東国武将興亡録  1573年4月-1574年 戻る

1573年 天正1年 4月11日 太田三楽斉、梶原美濃守、北條出雲守、息犬太郎、真壁道夢等は石田主水、大島藏人らをして小田城を守らしめ藤沢を攻めんと発向し、藤沢城主小田天菴は小田彦太郎守治、菅谷左ヱ門、由良判官憲綱、戸崎大膳亮、行方刑部少輔貞久、海上主馬五郎武経等をして之れを田戸部川に於て迎へ撃ち北條犬太郎を討ち取って破り小田城へ撃退し、佐竹方の石島駿河守は小田方の糸賀甚助、大塚虎之介に襲はれたが惠略を用ひて虎口を脱した。常陸国真壁郡下妻城主多賀谷修理大夫政経は下総国豊田郡豊田城主豊田安芸守四郎治親を攻めんと発向し、常陸国筑波郡上郷の北方長峰台に砦を構えて豊田勢と戰い、豊田治親は新治郡藤沢城の小田天菴とは縁者なれば加勢を乞い、小田天菴は由良判官、戸崎大膳亮、行方刑部少輔、菅谷左ヱ門尉、沼尻又五郎等と相議し、野中瀬入道鈍斉、沼尻又五郎、岩崎勘解由左ヱ門、片岡七郎左ヱ門、星宮又右ヱ門、小造惣兵ヱ、天野弥大夫、沼崎播摩守の八人を物頭として加勢に遣わし、小田加勢軍は常陸国筑波郡上郷の南方金村台に陣を取る。長峰台の多賀谷政経は嫡子多賀谷犬次郎重経、染谷三河守、岡野半平実房らを金村台に遣わして小田勢と戰い、豊田城の豊田治親は飯見大膳、比企彦三郎らをして金村台に遣わし多賀谷勢を横合より攻め崩す。多賀谷政経は豊田城を攻めんとし、豊田治親も小貝川に出張して之れを迎へ撃って破り長峰台に追撃して吉沼へ追拂い、豊田城に引き揚げ、小田の加勢軍も藤沢に帰陣した。
  〃      〃 4月12日 甲斐国甲府城主武田晴信入道信玄が年五十三才にて、信濃国の駒場に於て死す。一説にわ、四月中旬、小田天菴が新治郡の小幡村に出陣して、太田資正、太田康資、梶原景国、真壁久幹、氏幹らと戰い、梶原景国に小田城を攻略され、天菴は藤沢に守治は木田余に逃入る。
  〃      〃 4月24日 上杉謙信が常陸国の小田守治に書状を送り織田信長や徳川家康らと倶に、武田信玄を滅し北條氏政を蹴倒そうと図る。
  〃      〃 4月 上杉謙信が越中国から越後国へ帰国す。
  〃      〃 7月 上杉謙信が越中国を平定す。
  〃      〃 7月 佐竹義重は新治郡の木田余城を攻め様と成して先ず宍倉城主菅谷隠岐守勝則を攻め破り、菅谷はは人質を差出して降服し攻略さる。
  〃      〃 7月 京都將軍足利義昭は織田信長討伐の兵を挙げ、織田信長は二條城に義昭を包囲し之れを降伏させて、河内郡の普賢寺に護送する。
  〃      〃 8月15日 小田天菴は藤沢城に居城し居れども狭隘にして籠城する事難儀なり、故に居を土浦城に還さんと沼尻又五郎家忠をして土浦城に遣わし信田和泉守重成に小田天菴が之れに移るにより草々に明け渡す可きの旨を命じたれとも、重成は其の命にさからへて当城は先祖よりの城なればたとひ主君の命にても引渡す事は成らずと答ふ、依て沼尻は其の旨を天菴に告ぐるに天菴は大いに怒り菅谷左ヱ門尉範政(正光)に信田退治を命ず、菅谷正光は月見に事を寄せ、手賀館主手賀弥四郎左ヱ門尉の不在なるを見計って土浦城主信田和泉守重成を手賀郷の中根主膳の邸に誘ひ出して毒殺し、菅谷正光、沼尻家忠等が力を合わせ信田家の家臣掛馬城主掛馬治郡左ヱ門、岩田城主岩田彦六らを討取って土浦城を攻略し、菅谷正光が土浦城に入城して籠城す。
  〃      〃 8月25日 佐竹義重は小田方の属城である新治郡の戸崎城主戸崎大膳亮長俊を攻め破って降伏させ攻略す。
  〃      〃 8月 上杉謙信が加賀国の朝日山を攻略して越後国に帰国す。
