東国武将興亡録  1570年-1571年 戻る

1570年 元龜1年 1月15日 上杉輝虎が下野国佐野城主佐野宗綱を攻め、常陸国太田城主佐竹義重も輝虎の求めに応じて佐野攻めに参陣し、輝虎は佐野城を攻略す。
 〃    〃 1月23日 佐竹義重は家臣馬場篤親を甲斐国に派遣し、武田晴信に誓書を出して好しみを通ず。
 〃    〃 2月 上杉輝虎が下野国より上野国の沼田に帰陣す。
 〃    〃 2月10日 常陸国真壁郡下妻城主多賀谷政経は筑波郡谷田部城主岡見主殿平八郎頼治を攻め破り、河内郡の牛久へ追拂って谷田部城を攻略し、弟の多賀谷淡路守政伯をして之れを守らしむ。
 〃    〃 3月19日 武田晴信は佐竹氏の使者江間重氏に佐竹義重への説得を依頼し、武藏国平定後は武藏国の内一所を与へる約束を成す。
 〃    〃 3月20日 上野国桐生城主桐生又次郎親綱は山城出羽守守利に命じ、上野国仁田山城の里見入道勝広を討取って攻略する。
 〃    〃 3月 上杉輝虎が小田原の北條氏康の七男三郎氏秀を人質として迎え之れを養子と成す。
 〃    〃 3月 常陸国の佐竹方部將多賀谷政経、宍戸中務大輔友秋、坪井内膳正らが常陸国筑波郡小田城主小田氏治を攻め、多賀谷政経は筑波郡の大曽根、若森、山木、田中等の小田領を攻略して、大曽根に築城し、部下の白井縫殿助全洞をして之れを守らしめ、再び小田城を攻めたが敗北して撃退さる。多賀谷氏は下総国岡田郡今里邑の忝鳳山円福寺を真壁郡下妻の新町に移し、後に大町に移す。
 〃    〃 4月11日 上杉輝虎が上野国の沼田城に於て北條三郎氏秀と対面し、之れを養子と成して父子の契りを結ぶ。
 〃    〃 4月25日 上杉輝虎は北條三郎氏秀に輝虎の初名である景虎の名を与へ、上杉三郎景虎と名乗らせ、自分の姪を娶わせて春日山二の丸に居住せしめて、輝虎は自ら入道謙信と改名す。
 〃    〃 4月 上杉輝虎が上野国より越後国に帰国する。別記に、四月末旬、上杉三郎景虎に長尾越前守政景の娘を妻と成す。
 〃    〃 5月19日 常陸国太田城主佐竹義重は自ら筑波郡の小田城に出張し、城郭の修築を行ない之れを太田資正入道三楽斉に預けて城主と成す。
 〃    〃 5月 上杉輝虎は小田原方の足利義氏の関東古河公方を承認する。
 〃    〃 5月28日 上野国山田郡桐生五十六郷の領主桐生大炊介祐綱が年五十九才にして死亡し、下野国佐野唐沢山城主佐野周防守昌綱の弟佐野又次郎親綱が桐生家の養子として年三十四才にて桐生家の家督を継ぐ。
 〃    〃 6月11日 常陸国東茨城郡宍戸城主宍戸安芸守四郎道胤入道、真壁郡真壁城主真壁安芸守入道道夢等が連合して兵を挙げ、宍戸は筑波郡の安食に、真壁は高道祖に陣を取る。下妻城主多賀谷政経は高道祖原に於て真壁、宍戸等を戰って之れを破って撃退し、高道祖を白井全洞に与へる。此の戰いに下妻方の安西右京らが討死した。
 〃    〃 8月11日 佐竹義重が那須資胤の属城下野国の大山田城を攻める。
 〃    〃 8月13日 下総国結城城主結城晴朝は下野国宇都宮城主宇都宮国綱と好みを通じ、晴朝は筑波郡小田城主小田讃岐守氏治入道天菴を攻めんと多賀谷、水谷、長沼らを先陣とし六千余騎を率いて石毛、豊田を押へ筑波郡い侵入し小田方の大曽根城主浅野五郎左ヱ門、同藤右ヱ門、水守城主水守六郎、山木城主山木七郎、若林城主左藤弥左ヱ門、玉取城主左藤勘左ヱ門、同甚七郎、君島城主菊地隼人、田中城主長田主膳、蓮沼城主蓮沼庄司、口ノ堀城主三村三郎大夫等を破って攻略し平塚原に進み酒丸の安楽寺に結城晴朝は本陣を据えて先陣の多賀谷、水谷、長沼等は平塚原に陣を取り、小田方の苅間城主野中瀬左ヱ門氏兼入道鈍斉、小野崎城主新井縫殿助、上ノ室城主吉原越前守時則、花室城主大津長門助貞兼、平塚城主黒田弥三左ヱ門らが之れを平塚原に迎い撃って戰う。
 〃    〃 8月 上杉謙信が徳川家康と同盟す。
