東国武将興亡録  1575年-1578年 戻る

1575年 天正3年 1月11日 上杉謙信が養子の景勝に加冦す。
 〃    〃 2月 佐竹義重が陸奥国白河城主白河義親を攻めて降服させ白河城を入手す。
 〃    〃 2月 上杉謙信が連歌会を催す。
 〃    〃 3月 久慈郡世谷村丹奈城主小野丹波守が死亡し、法名を大獄智公居士と号す。一説に、三月、佐竹義重が小田天菴の属城新治郡の小田、藤沢の両城を攻略すと有り?。
 〃    〃 4月 上杉謙信は多聞天(毘沙門)に願文をかゝげて北條氏政が弟の三郎景虎 や家来遠山父子らを見捨て、亡父氏康の遺言を守らずして人道にはずれし人物として其の罪を数いあげて北條氏の撃減を祈る。
 〃    〃 5月21日 織田信長が三河国の長篠に於て武田伊那四郎勝頼を攻めて包囲す。
 〃    〃 8月3日 武藏国滝山城主北條陸奥守氏照、同国鉢形城主北條左ヱ門佐氏邦らが常陸国に侵入し、足高城主岡見中務少輔宗治、牛久城主岡見治部少輔頼房、岩崎城主只越尾張守、板橋城主月岡玄蕃亮、小張城主只越全久入道尊円らを内通させ、之れらを率いて筑波郡の谷田部城主多賀谷淡路守政伯を攻め破って攻略し政伯(或は経伯とも有り)を討取りしが、多賀谷重経が小田原勢の背後より攻めて谷田部城を取り戻し回復した。
 〃    〃 8月 常陸国多珂郡小場城主小場三河守に男子が生れ、其の祝いに大山家の家老小田部孫九郎義照が小場家に到着すると其の子が急死し、小場、大山両家は互ひに威情的にもつれて不和と成り、東茨城郡阿波山大山城主大山義景は小場三河守、石塚土佐守らの連合軍と桂村北方の頓ヶ原に於て戰い之れを破る。主君佐竹義重は私恨によって軍器を用ひ国内を騒がせたる罪は軽からずとして、小場、石塚の両家へは戸村重大夫義則を、大山家へは長倉遠江守が使者として赴き、其の命令の結果大山家は行方郡麻生の小高城に国替いと成った。
 〃    〃 9月2日 常陸国新治郡土浦城主菅谷摂津守勝貞が年八十三才にして死亡し、土浦の神龍寺に葬り、法名を法全院殿喜翁宗悦大居士と号す。
 〃    〃 11月21日 織田信長が常陸国の佐竹義重に好しみを通ず。
 〃    〃 北條氏政が下野国下都賀郡小山祇園城主小山彈正少弼秀綱を攻め破って攻略し、秀綱は佐竹義重を頼って東茨城郡西郷村古内の清音寺に寄寓する。
 〃    〃 国府台戰記の奥書が成る。
 〃    〃 筑波郡手子丸城主矢口左近修理重康、同右近玄蕃重利兄弟が筑波郡の金村台に於て多賀谷政経と戰って討死す。
 〃    〃 佐竹義重が陸奥国白河城主結城左ヱ門義親を攻略し、新たに出羽国米沢城主伊達右京大夫政宗と対立し、結城晴朝も漸く北條氏政と離れんとする傾向があった。
1576年 天正4年 1月 多賀谷政経が下総国岡田郡飯沼村古間木城主渡辺周防守勝重を攻め破って攻略す。政経は更に水海道城主田村彈正左ヱ門を攻め破って攻略し之れを降参させる。
 〃    〃 2月 上杉謙信が織田信長と絶つ。
 〃    〃 3月 上杉謙信が越中国に出陣する。
 〃    〃 太田三楽斉、梶原景国らが真壁郡真壁城主真壁久幹入道暗夜軒道夢を攻め破って攻略し、之れを天目山に落去させる。
 〃    〃 5月8日 常陸国真壁郡下妻城主多賀谷下総守修理大夫政経が死亡し、其の子重経が継ぐ。
 〃    〃 5月 上杉謙信が一向一揆と和す。
 〃    〃 6月10日 佐竹義重が從五位下に叙して常陸介に任ず。
 〃    〃 6月11日 上杉謙信は京都の將軍足利義昭の請ひにより、来秋上洛するの意を告げる。
 〃    〃 6月 北條氏政が常陸国下妻城主多賀谷重経を攻め、佐竹義重は多賀谷に加勢し筑波郡の高道祖原に於て小田原勢と戰い之れを破る。一説にわ、佐竹義重が高道祖原に於て小山の高井豊前守と合戰すと有る。
 〃    〃 6月 上杉謙信は將軍足利義昭の策に応じて足利輝元と内通して織田信長の挾撃を約す。
 〃    〃 8月27日 佐竹義重は陸奥国会津城主葦名盛氏を長沼や太里に攻める。
 〃    〃 9月8日 上杉謙信が越中国に入り栂尾、増山の二城を攻略して降伏さす。
 〃    〃 10月 北條家の外即文書が成る。
 〃    〃 10月29日 下妻城主多賀谷政経が大生郷天神宮を焼失す。?
