軍を出さず。
 〃    〃 10月4日 武田晴信が小田原城攻めより撤退す。
 〃    〃 10月5日 北條氏照、同氏邦らは武田晴信が津久井筋を甲斐国の郡内方面へ引き退かんとするを三増峠に於て之れを破って撃退す。一説には、十月六日、武田晴信が相模国小田原城主北條氏康を攻めて城下に火を放つとも有り。
 〃    〃 10月14日 上杉輝虎は足利義氏の関東公方に同意し、太田資正は子息の梶原景国を小田原へ人質として入れ武藏国の岩槻城を返還して貰い北條氏康と和睦し、下野国佐野城主佐野昌綱も上杉輝虎に從う。
 〃    〃 10月 上杉輝虎が越中国より越後国に帰国す。
 〃    〃 11月14日 上杉輝虎が関東へ出陣し上野国の沼田城に入る。
 〃    〃 11月22日 佐竹勢の常陸国新治郡片野城主太田資正入道三楽斉道誉、真壁郡真壁城主真壁安芸守久幹入道暗夜軒道夢等が筑波郡小田城主小田讃岐守氏治入道天菴を滅ぼさんと計画し先ず新治郡の上曽兵部大輔駿河守氏俊や小幡中務少輔道三入道等にも反逆を勧めたが、上曽や小幡らは義を守って応ぜず、三楽斉は之れをにくみ上曽と小幡らが小田天菴に逆心を抱いて居ると流言を放つ。
 〃    〃 11月24日 筑波郡小田城主小田天菴は上曽、小幡が反心と聞きて大いにいかり三千騎を率いて青柳山を越えて小幡に陣す。上曽駿河守氏俊、小幡中務少輔道三入道らは部下の足立豊後守を使者として小幡山に遣わして小田天菴に逆心の無き旨を伝へたが天菴は之れを許さず上曽、小幡らを攻める。時に片野城主太田三楽斉、柿岡城主梶原美濃守景国等が城を出て上曽、小幡の勢を攻め崩して十三里塚に追拂って小幡山の小田勢を攻める。柿岡に火を放ち急に片野城を攻め其の閧の声は天地い震動し太田勢は敗北す、太田三楽斉は真壁や佐竹に加勢を乞い、佐竹義重は直ちに五十騎の精兵を発して片野城を救はしめる。小田天菴は攻撃を止めて手這坂に引き上げるを、真壁城主真壁久幹入道道夢、嫡子氏幹、二男義幹、及び酒寄備前守らが追撃し手這坂の上に陣を取り西尾崎に伏兵を置き手這坂を   登り来る小田方の先鋒岡見輝正義知、益戸駿河守、同三郎、三村与市、信太兵庫、八代伊勢守等を谷をへだてて銃矢を雨の如くに射がけ、岡見輝正義知らを討取り小田勢を破り、大島、酒寄に兵を配置して小田軍の退路を絶ち、太田三楽斉、真壁道夢、梶原景国、宇都宮国綱、多賀谷祥聯等は大いに小田軍を破り二千八百余人を討取り、太田三楽斉は近道をして小田城に寄せ城兵を詐って城門を開かせ小田城を攻略し、質子を奪い旗幟を立てて城を守り、小田天菴は敗北して新治郡の土浦城に逃入る。
 〃    〃 11月25日 佐竹義重は小田城に入城し之れに陣を取り、鹿島、玉造、手賀の諸族に花室城を守らしめ、真壁久幹の子氏幹に小田城を与へ様としたが氏幹が辞退した爲めに、太田三楽斉子梶原景国に与えて之れを守らしめ、佐竹義重、宇都宮国綱、多賀谷祥聯を始め常陸、下野両国の武將等が皆小田城に詰めて滞在し小田方の反撃に備え、時に上杉輝虎が大石右ヱ門尉を常陸国に遣わし佐竹義重や太田資正らに出陣を要請したが皆其の要請に応ぜられず。
 〃    〃 11月下旬 上杉輝虎が北條氏康に援軍の爲めに関東へ出陣し上野国の沼田城へ入る。
 〃    〃 11月 武田晴信が織田信長を通じて上杉輝虎に和を求める。
 〃    〃 12月1日 上杉輝虎は大石左ヱ門尉に常陸、下野両国の諸將等の不参加を知らせる。
 〃    〃 12月6日 武田晴信が三度駿河国に侵入し北條氏康と戰い、庵原郡の蒲原城主北條綱重を攻め破って攻略す。一説に、十二月、武田晴信が駿河国の三増峠に於て北條氏康と戰って之れを破る。
 〃    〃 12月23日 武田晴信、同勝頼父子が相模国に攻め入り小田原城主北條氏康を攻める。
 〃    〃 徳川家康が今川氏真と和し、武田晴信と絶つ。
 〃    〃 常陸国の小田天菴の部將太田三楽斉、梶原景国、真壁道夢、北條治高等が天菴を裏切って佐竹義重に内通し、其の麾下と成る。
 〃    〃 紀伊国の根来寺の僧が常陸国に来て砲術を伝へ、小田氏治が佐竹の部將太田三楽斉を新治郡八郷の柿岡に攻めた時、真壁氏幹は弓銃隊を用ひて手這坂に迎ひ撃ち根来衆徒の大藏防と云う鉄砲の名人が小田方の先鋒でサカバヤシの旗指物をひるがへし突撃して来る岡見輝正を一発で射落し、小田勢を破る。此の際に鉄砲を伝授に来て居た紀伊国の根来寺の僧は其の精妙の技を以て、其の隊を指揮する。
 〃    〃 下野国佐野唐沢山城主佐野周防守昌綱が死亡し、嫡子宗綱が嗣ぐ。
 〃    〃 常陸国河内郡龍ヶ崎の貝原塚城主貝原塚將監氏胤は信太郡江戸崎城主土岐治英に攻め滅ぼさる。

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