東国武将興亡録  1591年-1599年 戻る

1591年 天政19年 2月1日 小田喜太郎友治は豊臣秀吉に謁し豊臣秀次の近侍として仕える。
 〃    〃 2月9日 佐竹義重は鹿島、行方の旧族らを太田に招きて家臣に命じて悉く之れを殺害し、南方三十三館を大半滅亡させ、常陸の一国を支配する。
 〃    〃 2月9日 由良成繁が常陸国河内郡の牛久城五千石を賜はる。
 〃    〃 3月20日 常陸国久慈郡太田城主佐竹義重は嫡子義重を茨城郡の水戸城に移し其の居城と成し、久慈郡小里城主東義久を水戸の出城に当る武隈城(今の下市である竹隈町と十軒町の一帯東四四`五町、南北四町余の地)に移して、小田野宣忠、大久保久光、山方能登、信田左京進、河井伊勢守らの五人に水戸の政務を掌らせる。
 〃    〃 8月 豊臣秀吉が北條氏規に河内国丹南部の内にて二千石を宛行う。
 〃    〃 9月8日 佐竹方の部將常陸国新治郡片野城主太田資正入道三楽斉道誉が城内にて年七十才にして老死す。
 〃    〃 9月 出羽国米沢城主伊達右京大夫政宗が陸奥国の仙台に移る。
 〃    〃 11月4日 北條氏直が河内国金剛山の麓なる天野に於て年三十才にして死亡し、法名を松厳院大円徹公居士と号す。
 〃    〃 常陸国の元、信太郡木原城主近藤式部大輔利勝が年十二才にて死亡す。また別記に、近藤利信が年八十才にして死すと有り。
 〃    〃 佐竹義重は那珂郡長倉城主長倉義興を新治郡の柿岡城に移す。
 〃    〃 常陸国鹿島城主鹿島氏族が滅亡して鹿島郡は悉く佐竹氏の所有と成る。一説に、同年、北條氏直が紀伊国の高野山にて死亡す。
 〃    〃 出羽と陸奥の両国に検地あり。
 〃    〃 豊臣秀吉の高麗征伐の觸れが有りしが、下妻城主多賀谷重経は病ひを得て、名代として豊田城主多賀谷忠経を遣わし、結城秀康の勢に附属せしめて肥前国の名護屋の陣所に下したが何人の讒言によりてか秀吉より重経は参陣成しの勘気を蒙る。
 〃    〃 浅野長政、石田三成、大谷吉隆らが陸奥、出羽両国の検地を行う。
1592年 文禄1年 1月下旬 小田喜太郎友治が常陸国より京都に帰り、常陸国の地理や民数と寺社や百姓が所藏する旧器や遺文などを悉く図録して之れを聚楽第の豊臣秀次に献上し、秘かに佐竹氏の内状などを伝いる。
 〃    〃 3月17日 佐竹義宣が京都より肥前国の名護屋に向う。
 〃    〃 3月26日 豊臣秀吉が京都を出発し肥前国の名護屋に向う。
 〃    〃 3月 豊臣秀吉は中村一氏に命じて小田友治を船奉行の職に列しせしめ、播摩国の赤穂に居らしめ、伊勢国の羽田邑を加賜し、新町、麓、中山、開土、東、別名、新開等の八村を合せて三千石の地を所領させ、羽田を八田と改め、八田伊勢と自ら稱す。
 〃    〃 3月 常陸国東茨城郡古内城主古内下野守義貞は朝鮮征伐の時に佐竹義宣に從ひて肥前国に出陣し、加藤肥後守清正の指揮下に属す。
 〃    〃 5月2日 常陸国新治郡土浦城主菅谷左ヱ門大夫摂津守政貞入道全久が年七十五才にして死亡し、土浦の神龍寺に葬り、法名を大林樹殿長泰全久大居士と号す。
 〃    〃 9月10日 下妻城主多賀谷重経の代官、豊田城主多賀谷忠経が高麗征伐に参陣する。
 〃    〃 10月 下妻城主多賀谷重経が豊臣秀吉の勘気を蒙る。
 〃    〃 小田友治が伊勢国員辨郡羽田邑の三千石を賜わる。
 〃    〃 下野国喜連川御所足利国朝は朝鮮の役に出陣し名護屋の地に於て病死した爲め、古河の氏姫は豊臣秀吉の命により、再び国朝の弟である頼氏に嫁ぎて其の子義親を生む。
 〃    〃 豊臣秀吉は北條氏規に北條氏の跡を継がしめ、河内国の狭山城主と成す。
 〃    〃 常陸地方に大閣検地が開始さる。
 〃    〃 小田原の浄土宗誓願寺が江戸の神田に移転す。
 〃    〃 相模国足柄郡飯泉郷の小笠原兵部少輔播摩守康広が徳川家康に仕える。一説に、文禄二年一月、小田讃岐守氏治入道天菴が京都の三條の旅宿に於て年七十五才にて死亡す。
1594年 文禄3年 4月 蒲生氏郷が出羽と陸奥の両国に検地を行う。
 〃    〃 12月 北條氏規に加恩が有りて六千九百八十石と成る。