 〃    〃 11月 多賀谷重経が筑波郡小田城主梶原美濃守景国を攻めて下妻に帰陣す。
 〃    〃 上杉謙信が能登国の七尾城を攻める。
 〃    〃 下総国結城城主結城晴朝が常陸国太田城主佐竹義重との同盟が成立す。
1577年 天正5年 1月22日 北條氏政の妹が甲斐国甲府城主武田勝頼に嫁す。
 〃    〃 3月 上杉謙信が能登国より越後国に帰国す。
 〃    〃 4月1日 毛利輝元が上杉謙信に西上を促す。
 〃    〃 4月上旬 北條氏政が上総国の三船表に於て里見義弘と戰ったが敗北し、間も無く両家の和平が成り、北條氏政は上総国の陣を拂って帰国の途中、常陸国筑波郡小田城主梶原美濃守景国を攻める。別記に、北條氏政は上総国の里見氏を討った時に、部將の大道寺駿河守政繁、山角紀伊守に命じて小田城の梶原美濃守景国を攻めたが、城の守りは固くして抜けず、且つ佐竹義重、多賀谷重経、真壁氏幹らが後詰をすると聞きて筑波辺りに放火して引き払い、筑波の知足院などが焼失す。梶原景国が北條氏政、氏直の軍勢を撃退す。
 〃    〃 5月 北條氏政は安房国館山城主里見兵庫頭義弘と講和し、氏政の娘が里見義頼に嫁したが之れも一時の小康で両者が融和した事はなかった。
 〃    〃 6月 北條氏政の兵が里見義弘の兵と戰ったが間もなく和睦した。
 〃    〃 6月 下妻城主多賀谷政経と小田原城主北條氏政が確執起り、小田原軍の前ヱが相馬郡の筒戸に隣接するを以て、水海道の地は混戰の巷と成り水海道城主田村彈正左ヱ門尉は小貝川に於て討死し、次いて多賀谷政経も大敗を成し身を以て免るゝに及び、田村氏の從類は離散し水海道城も遂に廃す。
 〃    〃 7月5日 北條氏政は下総国結城城主結城中務大輔晴朝を攻め破って降伏せしめ之れを攻略す。
 〃    〃 7月 下妻城主多賀谷重経の重臣高道祖城主白井縫殿助善通が筑波郡上郷の南方に在る豊田氏の鎭守金村雷大明神に参詣し豊田城主豊田治親の家老飯見大膳と出合い飯見の宅に招かれて飯見の娘と縁組を約し秘かに豊田治親を殺害して之れに代らん事を企てる。
 〃    〃 7月20日 飯見大膳は鶴料理に事を寄せ、主君下総国豊田城主豊田安芸守四郎治親(初名政高)を自宅に招き、酒宴の最中之れを殺害して多賀谷重経に降参したが重経は之れを許さず、主殺しの罪人として捕え縛首に処刑し、多賀谷重経は豊田、石毛の両城を攻略して豊田氏は赤須將基より二十代にして滅亡す。多賀谷重経は嫡子左近將監大夫三経をして豊田城を守らしめ城主と成す。
 〃    〃 上杉謙信の仲裁にて佐竹義重が葦名盛氏と和睦を成す。
 〃    〃 7月 北條氏政は安房国の里見義弘に和睦の印として蚫を贈る。
 〃    〃 7月 上杉謙信が越中国に出陣した。
 〃    〃 8月 上杉謙信が能登国に進出す。
 〃    〃 9月15日 上杉謙信が七尾城を攻略する。
 〃    〃 9月17日 上杉謙信が湊川に於て織田信長を破る。
 〃    〃 9月 北條氏政が下総国結城城主結城晴朝を攻め、佐竹義重は結城を救援する爲めに下野国の小山に出陣し下野国に於て北條氏政と戰う。
 〃    〃 下妻の多賀谷重経と下館の水谷氏が黒子原に遊猟して諍論し合戰する。
 〃    〃 12月 上杉謙信が越後国に帰陣する。
 〃    〃 小田天菴が常陸国筑波郡手子生城を取り戻して之れに入城し、飯塚美濃守に木田余城を、菅谷左ヱ門尉に土浦城を、平塚弥四郎に海老ヶ島城を守らしめ天羽三河守入道源鉄を軍師として白子谷、小張、手這山などに於て佐竹勢や太田三楽斉と戰い、江戸山城守、大藤小太郎らが屡々戰功ありて失地を回復す。
 〃    〃 下妻城主多賀谷重経が織田信長に常陸黒の名馬一疋と太刀一振を献上し、織田信長は黄金二十枚、呉服三ツを重経に返礼す。
 〃    〃 那珂郡勝田村勝倉城主勝倉四郎俊幹は同郡村松村石神城の石神氏と額田城主額田四郎義房に連合軍して戰い額田義房に敗北し、石神城主石神越前守通長、久慈郡世谷村丹奈城主小野小三郎高長らは共に討死す。?。
 〃    〃 劍客上泉伊勢守信綱が死亡す。