 〃    〃 8月 武田信玄が信濃国に入る。
 〃    〃 9月 多賀谷政経は小田城攻めを中止して帰陣す。
 〃    〃 10月20日 上杉謙信が北條氏政や今川氏真の依頼によって関東へ出陣す。
 〃    〃 10月20日 筑波郡小田城主小田讃岐守氏治入道天菴は藤沢城主菅谷左ヱ門尉正光、金田強清水城主沼尻又五郎家忠等をして平塚原へ加勢として向わしめ、菅谷、沼尻の両將は兵を三隊に分け一手は猿壁より西して敵の中央を突き、一手は高田と酒丸の間に陣して敵の連絡を断ち、一手は中根、口堀から進んで敵の北方を突いて、結城軍は不意を打たれて敗北し、わずかに免れて吉沼に逃れ、部將らは各々其の居城に帰った。
 〃    〃 10月 上杉謙信は関東に出陣したが間も無く越後国に帰国する。
 〃    〃 12月 上杉輝虎が越中国を平定す。
 〃    〃 12月 上杉輝虎が謙信と稱す。
 〃    〃 常陸国下妻城主多賀谷政経は下総国岡田郡豊岡横曽根坂巻城主羽生大和守氏経を攻める。
 〃    〃 常陸国久慈郡太田城主佐竹修理大夫義重の子義宣が生れた。
 〃    〃 小田原の北條氏政は総上村の小島、豊加美村の古沢、下妻の峰に於て多賀谷政経と戰う
 〃    〃 安房国館山城主里見兵庫頭義弘は豊浦に岡本城を築き、正木大膳亮時綱 は安房国の正木と上総国の大多喜に居住する。
 〃    〃 小田天菴は新治郡の土浦城を拠点として防備の前ヱを桜川藤沢城と山ノ荘大志戸村の甲山城に鶴翼の堅陣を張る。
 〃    〃 北條氏康は上杉輝虎に北條国増丸の養子を氏政の弟氏秀に変更させる事を申し入れ、人質は氏秀と決まり、北條方よりは北條氏邦が上杉方からは柿崎家憲らが相互に人質として交換す。
1571年 元龜2年 下妻城主多賀谷政経は筑波郡福岡の阿弥陀堂に草鞋も脱かず堂上に座し其の堂に巣寵りして居た鳩を追いやったところ急に股間の睾丸がしめ付けられて悶絶して倒る。家来の菊地勘解由が色を失って薬を与い、やっと政経は正気を取り戻したが、良く見れば勇猛血気の政経は弥陀の尊像惠心僧都作に腰掛けて居た、依て政経は大薬寺の慶円と云う僧を頼みて兼定の太刀一振と永楽銭二十貫と玄米二十俵を奉納して伝意を慰め、更に黄金で五智の如来五体を鋳造して安置す。
 〃    〃 3月11日 劍客で、常陸国鹿島郡塚原村住人、塚原新左ヱ門高幹入道卜伝が年八十三才にして死亡す。
 〃    〃 3月 上杉謙信が越中国に出陣して富山城を攻略し瑞泉寺と和す。
 〃    〃 四月 十五日 上杉謙信は北條氏康と武田信玄の和平の風説が有るによって北條氏康に其の真偽を問う。
 〃    〃 4月 上杉謙信が越中国より越後国に帰国す。
 〃    〃 5月 常陸国太田城主佐竹義重は陸奥国の南郷に出陣し陸奥国白河城主白河義親を攻め、会津若松の黒川城主葦名盛氏や田村郡三春城主田村清顯らの連合軍と戰う。
 〃    〃 5月 武藏国小机城主北條左ヱ門左氏尭が下妻を攻めたる際に円福寺が兵火に懸って炎上す。
 〃    〃 5月22日 相模国小田原城主北條氏政は陸奥国の葦名盛氏、田村清顯、白河義親等と同盟し常陸国の佐竹義重を挟撃せんと謀り、弟の北條氏照、北條氏邦らと倶に下総国に発向し、途中、葛飾郡の関宿城主簗田晴助の出迎えを受け、結城郡結城城主結城晴朝と示し合わせて結城郡の山川城に着陣し鬼怒川を隔てて佐竹勢と対陣す。陸奥国の南郷に出陣中の佐竹義重は其の陣を引拂って下野国の宇都宮に退陣し漸らく滞在して兵を集め、更に南進して下野国河内郡の上之川に到着し、部將小野崎義昌や東義久らを遊軍として筑波山麓の小貝川辺に布陣させて下妻城主多賀谷政経の加勢を成さしむる。
