不登校(登校拒否)とその後 30年前から現在まで
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不登校のまま高校受験
通信制高校を選ぶことに自分なりに期待をしていた反面、通信制しか受け入れてもらえない、通信制しか選べない自分を見つめていました。 N学の入学願書をそろえ、期待に夢膨らませていました。N学は無試験だったはずですが、なぜか、学校まで来てくれといわれました。もう、プレッシャーでがちがちになったのを覚えています。
N学の特別?入試は教科書が読めるか、計算できるかなど極基本的なものでした。私は特別な入試対策はしてなかったですが、それでもできる内容だったので、簡単にこなせました。
でも、このことを試されるほどなんだなぁと思ったのも事実でした。
N学にはいろいろなスクーリングがあるのですが、同年代が一番いないと思われるスクーリングと思われた休日のクラスを選びました。そして、登校回数が少ない月一回のスクーリングのコースを選びました。
当時の通信制の県立は、週一日の登校だったので、N学の月一というのも魅力でした。
数日後、入学が無事受理され、生徒番号をもらいました。うれしかったです。
スクーリングはこれまたすごい緊張で行きました。遠方のため日帰りはできず、一泊して通いました。
もう、すべてのことが緊張だらけ。無事帰ることはできましたが、その後の一週間は後遺症でぐったりな状況でした。そんな私をかわいがってくれた祖父母には感謝しています。
通信制といってもクラスはあります。狙い通り、新規卒業の生徒は私のほかに数えるほど。みな、人生の先輩ばかりでした。それがとても救いでした。がちがちな私に、声をかけてくれたり、一人でいても、特別視するようなこともなく、人間不信、同年代恐怖の当時の私は、これならできると思ったのでした。
N学生活は無事始まりました。NHKなので、放送が授業。あとは、教材を使っての自学自習。テレビとラジオなので、超私にあっていました。調べたり、するのは好きでしたし、なにより、学校生活が始まったことが一大事だったのです。通信制の4年制だけど、高校生には違いないですし。それに、生活リズムも直りました。夜型だったのですが、昼間に生活が徐々にではありますが、シフトしました。日課ができるというのは生活上で大きいのですね。
社会経験がないと苦労すると思わされていた私が、N学での生活は全く社会性から来る問題はありませんでした。というか、問題視されることがありませんでした。その雰囲気が私を守ってくれていたのでした。スクーリングのために、泊めてもらった祖父母や、担任の先生、同級生に本当に感謝です。もしここで、問題になっていたら、精神状態がおかしくなったかもしれないとおもいます。
「みまもる」環境がこの時期の私には必要だったのでしょう。だれから教えられることもなく、みんなが見守ってくれたことのありがたさに感謝です。
私の高校生活は劇的に変化をもたらしました。もはや「ひきこもり」ではなくなったし、通信制だけど高校生で生徒証があるし、制服はないけど、ピンバッチがあるし。それに、自分で勉強するようになったし、、、私は学校に所属するようになったし、取り上げたらきりがないですね。
自分が自分であることの確認と安定が得られたのです。もう、失うものはなにもない、できることをやっていこうと、 大きく私を変えたのは2つあります。
ひとつは原付免許取得とスクーターの購入。
ひとつは阿部育英基金からの奨学金です。
原付は通学するのに一泊しないといけなかったのが、超超早起きし、超超夜になるけど、通えるようになったのでした。
それに、自由に移動ができるようになったので、図書館に行って勉強するなんてこともできるようになりました。このころは自由に出られるし、制服恐怖もおさまっていたので、とっても、活動的になったものです。
もうひとつの阿部育英基金ですが、これがもらえると、つぎに、成績を上位に保つ必要が出てきました。そのため、成績を意識するようになったのです。
今から考えればそれほど大したことではないのですが、当時の私としては、とてもとても重大なことで、劇的によい方向に進んだのでした。
4年間があっという間でした。不安や苛立ちばかりだったのですが、当時の私にとって生きるとは「もう、失うものはない。」でした。できることからはじめた時期です。世間では「閉じこもり」が「ひきこもり」に変わっていった時期です。
進路選択
2週間だけでしが、アルバイトしました。けっこう緊張したけど、無事やり終えました。時給500円。大した額ではなかったのですが、なにもできない、数も数え間違いした自分ですが、最後まで面倒みてくれた夫妻に感謝しています。わたしはだいぶ自信をもてるようになったのでした。
就職か、大学進学か
両親は暗黙の了解事項として大学進学を勧めてくれました。というか、もし、就職を迫られたらその心の準備だけで、プレシャーになりつぶれてしまったのではないかと思います。
受験勉強は高校2年のゴールデンウイーク後から始めました。まずは形からということで、雑誌の「蛍雪時代」を買い、当時放送していたラ講(深夜のラジオ講座)を聞いたものです。でも、内容が全然わからなくて、教科書を大きな書店まで買いに行き研究したものでした。すべて自学自習なので、教科書、問題集を片っ端から読みました。とくに、数学と物理は難しく、涙が出そうでした。
そんな私でしたが、通信教育には慣れていたので、大手予備校の通信講座をするようになったのですが、わかる問題がでると高得点がとれたりと、面白味も感じていました。自分でも信じられませんが、予備校の問題を一問解くのに2日かけるとかして、徹底的に調べ、まる写しができるときはそうやって、回答していきました。このため、高得点を取ることができるようになり、成績上位者のリストの中に乗っけてもらえることもありました。何回か上位者リストに載ると、図書券がもらえるのですが、この図書券で参考書を買うなど、勉強ばっかりしていたものです。
でも、これは、家で参考書片手に回答しているのであって、頭の中には全然入っていませんでした。プレッシャーとかもあったので、統一模試などには出向くことができず、自分の実力のなさをずーと感じていたものです。
偏差値 32
高校3年時代の私の偏差値は32とか、34、36でした。つまり1位から100位までで換算すると、びりか、ブービーか。大学受験はほぼ絶望でした。
偏差値52以上
私の時代は北海道とか、九州とか、本州の超田舎の大学の偏差値が52くらいでした。 国公立は62とか。
私は物理はできないが、パソコンが話し相手だったこともあり、理系だったので、私立と比べると公立との学費が100万とか、もっと開きがある学校もありました。
経済的には貧乏な時期でもあったので、公立の学費が精いっぱいであとは借金という状態でした。
当時、私は偏差値50。
公立は無理でした。
でも、あきらめるわけにはいきませんでした。就職の道は絶対になく、行きたい大学が見つかってもいたからです。
モチベーションは最高潮に達し、人生でこれほど勉強したことはないと断言できるほど受験勉強に取り組んだのでした。
推薦入学
高校4年の時、理系の大学をターゲットに猛勉強を始めました。一日中机に向かいました。集中力がすぐ切れるのですが、そんなときは、大学の情報をみて、脳内妄想していました。
夏も過ぎ、短大か専門学校かなんて考えていた時期に、推薦入試を申請しました。
高校の担任の先生に事情を説明し、書いてもらうことになったのですが、阿部育英基金のおかげで、成績はとてもよかったので、これも追い風になりました。
そして、決戦の11月。
試験会場に。
問題。難しかったです。チャレンジしたのは上位校、、、
面接、緊張したけど、言いたかったことは言えた気がしました。
これでおわったなと、
国公立大に合格しました。
うれしかったです。