1578年 天正6年 1月19日 越後国春日山城主上杉謙信は下総国の結城晴朝の要請に応じて関東出陣令を諸將に觸れ、相模国小田原城主北條氏政を討伐せんと大軍を召集し着々と動員令を発して進軍の準備に懸かる。
 〃    〃 2月 上杉謙信が寿像を描かせ辞世を作る。
 〃    〃 3月9日 越後国直江津春日山城主上杉彈正少弼輝虎入道謙信が年四十九才にして脳溢血で倒れ病床にふす。
 〃    〃 3月13日 上杉謙信が死亡す。
 〃    〃 3月15日 上杉謙信の葬儀を行う。
 〃    〃 4月18日 佐竹義重が下野国壬生城主壬生義雄を攻め北條氏政と対戰す。
 〃    〃 4月 北條氏政が佐竹義重と和睦する。
 〃    〃 5月3日 豊田將基の祈願所である下総国豊田郡豊田村の龍心寺に、豊田四郎安芸守治親が死亡し。法名を靈光院殿心月智円大居士と稱すと有り。
 〃    〃 5月4日 上総国浦田城主里見兵庫頭義弘が隠居し、義頼が継ぎ安房国の館山城に居住す。
 〃    〃 5月13日 越後国の上杉景勝が上杉景虎と家督相続の論争を起す。
 〃    〃 5月20日 上総国浦田城主里見義弘が死亡し、弟の義頼が家督を継ぐ。
 〃    〃 6月 洛北の月航禪師が新治郡栗原村の北斗寺に於て小田天菴の爲めに一文を作る。
 〃    〃 7月 筑波郡小田城主梶原美濃守景国は新治郡木田余城主小田讃岐守氏治入道天菴を攻め城に火を放って攻略し、小田天菴は土浦城主菅谷左ヱ門大夫範政の許に逃走する。土浦城主菅谷範政は直ちに木田余城を攻めて梶原景国を追い拂って城を取り戻したが、佐竹義重は再び兵を発して木田余城を攻略した。また一説には、小田天菴は太田三楽斉の爲めに攻められ小田城を出て新治郡の藤沢城に籠り、後に小田城を復して之れに帰住し菅谷正光が小田城に居住す。
 〃    〃 7月 武藏国滝山城主北條陸奥守氏照が下野国の支配責任者と成る。
 〃    〃 7月21日 常陸大掾原図豊田治親の註記に、多賀谷修理大夫重経の家来白井善通と豊田治親の家老飯見大膳と興して豊田城主豊田安芸守治親を討取って飯見は多賀谷重経に降る、重経は後に飯見を亡ぼすと有り。東国闘戰見聞私記の石毛興正寺并に大房東弘寺由来の條に豊田、石毛は天正六年より慶長六年二月十七日迄二十四年間下妻多賀谷領と有る。多賀谷重経の叔父多賀谷経明が石毛城に、重経の嫡子多賀谷左近大夫將監三経が豊田城に入城して城主と成り、石毛東興寺の住僧豊田忠円も多賀谷重経と和睦して大房に移され石毛次郎政重の遺児正家を授けらる。石毛、豊田の遺臣等が多賀谷重経より飯見大膳と其の一族を請ひ受けて、之れを主殺しの罪人として上郷の東方なる重ヶ下に於て○引きの刑に処す。
 〃    〃 9月 下野、常陸両国の諸士らが小田原の北條氏政を叛き、常陸国の佐竹義重に属した爲めに、北條氏政は出陣して佐竹義重らと戰う。
 〃    〃 9月24日 甲斐国の武田勝頼が上杉景虎を援ける爲めに越後国の侵入し、逆に上杉景勝と和睦する
 〃    〃 上総国大多喜城主正木大膳亮憲時が宗家である里見家に対し叛乱を起す。
 〃    〃 多賀谷重経が下総国飯沼村古間木城主渡辺周防守勝重を討取って攻略し、 渡辺播摩は勇戰し囲みを潰して逃匿し、後に薙髪して向石毛城址に一字を建立し、父祖関館武藏守の菩堤を弔へ、今の岩舟山法輪寺が是れなり。
 〃    〃 多賀谷重経が岡田郡菅原村大生郷城主江戸宮内を攻め破って攻略し廃城 と成す。
 〃    〃 多賀谷重経は岡田郡豊岡村横曽根坂巻城主羽生大和守氏貞の養子結城彦八郎を攻略し、彦八郎は筑波郡の小田に走る。
 〃    〃 下妻城主多賀谷重経の嫡女が太田城主佐竹義重の嫡子義宣へ嫁して二女は佐竹宣家に嫁す。同国、武藏国多摩郡滝山城主北條陸奥守氏照が八王寺に居城を移す。
 〃    〃 甲陽軍艦の著者高坂彈正昌信が死亡す。
 〃    〃 小田原方の部將北條氏繁が死亡す。高坂昌信は信濃国海津城主にして甲軍の部將なり、北條氏繁とは北條氏綱の養子で福島正成の子北條綱成の嫡子なる可し。

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