東国武将興亡録  1590年 戻る

1590年 天正18年 1月8日 常陸国の佐竹義重の嫡子義宣が陸奥国の白河に出陣し、浅川城主浅川次郎左ヱ門を攻める。
 〃    〃 1月19日 安房国岡本城主里見左馬頭義康、上総国鳥山城主正木大膳亮時茂が上総国萬祇喜城主土岐彈正少弼頼春を攻撃したが敗北す。            
 〃    〃 1月29日 常陸国筑波郡手子生城主小田氏治入道天菴は自ら軍を率へて小田城を取り戻さんと小田の城外なる樋口に進み梶原美濃守景国、太田源三郎資武等と戰い之れを破ったが、新治郡片野城主太田資正入道三楽斉道誉が樋口に来て景国、資武ら兄弟を救ひ出して小田城内に引き退き、天菴も手子生城に引き揚げる。
 〃    〃 2月10日 駿河国駿府城主徳川家康が関東征伐の爲めに出陣す。
 〃    〃 2月18日 諸国に大地震が起り、安房や上総の両国に津波が起る。
 〃    〃 2月 小田城城へ農民らが鍬簀を以て徴収される。
 〃    〃 3月1日 京都聚楽第城主豊臣秀吉が関東征伐小田原城主北條氏政、氏直父子退治の爲めに出陣す。
 〃    〃 3月9日 豊臣方の羽柴秀次が伊豆国山中城の北條氏勝、間宮好高、朝倉重信らを攻め破って攻略す。
 〃    〃 3月28日 北畠織田信雄らは伊豆国田方郡韮山城主北條氏規を攻める。
 〃    〃 3月29日 上方勢の長岡細川忠興が韮山城の外郭を破る。
 〃    〃 3月29日 豊臣秀吉と徳川家康は山中城の地形を巡検す。
 〃    〃 3月29日 羽柴秀次が山中城主松田秀植を攻略す。
 〃    〃 3月30日 上方勢の羽柴三好秀次は箱根の山中城に松田秀植、北條氏勝らを攻めて攻略す。
 〃    〃 3月末旬 豊臣秀吉が沼津に拘禁中の石巻左馬允康敬を小田原に放還す。前田利家、上杉景勝らを上野国碓氷郡松井田城主大道寺駿河守政繁を攻撃開始す。
 〃    〃 4月 豊臣秀吉が小田原の北條氏を征するや、下総国結城城主結城晴朝は欸を秀吉に送りて自ら小田原の与党である下野国の小山城主小山小四郎政種、榎本城主近藤出羽守らを攻め破って攻略し小田原に至り秀吉に謁し、秀吉の御感斜ならず結城に帰らしむ。
 〃    〃 4月1日 豊臣秀吉が箱根山に陣を進める。
 〃    〃 4月1日 上方軍は相模国の小田原城の攻囲を開始する。
 〃    〃 4月2日 上方軍が相模国の小田原に達し、豊臣秀吉が湯本に陣を進める。
 〃    〃 4月3日 上方軍が小田原城を包囲す。
 〃    〃 4月5日 小田原の重臣松田尾張守憲秀が豊臣秀吉に通じ、秀吉は石垣山に城を築く。
 〃    〃 4月7日 前田利家、上杉景勝らが上野国松井田城主大道寺駿河守政繁を攻めて包囲す。
 〃    〃 4月15日 里見義康が江戸湾を渡って相模国三浦郡の長津村に侵入する。
 〃    〃 4月20日 上杉勢の前田利家、上杉景勝らが上野国の松井田城主大道寺駿河守政繁を初め倉賀野、箕輪、厩橋等の諸城を降服させて攻略す。
 〃    〃 4月22日 武藏国江戸城の川村兵大夫は徳川家康の説得によって城を開け渡して降伏し攻略さる。
 〃    〃 4月26日 上野国の西牧城主多米周防守、大谷帶刀左ヱ門らが本多忠勝の爲めに攻略される。また別に、松平康国、康寛兄弟が西牧城に多米周防守、大谷帶刀左ヱ門らを討取りて攻略す。上野国群馬郡石倉城主金井淡路守、小林左馬允兄弟が松平康国に降伏し其の陣中へ会いに来たが、其の乗って来た馬が逃げ出し陣中が騒がしくなり、之れを自分の危険をさらされて居ると感じて康国を斬り殺したが、康国の弟の康貞が直ちに金井淡路守を斬り、依田信政も小林左馬允を討取って其の從兵百余人を殺し、後に家康は松平康貞に兄康国の遺領を継がしめた。
