東国武将興亡録  1600年-1605年 戻る

1600年 慶長5年 2月8日 北條氏規が年五十六才にして死亡す。
 〃    〃 6月 陸奥国会津城主上杉景勝は徳川家康打倒の兵を挙げ、伊達政宗は徳川家康の命を受け京都より陸奥国の仙台城に帰城し、出羽国山形城主最上義光と力を併せて上杉氏の背後を衝かんと成し、上杉景勝は常陸国水戸城主佐竹義宣に加勢を乞う。
 〃    〃 6月 結城秀康が上杉景勝に備えて下野国の宇都宮を守りし時に、小田氏治入道天菴も結城氏に從軍した。
 〃    〃 6月6日 徳川家康が佐竹義宣に会津攻めを命じ、義宣は東西いずれの軍に付くか態度に迷う。
 〃    〃 6月16日 徳川家康が会津征伐の爲めに摂津国の大阪城より山城国の伏見城に帰る。
 〃    〃 6月18日 徳川家康は伏見城に鳥居元忠や小宅越前守高春らを残して守らしめ上杉景勝退治の爲めに伏見城より陸奥国へ発向する。
 〃    〃 6月19日 石田三成が大阪城に於て徳川家康打倒の兵を挙げ山城国伏見城の留守居鳥居元忠を攻める。
 〃    〃 佐竹義宣は上杉景勝へ加勢の爲めに、部將の梅津憲忠、戸村義音、車丹波守義照らの三人を選んで兵を授け陸奥国へ発向せしめて伊達政宗や最上義光らと戰はしめ、佐竹義宣も自ら陸奥国の白河に於て徳川家康を迎い撃たんと水戸城を出て陸奥国の棚倉に着陣する。
 〃    〃 6月24日 徳川家康が下野国の小山に於て石田三成挙兵の報せを聞きて軍議を開く。
 〃    〃 7月5日 石田三成は大阪より信濃国上田城主真田安房守昌幸に手簡を秘かに送りて、信濃の一国を貴族に与へるから若しも服從せぬ大名が有らば之れを討て、徳川家康は僅かに三、四万の兵力を率いて下野国の小山に進軍中にして、上杉景勝、佐竹義宣らの二大強敵を向うに廻し、其の分国十五ヶ城を招いて二十日を引き返して大阪へ攻め上る事が如何にして出来様かと伝え、石田、上杉、佐竹らの三將はすでに盟約を実行に移して居た。
 〃    〃 7月18日 毛利照元が伏見城の開け渡しを迫ったが鳥居元忠は其の命に応ぜず、遂に籠城を計り関東に使を出して西軍の鋒起を報ず。
 〃    〃 7月19日 伏見城代鳥居元忠は僅かに千八百の少兵で数万の大軍を向うにまわして対戰す。
 〃    〃 7月24日 徳川家康が下野国下都賀郡の小山に兵を駐めると其の夜、伏見城守護の鳥居元忠より石田三成ら西軍の挙兵を報じて来た。そこで島田治兵ヱを急使として水戸城主佐竹義宣に許に遣わした、徳川家康は義宣の態度を疑い義宣の腹を読もうと成し使者の表の口上は速かに出動して上杉討伐軍を先鋒として参戰せよ、然らざれば人質を出して誠意を示せと云うのであった、若い佐竹が上杉に同ずるの時には、うっかり小山より北進するのは危険である故なり。使者島田治兵ヱが水戸城に到着の時には、佐竹義宣はすでに兵を率いて上杉軍の応援の爲めに磐城の国の棚倉まで進出して居た。常陸国太田城に隠居中の佐竹常陸介義重は陸奥国の棚倉に出陣中の嫡子で水戸城主佐竹左京大夫義宣に帰陣を命じ佐竹義宣は棚倉街道を水戸に引き返す。徳川家康は伊勢国松坂一万石城主古田織部正重然を再び使者として水戸に派遣し、佐竹義宣も水戸城に着陣し徳川家康の急使古田重然と対面し叛心の無い事を申し傳へ、家康は家来で水戸に居る花房勘兵ヱ職之を小山に呼び寄せて佐竹義宣の腹中を尋ね、佐竹義宣の態度が鮮明ならずを以て警戒し、上杉景勝との狭撃を恐れて陸奥国の白河迄進出も成らず下野国の小山に針付けと成る。常陸国真壁郡下妻城主多賀谷政経は石田三成と内通し佐竹義宣の陣に加わる。下総国太田城主多賀谷忠経は徳川家康の催促により結城秀康の手に属して其の先鋒として下野国の太田原の陣所に有りて徳川の先陣は陸奥国の白河迄進む。下総国豊田城主多賀谷虎千代三経も結城秀康の手に属して宇都宮に出陣したが下妻に帰陣し佐竹義宣の陣に加わり常陸国の太田城に籠城する。徳川家康は榊原康政を使者として結城秀康に佐竹義宣や多賀谷重経らの討伐を命じ、水戸城主佐竹義宣、下妻城主多賀谷重経らは多賀谷忠経、佐竹淡路守らを使者として結城城主結城秀康に頼みて徳川家康に降参し、家康は多賀谷忠経を結城家に預け置く。
