東国武将興亡録  1579年-1584年 戻る

1579年 天正7年 3月4日 下総国公津城主千葉胤富が同国印旛郡佐倉城主千葉介親胤を殺して佐倉城に移り千葉宗家を継ぐ。一説には、下総国佐倉城主千葉介胤富が死亡すと有り?。
 〃    〃 3月17日 上杉景勝が春日山の東方なる御館城主上杉憲政、上杉三郎景虎、嫡子道満丸らを攻め破り、憲政と道満丸らを討取って攻略し上杉景虎は近くの頸城郡鮫尾城に逃れたが景勝は夫れを追撃する。
 〃    〃 3月24日 上杉景勝は鮫尾城に上杉三郎景虎を攻め破って攻略し、景虎は自害す時に年二十八才なり。
 〃    〃 4月 下妻城主多賀谷修理大夫重経は多賀谷勘解由大夫経家と倶に常陸国筑波郡水守城を攻略して小田城を攻めんとし山木に於て梶原美濃守景国と戰ったが敗北する。
 〃    〃 6月15日 多賀谷重経は平沼龍嵜普門寺を新地脊上ヶ原の砂沼辺りに移して、沿音山普門寺と号す
 〃    〃 9月5日 甲斐国の武田勝頼が相模国の北條氏政と手切れと成り、北條氏政は遠江国の徳川家康と和して武田勝頼の狭撃を計る。
 〃    〃 9月23日 甲斐国の武田勝頼が駿河国の黄瀬川に於て相模国の北條氏政と対陣する。
 〃    〃 9月 北條氏政が伊豆国駿東郡清水の戸倉に於て武田勝頼と戰う。
1580年 天正8年 3月15日 小田原の水軍が駿河湾の重須沖に於て武田の水軍と海戰する。
 〃    〃 3月 武藏国の八王子城主北條陸奥守氏照、鉢形城主北條左ヱ門佐氏邦らが常陸国の小田方の部將である岡見、岩崎、只越、板橋の月岡、小張の只越治郎入道全久らの内通により、筑波郡の谷田部城主多賀谷淡路守政伯を攻め破って討取り攻略したが、下妻勢の多賀谷彦次郎重康、同信濃守政顯らが小田原勢を逆襲して再び之れを攻略して取り戻した。
 〃    〃 3月 北條氏政は駿河国の浮島ヶ原に於て武田勝頼と対戰する。
 〃    〃 3月 多賀谷重経は渡辺越前守道鉄をして筑波郡の谷田部城の城代として入れ置く。
 〃    〃 4月上旬 多賀谷重経は筑波郡大穂村の篠崎に於て梶原景国と戰ったが敗北して下妻に帰陣す。
 〃    〃 8月7日 下野国河内郡宇都宮城主宇都宮廣綱が年三十六才にして死亡し、其の子国綱が継ぐ。
 〃    〃 8月14日 北條氏政が武田勝頼と対峙する。
 〃    〃 9月26日 下野国下都賀郡小山城主小山下野判官朝矩は織田信長と通じて佐竹義重や古内兵郡大輔義重らの了解にもとに陸奥国白河郡の白坂に出陣中に、多賀谷修理亮重経、信太小太郎ら其の留守を窺って軍勢を率い下野国の小山城を奇襲し城を焼き打ちした。小山朝矩は白坂の陣中で其の報告を受け、驚きて直ちに兵を的め、軍を引き返して常陸国より下野国に入らんと古内義重に迎いられ東茨茨城郡の古内村に着き清音寺の山内に陣を張る。
 〃    〃 9月27日 信太小太郎は時を移さず手兵五百余騎を以て古内の陣屋を攻め、其の爲めに清音寺の伽藍も焼け落ち城主の小山下野判官朝矩も遂に討死し其の首級は家来の手によって持ち去られた。
 〃    〃 小山朝矩の弟小山左ヱ門朝忠は東茨城郡石塚村那珂西の藤峯に陣を張って居たが、西郷村古内に於て戰い有りと聞き駆け付けた時にはすでにおそく兄の小山朝矩は討死の後で有り信太勢も引き揚げた後であった。