 〃    〃 5月3日 太田十郎氏房は上方勢の蒲生飛彈守氏郷の陣営を夜襲し久野口に戻る。
 〃    〃 5月13日 前田利家、上杉景勝らが武藏国の鉢形城主北條氏邦に攻撃を開始し留守居の井上三河守、猪股能登守則直らを攻める。
 〃    〃 5月20日 豊臣秀吉は浅野長吉、木村重茲らが安房や上総両城の小城ばかり攻めて日を潰して居るのを責め、鉢形城攻めの寄手に加わる様に命じ赴かしむ。
 〃    〃 5月20日 浅野長吉、木村重茲らが武藏国埼玉郡岩槻城主太田十郎氏房の留守居伊達与兵ヱ房実を攻め破って攻略す。
 〃    〃 5月22日 本多忠勝は武藏国豊島郡岩槻城主太田十郎氏房の留守居伊達与兵ヱらを攻め破って攻略す。浅野長吉、木村重茲らが岩槻城の寄手に加わり岩槻城を攻略し、鉢形城を攻めんと赴いて攻撃の寄手に加わる。
 〃    〃 5月24日 下総国豊田郡島内城主多賀谷左近將監忠経は小田原攻めに参陣の功として豊臣秀吉より左文字の刀を賜わり、以後は結城晴朝の旗下たる事を命ぜらる。
 〃    〃 5月25日 豊臣秀吉は常陸、上総、下総等の諸將らに書を送って参陣する事を求め、常陸国の佐竹義重の子義宣は小田原に出陣して石田三成、増田長盛らを通じて豊臣秀吉に謁す。
 〃    〃 5月27日 佐竹義宣が小田原攻めの上方軍に参陣する。
 〃    〃 5月 結城晴朝が小田原に来りて豊臣秀吉に謁す。
 〃    〃 5月 陸奥国会津黒川城主伊達右京大夫政宗が小田原に来て豊臣秀吉に降伏を申し出る。
 〃    〃 5月 豊臣秀吉は結城晴朝の十一万五千石の所領を認める。
 〃    〃 6月2日 豊臣秀吉は小田原の陣に於て伊達政宗を詰責し陸奥国の会津領を收公す。
 〃    〃 6月5日 豊臣秀吉は伊達政宗の訪問により鉢形城攻めの浅野長吉、木村重茲らを召喚する。
 〃    〃 6月10日 豊臣秀吉が石田三成に命じて武藏国の忍と岩槻の両城を攻め忍城の島田出羽守、坂巻靱負尉や岩槻城の伊達与兵ヱ、妹尾兼遠らの攻撃を命ず。
 〃    〃 6月14日 前田利家、上杉景勝、浅野長吉、木村重茲らが武藏国鉢形城主北條氏邦を攻め破って之れを降伏させ攻略す。
 〃    〃 6月17日 浅野長吉、木村重茲らが小田原に戻って豊臣秀吉に謝し戰況を報告し秀吉は彼ら両人がいたずらに降伏を誘うのを難じ緩急の変化よろしく敵に威圧を感じさせる事の心要を説く。
 〃    〃 6月23日 武藏国の八王子城の城代横田長次らは前田、上杉らに攻められて防戰したが攻略される
 〃    〃 6月24日 上方勢の滝川下総守雄利が太田十郎氏房を通じて北條氏政、氏直父子に和談の使が有って両者は互いに持口より扱いの事を相談する。
 〃    〃 6月24日 徳川家康より伊豆国韮山城主北條美濃守氏規を通じて北條氏政、氏直父子と和談が成立す。
 〃    〃 6月24日 太田十郎氏房が北條氏政、氏直父子に和議を勧める。
 〃    〃 6月25日 本多中務大輔忠勝、平岩親吉らが相模国の津久井城の内藤左近太夫を破り攻略す。
 〃    〃 6月26日 豊臣秀吉が諸陣に命じて小田原城を威嚇させた。
 〃    〃 6月28日 豊臣秀吉が徳川家康の武藏国江戸に移封を決める。