 〃    〃 木下家定の五男で豊臣秀吉の猶子である木下大柿少將秀俊が小早川秀詮と名乗る(後の小早川秀秋が是れなり)。                            
1595年 文禄4年 2月 陸奥国会津若松城主蒲生飛彈守氏郷が年四十才にして死亡す。
 〃    〃 6月19日 豊臣秀吉が常陸国茨城郡水戸城主佐竹左京大夫義宣に五十四万石の朱印状を与える。
 〃    〃 7月 連歌師の里村紹巴(本姓松村氏)は豊臣秀吉から厚遇されたが、関白豊臣秀次に仕えた爲めに秀次の処罰に連座して失脚す。
 〃    〃 10月10日 那珂郡御前山長倉城主長倉義興は佐竹義宣の命により新治郡の柿岡城主と成って入城する。
 〃    〃 末旬 下妻城主多賀谷修理大夫重経は佐竹義重と縁者なる故に佐竹氏に組し、豊田城主多賀谷左近將監忠経は結城晴朝に属して不和に成り節々に取り合いに及ぶ、忠経は結城へ住来するに下妻を取り挟みて不自由成る故に下総国岡田郡太田城(結城郡西豊田村太田)を築き之れに居住す。
 〃    〃 関白豊臣秀次が誅伐せらる時、小田喜田郎友治は之れに同座した爲めに伊勢国員辨郡八田の釆地を没収さる。
 〃    〃 常陸国久慈郡世矢村の丹奈城主小野小三郎高長が死亡し法名を悟光悦公居士と稱す。
 〃    〃 関白豊臣秀次が誅伐されて、其の近臣、男女、妻妾は皆其の害を受け、八田左近友治は從昆弟の吉田修理亮と倶に相議して脱出して其の難を遁れ、大和国の額安寺に匿れ、友治は茂木四郎左ヱ門を遣わして八田の邑を守らしめたが、茂木もまた其の害を受けん事を畏れて遠方に逃れる。
 〃    〃 下総国豊田城主多賀谷左近將監忠経が岡田郡の太田に新城を築きて之れに移り、時に豊田氏の菩提所なる龍心寺が下妻の多宝院の末寺と成りて岡田郡の太田に移され太田龍昌院と号す。多賀谷虎千代三経が豊田城に移りて居住し、岡田、豊田、猿島の三郷を分領地として佐竹方に属し、多賀谷氏の家臣郎党等が太田の忠経と下妻の重経、豊田の三経らの二派に分れる。
1596年 慶長1年 5月3日 下妻城主多賀谷修理大夫重経が下総国豊田郡鯨村砦主白井入道全洞を攻め破って自害させ攻略す。
 〃    〃 菅谷範政が徳川家康に仕え上総国の平川邑の千石を賜わる。
 〃    〃 本多重次が下総国北相馬郡の井野村に於て死亡す。
 〃    〃 常陸国多珂郡松岡村手綱の竜子山城主大塚隆成は佐竹氏の爲めに陸奥国の折木城(福島県)に移さる。
 〃    〃 武藏国江戸神田の誓願寺が須田に移る。
1597年 慶長2年 西茨城郡西那珂村岩瀬の坂戸城主小宅越前守高春は下野国河内郡宇都宮城主宇都宮国朝と共に所領二万八千石を没収されて領地を離れ、後に鳥居元忠らと倶に関東軍に加わる
 〃    〃 小笠原康広が年六十七才にて死亡す。
1598年 慶長3年 1月 越後国春日山城主上杉景勝が陸奥国の会津に移さる。別記に、三月、上杉景勝が陸奥国会津城城に入城す。
 〃    〃 8月 大閣豊臣秀吉が山城国の伏見城に於て死亡す。
 〃    〃 豊臣秀吉の大名配置有りて佐竹義宣は水戸城五十四万五千石、水谷勝俊は下館城二万五千石、結城秀康は結城城十万石、小笠原秀政は古河城二万石、土岐定義は守谷城一万石等を所領す。
 〃    〃 常陸国水戸城主佐竹義宣の仲裁によって下妻城主多賀谷重経と其の子中太田城主多賀谷忠経とが和睦して、忠経が下妻城に帰城する。
1599年 慶長4年 3月8日 元常陸国河内郡竜ケ崎城主土岐胤倫が死亡す。
 〃    〃 3月15日 八田左近友治が堀尾茂助吉晴を通じて徳川家康に拜謁す。
 〃    〃 7月 上杉景勝が京都より陸奥国の会津に帰国す。
 〃    〃 8月 佐竹義宣が京都より常陸国の水戸に帰国す。
 〃    〃 9月 上杉景勝が諸城を修理し兵器を集め領内の警備を厳重にして籠城の用意を成し、徳川家康は景勝に詰問状を出す。
 〃    〃 八田左近友治は台命を蒙りて結城秀康に仕える。
 〃    〃 下妻の多賀谷重経は覚心院を建立して自ら俗塵の跡を拂ひ安閑無爲の翁と成る。

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