東国武将興亡録  1572年-1573年3月 戻る

1572年 元龜3年 1月 北條氏政が武藏国の軍役を定める。
 〃    〃 1月15日 武田信玄が北條氏政に関東諸国を小田原領と認める條件にて講和を誘い、氏政は弟の氏忠や氏尭らを信玄の許へ人質として送り、攻守同盟を結んで上杉謙信と絶ち、北條氏政、同氏邦、同氏房らは下野国に出陣し小山祇園城主小山秀綱や多劫城主多劫石見守らを攻め、上杉謙信は上野国の厩橋城に出陣中なりしが氏政の背信を怒り絶交状を送り北條撃減を決す。武田信玄は上野国沼田や厩橋の連絡を絶たんと兵を動かし上野国石倉城を破壊し利根川に於て上杉謙信と対陣す。
 〃    〃 2月 上杉謙信が常陸国の佐竹義重と和平す。
 〃    〃 3月 上杉謙信は利根川の西岸に砦を築き武田信玄も出動したが間もなく引揚げる。
 〃    〃 3月 常陸国真壁郡下妻城主多賀谷政経が小田原の北條氏政と和平す。
 〃    〃 4月 上杉謙信が関東より越後国に帰国す。
 〃    〃 5月22日 北條氏政が大形郷仁江戸に於て多賀谷政経と戰ったが大敗北を成す。
 〃    〃 6月 佐竹義重は北又七郎を使者として下野国芳賀郡市貝の市橋に於て那須資胤の使者千本道長と会見し、那須資胤の娘を佐竹義重の嫡子義宣の妻とする事を條件に再家の講和が成立す。
 〃    〃 7月 佐竹義重は陸奥国の寺山に於て白河義親や葦名盛氏らを破る。
 〃    〃 8月 上杉謙信が越中国で一向一揆と戰う。
 〃    〃 10月 上杉謙信が越中国より帰国す。
 〃    〃 11月 上杉謙信が織田信長と同盟を結ぶ。
 〃    〃 12月26日 佐竹義重、那須資胤、小山高朝、結城晴朝、田村清顯等が小田原方の下野国皆川城主皆川山城守廣照を攻める。
 〃    〃 12月29日 小田原城主北條氏政が下総国葛飾郡関宿城主簗田中務大輔晴助を攻め、更に下野国の多功原に於て佐竹義重、宇都宮廣綱らと戰ったが敗北し、佐竹義重は皆川領の深沢、南摩の十一ヶ城を攻略し皆川城を裸城にして残した。
 〃    〃 12月 常陸国筑波郡小田城主小田讃岐守氏治は新治郡の藤沢城に移り、自ら入道して天菴と号す。次子彦太郎守治を世子と成して小田城を与へて之れに居住せしむる。
 〃    〃 小田天菴は長子喜太郎友治の嫡位を廃し、友治は小田原に出奔し、是れに依て小田家の家臣等は友治と守治の二派に分裂して相和せず不和を生ず、佐竹方の片野城主太田資正入道三楽斉は此の虚に乗じて小田城を襲撃せんと謀る。
 〃    〃 12月31日 小田城主小田彦太郎守治は家例成れば城内に諸將等を集め送歳禮連歌馳飲の会を行う、太田三楽は之れを開きて秘かに真壁安芸守入道道夢と相議し、佐竹、多賀谷に加勢を乞いて、太田三楽斉、真壁氏幹、多賀谷政経、太田新六郎康資、真壁掃部助、岡谷縫殿介、根本太郎、白井全洞らが宴会に乗じて夜中小田城を攻める。
 〃    〃 佐竹義重は小貫頼安を使者として、武田信玄の許に遣わし交際を復活する。
 〃    〃 佐竹義重は下野国の那須郡へ出張して那須資胤の属城を数ヶ所打ち破って帰陣する。
 〃    〃 常陸国筑波郡手子生城主赤松則実入道擬渕斉(赤松伯胤斉則定と同一人か)が落城す。
 〃    〃 小田原城主北條氏政が年三十五才にして隠居し、其子氏直が年十一才にて家督を相続す。
1573年 天正1年 1月1日 佐竹方の千田刑部少輔、車丹波守、佐竹彈正らが筑波郡に侵入し勢を三手に分ける。