 〃    〃 6月30日 武藏国埼玉郡行田の忍城主成田氏長は小田原に籠城をして居たが、遂に叛して小田原の城中より豊臣秀吉に書状を送って内通し、其の書状は豊臣秀吉からたちまち北條氏直の許に提示される事に成った。成田氏長が降伏を申し出る。
 〃    〃 6月 上方勢は関東の諸城を攻略す。
 〃    〃 6月 伊達政宗が秀吉に降伏する。
 〃    〃 6月 結城晴朝は命に依って石田三成に從ひ武藏国の忍城を攻めた。
 〃    〃 7月3日 小田原城主北條氏政、氏直父子が豊臣秀吉に和談を申し出る。
 〃    〃 7月5日 北條氏直が小田原城より出て豊臣秀吉の陣営に赴き降伏を申し出る。
 〃    〃 7月6日 豊臣秀吉が北條氏政、氏直父子より小田原城を収公する。
 〃    〃 7月7日 下総国結城城主結城晴朝が下野国小山祇園城主小山小四郎政種を攻め破って攻略す。
 〃    〃 7月9日 徳川家康が相模国小田原城主北條左京大夫氏政を攻略す。
 〃    〃 7月11日 相模国小田原城主北條左京大夫氏政、武藏国八王寺城主北條陸奥守氏照ら兄弟が切腹自害し、北條氏直、氏規、氏勝らは高野山に入って隠居し北條氏は滅亡す。
 〃    〃 7月12日 北條氏直が高野山に隠居する爲めに小田原を出発する。
 〃    〃 7月12日 豊臣秀吉が小田原より陸奥、出羽両国征伐の爲めに出発する。
 〃    〃 7月13日 豊臣秀吉が小田原城に入城し、北條氏の旧領関東八ヶ国を徳川家康に与へる。
 〃    〃 7月16日 武藏国埼玉郡の忍城兵らは水攻めを受けたが屈せず固守して居たが、小田原に籠城して居た主君成田氏長より降伏の論告を受けて遂に代官の酒巻靱負は開城して攻略す。
 〃    〃 7月16日 豊臣秀吉が奥州巡察の爲めに小田原城より発向する。
 〃    〃 7月 豊臣秀吉が下総国の結城城に入り滯留する事三日間、結城中務大輔晴朝が齢高くして子なきを嘆き一子を得て嗣と成さんことを請ふ、秀吉は之れを許し猶子於義丸、徳川家康の庶長子を与ふ、晴朝は外孫である水戸城主江戸重通の娘を迎へて之れに娶わす、後の中納言秀康が是れなり、秀吉は結城十一万五千石なりしを若千の地を加増し十八万一千石を領す。
 〃    〃 7月22日 豊臣秀吉が下野国の宇都宮に着馬し佐野の天徳寺に宿泊す。
 〃    〃 7月 北條氏政が年五十三才にて死亡す。
 〃    〃 7月 小田原方の土浦城主菅谷正光、江戸崎城主土岐氏、牛久城主岡見氏、守谷城主相馬治胤らの諸豪族が没落す。
 〃    〃 8月1日 駿河国駿府城主徳川家康が豊臣秀吉より関東を賜わり、武藏国の江戸城に移され之れに入府す。
 〃    〃 8月6日 下総国結城城主結城中務大輔晴朝が退老し、養子秀康が継ぐ。
 〃    〃 8月9日 豊臣秀吉が陸奥国の会津に着馬し、小田天菴は其の後を追って会津に向う。
 〃    〃 8月9日 松平外記伊昌が下総国の飯沼城に移ぜらる。
 〃    〃 8月10日 小田天菴は会津にて浅野長政を通じて豊臣秀吉に罪を謝し秀吉は之れを許して結城少將秀康に属せしめ秀康は天菴に三百石を給して養老の費とする。
 〃    〃 8月12日 豊臣秀吉が浅野長政をして奥羽の検地を命ず。
 〃    〃 8月 豊臣秀吉が東北地方陸奥、出羽両国を平定して日本全土を平定す。
 〃    〃 9月11日 常陸国太田城主佐竹義重が上洛す。また別記には、九月十四日、佐竹義重が京都に上洛すとも有り。
