東国武将興亡録  1585年-1589年 戻る

1585年 天正13年 春旬 多賀谷重経が新治郡の高濱台に出陣し府中城主行方修理を攻めて薬師堂を焼く。
 〃    〃 春旬 多賀谷重経が下総国相馬郡筒戸城主相馬小三郎胤仲、守谷城主相馬小次郎胤信らを攻めたが敗北して坂手村に樋ノ内に退陣する。
 〃    〃 4月19日 佐竹義重が下野国鹿沼城主壬生義雄を攻める。
 〃    〃 4月30日 北條氏直、同氏照等が下野国鹿沼城の壬生義雄を援ける爲めに出陣し、藤岡と大和田に於て佐竹義重と対戰す。
 〃    〃 5月5日 下総国印旛郡佐倉城主千葉介胤富が病気と成り、邦胤が家督を継ぐ。
 〃    〃 5月7日 千葉介胤富が死亡し、其の子二十六才の新介邦胤が家督を継ぐ。
 〃    〃 6月 下妻城主多賀谷重経は羽柴秀吉に使札を献じ、明智光秀并びに柴田勝家等の誅伐と近畿平均を祝賀して好しみを通ず。
 〃    〃 7月 羽柴筑前守秀吉が関白に任ぜらる。
 〃    〃 7月 越後国春日山城主上杉景勝が信濃国上田城主真田安房守昌幸に援助を約束する。
 〃    〃 7月 北條氏政が武藏国の岩槻へ出陣す。
 〃    〃 8月 上野国沼田城主真田昌幸が徳川家康に攻められて防戰し之れを破って撃退す。
 〃    〃 11月17日 佐竹義重が出羽国米沢城主伊達右京大夫政宗と陸奥国の安積表に於て戰う。
 〃    〃 小田原方の部將北條新四郎氏忠が下野国佐野城主佐野小太郎宗綱の後を継ぐ。
 〃    〃 小田讃岐守氏治入道天菴が新治郡の藤沢城を収めて之れに入城す。
 〃    〃 北條氏直が下野国の皆川へ出張し、佐竹義重は上三川へ出陣し小田原に備へ対陣す。
 〃    〃 下妻城主多賀谷重経が豊臣秀吉に初鳫を献上する。
 〃    〃 下妻城主多賀谷重経は下総国豊田郡石毛城主多賀谷経明の子経光に謀反の心有りとして之れを誅殺し石毛城を廃した。
1586年 天正14年 1月21日 豊臣秀吉が徳川家康と和睦す。
 〃    〃 2月 北條氏政は武藏国の岩槻城を始め諸城を修築する。
 〃    〃 下妻城主多賀谷修理大夫重経は筑波郡小張城主只越全久入道尊円を攻め、佐竹義重は梶原美濃守景国に命じて多賀谷に加勢の爲めに発向させ、只越入道全久を破り之れを討取って攻略し、更に足高城主岡見中務少輔を攻めたが下総国の小金城主高城源次郎胤則、布川城主豊島三河守晴安、常陸国河内郡の牛久城主岡見治部少輔、若柴城主若柴民部らが足高の加勢を成して多賀谷、佐竹らと戰って之れを破り撃す。
 〃    〃 4月 信濃国小諸城主芦田康国、康貞兄弟が徳川家康より松平の稱号と名の一字を賜わり、松平修理大夫康国と名乗る。
 〃    〃 8月1日 北條氏政が下野国の鹿沼や鳥井戸などに於て佐竹義重と戰う。
1587年 天正15年 井手左ヱ門尉判官伝鬼は真壁入道道夢の家臣桜井霞之助に試合を申し込まれ、真劍勝負を成し一撃の下に之れを斬り殺し、桜井大隅守や真壁道夢の爲めに再び試合を申し込まれ、真壁らの本拠である真壁郡桜井の不動院に出張したが矢を射かけられて年三十八才にして殺さる。
 〃    〃 3月3日 佐竹義重の次男である佐竹義廣が陸奥国会津黒川城主葦名盛氏の養子と成って葦名家の跡を継ぐ。
 〃    〃 5月8日 豊臣秀吉が九州を平定する。
 〃    〃 小田原方常陸勢総大將にて河内郡若栗城主栗林下総守次郎義長が年四十一才にして死亡す。
 〃    〃 7月 北條氏直が相模、武藏両国に動員の用意を命ず。
 〃    〃 9月 北條氏政は小田原の鋳物師に鉄砲の作成を命ずる。
 〃    〃 10月26日 安房国館山城主里見義頼が死亡して義康が継ぐ。
 〃    〃 12月21日 下総国猿島郡古河城主関東公方足利義氏が病床に臥す。
 〃    〃 12月26日 足利義氏が年四十七才にして死亡す。