  〃      〃 9月8日 佐竹義重が東館に出陣し下野国に向う。
  〃      〃 9月30日 佐竹方の太田三楽斉、梶原美濃守らは藤沢城主小田天菴、同守治父子を攻め、北條出雲守、真壁道夢らは土浦城主菅谷正光を攻め、小田彦太郎守治、由良判官憲綱、戸崎大膳亮長俊、行方刑部少輔貞久、海上主馬五郎武経、小貝川越中守輝賢らが藤沢の城外に於て太田三楽斉や梶原景国を迎へ撃って勇戰したが小美川越中守輝賢が討死し、小田方の河合弥五郎は佐竹方の鈴木半藏を射殺して兄源五郎の仇を討つ。
  〃      〃 9月 上杉謙信が越中国に出陣す。
  〃      〃 10月11日 佐竹義重は下野国壬生城主壬生綱雄を攻める。
  〃      〃 10月20日 小田彦太郎守治は藤沢城外の太田三楽斉、梶原美濃守らの陣営を夜討して破り小田城へ撃退し、土浦城では菅谷左ヱ門尉、加茂兵藏、沼尻又五郎、片岡七郎左ヱ門、沼崎播摩らが城門を開いて斬って出て城外に於て北條出雲守、真壁道夢らと戰って之れを破り苅間郷迄追撃し土浦城に帰る。太田三楽斉、梶原美濃守、真壁道夢、北條出雲守らは藤沢、土浦の戰いに敗北し小田、北條の両城に楯籠り、久慈郡太田城主佐竹義重に後詰めの加勢を請う。藤沢城の小田氏治入道天菴は土浦城に入替って移り、由良判官憲綱、戸崎大膳亮長俊らを藤沢城に遣わして之れを出張として守らしめ、小田彦太郎守治をして小田攻めに向わしめ、菅谷左ヱ門尉正光をして北條攻めに向わしむ小田守治は小田の川を隔て陣を取り梶原景国、真壁道夢らと小田川に於て戰い、菅谷正光は君島川に於て北條治高と戰って之れを破り北條城に追込んで攻め寄せたるが、時に太田城主佐竹義重の命にて其の一族額田四郎義房、塩井内膳信利(渋井内膳とに云ふ)等が後詰加勢として来り、額田義房は小田山峠の宝鏡山の北へ打上り、塩井信利は十三塚より東山を越して直ちに北條城に加わり、小田守治と菅谷正光は一ノ矢に退きて一手と成り土浦へ帰陣す。別記に、十月、佐竹勢が新治郡の藤沢城を攻略し小田天菴、守治父子は最後の牙城土浦城に走る。
  〃      〃 10月28日 佐竹義重は余勢を以て小田方の新治郡小高館主小月輝正、永井館主前野七郎大夫、本郷館主井坂右近將監などを攻め破って攻略し一週して大志戸の甲山城主小神野越前守経憲を攻めて包囲し、小神野経憲父子は小勢を以て良く防戰に努めたが力と頼む濱野隼人、濱野太郎次郎父子を始め多くの部下が討死し、経憲は止む無く甲山城を放棄して土浦城に脱出し甲山城は攻略された。
  〃      〃 11月初旬 北條氏政、氏照兄弟が下総国葛飾郡関宿城主簗田政信、綱政父子を攻め、佐竹義重は武藏国の羽生に出陣し北條氏邦や北條氏規らと戰ったが敗北す。上杉謙信が関東に入り、上野国の新田、金山、猿窪などの諸城を攻略する。
  〃      〃 11月19日 佐竹方の額田四郎義房、塩井内膳信行、太田資正入道三楽斉道誉、梶原美濃守景国、北條出雲守治高、真壁久幹入道暗夜軒道夢等が一手と成って新治郡の藤沢城を攻め、由良判官憲綱、戸崎大膳亮長俊、平手伊賀守、足高加賀守、志筑左近、横山彈正、岩崎勘解由、甲崎四郎左ヱ門ら之れを迎い撃って防戰し、足高加賀守、甲崎四郎左ヱ門、横山彈正、岩崎勘解由らが討死し、平手伊賀守は谷田部城に逃れ、志筑左近は志筑城に落ち行き、由良判官憲綱、戸崎大膳亮長俊らは生死が知れず遂に敗北して藤沢城は攻略された。土浦城主小田天菴が防戰の手分を成し、行方刑部少輔貞久、海上主馬五郎武経をして大手を、由良信濃守成繁、岡見中務少輔宗治をして搦手を、江戸崎監物、寺島掃部、片岡七郎左ヱ門、里宮又右ヱ門、中野平藏らをして南ノ手を海上に舟を以て固め、菅谷左ヱ門尉正光、中野瀬鈍斉入道、沼尻又五郎家忠、天野、中村、小野、小造、木村、沼崎、吉原らをして北ノ手を固め残る者は本城を堅む。