 〃    〃 8月1日 京都伏見城の留守居役たる鳥居元忠、小宅高春などが西軍に敗北して以下三百余人が悉く自殺し攻略さる。
 〃    〃 8月23日 西軍は美濃国岐阜城の織田秀信を攻略する。
 〃    〃 8月 徳川家康は結城秀康をして下野国河内郡の宇都宮城に籠らしね上杉景勝を押え東国を守らしめ急に小山の陣を引き拂って西上し武藏国の江戸城に入る。時に結城秀康の近臣らが相議し八田左近友治が秀康に今東西に敵が起り正に危機存亡の時にして家康公は年五十才にして髪に白髪をまじへて西方の敵に当らんと成にに、秀康候にはまた年も若くして此々に居残りて東方の守りを引き受けるか、君命とても受けられざるの時も有り戰いに望みて勇なき者は孝子に非らず、某が願わくは秀康候におかれては秘かに此場の陣を引き拂って西上し、味方の軍に前駆けを願い出れば家康公とても其の心を察せられて許られる事を存じますと諌言し、秀康も大いに賛成し家康公に軍の先陣を願い出たが家康は許さず、遂に其の命に從って宇都宮にとどまり友治も之れに属して守りを成す。
 〃    〃 9月1日 徳川家康は武藏国の江戸城より発して西上す。
 〃    〃 9月15日 徳川家康が美濃国の関ケ原に於て石田三成の西軍と戰って之れを破る。
 〃    〃 9月21日 石田三成が近江国の佐和山に於て捕えらる。
 〃    〃 9月 徳川家康が執政をとる。
 〃    〃 10月1日 西軍の將石田三成が年三十八才にて徳川家康の面前に差出さる。
 〃    〃 10月13日 石田三成、小西行長、安国寺惠瓊らが六條河原に於て斬罪と成る。
 〃    〃 常陸国新治郡柿岡城主長倉義興は水戸城の工作の事で佐竹義宣に招かれたが約束と違って久慈郡の誉田村の正宗寺に幽居される。
 〃    〃 結城宰相秀康、伊達大崎少將政宗らが会津の上杉景勝と戰って、佐竹義宣は会津の上杉に加勢し車丹守を大將として三千余騎を遣わす。
1601年 慶長6年 2月17日 徳川家康は其の臣榊原康政、平岩親吉を派遣し兵八千を率いて常陸国真壁郡の田下村に陣を取り下妻城主多賀谷修理大夫重経、同彦太郎家宣父子を攻め破り、多賀谷領の下妻、豊田、太田を始め二十四万八千石(或は曰く、十八万石、またわ四十四万千百三十五石二升八合とかや)を召放されて追放と成り、其の領地は没収され多賀谷七世百四十余年にして滅亡し、多賀谷の領地は関東郡代伊奈備前守忠次の治むる所と成った。豊田城主多賀谷虎千代三経は近江国の佐和山に遁れ、間も無く病死し、中太田城主多賀谷左近將監忠経は結城秀康に仕え、多賀谷修理大夫重経は左兵ヱと改名し薙髪して道雪又は不褌斉、或は阿弥陀と號して退轉され佐竹氏に仕へて三千石にて蟄居し、出羽、武藏、京都等の各地へ漂泊する。因て、豊田、石毛等も徳川直轄所隅天領と成り伊奈備前守忠次が之れを管す。
 〃    〃 3月17日 徳川家康が関東の諸国を検地する。伊奈忠次が豊田谷原、上蛇、三坂新田を開発する。
 〃    〃 4月9日 元新治郡柿岡城主長倉義興が佐竹義宣に毒殺する。
 〃    〃 4月9日 佐竹義宣は国分盛重を常陸国新治郡の柿岡城主として入城させる。                                                                     
 〃    〃 4月15日 太田城主佐竹常陸介義重が上京し、徳川家康に拜謁し、嫡子左京大夫義宣の弁明に当る。
 〃    〃 8月24日 上杉景勝が徳川家康に降服し、陸奥国の会津城より出羽国の米沢に国替へと成る。