 〃    〃 5月25日 佐竹義重は茂木上総介父子等を率いて下総国猿島郡の岩井村に屯する北條氏政の本陣を夜襲し北條氏照らと戰う。小田原勢は鬼怒川を上下から渡河して真壁郡下妻城主多賀谷政経を南方から攻め、多賀谷政経は小島に伏兵を置きて之れを迎へ撃って戰い、北條氏照、結城晴朝、簗田晴朝らは古沢村に押し寄せて下妻勢を破り下妻城を攻める。多賀谷政経は偽りの降伏を申し出て小田原勢のひるむ間に城の大手、搦手の両門より打って出て小田原軍を破る。
 〃    〃 安房国館山城主里見義弘の水軍数百艘が小田原方の伊豆の沖に出現したとの情報が岩井の北條氏政の陣営に入り、北條氏政は佐竹の本陣に軍使を出して、義重と和平を結び雌雄を決する事成らずして双方陣を引き氏政は小田原に引揚げ、義重も太田へ帰陣す。また別記には、北條氏照、簗田正民らが結城晴朝と共に結城氏の属城、下総国結城郡の山川城に入り、土露生ヶ原や岡田ヶ原に陣を取り本陣を堀戸山に陣を据えて下妻の多賀谷政経を攻め、古沢の出輪を攻略して本峯や不動宿に於て合戰したが敗北す。別に、北條氏政が常陸国に発向し佐竹義重を攻めんとす、佐竹義重も上ノ川や桜川などに出張して小田原勢と対陣したが、下総国古河公方足利藤氏の命に依て北條氏政は小田原へ帰陣す。または曰く、北條氏政が軍を常陸国に発し佐竹義重を討つ、氏政は下総国の岩井村に屯し、富永下総守、猪股能登守、宇田川石見守等を遣わして三百人の伏兵を要地に設ける、小田氏治入道天菴の庶長子小田喜太郎友治も其の副將の列に加はる、果せるかな佐竹義重は茂木上総介、同山城守父子を遣わして岩井の北條氏政の営を夜襲したが、小田原軍の伏兵ら之れを迎撃って破り追撃して佐竹勢の長臣である茂木資基、都賀可隆等を討取って撃退し佐竹方は敗走す、北條氏政は遂に佐竹氏の封内四郡を取る。
 〃    〃 8月8日 北條氏政が下野国の藤岡に於て佐竹義重と戰う。
 〃    〃 10月3日 相模国小田原城主北條右京大夫氏康が年五十七才(又は五十六才)にして死亡し、法名は東陽岱公居士大聖院と号す。
 〃    〃 10月 北條氏政は上杉謙信と絶ちて武田信玄と和す。
 〃    〃 10月 武田方の上野国箕輪城代内藤昌豊と上杉方の厩橋城代北條高広らが、武田家の老臣跡部勝資を通じて、武田信玄に相越甲三国の和睦を申し入れたが信玄は之れを許さず。
 〃    〃 11月 常陸国新治郡土浦城主小田讃岐守氏治入道天菴が上杉彈正少弼輝虎入道謙信に佐竹義重討伐を頼みて旧領の報復を計り、謙信も其の要求を容れえ陸奥国会津黒川城主葦名刑部大輔盛氏と倶に佐竹義重を討たんとす。
 〃    〃 11月 上杉謙信が佐竹義重と対陣す。
 〃    〃 12月27日 武田信玄は秘密の内に北條氏政と誓詞を交わして関八州の西上野の外は北條領とし、武田方よりは干渉せず、上杉陣営の情報交換、北條より上杉への絶交状の寫し、上杉よりの絶交状の提示、北條氏政の弟氏親や氏忠らを人質として甲府に差し出す事、今川氏真を追放する事などを要請條件として、武田信玄、北條氏康の講和を復し、北條氏政は上杉謙信と断交す。越相和睦に努力した遠山康光、由良成繁らは此の講和に面目を失い氏政を憎みて不満をもらし、氏政もしきりに遠山、由良らの弁解に努めた。
 〃    〃 12月 上杉謙信が関東に於て年を越す。
 〃    〃 上杉謙信が上野国の石倉城を攻略す。
 〃    〃 下総国葛飾郡関宿城主簗田中務尉政信が謀反し、小田原城主北條氏政が之れを攻めんとしたが、間もなく和平す。
 〃    〃 常陸国下妻城主多賀谷修理大夫政経は多賀谷淡路守政伯、多賀谷大治郎重経らをして小田方の常陸国筑波郡谷田部城主岡見主殿頭頼治を攻め破り、河内郡の牛久へ追い拂って攻略し、政伯が之れを守る。
 〃    〃 北條氏政が武田信玄と対陣し、下妻城主多賀谷政経は武田信玄に使者を送って之れと結び好みを通ずる。
 〃    〃 上泉伊勢守信綱が武田信玄に暇を乞う。

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