 〃    〃 9月 佐竹義重は武田勝頼と倶に上野国の新田へ出陣す。
 〃    〃 9月 佐竹義重は織田信長、武田勝頼ら両家の和睦を計った。一説に、十一月十日、北條氏照が常陸国筑波郡谷田部城主多賀谷淡路守経伯を攻め破って攻略し、経伯は自害す。
 〃    〃 下妻の援軍は小田原軍を破って谷田部城を取り戻し平出伊賀守をして之れを守らしむ。
 〃    〃 相模国小田原城主北條氏政が年四十三才にして十九才の氏直に家督を譲る。
 〃    〃 小田原軍北條左ヱ門大夫綱成の子、常陸介氏繁が年四十三才にして死亡し其子氏勝が継ぎて左ヱ門大夫を稱す。
 〃    〃 下妻城主多賀谷修理大夫重経は筑波郡の小張城主只越全久入道尊円、岩崎城主只越尾張守、足高城主岡見治部少輔らを攻め破って攻略し、更に板橋城主月岡玄蕃を降参させて攻略す。
 〃    〃 下総国結城城主結城中務大輔晴朝が筑波郡菅間村の磯部に於て秋田城之助實秀を迎い撃って之れを破り、桜川明神が兵火に懸って炎上す。
 〃    〃 多賀谷重経は長沼の宗光寺を攻め、僧等を破って破却する。
 〃    〃 下総国印旛郡佐倉城主千葉之介邦胤が下総国の結城を攻めんと発向し、豊田郡豊田郷の妙見沼の岸に陣を取り、結城晴朝は之れを迎い撃たんと宗道の宗任明神の東方なる三田の地に陣を取り千葉勢と戰って之れを破り石毛へ撃退し更に追撃して千葉へ追い拂う。此の時に千葉邦胤は戰勝を祈願する爲め石毛郷に妙見八幡宮を勧請する、是れ横堤の妙見八幡宮なるべし、また一方に砦を築き今に館出と云ふ地は是れなり、邦胤が敗北し逃げる際、甲が重く是れを投げ捨て東野原を通り大房に遁れ更に千葉に逃走したと聞く、甲をすてた処に甲明神を建て今に甲八幡と云ふ、乃ち千葉氏の家臣粟飯原勘解由が妙見八幡宮を主守する。抑、千葉、上総、相馬の平氏は曩祖より己来星の宮と号して妙見大菩薩を以て氏の神とする。或は是れを北方玄武の神とも云へり。其の尊像を申さば或は童形、域は甲冑を帯し河伯帯を佩て、弓手に宝珠を○け、馬手に雄劍を提け、白蛇を腰に纏ひ、霊亀を脚に踏へ七星を以て円光とし、域は七曜を手に握れり。是れ則ち北斗七星の垂迹、弓箭の守護の仏天なり。七仏所説神咒経に我は是北辰菩薩、名て曰妙見処て閻○提衆星の中最勝れり。神仙の内の仙菩薩の大將と祝れしとかや。道家に於ては霊苻本尊と号し降真香をたき桂葉梅花を供して冨貴延命を祷り、僧家に於ては七面の明神を崇めて法花擁護の伽藍神とすは、昔時東都の鬼王と唱へし平親王將門が事あるに臨んでは七人の形躰を現しけると、国俗の云伝へたるも偏に此天部の神の霊応とぞ聞へし。妙見御本誓の詠とて、月星を手にとるからに、此家の栄ん事は恒河沙の数、件の故を以て千葉家の幕の紋は月に星、或は七星、或は十曜を用ひ来れり。妙見八幡は軍神にして八幡の神に妙見にかけて誓い祈る意にして弓矢八幡と云うが如し、相馬日記に曰く、守谷郡(北相馬郡守谷)八幡廓に將門が斎き祀りし妙見八幡宮と申すが此に鎮座ししを今はこもり山の西林寺に移すとぞと有り。
1581年 天正9年 2月 北條氏政、氏直父子が伊豆国の三島に出陣し武田方と対戰して戸徳に於て戰う。
 〃    〃 8月 北條氏政が領内に段銭増微を令す。
 〃    〃 8月 北條氏政は武藏国鉢形城主北條左ヱ門佐氏邦、岩槻城主太田十郎氏房らをして下野国佐野城主佐野宗綱を攻め、佐竹義重と戰って敗北す。