 〃    〃 9月 徳川秀忠が京都の伏見より武藏国の江戸城に帰還し、佐竹義宣は自ら神奈川(金河)に行って之れを出迎へ忠誠を披瀝す、徳川秀忠は書を佐竹氏の老臣東義久に送って義宣の出迎へを謝す。
 〃    〃 9月 下総国結城郡結城城主結城宰相三河守秀康が越前国福井の北ノ庄城六十七万石を賜わりて転移され從三位に叙し中納言に任ぜられ、小田天菴、守治父子も結城氏に從って越前国に行き浅羽に居住し、八田友治も結城氏に從って越前国に赴きしが、友治が宇都宮の陣にて秀康に先駆けを勧めて以来、徳川家康の威感にふれ、秀康もまた友治を疎んじて遂に小田天菴の庶長子としての家臣たる事を命じ、友治は之れを怨む。山川城主山川中務太夫は結城に從って越前に徒り、結城、山川など廃城と成る。
 〃    〃 11月13日 小田氏治入道天菴が越前国福井の浅羽に於て年七十一才にして死亡し、永平寺に葬り葬り後に常陸国太田村月光山新善光寺に改葬し、法名は南江道薫天菴大居士と号し、後に小田殿と追諡し、更に巣月院殿南江道薫大居士と号す。
 〃    〃 11月 常陸国水戸武隈城主東義久が病死す。
 〃    〃 常陸国水戸城主佐竹義宣は代理として重臣東義久、須田盛秀らを伏見に上らせ徳川家康に謁しせしめ、所領安堵の誓書墨付きを賜わる。
1602年 慶長7年 4月11日 常陸国水戸城主佐竹左京大夫義宣が伏見城に向う。
 〃    〃 5月8日 徳川家康は佐竹氏に出羽国の秋田へ国替えを命ずる。
 〃    〃 5月 佐竹義宣が徳川家康に謁して緩怠の罪を謝し伏見の自邸に還る。
 〃    〃 5月17日  徳川家康は上使として榊原康政、花房助兵ヱ職之を佐竹義宣の伏見の屋敷に派遣し、常陸、陸奥、下野など三ケ国における佐竹氏の所領全部百十八万石を没収して出羽国の秋田、仙北両国を与へる旨を伝え、佐竹義宣は此の滅封左還の沙汰を甘受けした。
 〃    〃 5月21日 徳川家康や佐竹義宣より常陸国の水戸や太田の佐竹家に出羽国へ国替いの通知が有り、徳川家康は城受取の特使として譜代の本多正信、大久保忠隣の二人が西茨城郡の笠間城に入って城主松平康重と打ち合わせて、常陸や陸奥の両国の諸城に佐竹義宣の転封を伝へて萬一に備へ、然る後に松平康重を加へて使者三名が兵を率いて水戸に乗り込み、佐竹方では留守居役の老職である東義堅、小貫頼久らが応援し、徳川の特使たる本多正信、大久保忠隣、松平康重らは常陸国の水戸城を初め太田城、其の他所々に散在する附属の出城を順次に受け渡しを一ヶ月がかりで滞りなく引き継ぎを終へた。本多、大久保の特使は松平康長をして太田城を、松平信一をして江戸崎城を、松平信吉をして石岡の府中城を、松平康重をして水戸城を守らしめ、更に磐城の国に赴き其の城地を没収して岩城平城主岩城貞隆を削りて転封せしめて駒木利根正や那須の諸族に命じて岩城平城を、岡本義保に富岡城を守備せしめて引き揚げる。
 〃    〃 5月23日 出羽国秋田城十九万石の城主秋田城之介実季は常陸国西茨城郡宍戸(友部)五万石に左遷され、其の異動通知が秋田に到着す。
 〃    〃 6月 佐竹義宣は伏見より水戸へは帰らず陸路を北陸に道を取り、海岸線に沿って出羽国の任地に立つ。
 〃    〃 6月15日 佐竹義重が太田城を去る。
 〃    〃 6月26日 佐竹方の和田安房守、河井伊勢守の両名が陸奥国の赤館より出羽国へ出発する。
 〃    〃 6月27日 佐竹方の南義尚、東義堅、北義康ら佐竹一族并に諸老三十九人、其の他九十三騎が加わりて計百三十二名が相い次で任地に立つ。
 〃    〃 7月10日 車丹波守義照、其の子主膳政光、馬場和泉守政直、大窪兵藏久光らは徳川の居所を憤慨して秋田に髄從を肯んぜず、常陸国に留まって秘かに水戸城を奪回しようと企てたが挙兵に敗北して車丹波守ら主謀五人は捕へられて江戸に檻送せられて取り調べの結果罪状が明白と成って再び水戸に送還された。