 〃    〃 小田の一族北條城主北條出雲守治高が佐竹方に加わりて内通する、佐竹勢は小田城を攻め、小田方の部將江戸山城守ら城を出て千田刑部少輔を迎へ撃って戰い千田摂津介を討取り之れを破って大島へ撃退し更に追撃し小田方の河合源五郎が佐竹方の部將千田刑部少輔を討取り座王山に撃退し、時に新治郡藤沢城主菅谷左ヱ門大夫摂津守政貞入道全久が大島に来て江戸山城守らと合流す。小田讃岐守氏治入道天菴、同彦太郎守治父子は小田城より脱出して新治郡一ノ矢の八坂神社の前に逃れた。佐竹方の車丹波守忠治は小田城を攻略し、車丹波守、千田備前守、佐竹彈正、北條治高等が小田城を乗取って入城し、車丹波守の部將、那珂郡瓜連館主坂口出羽守は小田の清凉院極楽寺を襲って火を放ちて焼打ちにし院主を焼き殺し寺を焼く。江戸山城守、菅谷左ヱ門大夫らは直ちに小田城を取り戻さんとしたが止む無く藤沢城に引き上げた、小田天菴は一ノ矢八坂神社前にて幕下の諸城に急使を送り参陣を求め、更に木田余城に入って軍の評定を開く。
 〃    〃 1月3日 小田天菴は木田余城に居城し軍の手配を成して再び軍議を開き、直鍋台に福田山城守、小野塚台に赤松三河守、虫掛館に中根主膳、神立台に塙山城守、坂田台に真家大成大夫、後陣の備へに木田余坂下に志筑左近大夫、木田余登城口に谷田部刑部らを配備して陣固に成す。
 〃    〃 1月4日 小田天菴は五千五百余騎の軍勢を五手に分け、一隊は江戸山城守、二隊は志筑左近將監、三隊は菅谷左ヱ門大夫、四隊は小田三郎兵ヱ尉、五隊は長峰左近將監と定む。
 〃    〃 1月5日 小田天菴は中條出羽守を大軍奉行として総軍を出陣させ、江戸山城守、志筑左近將監、菅谷左ヱ門大夫、小田三郎兵ヱ尉、福田山城守、長峰左近將監、原大学之介、月岡播摩守、平岡周防守、只越尾張守らが小田城の佐竹勢を攻めて包囲す。
 〃    〃 1月7日 筑波郡手子生(天児生)城主矢口主計介源兵ヱ伊重は江戸山城守と倶に奮戰して討死す。
 〃    〃 1月10日 小田方の長峰左近將監は小田城の南口門を攻めたが討死し、小田勢は小田城の総攻撃を開始したが間も無く中條出羽守の軍令に依て包囲を解きて太田口に移動す。
 〃    〃 1月11日 佐竹勢は秘かに小田城より退城し山口や平沢を通って撤退し久慈郡の太田に引き揚げる
 〃    〃 1月12日 小田勢は小田城を取り戻して木田余城の小田氏治入道天菴、同彦太郎守治父子は小田城に帰陣す。一説には、一月十七日、木田余の小田天菴が佐竹勢を退けて小田城を取り戻すとも有る。
 〃    〃 1月20日 久慈郡太田城主佐竹義重が下妻の多賀谷下総守政経、下館の水谷信濃守、片野の太田三楽らを集めて小田退治の軍評定を成す。
 〃    〃 1月20日 小田方の忍者の頭目小田切出雲之介頼昌が小田城に帰り佐竹勢の様子を報告す。早春、上野国の金山城主由良成繁は藤生紀伊守忠雄、物頭高橋丹波守秀胤らに命じて、荒戸の堰へ水所望の使者として桐生親綱の臣である堰守の所に遣わして、荒巻新藏と口論し水争動を起す。別記に、二月初旬、小田彦太郎守治は新治郡の木田余城に在住し諸將を集めて相議し、天寒く大雪の降る中を急に兵を率いて木田余城より出陣して小田城を襲撃し、菅谷左ヱ門尉、月岡大隅守、大藤、小幡等は小田城内に乱入して斬り巻り佐竹勢を破り、佐竹勢は城を棄てて敗走し、小田守治は遂に小田城を取り戻すとも有る。
 〃    〃 2月7日 太田城主佐竹義重は下妻城主多賀谷修理大夫政経に命じ、政経は筑波郡上大島城主平塚周防守を夜襲して討取り攻略す。