  〃      〃 11月23日 小田方の部將行方刑部少輔貞久が病気に懸る。
  〃      〃 11月24日 常陸国行方郡行方二十四城の領主行方貞久が年二十九才にして土浦城内に於て死亡す。
  〃      〃 佐竹方の額田四郎義房、塩井信利、梶原景国らが土浦城の大手を攻め、海上主馬五郎武経が城を出て奮戰し、太田三楽斉、北條出雲守、真壁入道道夢らは搦手を攻め、小田彦太郎守治、由良信濃守、岡見中務少輔ら之れを迎い撃ちて戰う。別記に、十一月二十五日、小田天菴が新治郡の片野峠に押し寄せ、片野城主太田三楽斉を攻めたが敗北して、小田城は太田三楽斉の爲めに攻略され、天菴は土浦城に退くと有り。また一説に、十一月二十六日、行方城主行方刑部少輔貞久が土浦城内に於て病死す。佐竹勢は一手と成り土浦城を攻めて包囲す。
  〃      〃 11月 上杉謙信が関東に入り上野国の新田、金山、猿窪の諸城を攻略す。
  〃      〃 11月 東茨城郡石塚城主石塚土佐守は大山因幡守の所望したる娘を那珂郡小場城主小場三河守へ娶わせる。
  〃      〃 12月5日 北條氏政が下総国葛飾郡関宿城主簗田晴助を攻めて包囲し、上杉謙信、佐竹義重、宇都宮廣綱の加勢軍と戰う。
  〃      〃 12月 上杉謙信が関東より越後国に帰国す。
  〃      〃 下総国関宿城主簗田中務大輔政信が北條氏政に叛き、氏政は自ら兵を率いて関宿城を攻め小田喜太郎友治も之れに参陣し軍の務有り、佐竹義重は軍を出して簗田を援けて戰ったが敗北して敗走し簗田政信は城より出て北條氏政に降伏す、?。
  〃      〃 下野国益子城主益子重綱は西茨城郡岩瀬村に富谷城を築き加藤大隅守に守らしむ。
  〃      〃 常陸国新治郡木田余城主菅谷隠岐守、同左ヱ門ら倶に佐竹に攻められて防戰す。
  〃      〃 太田十郎氏房は佐竹氏の加勢を得て筑波郡小田城主梶原景国を攻め破り攻略す。
  〃      〃 那珂郡東海村の真崎城主真崎彦三郎義保は佐竹義重に從って下野国の南摩に於て戰い討死し、其の弟真崎彦四郎義宗は其の場に於て兄の仇敵を討取って佐竹義重より威状を賜はり雲井之助の名を賜わり兄義保の嗣と成り真崎城主と成る。
  〃      〃 笠間佐白山城主笠間幹綱は岩瀬五城の橋本城に谷中玄蕃允、同孫八郎父子を配し、下野国益子筑後守重綱入道睡虎斉は岩瀬の富谷城に加藤大隅守、同大藏少輔を籠らしめて両者は争い、益子重綱は田野、山本、岩瀬、富谷なと約五千余石を与へて結城晴朝に援軍を要請し、結城晴朝は騎馬二百、雑兵三百を富谷の援兵に差し向け加藤大隅守父子は富谷城を結城勢に明け渡して岩瀬砦に移る。
  〃      〃 小田天菴は片野城を攻めたが敗北し小田に帰陣し新治郡の木田余、土浦、藤沢などに籠城す。
  〃      〃 上杉謙信が信濃国の北部を恢復し村上義清を之れに戻した。
1574年 天正2年 1月 常陸国久慈郡佐竹義重が土浦出陣中の諸將に小田退治の延引は如何なる事かを飛脚にて問正す。
  〃      〃 1月7日 佐竹義重は部將車丹波守忠次をして土浦城攻めの後詰加勢として向わしむ。