 〃    〃 7月27日 佐竹義宣が秋田と仙北の知行判物を与えられる。
 〃    〃 8月2日 佐竹の先発和田安房守、河井伊勢守らの代理として白土大隅守が秋田城の留守居秋田兵ヱ門、秋田右近らより久保田城を受け取る。
 〃    〃 9月9日 佐竹義宣は出羽国の秋田城に入府し十万五千八百石を所領す。
 〃    〃 11月3日 徳川家康の六男武田信吉が常陸国の水戸十五万石の城主と成る。
 〃    〃 東茨城郡常北の古内城主古内下野守義貞、日立助川の介川城主介川次郎四郎通高、多珂郡友部の山尾城主小野崎宣正、那珂郡東海村真崎城主真崎宣広、真壁郡真壁城主真壁房幹、久慈郡世谷村丹奈城主小野小三郎、行方郡麻生小高城主大山因幡守義広らは佐竹氏に從って秋田へ同行し廃城と成る。
 〃    〃 松平康重、同信一、同五左ヱ門、藤田能登守らが常陸国の水戸地を監理する。
 〃    〃 代官伊奈備前守忠次が佐竹移封の直後、常陸国に備前検地を実施する。
 〃    〃 伊奈備前守忠次が結城を支配所と成す。
 〃    〃 徳川家康の大名配置が有りて戸沢政盛を手綱四万石、武田信吉を水戸十五万石、水谷勝俊を下館二万五千石、松平康重を笠間三万石、六郷政乗を石岡府中一万石、秋田実季を宍戸五万石、松平信一を土浦三万五千石、山口重政を牛久一万石、松平康長を古河二万石、土岐定義を守谷一万石と成し所領安堵す。
 〃    〃 安房国館山城主里見左馬頭義康が常陸国の鹿島に移されて鹿島郡を領す。
 〃    〃 佐竹義重が出羽国の六郷城に移る。
 〃    〃 多賀谷三経、多賀谷忠経らは佐竹氏に從って秋田へ移り、多賀谷氏の菩提祈願所である下妻多宝院円福寺も秋田に随行す。
 〃    〃 佐竹勢の車義照が太田城に帰陣して籠城したが生捕られ、水戸の那珂川原に於て首を切られて獄門に梟さる。
1603年 慶長8年 7月28日 徳川秀忠の娘千姫が豊臣秀頼に嫁す。
 〃    〃 10月 佐竹義重の新領地である出羽国の六郷に一揆が起る。
 〃    〃 10月 菅谷範政が上総国の領地を収められ、常陸国筑波郡の内五千石を賜わりて手子丸城に居住し、前の菅谷氏の菩提院である王讃寺を再興して雄山寺と改め香華院となす。常陸国水戸十五万石城主武田信吉が病死し、徳川家康の十男頼將(別記に頼宣と有り)を水戸城主と成し二十五万石を所領す。
 〃    〃 八田左近友治は結城秀康に暇を乞いて大和国の額安寺に居住したが更に京都の東山八坂に移るて薙髪して帰庵と号す。
 〃    〃 出羽国国秋田の佐竹氏の家老小貫大藏が病死し、和田安房守も老年の爲めに家老職を辞退し、渋井内膳が出頭人より家老に取り立てられんとするを川井伊勢守は之れを妬んで之れを除こうとし、譜代と牢人の勢力争ひが起り、佐竹義重は川井伊勢守以下其の一味の者を殺害する。
 〃    〃 徳川家康が江戸の城廊を擴張するに当り、武藏国芝崎村に在った神田明神の旧跡を駿河台鈴木に遷座す。
 〃    〃 梶原美濃守景国は佐竹氏に從って出羽国に赴いた。
1604年 慶長9年 1月15日 摂津国の新庄駿河守直頼が常陸国の行方郡の麻生三万石に移さる。
 〃    〃 2月3日 八田左近喜太郎友治が京都に於て年五十七才にて死亡し、南岳院殿磨甎道安大居士と号し、其の子義治は左京と稱し、後に豊臣秀頼に仕える。
 〃    〃 3月 徳川家康は山上孫四郎に相模国中郡大嶋村五百石を宛行う。
 〃    〃 結城郡玉村の小保川谷原開発を出願す。
 〃    〃 8月 出羽国秋田城主佐竹義宣は出羽の雄勝、平鹿、河辺、山本の四郡と下野の都賀と河内の二郡を加へられ、秋田の久保田に居を構えて二十万五千石を領邑する様に成った。
1605年 慶長10年 3月 徳川頼房が常陸国の下妻城に封ぜられ十万石を賜わる。
 〃    〃 江戸平川口の浄心寺を江戸城の用地の爲めに神田に移転す。

東国武将興亡録  1600年-1605年 戻る