 〃    〃 多賀谷重経は筑波郡久賀村の足高城主岡見中務少輔宗治、板橋城主月岡玄蕃允、岩崎城主只越尾張守らを攻め破って攻略し、更に牛久、布引、小金までも掠奪せんと企図して、牛久城主岡見治部大輔頼房を攻め破って攻略する。
1588年 天正16年 小田原城主北條氏政は北條武藏守氏朝、同左ヱ門大夫康重、同新三郎氏光、同安房守氏成、太田十郎氏房、成田下総守氏長、松田尾張守憲秀等をして三萬余騎を率いて下総国の小金城主高城下野守、常陸国の土浦城主菅谷左ヱ門重政、同喜八郎、足高城主由良信濃守光繁、牛久城主岡見治部少輔保定等を攻め破って攻略し、次いで下総国の豊田城主多賀谷左近將監忠経を攻め、太田氏房は常陸国の小田城主梶原美濃守景国、北條城主北條出雲守治高、真壁城主真壁安芸守氏幹入道道夢などを攻め破って攻略して、進んで下妻城主多賀谷匠作重経、嫡子彦太郎重継、同勘解由経家らを攻めて小島の観音に放火して古沢口より小野子の間で戰い小田原に帰陣する。
 〃    〃 4月25日 佐竹義重が常陸国新治郡石岡の府中城主大掾清幹を攻めて其の属城である小幡や田余の両砦を攻略する。
 〃    〃 4月 北條氏直が常陸国の谷田部に於て多賀谷重経と戰い、更に藤沢城の小田氏治入道天菴をせめる。
 〃    〃 5月26日 佐竹義重は出羽国米沢城主伊達右京大夫政宗を討つ爲めに陸奥国の須賀川に出陣する。
 〃    〃 7月4日 下総国印旛郡佐倉城主千葉介邦胤が家臣鎌田万五郎の爲めに殺害され、其の子千鶴丸は六才にして小田原城主北條氏直に降伏して人質として北條氏に身を寄せ、千葉方の部將で下総国印旛郡臼井城主原式部少輔胤成が軍代として佐倉城に入って之れを守る。
 〃    〃 8月3日 出羽国米沢城主伊達右京大夫政家が陸奥国三春城主田村清顯を攻め破っ                                                                                                                                                                                               て攻略し所領を併す。
 〃    〃 8月22日 北條氏政、氏直父子は伊豆国韮山城主北條氏規を代官として上洛させ、豊臣秀吉に謁見させ、真田昌幸の所領地である上野国利根郡(群馬県沼田市)の沼田の知行を願い出る、是れは徳川家康の斡旋によるものなり。
 〃    〃 8月 佐竹義重は急に新治郡土浦城主菅谷左ヱ門尉正光を攻め寄せ、菅谷正光は密かに兵を的めて城をすてて筑波郡の手子丸城に退去する。
 〃    〃 9月 小田方の軍師で筑波郡手子丸の住人天羽三河守入道源鉄が病死する。
 〃    〃 9月中旬 佐竹義重は太田資正入道三楽斉道誉、梶原美濃守景国、太田源三郎資武らをして手配山の麓に押しよせ小田天菴と戰い、小田方の先鋒である江戸山城守、大藤小太郎等は討死す。
 〃    〃 11月28日 佐竹方の真壁氏幹が新治郡の藤沢城を攻め小田方の田伏某が討死する。
 〃    〃 11月 北條氏政は千葉千鶴丸重胤に下総国の加島城を与へて之れに居住せしむる。
 〃    〃 北條氏直は府中城主大掾清幹の要請により常陸国の江戸崎に出陣し、石岡の高浜を奇襲して佐竹勢と戰い敗北し、更に谷田部の多賀谷重経を攻め、また藤沢城の小田天菴と戰う。一説に、同年、小田原の北條氏直が下妻の多賀谷氏を滅ぼそうと松戸まで兵を進めたが菅谷左ヱ門尉正光、沼尻又五郎家忠らが多賀谷の使者として仲裁に入り多賀谷重経の危機を救い谷田部を境として所領を認め北條、多賀谷の両家が和睦し、多賀谷は菅谷に手子生を、沼尻に金田を賞として与へる。
 〃    〃 豊臣秀吉は相模国小田原城主北條氏直に使いを出して配下に成る様に命じたが応ぜず。