  〃      〃 1月10日 車丹波守忠次が土浦に着陣し寄手に加わり、佐竹勢は土浦城を攻め小田守治、海上玄蕃五郎武経ら塩井内膳信利と戰い、菅谷、行方、由良、岡見、野中瀬らも一方を切り抜けて土浦城に引き取り、南ノ手の江戸崎監物は心替りをして額田四郎義房の陣に来て降伏し寄手に加わり、土浦城の兵士ら次々に城より立ち退く者が多し。大手の海上主馬五郎武経、行方幸菊丸ら額田義房、梶原景国、北條治高らの陣に切り込んで討死す。
  〃      〃 2月6日 佐竹義重が陸奥国白河城主白河義親の属城である棚倉の赤館城を攻める。
  〃      〃 2月27日 佐竹勢が土浦城の総攻撃を開始し、野中瀬備後守氏兼入道鈍斉は小田讃岐守氏治入道天菴に替り、沼尻播摩守は小田彦太郎守治の身変りと成って土浦城に留まりて防戰し、天菴、守治父子は城より脱出して秘かに遁れ片岡治部左ヱ門の中館城に落ち行き、野中瀬鈍斉、沼尻播摩守らは土浦城に火を放ち腹を切って自害し、菅谷左ヱ門尉正光、由良信濃守成繁、岡見中務少輔宗治、沼尻又五郎家忠、片岡、中野、中村、小野、小造、星宮、雨宮、天野、吉原、木村、石堂等の十六騎は佐竹勢に斬り込みて生死知れずと成り、遂に土浦城は攻略さる。小田天菴と守治父子は金田中館城に隠れ居たが間も無く中館を出て陸奥国白河城主白河義親を頼りて落ち行き、彦太郎は下総国結城城主結城晴朝を頼り行く、或は曰く小田天菴父子は河内郡の牛久に落行くと。時に下妻城主多賀谷修理大夫政経は小田氏の敗北に乗じて下総国の豊田城主豊田安芸守四郎治親を攻略せんと、嫡子多賀谷佐近大夫重経、多賀谷勘解由大夫経家、染谷三河守、白井善通、渡辺道鉄、粟飯原加賀守、宇名野玄蕃、中島豊前守、広野、平石、森、海老原等を率へて発向し、豊田治親は之れを豊田城の北方なる椎木の北、蛇沼に於て迎へ撃って戰い多賀谷勢を破って撃退し、多賀谷政経は多賀谷勘解由大夫経家の諌言に依って豊田治親に和談を申し込み、多賀谷、豊田の両將は互いに誓書を交換して和睦する。
  〃      〃 2月 上杉謙信が上野国の沼田城に入る。
  〃      〃 2月 多賀谷政経が筑波郡の手子丸城を攻略す。
  〃      〃 3月 織田信長が上杉謙信に屏風を贈る。
  〃      〃 4月2日 本願寺が兵を挙げる。
  〃      〃 4月 上杉謙信が利根川に於て北條氏政と対陣す。
  〃      〃 5月25日 上杉謙信が上野国に於て金山城主由良国繁らと戰う。
  〃      〃 5月 上杉謙信が関東より越後国に帰国する。
  〃      〃 6月 上総国久留里城主里見義尭が年六十三才にして死亡し、義弘が継ぐ。
  〃      〃 7月27日 北條氏政は下総国の関宿城主簗田晴助を攻め、弟の北條氏照をして関宿の該城を攻めさせる。
  〃      〃 8月25日 佐竹義重は常陸国の小田氏治の属城である新治郡の宍倉城主菅谷隠岐守勝則や戸崎城主戸崎大膳亮長俊らを攻める。
  〃      〃 9月7日 佐竹義重が再び陸奥国の赤館城を攻める。
  〃      〃 9月 上杉謙信がまた関東に入った。
  〃      〃 9月23日 多賀谷政経が下総国岡田郡の花島に於て小田原の北條勢と戰い、大生郷城を夜討して火を放ち北條左ヱ門佐氏尭を破って撃退し、猿島郡の弓田城主染谷民部を攻略して降伏させる。
  〃      〃 9月 出羽国米沢城主伊達氏の先鋒長尾越前守が陸奥国岩城平城主岩城氏の支城、久慈郡○初の高貫城主富岡十郎を攻めて包囲し、多珂郡南中郷の石岡城主大塚大藏成瞬極楽寺春慶法印空岸は同郡松岡村手綱の竜子山城主大塚隆成(別名通成)の代將として同郡華川の車城主車兵部大夫義秀、山小屋城主白土長門守、湯綱城主大高新左ヱ門らの三千余騎と倶に高貫城の救援に赴き計略を以て敵將の長尾越前守に迫り遂に之れを破りて撃退し、十五日間対陣して伊達軍の先鋒を破り一千百の首を取り敵將長尾越前守は重傷を得て退き、岩城氏は大塚空岸に永楽銭二百貫の恩賞を賜はる。