 〃    〃 9月 小田天菴、守治父子が金田覚太夫を通じて豊臣秀吉に仕へん事を願い出たが許されず、其の庶長子小田喜太郎友治は許され羽柴秀次に仕いる。
 〃    〃 10月 豊臣秀吉、羽柴秀次らが相談して小田喜太郎友治を常陸国に遣わして佐竹義重の様子を伺わしむ。
 〃    〃 12月19日 常陸国太田城主佐竹義重は嫡子義宣をして那珂郡菅谷村の寄居城などを攻め破って攻略し、兵を勝田村の勝倉に進め勝倉城主勝倉四郎を攻め之れを討ち取って攻略し、佐竹義宣、東中務政義、額田四郎義房らをして茨城郡水戸城主江戸但馬守重通を攻め破りて水戸城を攻略す、重通は下総国の結城に退去した。佐竹義重は更に新治郡石岡の府中城主大掾貞国、清幹を攻めて之れを破り攻略す。
 〃    〃 12月 常陸国下妻城主多賀谷修理大夫重経が徳川家康に仕へる。
 〃    〃 豊臣秀吉は佐竹義重を常陸国の都督と成す。佐竹義重は梶原美濃守景国を陸奥国の植田城に移し、其の弟の太田五郎左ヱ門を下野国の武茂城に移して筑波郡の小田城は廃城と成る。
 〃    〃 佐竹義宣が常陸国信太郡木原城主近藤利勝を攻め破って攻略す。
 〃    〃 豊臣秀吉が小田、藤沢などを攻略し小田天菴は逃れて下妻に走り、本拠の小田城は廃城となる。
 〃    〃 佐竹義宣は信太郡江戸崎、河内郡龍ケ崎両城主土岐胤倫を攻め破って攻略す。
 〃    〃 佐竹左京大夫義宣は鹿島の神宝を携え来りて結城に居る豊臣秀吉の閲に供す。
 〃    〃 下総国豊田郡豊田城主多賀谷左近將監忠経は父常陸国真壁郡下妻城主多賀谷重経と不和を生じ、重経は佐竹氏の男を養子に迎いて家宣と名乗らせ下妻城を与へて隠居す。
 〃    〃 佐竹義宣、太田三楽ら筑波郡北條城主北條出雲守治高を攻め破って攻略す。
 〃    〃 豊臣秀吉は下総国猿島郡古河城の足利公方家の滅亡を惜しんで足利義氏の遺児氏姫と小弓御所足利右兵ヱ賢頼純の息子国朝を娶わせて喜連川御所四百貫に古河の地である原、新久田、牧之地、鴻之巣、長谷、伊賀袋、向古河など三百貫を加増し、喜連川足利氏は喜連川と古河に居を定める。
 〃    〃 豊臣秀吉は佐竹義宣に五十四万石所領の安堵朱印状を与へる。
 〃    〃 徳川家康が駿河より江戸に移され、其の領地が常陸国の西南の北総地方に及ぶ。
 〃    〃 下館の水谷勝俊、下妻の多賀谷重経、牛久の由良国繁らの所領は安堵される。
 〃    〃 豊臣秀吉は織田信雄の旧領を奪い下野国の那須に追放す。
 〃    〃 豊臣秀吉が小田原城主北條氏政征伐の爲めに関東の諸將らにも参陣を催促有りて常陸国下妻城主多賀谷重経は下総国和歌城主多賀谷左近將監忠経を軍代として小田原攻めに参陣させる。
 〃    〃 豊臣秀吉は上野国桐生城主由良信濃守国繁、下野国足利但馬守顯長等が小田原攻めに遅参せし事を叱り、由良成繁の未亡人妙印尼公に金山籠城の軍賞として常陸国河内郡の足高と牛久の両城を与へる。
 〃    〃 豊臣秀吉は常陸国真壁郡下妻城主多賀谷重経が小田原攻めに不参加なるを叱りて其の知行地を取り上げて嫡子多賀谷忠経に与へ、忠経は父重経を隠居させたが、下総国の豊田三万石の領地を給わりて下総国の豊田、岡田の両郡と常陸国の筑波、真壁の両郡を支配した。下妻の多賀谷重経は忠経が秀吉の前にて重経を悪しき様に取り成してその跡を押領せんとの企図で有るとの讒言を間に受けて父子は不和と成り重経は豊田城の忠経を攻める。

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