1589年 天正17年 3月18日 下野国益子城主益子宮内大夫は宇都宮城主宇都宮国朝の憎むところとなって攻められ遂に自害して攻略され滅亡す。
 〃    〃 3月30日 常陸国真壁郡真壁城主真壁安芸守氏幹入道道夢が年六十七才にして死亡し、房幹が継ぐ
 〃    〃 5月 佐竹義重は常陸国水戸城主江戸但馬守重通を救援して、家臣である那珂郡額田城主額田昭通を攻めて、次いて和睦した。
 〃    〃 5月27日 佐竹義重が陸奥国三春城主田村宗顯を討つために須賀川に出陣し、伊達政宗と対戰する
 〃    〃 5月 伊達政宗が陸奥国会津黒川城主葦名義廣を追い拂って攻略する。
 〃    〃 下野国小山祇園城主小山政種は義父北條氏政の爲めに豊臣秀吉にさからって関東の大軍を迎へて防戰す。
 〃    〃 6月 豊臣秀吉が相国寺の妙春院惺窩を以て使价として小田原へ派遣し、北條氏政、氏直父子に上洛を命ず。
 〃    〃 7月4日 豊臣秀吉は上杉景勝や佐竹義重らに命じて、陸奥国会津城の伊達政宗を討たしむ。
 〃    〃 7月21日 豊臣秀吉は信濃国上田城主真田昌幸に上野国の沼田を北條氏政に渡す様に、津田、富田らの両人を徳川家康の家臣である榊原康政と倶に同行せしめ上田に派遣して、真田昌幸を説得させて了解させる。
 〃    〃 7月 豊臣秀吉は北條氏直に上野国の沼田を与へる。
 〃    〃 8月22日 北條氏政の代官北條氏規が上京し、豊臣秀吉に面会する。
 〃    〃 9月20日 多賀谷重経が稲荷宮を西館に移す。
 〃    〃 多賀谷重経は大曽根城主白井縫殿介全洞をして下総国相馬郡守谷、筒井両城主相馬左近大夫小治郎治胤を攻めんと猿島郡坂手村の樋ノ口台に陣を取り、治胤の弟の相馬小三郎胤親と戰う。
 〃    〃 10月3日 小田原方武藏国鉢形城主北條氏邦が下野国宇都宮城主宇都宮国綱の属城である多気城を攻める。
 〃    〃 10月10日 徳川家康が入京して豊臣秀吉と北條氏政征伐を相談する。
 〃    〃 10月26日 伊達政宗が陸奥国須賀川城の二階堂未亡人や家老の須田盛秀らを破って攻略す。
 〃    〃 10月 豊臣秀吉が北條氏の討伐を発令する。
 〃    〃 11月22日 徳川家康は京都より駿河国の駿府城に帰国す。
 〃    〃 11月 小田原方の上野国利根郡倉内城代猪股能登守則直は真田安房守昌幸の支城である沼田領の呉桃城を攻略し、是れに依て豊臣秀吉は北條氏政の討伐を決意する。
 〃    〃 11月24日 豊臣秀吉が北條討伐を諸將に命ず。
 〃    〃 11月 小田天菴、守治父子が陸奥国白川より常陸国筑波郡の手子生に舞い戻り回文を旧臣らに出したが、苅間城主板橋豊前守らがわずかに五百余騎を引き連れて入城したのみであった。
 〃    〃 12月3日 下野国宇都宮城主宇都宮国綱が同国の中堂城主益子入道睡虎を攻略す。
 〃    〃 12月31日 北條氏直は相模国の諸鋳物師に二十挺の大筒を製造させ山田某が宰領す。
 〃    〃 下妻城主多賀谷重経は次子多賀谷左近將監忠経を下総国岡田郡若郷江島ノ城(結城郡西豊田村字太田)に移す。
 〃    〃 北條早雲の次男で氏綱の弟である箱根権現の別当職北條葛山長綱入道幻菴が年九十七才にして死亡し、法名を宗哲と号す。
 〃    〃 北條氏政が上野国勢多郡に広汎の検地を行う。
 〃    〃 北條氏政が伊豆国三嶋(三島市川原谷)の山中城を修理し小田原の支城と成す。
 〃    〃 下妻城主多賀谷重経が豊臣秀吉へ呉服三ツ、鶴を送る。
 〃    〃 安房国岡本城主里見左馬頭義康、上総国鳥山城主正木大膳亮時茂らが上総国萬喜城主土岐彈正少弼頼春を攻め岩將山に於いて戰ったが敗北する。

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