  〃      〃 11月 佐竹義重が陸奥国白川城主白河上野介義親と和睦す。
  〃      〃 11月 佐竹義重は下野国の小山に出陣し、上杉輝虎入道謙信と会見した。
  〃      〃 11月19日 佐竹義重は上杉謙信を叛き北條氏政と講和し、上杉謙信は怒りて軍勢を率い上野国の厩橋城へ退いたので、下総国葛飾郡関宿城主簗田中務大輔政信、同晴助父子は力及ばず遂に北條氏政に降伏して関宿城を放棄し、関宿と古河の中間なる水海城に移り、佐竹義重は北條氏政に関宿城を明け渡して和睦す。
  〃      〃 11月19日 上杉謙信が関東より越後国に帰国す。
  〃      〃 12月16日 簗田晴助が北條氏政に関宿城を明け渡して水海城に去る。
  〃      〃 12月19日 上杉謙信が剃髪して法印大和尚に任ず。
  〃      〃 下総国関宿城主簗田中務大夫が小田原の北條氏政を叛き北條氏政が出馬して関宿城を攻め、佐竹義重は後詰として出陣したがかなわず引き退き、氏政は簗田を降して関宿城を攻略す、是れ十一月十九日の事なり。
  〃      〃 北條氏政は伊勢備中守に命じて下総国猿島郡の湯田村(今の弓田)に砦を築かしむ。
  〃      〃 小田方の部將菅谷左ヱ門尉範政が佐竹義重に降参し常陸国新治郡の土浦城を授かりて城主と成る。別記には、菅谷左ヱ門尉正光は河内郡牛久城主岡見治部大輔頼房を頼って身を寄せたとも有る。小田方の江戸崎監物は裏切って佐竹方に寝返り、小田氏を土浦に滅して南下し、木原城主近藤氏を攻略して滅す。
  〃      〃 12月  菅谷左ヱ門尉正光は牛久城主岡見治部大輔頼房、江戸崎の諸岡逸羽、板橋の月岡大学、江戸崎城主土岐伊予守等の加勢を得て牛久より出陣し、土浦城を攻め破って再び之れを取り戻して居住す。
  〃      〃 小田天菴の長子小田喜太郎友治は相模国に在住し、関東公方足利義氏を通じて小田原城主北條氏政に父天菴を救われん事を請い、足利義氏、北條氏政ら友治の孝志なるを厚く憐みて其の願いを聞とどけ、次男北條十郎氏房をして常陸国に遣わす、北條氏房は先ず新治郡土浦城主菅谷左ヱ門尉範政を攻める、範政は佐竹に降参したれども素より義を守り今も尚お志は小田家に通じて居れば手向かわずして直ちに北條氏房に降伏す、北條氏政は更に大道寺駿河守政繁、山角紀伊守等を派遣して佐竹義重と戰わしめ筑波郡小田城主梶原景国を襲い民人を掠め廬舎を焚く、小田天菴は此の勢ひに乗じて秘かに諸將に加勢を乞いしかば、千葉、相馬、江戸等が兵を率いて馳せ集り天菴に参陣す、小田天菴は旧臣らを呼び集めて常陸国に発向し先ず筑波郡の手子生城の遺領を回復して之れに居住し、旧將や老卒に至る迄皆兵を挙げて天菴に応じ、飯塚美濃守は木田余城を、菅谷左ヱ門尉は土浦城を、平塚弥四郎は海老島城を夫々守り、軍師天羽三河守源鉄が惟中謀り事を廻らして佐竹勢と戰い、江戸山城守、大藤小太郎等は屡々戰功を顯はし、太田三楽斉、梶原景国らと白子谷、小張、手匍匐坂などに於て戰う事屡々なり。
  〃      〃 佐竹義重と信太郡江戸崎城主土岐伊予守らは行方城主行方兵部を攻めて降参させ攻略す。
  〃      〃 豊田治親が豊田村椎木の蛇沼觀音堂を再建す。
  〃      〃 徳川家康とお方の方との間に次男の於義丸秀康が生れる。

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