 〃    〃 2月7日 小田天菴の次子小田彦次郎重治が討死し、清滝観音別当清滝寺に葬り、法名を果泰院殿栄正宗道保大居士と号す。
 〃    〃 2月13日 佐竹義重が下野国の皆川領を攻めて宇都宮へ帰る。
 〃    〃 2月17日 武田信玄が徳川家康の属城三河国野田城を攻略して守將菅沼定盈を捕える。一説には、二月二十五日、小田天菴、同守治父子は勝ちに乗じて明け方に秘かに諸將を率へて急に新治郡に入り片野城主太田三楽斉を攻め其の閧の声は天地に震動す、城の太田三楽斉ら大いにあわて直ちに真壁郡真壁城主真壁安芸守入道道夢に急を告げ更に久慈郡太田城主佐竹義重に兵を乞う。依て佐竹義重は五十騎の精兵をいらびて片野に発向させ太田三楽斉に加勢し、太田三楽斉は片野城より出て戰い防戰に務め、小田方の先鋒岡見彈正義知は酒林の旗指物をひるがへし兵を励まして佐竹勢を斬り巻り奮戰して城内に追い込み、佐竹勢の首数十級を討取りしが、城兵はひるまず猶も出て突撃し小田勢と戰い、岡見義知は遂に力もつきて討取らる。
 〃    〃 佐竹方の真壁入道道夢は兵を率いて来り手匍匐(手葉井、手配、手這とも書く)山に至りて小田入道天菴、同彦太郎守治を迎い撃つ、天菴父子は急ぎに隊吾をととのい麾鼓を打ち鳴らして尚も進み、片野城の太田三楽斉は之れを見て城より打って出て小田勢の後方から攻め立てて小田勢を破り小田天菴の次子小田重治や曲長屯將等を討取り、小田天菴はわずかに数十騎に護られて小田城に夜中の闇にまぎれて帰る。
 〃    〃 2月26日 小田天菴は新治郡強清水上ノ館城主沼尻又五郎家忠に上大島城の奪回を命じ、沼尻家忠は五百騎を率へて山王台に裏手に出陣した。
 〃    〃 2月27日 沼尻家忠は筑波郡上大島城の多賀谷勢を攻め破って攻略し、多賀谷勢は下館方面に逃れ、沼尻が上大島郡を取り戻した。
 〃    〃 3月12日 上野国金山城主由良信濃守成繁が同国桐生城主桐生又次郎親綱征伐の兵を挙げる。
 〃    〃 3月下旬 筑波郡小田城主小田入道天菴、同彦太郎守治父子は自ら三千騎を率いて先ず真壁郡真壁城主真壁安芸守久幹入道暗夜軒道夢を討たんと新治郡に入り青柳山を越して小幡村に陣を取り居民を掠め盧舎を焚く。真壁久幹入道道夢、氏幹、義幹、広幹父子は兵を率いて来たり小田勢と戰いしが、其の先鋒坂本信濃守は戰いに利あらず敗北す、真壁氏幹と広幹兄弟は部下を励まして奮戰する所に小田彦太郎守治が攻め来たりて之れを切り崩し真壁勢は敗北す。小田勢は勝ちに乗じて遂に氏幹と広幹の兄弟を包囲し之れを討取らんとす。
 〃    〃 真壁道夢は之れを見て部下を悉して来たり自ら麾鼓を執って兵を指揮し小田勢に突撃して遂に氏幹と広幹兄弟を救い出し、兄弟は万死一生の命を得たり、真壁勢は尚も勇戰して戰い小田勢は遂に敗北す。此の時に新治郡の片野城主太田資正入道三楽斉道挙、柿岡城主梶原美濃守景国父子もまた真壁入道道夢に加勢し兵を合せて小田勢を攻め、且つ筑波郡北條城主北條出雲守治高も小田天菴を叛いて反し太田、真壁に力を合わす、太田三楽斉は軍を率いて手匍匐山に陣し小田天菴、守治父子は残兵を集結させ千三百余騎を率い手匍匐山に引き返し太田勢を攻める。
 〃    〃 太田三楽斉、梶原景国父子は手匍匐山の一方に在る古館に兵を籠らしむ。小田方の先鋒信田和泉守重成、菅谷左ヱ門尉範政等が小田彦太郎守治を護り鼓を打ち鳴らして争って進み、小田入道天菴も自ら麾旗を執って諸將を指揮し横合より太田勢を攻め、小田守治は太田勢の後方より攻めて大いに破り、太田三楽斉は敗北して古館の中に逃入る。