 〃    〃 11月10日 武田四郎勝頼が小田原方の伊豆国戸倉城主笠原新六郎政尭を誘って降服せしめ攻略す。
 〃    〃 11月21日 新治郡新治村北井手村の斉藤主馬之助が年三十一才にして流儀天流をあみ出す。
 〃    〃 12月 佐竹義重が武田勝頼と計り上野国の新田へ出兵す。
 〃    〃 12月24日 甲斐国甲府城主武田勝頼が新府へ移る。一説には、今年、小田天菴が新治郡の手葉井山に於て梶原景国と戰う。
 〃    〃 小田原城主北條氏政が嫡子氏直に家督を譲る。
 〃    〃 徳川家康が武田方の遠江国小笠原郡大須賀の高天神城を攻め小笠原氏を破って取り戻す
1582年 天正10年 2月28日 北條氏政は先きに織田信長の通報によって駿河国に出動し、伊豆国駿東郡清水徳倉の戸倉城を降服させて吉原に進駐す。
 〃    〃 3月11日 織田信長、徳川家康の連合軍が甲斐国の田野に於て破り、勝頼は室北條夫人と倶に自害し武田氏は滅亡す。
 〃    〃 太田十郎氏房と云う人が筑波郡の小田へ来り梶原景国を頼むれども梶原は不承知なる故に、氏房は夫れより佐竹へ行きて佐竹義重い頼る。小田城主梶原景国が佐竹義重と不和と成り、下妻城主多賀谷重経が小田城の梶原を攻める故に梶原景国は山木へ掻揚げ城を構えて度々合戰す、太田十郎氏房は佐竹の命を受けて梶原の討手と成り小田山へ取り上り、夜の中に障子を拵らへて塀の如くに立てて小田城内に鐵鉋を射ち懸ける、城中にてわ驚きて急に落城すと云う、但し太田十郎とは何者ぞや、梶原は太田三楽斉の子なれば太田氏族の内にても有るか。
 〃    〃 6月2日 明智光秀が京都の本能寺に織田信長を、二條城に織田信忠父子を襲って殺害す。
 〃    〃 6月7日 北條氏政が上野国に於て織田方の部將瀧川左近將監一益を破って追撃す。
 〃    〃 6月11日 北條氏政が関東管領瀧川一益に書状を送り、京都の異変を尋ねて一益に対して変心の無い事を誓う。
 〃    〃 6月19日 北條氏政が甲斐国へ侵入す。
 〃    〃 6月24日 佐竹義重が下野国烏山城主那須資胤と和睦する。
 〃    〃 6月 北條氏直が瀧川一益を破る。
 〃    〃 7月12日 北條氏直が信濃国の小諸城主依田信蕃を攻める。
 〃    〃 8月1日 北條氏直の軍が徳川家康の軍勢と甲斐国に於て対陣す。
 〃    〃 8月10日 徳川家康が甲斐国の古府中より新府に移り、甲斐や信濃の両国に於て北條の小田原軍と戰う。
 〃    〃 10月29日 北條氏直が徳川家康と和談し、甲斐と信濃の両国を家康に渡し、上野国を北條方の所領と成し、氏直は家康の聟に成る事を契約し両国が和睦す。
 〃    〃 小田原方の部將芳賀四郎左ヱ門貞綱が甲斐国で討死す。
 〃    〃 下総国猿島郡古河城主関東公方足利義氏が死亡し、跡継ぎがなく当時九才の氏姫が只一人残された、其の頃の古河は小田原の北條氏の勢力下にあったので此の後古河城は北條氏政によって後見された。
1583年 天正11年 2月13日 常陸国新治郡藤沢城主小田讃岐守氏治入道天菴は五才の嫡子金寿丸盛治(彦太郎守治)を太田城主佐竹義重に質子として差し出して降伏を申し込み義重は之れを許す。
 〃    〃 2月 北條氏政、氏直父子が上野国に出陣す。
 〃    〃 2月 佐竹義重が下野国烏山城主那須資胤を攻める。
 〃    〃 4月21日 羽柴筑前守秀吉が賤ヶ岳に柴田修理大夫勝家を破る。
 〃    〃 5月24日 下野国益子城主益子筑後守重綱入道睡虎斉は富田の城兵をして飯田村に出兵させ、同国笠間城主笠間幹綱も橋本付近の人数を集めて大岡から入野へ兵を進める、益子方の加藤大隅守、同大藏少輔父子は兵を二隊に分け結城勢と倶に谷中玄蕃充を進撃して之れを和尚塚に討取り其の勢に乗じて橋本城を占領す。一説に、笠間城三万石笠間大和守幹綱入道心休は宇都宮氏の幕下で領民の争ひから隣境の益子城主益子筑後守重綱と抗争すと有り。
 〃    〃 8月15日 徳川家康の娘が北條氏直に嫁し北の方と稱す。
 〃    〃 小田原軍で品川の宇田川石見守が品川宿の町人百姓の還住を規定す。
 〃    〃 芦田信蕃の長男依田康国が家督を継いで信濃国の小諸城主となる。
 〃    〃 12月 徳川家康の次子於義丸が豊臣秀吉の養子と成る。
 〃    〃 常陸国の佐竹義重は芦名刑部をして河内郡龍ヶ崎城主土岐胤倫を攻め破り攻略したが、胤倫は間もなく之れを取り戻して回復す。
 〃    〃 多賀谷重経が佐竹義重と常南制圧の密約を結び、佐竹義重は佐竹淡路守、芦名盛重らをして信太郡の木原城主近藤式部大輔利勝を攻略したが、近藤利勝は江戸崎城主土岐河内守の謀將諸岡逸羽や牛久城主岡見氏の軍師栗林次郎義長らの援を得て間もなく木原城は取り戻して回復した。
 〃    〃 上総国正木、大多喜両城主正木大膳亮時茂は安房国南條、豊房村に鳥山城を築く。
 〃    〃 12月29日 下野国佐野城主佐野小太郎宗綱は上野国館林城主長尾顯長の属城である下野国足利の岩井山城主白石豊前守を攻める。
1584年 天正12年 1月1日 下野国佐野城主佐野宗綱は再び同国足利岩井山城を攻めたが鉄砲で射殺される。
 〃    〃 1月5日 上野国新田実城金山城主由良刑部大輔信濃守成繁入道宗得が病死し、其子新六郎国繁が継ぐ。
 〃    〃 2月 北條氏直が下野国河内郡宇都宮城主宇都宮国綱を攻めて外郭に放火して佐竹義重と対陣する。
 〃    〃 4月3日 北條氏直と佐竹義重と下野国の沼尻に於て対陣する。
 〃    〃 6月 多賀谷重経が河内郡牛久城主岡見中務少輔保完を攻める。
 〃    〃 7月15日 信濃国上田城主真田安房守昌幸が徳川家康より上野国の沼田領を北條氏政に明渡す可く命じられたが、其の申し入れを拒否して越後国の上杉景勝に援助を求める。
 〃    〃 7月26日 北條氏直が下野国皆川城主皆川山城守廣照を攻め、佐竹義重と戰ったが間も無く和睦する。
 〃    〃 9月20日 多賀谷重経が河内郡牛久城主岡見中務少輔保完を破って攻略す。
 〃    〃 12月 徳川家康の次子於義丸が豊臣秀吉の養子と成り家康は於義丸を摂津国の大阪に送る。
 〃    〃 近江国山上里の住人山上強右ヱ門久忠は北條氏直に仕えて横地某を討って功有りて其の闕地を給せらる。
 〃    〃 北條氏直が徳川家康と和睦し、徳川家康の娘を娶る事に成りて小笠原康廣が使節として浜松に行く。

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