 〃    〃 真壁道夢、北條治高等は全軍を率いて小田勢を前後より逼り縦横に決戰してが早日も西にかたむきて夕方に成り行きければ小田天菴、守治父子は残兵を集めて其の夜は手匍匐坂に夜営を張りて屯し、夜の明けるのを待って太田三楽斉父子を討たんと謀る。
 〃    〃 3月25日 真壁入道道夢は小田天菴、守治父子が手匍匐山に夜陣すと聞きて北條治高と相議して夜の内に兵や馬を休め明け方に至りて小田勢を偽り兵を真壁に引揚げる真似をして急に筑波郡に侵入し小田城を襲い城内に乱入し、城兵らは大いにあわてて防戰に努めたが力及ばず皆討死す。下妻の陣代白井縫殿助善通も兵を率いて加勢に来て小田勢の退路を断ちて其の途中を遮ぎり、小田天菴は小田城に引き返す事成らず遂に退きて新治郡の藤沢城に入り、小田守治も木田余城に入りて太田三楽斉は小田城を攻略し其子梶原景国をして之れを守らしむ。また一説には、三月二十五日、佐竹方新治郡片野城主太田三楽斉、柿岡城主梶原美濃守景国父子が小田を滅ぼさんと軍の用意を成す、筑波郡小田城主小田天菴、守治父子は之れを討伐せんと信田和泉守重成に三百騎を添いて先陣と成し、天菴、守治父子は七百騎を率いて中陣と成り、菅谷左ヱ門尉正光に三百騎を添いて後陣と定め計千三百騎を率いて自ら出陣し手葉井山に陣を取り、太田三楽斉、梶原景国父子は手葉井山に押し寄せ、梶原の家臣鈴木半藏が小田方の河合源太郎を射殺したのを軍の始めとして戰い夕方に及びしかば小田の重臣信田和泉守重成が小田天菴に帰陣を勧めたが小田守治は之れを聞かずして手葉井山に夜陣を張る。
 〃    〃 北條出雲守治高、真壁入道道夢等が明け方に筑波郡の小田城に攻め寄せて之れを攻略す、小田天菴と守治父子は直ちに小田城へ引返し之れを取り戻さんとしたが菅谷左ヱ門尉正光の諌言に依て思い留まり、小田天菴は菅谷正光の居城新治郡の藤沢城に移り居住す。信田和泉守重成は掛馬治部左ヱ門、岩田彦六等と相議して小田天菴を叛いて新治郡の土浦城に籠城し小田天菴は之れを攻めんとしたが菅谷正光の諌言にて止む。佐竹方の太田三楽斉と真壁入道道夢は小田城を守り、梶原景国と北條治高等は藤沢城を攻めんと向う所に、藤沢城の小田天菴は小田彦太郎守治、由良判官憲綱、戸崎大膳亮長俊等をして斗利出台に於て之れを迎撃して破り尾高へ撃退したが、小田方の稲吉与十郎は佐竹方の海老島新左ヱ門を討取り、其の首を味方の長沢清兵ヱに盗まれて同志討ちを成す処に佐竹方の梶原北條の爲めに攻められて小田勢は敗北し藤沢城へ逃入る。小田方の小田氏治入道天菴は菅谷正光に藤沢城を守らせ自ら小田彦太郎守治、戸崎大膳亮長俊、由良判官憲綱らを率いて城外に出て北條治高、梶原景国らと戰って之れを破り小田へ撃退す。別記に曰く、三月二十五日、片野城主太田三楽、景国父子が佐竹に一味し故に、佐竹勢五十騎が片野城へ加勢す、此の事が小田へ聞へ小田天菴は片野を攻む、真壁城主真壁安芸守道無は梶原美濃守景国の縁者故に内通して後口切を頼む、依て真壁勢は後口より攻む、之れ故に手葉井山の合戰に小田天菴父子は利を失ひ、夜に入りて漸く小田へ帰城と云ひども籠城も叶ひ難く、木田余の城へ引き取りて土浦と藤沢の両城を持って度々戰う。
 〃    〃 3月25日 小田の所領、中館御所、北條城等が手葉井山合戰の時に攻略された。
 〃    〃 3月 上杉謙信が越中国に出陣す。

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